ジャーナリスト

【名物おじさん】下町随一の瓢箪づくり、竹細工づくり(上)=東京・葛飾

 葛飾区をつらく平和橋通りから、ふいに脇道をみると、3階建て民家の軒下には、瓢箪(ひようたん)がずらり吊り下がる。極小~超特大まで。表面が多彩な色彩画もあれば、金色もあるし、肌が素のままの瓢箪もある。

「葛飾区内で、ここまで瓢箪に凝っているのは、きっとわたし一人でしょう」
 そう話すのは、同区東四ツ木4丁目の村澤義信さん(74)である。地域でも、「ヒョウタンおじさん」で名高いひとだ。

 村澤さんは茨城県・内原町(現・水戸市)の出身である。東京に出て農家のハウス栽培の仕事についていた。
 15年前から、埼玉県・三郷に30坪の菜園畑を借り、瓢箪作りをはじめている。村澤さんから一連の話を取材させてもらった。

 畑には、まず農業用パイプで棚をつくる。(ブドウ棚に似る)。冬場には畑を耕し、肥料を与えておく。タネは春の彼岸に撒(ま)き、秋の彼岸には収穫する。瓢箪の種類(品種)によって、成熟した瓢箪の大きさがちがう、と話す。
 7センチ(品種改良品)、15センチ(秀吉・千成)、70-80センチ(通称・大玉)が、村澤家の軒下に吊り下がっている。
 
『大玉』は高さが約70センチ、腰回りが約1メートルにもなる。その作り方を説明してもらった。 
「人間と同じで、さまざまな形があるよ」
 1本の蔓(つる)に対して、形のよい瓢箪のみ3ー4個に絞り込む。1-2個だと、栄養分がまわりすぎて、破裂する。(スイカが割れるのに似る)。逆に、数が多いと大玉が小粒になってしまう。

  瓢箪の蔓(直径は約5㎝)は太いが、それでも自重15キロが負担となり、落ちてしまう。ひもで吊してやる。葉っぱも大きいから、台風被害が心配になると話す。

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『春を訪ねて』あちらこちら=三春から嫁もらうな

 古木桜の名所として、福島県・三春町は全国随一だろう。推定樹齢450年の「三春の滝桜」は豪華だ。この季節にはポスターを通して人の目にふれている。
 ぜひ一度は行きたい、と思う人も多いだろう。
 過去に訪ねた人の感想は、「郡山市内から、大渋滞だった。一度観たら、もうあの大渋滞では行きたくない」と話す。それほど人気だ。

 4月15日(火)に同地に訪ねてみた。3分から4分咲きだった。週末には満開だろう。
 私が訪ねたのは、すこしタイミングが早かったからだろう、車を誘導する数多くのガードマンはわりに暇そうな顔だった。大駐車場まで難なく入れた。

「会津の悲劇」の現地取材に入った、3年ほど前だった。
 「二本松には私の父母の代まで、『三春から嫁を貰うな』という言い伝えが残っていたんですよ」
 と福島県立博物館の学芸員から聞いた。
 それが「三春の滝桜」のポスターを見るたびに脳裏に横切っていた。

 戊辰戦争の時、新政府に反発し、奥羽越列藩同盟が結ばれた。31藩は強く抵抗した。一方で、「裏切った」「寝返った」「手引きした」といわれる脱列藩同盟の藩もある。その代表格が三春だ。
 戦略・戦術的には、西洋式軍隊の「ライフル」と鎧兜の「火縄銃」があった。奥羽越に地の利はあるが、次々に負けて、総崩れになったのが実態だ。

「三春の裏切り」には、二本松の悲劇がある。

 新政府軍は磐城平城を落城させると、白河、そして三春藩へと進撃していった。三春が早々と恭順(新政府に屈する)した。その先へと、進軍した政府軍に対して、二本松藩は徹底抗戦した。同藩の少年隊(12歳~17歳)までも、銃を持って応戦した。

 とくに砲術の木村銃太郎が指揮した少年25名は、「大壇口での戦い」で多く戦死した。木村も戦死した。この悲劇は、「三春が裏切ったからだ」とか、「三春が新政府軍を道案内した」とか語られている。

