ジャーナリスト

『新春・講師の集い』読売・日本テレビ文化センター=大手町

 新しい年を迎えると、いずこも新年会がはじまる。
 2015年1月4日、大手町サンケイプラザの4階ホールで、『新春・講師の集い』が行われた。主催は読売・日本テレビ文化センターである。

 同センターは創業35周年を迎えた。節目の年であり、新年会を兼ね合わせたものだ。講師の参加者は約200人で、立食パーティーだった。

 壇上では、30年講師歴の方々が紹介されていた。

 講座のジャンル別に円形テーブルがあり、それぞれが歓談した。私は「文芸・教養」だった。俳句、エッセイの講師で、小説の講師はまわりにいなかった。
 私はそれぞれの講師から指導テクニックなど聞きたかった。だが、逆に「小説の指導はたいへんですね」と質問をむけられることが多かった。


「まったくの素人で、小説と称する長い文章を読まされると大変です」
それにはいかに時間が取られるかと説明した。
 その上で、小説は文章講座と違う。『文学賞を目指す』と、あるていど小説を書いてきた、予選通過、一次、二次のレベルの技量の人を前提に募集しています。

 別の講師と名刺を交わすと、また小説の話になる。

 
「小説だけは下手な作品は読みたくないですね」。私はふだん長編小説を書いています。それをいったん中断し、受講生の長文を読むわけです。添削が終って、一区切りついて、自分の作品に戻ると、連続が切れていますから、それが一番苦労なんです、と答えた。


「わたし小学生時代、作文が上手だと誉められたんです。小説は書けますかね」
「無理ですよ。作文と小説は、日本語は同じでも、技法はまったく違います」
「でも、一作は良い作品が書けるというでしょ」
 文芸のコーナーだけに、こうした突っ込みが入る。
「プロ作家になるには毎日書きつづけて、10年、20年もかかるわけです。一作だけのために、それだけ時間はかけられますか」
 相手が講師だから、辛口に応えておいた。

 胸につるしたIDから、金町で、なにを教えているんですか、とまたしても類似的な質問を受ける。

「カルチャーに来て、月に一度作品を提出して、作家になれるつもりで来られると困るんです。小説講座では、先生が手を入れてくれる、そんな気持の受講生は欲しくないんです。僕の時間の浪費になりますから」
 そうはっきり言い切ると、相手の講師も体験的にわかるのか、納得顔だった。

「推敲に推敲して、提出し、講師に完成度の高い作品を評価してもらう。その意気込みなくして、作家になれません。それでも、何千人、何万人に一人の高い競争ですから」


 (会費をはらって新年会に出て)、私自身の話など、まったく面白くないし、つまらない。知識吸収の意味合いから、手芸講座のテーブルに逃げた。
 そこでも、小説の話題となってしまった。
 

笑いの芸人は真面目な演技で、腹の底から嗤(わら)わせる=浅草

 
 浅草・木馬亭で、舞台も、会場も、笑いであふれた「演芸音楽会」が行われた。

 写真で、どこまで表現できるだろか。

 ともかく、にぎやかな演劇人の舞台だった。

 


 巫女さんがロックンロールを詠う。

 和洋折衷で、歌に魅了されるよりも、おもわず笑ってしまう。



 田中悠美子は、海外公演が多い。

 三味線と撥(ばち)と、変幻の角度で奏でる。

 実に器用だ。

 ときには撥の代わりに、得体のしれない物体を使っていた。

 私が大好きな演劇人の「山口とも」だ。廃品を利用した音楽家で、喋りがとても上手だ。

 意味不明のことばで、笑わせる。


 空き缶を利用した、宇宙人姿で、客席から登場した。

 舞台に上がる。袖の幅までも、計算に入れていなかった、と笑わせていた。


 打楽器となる素材は、たらいとか、仏壇の鉦とか、廃品の塩ビのパイプとか、諸々である。

 話術の巧みさで、爆笑の連続だ。

 会場の観客を巧く取り込む。


 主催者の福岡詩二さん。

 2014年12月29日「年忘れ演芸音楽会」の招待を受けた。

 風邪を引いて大変だったらしい。


 プロの演芸人は穴があけられない。

 破壊バイオリンで、演歌を奏でる。

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恒例の餅つき「農家が好き、本ものが好き」(下)=埼玉・幸手市

 松田家の恒例の餅つきには入れ替わり、知人や地域の人がやってくる。

「住いの春日部では、餅つきの風景はもうなくなりました。店頭で売っている餅より、比べようもなく美味しいです」と女性陣は語る。搗きたての餅を賞味してから、それぞれわが家に持ち帰る。