「裏切り」は史実としては不明瞭だが、近在では単純な三春の敗戦とみなさず、卑怯者だ、卑怯者の子孫から嫁を貰うな、と語り継がれてきたのだ。ある意味で、会津地方まで及ぶ。

 有名な会津白虎隊は会津城が自焼したと勘違いして自刃した。しかし、二本松少年隊(正式名はなし)は銃を持って戦ったのだ。そして、死んだ。戦場で負傷した少年らも重体が多く、収容されても命を落とした。

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『皇国の興廃この一戦にあり。~』は秋山真之の名言にあらず。2番煎じ

 明治に入ると、芸州広島藩は長州閥の政治家から、徹底して封印されたり、ねつ造されたりしている。
 広島藩主の浅野家はいまなお資料を公開していない。長州の刺客に狙われるとでも思っているのだろうか。そう疑いたくなるほどだ。実物は広島市中央図書館に眠っている。歴史研究者はのどから手が出るほど欲しいのに。
 
 浅野藩主の末裔が代々隠しても、当時の有能な学問所メンバーが編纂した資料が現存していた。だから、私は芸州広島藩からの幕末歴史小説を書くことができた。


「長州が倒幕に寄与した。そんな作り事は、司馬遼太郎が書いてはいけませんよね」
 山口県のある著名博物館の、主任学芸員がふいにそう発言した。取材で訪ねた私が作家だったから、そう示唆してくれたのだ。

 それには「えっ」と驚いたものだ。
 4年前のその言葉が、私の脳裏には強く焼き付いている。だから、こんかい長編幕末小説を書き上げた。とくに、司馬史観の誤り、事実に反するところ、作り話は明確にするべきだ、その一念で書き上げた。随所にはかなり織り込んでいる。
 6月には刊行予定だ。

 最大のポイントは、「薩長の倒幕」など、常識的に考えても、あり得ないし、事実に反していることだ。

「禁門の変」で、長州藩は朝敵となった。長州人が京都に入れば、新撰組などに殺されていた。幕府から「殺せ」という命令なのだから、当然、殺す。

 大政奉還から、小御所会議で京都に新政府ができるまで、長州は軍隊を京都にあげていない。主要な会議にも出ていない。長州藩は徳川家の倒幕にまったく役立っていない。どんなに折り曲げても、それが事実だ。

 新政府が樹立した後、長州の軍隊が戊辰戦争で暴れまわっただけなのだ。


 長州・政治家が、薩芸(さつげい)の徳川倒幕を「薩長の倒幕」へと巧妙にすり替えた。「薩長土芸」すら、「薩長土肥」に変えられている。『肥』って、なあに、という人も多い。

 慶応4年8月1日に、神機隊・高間省三砲隊長が20歳で、戊辰戦争・浪江の戦いで死んだ。かれは頼山陽以来の広島藩きっての秀才だった。
 死を予期したのか、かれは死の直前に、父親(武具奉行・築城奉行)に手紙を書いている。『絶命詩並序』というタイトルで、七言絶句を添えている。まさに、学問所・頼山陽の後輩らしい。

 高間省三は軍人必読『忠勇亀鑑』で紹介されている。それだけに、高間省三の手紙は明治時代から昭和(終戦まで)の軍人たちの手記や遺書でずいぶん引用されている。

「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
 秋山真之は、ロシア・バルチック艦隊との日本海海戦の名言とされている。しかし、それは高間省三の手紙文の引用であり、秋山が考え出した言葉ではなかった。

 高間省三は手紙には、こう書き残している。 
『天皇は明徳を想い、純心に武士や民を赤子のごとく愛す。皇国の興廃は今日の戦いにありです。この徳に報るためにも、男児の死ぬべき時は今です』
 慶応4年7月末である。約38年前だ。

 広島出身の内閣総理大臣・加藤友三郎は、さかのぼること、明治38年1月、第1艦隊兼連合艦隊参謀長となり、5月27・28日の両日の日本海海戦に旗艦「三笠」艦上で作戦を指揮した。そして、バルチック艦隊と同航しつつ、「わが半ばを失うとも敵を撃滅せずんばやまず」との捨て身の「丁字戦法」(敵前180度回頭)を展開させた。
 ロシア・バルチック艦隊との戦いで功績を挙げた。やがて総理にまでなった。

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満開のソメイヨシノが墨絵のごとく咲く=御茶ノ水駅

 4月30日は日曜日だ。ソメイヨシノの桜が満開の行楽日となった。青空のもとの桜は見ごたえある。だが、都心部は朝から雨だった。桜見物を楽しみにしていた人たちは、きっとがっかりだろう。

 わたしは新宿『BLACK SUN」で開催された『東日本大震災復興支援 LIVE2014』の実行委員の方々の会合に参加した。武内紀子さん(俳優)の紹介だった。そこで、求められて、わたしは東北(岩手、宮城、福島)の取材報告と、知るかぎりの現状を紹介させてもらった。
 主催者から、11/8に二松学舎大学で開催される、同イベントの講演を頼まれた。わたし単独の話でなく、現地・東北の被災者を招いたトーク・ショーなども閃いた。
 まだ、半年以上もあるので、追々、煮つめていくことにする

 帰路、新宿・小田急鉄道のロマンスカーの指定券売り場で、長い行列ができていた。「雨、それでもいく」と心が勇んでいるのだろう。


 乗換の御茶ノ水駅は細いプラットホームだ。古い駅舎だから、横殴りの雨となると、突っ立っていると、衣服も顔も濡れてしまう。多くの人は、総武線の各駅停車の電車がやや遅れているので、乗客たちは階段下などに逃げ込み、雨宿りしていた。

 都心部のみならず、地方都市でも、これほどまでに古い駅舎や細長いいプラットホームはもはや見当たらないだろあ。隣駅の水道橋・神田駅への線路すら曲がりくねっている。
 近代化に取り残された、超ローカル駅が都心部に温存されているのだ。それはうれしいかぎりだ。少なくとも、私の母校・中央大学が遠く八王子に移転してしまったから、御茶ノ水は味気ない街だ
 ただ、4年間通った駅がそのままの姿で残ている。実にありがたいし、来るたびに懐かしい。少なくとも、ホームに立つだけでも、青春を思い起こさせてくれる場所だ。

 私が東京にきた1960年代と、周辺の風景はまったく変わっていない。対岸には丸ノ内線が走る。地下鉄がいちどは陸上に姿を見せる。それが愉快だった。一瞬の地上で、車体はぐさまトンネルに入る。
ただ、丸ノ内線の紅い車体が消えてしまった。そこには歳月の流れを感じさせる。

 正面には湯島聖堂がある。江戸時代には全藩の秀才たちが集まった昌平黌だ。現在では朱子学などなじみがないが、当時は論語や孟子など真剣に学んでいた。てまでは、学問の神様と崇め奉られている。
 眼下には神田川が流れている。大学生のころ、ひどい悪臭だった。いまは清流とまでいかないが、川船が行き交う、情感がある。
 湯島の坂道通りには一本の桜が満開で咲いている。傘をさした人が歩く。墨絵のような情感があった。これも江戸の風情だろう。

 東京は車社会よりも、電車と徒歩の社会だ。地方では整備された道路で歩く人は殆どいない。だけど、東京では歩く人が多い。人間を見る街をもみると、町そのものが生きている。
  こうした懐かしい光景は、数分に一本の上りの快速・東京駅が、同ホームに入線すれば、私の目の前から消されてしまう。
 雨だけに前景は墨絵のようだ。地下鉄・丸ノ内線と桜と湯島聖堂を組み合われた写真が撮りたかった。それだけ愛着がある、私にとっては貴重な場所だ。

 私は横殴りの雨の中で、遅延した総武線を待つ。 地下鉄がやってきた。と同時に、中央線が入線してきた。
 私には味わい一瞬の花見だった。

町おこし・村おこし傾向と対策、学びたい『おかげ横丁』=三重県・伊勢市


 『赤福』といえば、「伊勢参り」と同一用語のように、有名である。

 江戸時代からの老舗だ。店内で、団子とか、ぜんざいとか、喫食できる。

 人気店の割には、接客がとても行きとどいている。

 有名店は「胡坐(あぐら)をかかない」

 これが、町おこしの基本だ。


 若者に人気がある。どのように若者を呼ぶか。
  
 すべてにおいて、最優先する。

 若者が来ない町はやがて、その勢力を失う。

 かつて全国は温泉街が流行っていた。

 結果として、若者に見捨てられ、高額のホテル・旅館がなだれを打って衰退したように。


 ネーミングはとしも重要だ。

 『これよりおかげ横丁』

 訪問者に感謝の気持ちがある。

 心から感謝は、まず形から入ることだ。

 ここでわかるのは、日本語である。

 横文字を使って、得意がっているのはしょせん借り物だ。

『~ランド』などは、メディアから見放されると、凋落の一途だ。



「常夜燈」とか、『道中安全』とか。かつては旅人に欠かせない道案内だった。

 若者を大勢呼ぶ町。そこにはさりげなく江戸時代の言葉を組み込んでいる。

 長い伝統は決して廃れない。ここらは抑えどころだろう。


  各市町村のお役人や商工会の(町おこしの旗を振る)が、ここで立ち止まり、腕ぐむ。

 この常夜燈から、なにを学び取るか。ヒントになった。となれば、それは町おこしの本ものの感性がある。

 ここは人工の街だが、テーマが明確だ。それは江戸時代の風景の再現だ。

 ひとつ一つの店舗は、私有財産だから、何をどう作ろうが勝手だが、調和、統一がある。

 イメージは古来のものだが、すべて新品だという特徴も見逃せない。

 

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無冠の帝王 最後の大物・小中陽太郎さん「第1回野村胡堂賞」受賞

 1月31日、浅草ビューホテル「飛翔の間」で、「第1回野村胡堂賞」(主催・日本作家クラブ)の受賞式が開催された。受賞者は小中陽太郎さんで、作品は『翔べよ源内』(平原社刊)である。平賀源内の一生に光を当てた、魅力あふれる時代小説だ。

 第1回の文学賞は名誉あるもの。と同時に話題性がある。報道陣、著名な来賓者、文学仲間がたくさんお祝いに駆けつけていた。
 野村胡堂はロングセラー「銭形平次」で有名であり、神田明神には碑もある。ストーリー立ても江戸下町・浅草が舞台のひとつになっている。それだけに来賓者には、浅草に縁がある芸能、舞台、寄席関係者が多かった。

 小中さんは日本ペンクラブ理事であり、文壇の大御所だ。授賞式で、「無冠の帝王」と聞かされて、えっ、と驚きを覚えた。プロ作家のほとんどはなにかしら文学賞歴がある。それだけに、小中さんは胸に秘めた思いがあったのか、壇上ではふだんに増して微笑みがあふれていた。

 同賞の審査委員長の奥本大三郎さんは、挨拶のなかで、
「野村胡堂は仏文のインテリです。小中さんも東大卒の仏文の教養人です。源内は理系と文系の両道の人でした。源内がしっかり描かれた作品です」
 と評していた。

 小中陽太郎さんは受賞挨拶のなかで、
「子どもの頃は鞍馬天狗、銭形平次、ロビンソン・クルーソーが愛読書でした。源内は四国出身の才能に満ち溢れる人物。他藩に召し抱えられること相成らぬ、と申し渡されていただけに、多彩な才能・発明のなかで、戯作で憂さ晴らした面がある」
 と源内の生き方にふれていた。

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『S-NTK』 旗揚げ公演=喜劇とショーで魅了する

 元宝塚歌劇団の五月梨世さんが、日本大学芸術学部(日芸)の帆之亟(はんのじょう)さんの同期会とが、 S-NTKを旗揚げ公演を行った。1月25日、大井町きゅうあん小ホール。華やかな舞台で、6000円の入場料で十二分に堪能できる内容だった。将来の活躍が期待できる。

 帆之亟さんは日芸卒で、朝丘雪路の相手役とか、山田五十鈴「春の名残り」で大石主悦とかを演じてきた。五月梨世さんは宝塚の男役だ。親戚筋に、故南風洋子(女優・宝塚トップスター)がいる。
 ふたりはかつての大物女優を介して知り合った仲である。この公演の企画・藤本佳子プロデューサーとの縁で、 S-NTKが誕生した、

 第1部は喜劇『お菊皿騒動』(落語「お菊の皿」より)。美しい女形を得意とする帆之亟さんが、徳川将軍から賜った皿を1枚なくす、お菊の幽霊役だ。「1枚、2枚、3枚……」のお菊が、まさか男性とは思えない美姿である。

 怖いもの見たさの町人たち(落語の世界のひょうきん者)らが、愉快に幽霊をのぞきに行く。男役の1人が五月梨世さんだ。宝塚の男役だっただけに、抜群の魅力を醸し出している。愉快に演じるのが雨川景子(あまかわ けいこ)さんと、大旦那ぶりの妙を見せるのが、「まるのめぐみ」さんである。旗揚げの初顔合わせ手とは思えない、3人の呼吸だった。

 つまり、男性と女性が役の上で、男女が入れ替わっているのだ。落語でも楽しい四谷怪談だけに、観客もストーリーを知っている。そのうえで、愉快に楽しめるから、さすが舞台俳優・女優だ。
 映像、映画と違って、役者は細切れでなく、一本の筋を通すもの。人間だから、長時間のセリフも微妙に度忘れするが、うまく取り繕い処せる。それも舞台役者の腕前で楽しいし、見事だ。

 第2部はショー『春夏秋冬』が開催された。華やかな十二単は熱い感慨を覚えてしまう。歌と踊りと衣装と。近々に写真で、これら舞台が堪能できるように紹介したい。

                                             【予告】
 

中國新聞で、執筆中の歴史小説が紹介される=もう一つの戊辰戦争

 中國新聞社の岩崎誠論説委員から、年初に「髙間省三の小説はいつ書きあがりますか。何月に出版ですか」と問い合わせがあった。執筆中であり、まだ初稿の段階で、すこし戸惑った。
 予定は3月には脱稿し、5月には出版だから、その通りにお応えした。問われて、タイトルは未定です、と話す。小説執筆は仮題が必要なので、『二十歳の炎』としているが、活字になってしまうと、拘束されるし、出版社は売れるタイトルが必要なので、題名は言葉にしなかった。

 中国新聞1月16日朝刊で、自衛艦が広島沖で釣り船と衝突事故を起こし、一面トップを飾る、その日の文化欄(12)で大きく取り上げてくれた。『戊辰戦争と広島藩テーマ』が目に飛び込んでくる

 記事のリード文のみを紹介すると、
『明治維新に一定の貢献はしたが、薩長土肥の陰で新政府の表舞台に立てなかったのが広島藩だ。時代の変わり目にどう動いたかは地元でもほとんと知られていない。
 その中で戊辰戦争に身を投じ、現在の福島県浜通り地方の戦場で21歳の命を散らした悲運の藩士がいたという。高間省三。ことし歴史小説の主人公になる』
 という記されている。

 同紙で書かれたように、幕末の芸州広島の活躍は殆ど知られていない。作家や研究者はいまなお少ない。理由は二つある。
 ひとつは1945年の原爆は広島城の真上を狙った、城を取り囲む武家屋敷は廃虚で、史料は喪失した。致命的である。
 もう一つは戦前の広島は帝国大学がなく、高等師範学校だった。だから、文部省の与えた教科書を教えるだけで、帝国大学のように、独自の芸州広島藩の研究がなされていない。結果として、活字になった幕末や戊辰戦争の研究資料が発表されていない。
 
 薩摩、長州、土佐の豊富な史料に比べると、芸州広島の資料はあまりにも少なすぎる。実に、100分の1以下だろう。ある意味で、薩長土の資料からの小説にしろ、幕末紹介記事にしろ、それは書きつくされている。坂本龍馬ひとつとっても、大同小異、内容はほとんどおなじだ。

 その点では、未開発の幕末広島史は、もう一つの戊辰戦争の意味合いが出てくる。従来の史観からすれば、まったく逆とか、途轍もない資料が見つかることもある。だから、「船中八策は偽物だ」とも断言できる。
 大政奉還は広島藩が早くから推し進める。後藤象二郎が横取りした。それだけならばよいのに、後藤は広島の執政・辻将曹(家老級)にあることないことを告げ口した。それまで倒幕が薩芸で推し進んでいたけれど、薩摩と芸州広島の仲を裂く行為に及んでしまった。

 広島藩・浅野家臣の船越洋之助が、辻の口からそれを知り、中岡慎太郎に抗議すると、
「貴藩に申し訳ないことをした。後藤象二郎を斬る」
 と刀を手にした。
 こうした史実も見つかる。

 土佐側の書き手から、中岡慎太郎が後藤象二郎を斬る、という内容は中岡の日記からわかっていても、前後の流れが判らず、世には出してこないだろう。まして、龍馬・中岡暗殺にも絡みかねないし。
 ちなみに、同席していた品川弥二郎(長州)が、おどろいて中岡を諭し、後藤象二郎暗殺を思いとどまらせたのだ。

 戊辰戦争の会津追討にも、思わぬものが発見できる。「会津の悲劇」となると、学者や研究者や作家など、長州・世良脩蔵の傲慢さを中心にしてまわしている。基点がそこにある。
 広島側の史料から見ていると、「えっ」というものが出てくる。京都・太政官(岩倉、有栖川)などは、送り込んだ公家、下参謀の世良などは早ばやと見捨た、第二次の行動に出ているのだ。
 世良が殺されても、殺されなくても、関係ないじゃないか。そんな発見もある。

 幕末の芸州広島はつねに新たな発見があり、おどろかされる。それは手垢がついていない歴史に携われる魅力でもある。小説の決められたページ数となると、素材が多すぎ、目移りがして取捨選択に苦慮してしまう。

 中国新聞には大きく取り上げられていたし、もはや時間のかかる一次史料の読み込みよりも、ここらで小説執筆上の取りまとめにウェイトをかけよう、と決めた。

人物の名づけは難しい? (下)= 現代かわら版

  カルチャーセンター「小説講座」で、折々に、登場人物の読み方が判らない作品に出合う。ルビをふってくれると、それなりに人物像が描けるが、「純紀」、「海月」、「凛々魅」になると、『なんて読むんだろうな』とそちらばかりに気がとられて、人物の造形が薄らいでしまう。
 講師の立場だと、途中で投げ出さないが……、そこらが解っていない受講者もいる。

 名まえに凝る時間があるのなら、もっとテーマにこだわってよ。そう言いたくなる。「騎士」(きし)と読み込んで添削し、教室で受講生と向き合うと、「ナイト」だという。

 ペンネームが読めないひともいる。プロ作家になって、作者名が難しいと不利になる。そう思うのだが、当人がこだわって名づけたのだから、あまり余計なことは言わない。

 大人のペンネームは自責だけれど、親が出産後につける出生の名まえとなると、読みづらくて、その将来は如何なものか、と思う。

 昭和時代には、繁華街のキャバレーやパーの女性の名だな、そんな名刺をもらったな、という記憶がよみがえる。このごろはその手の名まえがずいぶん多い。当て字がやたら目立つ。
 横文字を日本語にあてたりしている。「愛」(ラブ)となると、誰もが「あいちゃん」と読んでしまう。

 あなたのお子さんの名前は? と問うて、「すばる」、「ありす」、「たける」、「あいら」と返ってくると、とうてい漢字がすぐに浮かばないし、書けもしない。無理して、ここまで名前を凝る必要があるのかな。小学校の先生は大変だろうな、と気の毒に思う。

「柊」が書けるようになるのは、中学生くらいだろうか。それを「のえる」と他人に読ませるとなると、至難の業だ。
 親が、わが子を「あーちゃん」と読んでいるから、どんな字ですか、訊くと、「あとむ」だという。もはや漢字まで訊いても、小説では使えない。

 現代をかわら版的に風刺すれば、名前がすんなり読めると、「個人情報保護の時代」に見合っていない。人物名まで伏せ字にする時代だ。
 これら難解な名まえブームは、この子らが大人になるまでか。なに事にも反動がある。わが子には読みやすい名まえをつける時が到来するだろう。
  
 路上で、「あいらちゃん、こっちよ」と呼ぶから、ふり返ると、ペット犬だったりする。人間にもおなじ名まえがあったな、と妙な感慨を覚える。
 動物には戸籍登録はないし、どんな難解な名前でも、ご自由に……、と思ってしまう。

 名まえには、「真知子」、「裕次郎」など、つねに時代を反映した流行がある。かつて寺の住職や漢学者や知識人に命名してもらうブームがあった。難解な名前が多かった。

 気取って名づけられた子ども、親も迷惑なはなしだ。頼んだ手前、「先生、もっとやさしい名まえにしてくれますか」と親は拒絶もできず、そのまま出生届けになってしまう。

 ちなみに、私の妻は「倭香」である。電話で、相手にどう伝えるべきか、ひと苦労である。「人偏に、右は……」という。あるいは「倭寇という字に……」、「わこうって、どんな字だったけ?」、と問い返される。「ところで、どう読むの?」 ひらがなにすれば、義経の愛妾とおなじである。
 さすがに、いまだ犬にはこの名前を聞いたことがない。
 
 
 

人物の名づけは難しい? (上)= 現代かわら版

 現代小説、時代小説をとわず、登場人物の名づけは苦労させられる。とても気の弱い人物に、「熊五郎」と名づけると、読み手のイメージからほど遠くなる。気立ての優しい美しい女性に「魔子」とつけると、内面が怖い女性に思われてしまう。

 一度、小説の主人公で使った名まえは、作者の頭のなかで人物像が定着しているから、書きやすい。性格や容姿など書くには楽である。だけど、またおなじ名まえか、と思われてしまう。
 過去の名まえは極力使わないようにする。すると、なかなか思う名まえが浮かんでこない。

 シリーズ物(連載)の主人公は苦労しない。だけど、小説はけっして一人だけではない。脇役まで過去の作品とおなじだと、ストーリーが似通ってしまう。だから、登場人物は都度、名まえを変える必要がある。

 執筆ちゅうに、新たな人物が登場してくる。そのたびに、学生時代の同級生名簿、所属団体の名簿から探してみたり、本棚にならぶ書籍の背表紙から、名まえをあれこれ考える。なかなか決まらない。
 一度決めても、しっくりこない。「黒川」から「白川」へと途中で変えると、奇妙なもので、人物のイメージがなんとなく変わってしまう。ストーリを運ぶほどに、当初のあらすじとは違ってくる。

 その点、歴史小説は名まえに苦労しない。坂本龍馬、勝海舟などはそれだけで解ってくれる。人物描写はほぼ不必要だ。「暗殺前の龍馬が、33歳の中年太り」そんな風に創作すれば、嘘っぽくなってしまう。ここらは描写しないほうが賢明だ。徳川家康ならば、太り加減でも通じるだろうが。

 手もとに今ある史料には、「小鷹狩之丞」と名まえが記載されている。漢文調だったり、候文だったり。そこから性格などとても判読できない。銅像でもあれば、まだわかりやすいが、それすら彫刻家のイメージである。
「綾」が書いた流暢な和歌がある。書体からしても、女性だろう。だが、美醜の顔立ちなどわからず、背丈すら見当がつかない。数行の和歌からだと、それこそ作者の勝手な人物イメージで書くしか方法はない。


「歴史小説くらい、嘘っぱちな小説はないんですよ」
 というと、たいてい驚かれる。会話文など、99%ウソだといっても、決して言い過ぎではないだろう。

「駿府の大御所様に報告せねばならぬ」
「そのからだで駿府に行けるか」
「たとえ、張ってでも」
 こんな形式で史料が残っているわけがない。作者が数百年まえに遡ってみたり、訊いたりした事実は100%あり得ない。残された手紙すら、文字数にすれば、ほんのわずかだ。

 作者が嘘を組み立てて、それらしく、その時代を描写するのだ。読者がその時代に感情移入してくれると良いのだから、と割り切って書くものだ。

 ただ、歴史小説は人の名まえは嘘を書けない。ここらが唯一の真実だろう。むろん、手紙や日記など、自分の都合の良いことしか書いていないから、内容など疑ってかかったほうが良い。

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