 小林克介さん(埼玉県退職事務職員会・会長)は、大御所のように椅子に坐っていた。「松田さんとは30年来の付き合いです。楽しく賑やかな光景が良いね。時期が来れば、待ち焦がれている人がいる」と雰囲気を楽しんでいた。

 松田さんの奥さん(65)は、山口県・萩高校の出身者だ。藩校・明倫館の流れをくむ学校だから、多くの幕末志士たちが先輩になる。来年のNHK大河ドラマ『花燃えゆ』の吉田松陰の妹の放送を期待している。
「松陰先生の本は過去からたくさん読んでいます。TVではどういう形で表現されるか、萩のどんな場所が出てくるか、それが楽しみです」と語る。きっとお餅を食べながら、テレビ観賞だろう。

 故郷の萩の餅を語ってもらった。

「丸い餅で、アンコロ餅が中心です。(1個ずつなかに餡(あん)をつつみこむ)。こちらの農家に嫁(き)て、四角い餅を知っておどろいたものです。いまでは四角い餅の方が、メリットが多くて好き。ビニールで密閉状態だから、無駄がなく、2月上旬まで食べられます。田舎の丸餅はむき出しで、すぐカビが生えます。だから、水餅にする。それは嫌いでした」
 と思い出と兼ね合わせて語ってくれた。
 
 松田光男さんは振る舞い酒で、「どんどん食べて」と勧める。年末の餅つきは親の代からつづいてきた恒例行事だ。次世代まで、この伝統は残してほしい。そう言うのは簡単だが、もち米や薪や副資材などの手配、前日の仕込み、目に見えない準備の大変さがある。

「皆は農家が好き、本ものが好きなんです」と松田家の次女夫婦は、父親同様に語る。きっと受け継がれるだろう。世代が変わっても、黄な粉、アンコ、胡麻(ごま)の3種類の搗(つ)きたての食べながら、微笑む顔がこの庭で見られるはずだ。              
                                          【おわり】

恒例の餅つき「農家が好き、本ものが好き」(中)=埼玉・幸手市

 餅つきは日本の年末恒例の行事だ。
 鈴木俊男さん(71)はNPO法人「彩の国みやしろ」(埼玉・宮代町)の市民農業大学で、17種類の野菜づくりを学んだ。

 松田光男さんとは3期生の同期の縁から、去年につづき2度目の参加だ。

「搗(つ)きあがった餅は、のし棒で平に伸ばします。単純そうですが、力の入れ方が難しい。1年経つとコツはすっかり忘れています。四隅の角出しが最もむずかしい。やっと慣れたころには、自分の作業は終わりです」と話す。

 飴色の餅はめずらしい。松田八重子さんにはその特徴を説明してもらった。
「玄米の餅です。栄養価が高いけれど、蒸すのには2倍の時間かかります。水に浸すのも2倍」と手間ひまを語る。

 松田裕之さん(32)は八重子さんの夫で、14年前に婿養子で入った。春日部市の老人ホームに勤務している。餅つきの失敗談を聞いてみた。

「最初ころ、できあがった餅の厚さが違い、平べったくならないんです。実家のお袋に、何で、形が違うの? と聞かれました」と笑いながらも、年々やっているうちに巧くなったと話す。

 藤原マリオさん(28)は、裕之さんとおなじ職場の後輩である。父は日本人、母はブラジル人のハーフで、15歳で来日した。

「ブラジルでは、餅つきはありません。日本の文化として、祖父(日本人)から聞いて知っていました」
 初めて参加したマリオさんには、体験した感想を聞いてみた。

「思ったよりも、コツがいります。餅を伸す作業手順を聞いていたのに、ビニールの角にピンフォールをつくり、空気を抜くのを忘れていましたから、上手くできなかった。くやしいな」と話す。きっと負けず嫌いな性格だろう。


イベントとして身体を温める「モツ煮込み」が用意されている。
 高校生の篠原慧人(けいと・16)さんは、「野菜と肉が軟かくておいしいです」と2杯目をお変わりしている。「幼稚園の頃から、家族で春先の田植えと年末の餅つきに来ています」と話す。

 父親の篠原祐治さん(46)は食品会社に勤務する。
「家族で戸外に出かけて何かを する。親子して田んぼに入り土地にふれる。餅つきをする。良い機会ですから」と親子の触れ合いを強調する。「ただ、長女が高校生ともなると、父親と一緒に来なくなりました」と苦笑していた。

 それでも、父と息子がともに肩を並べてモツの煮込みを食べる姿は、とても微笑ましい光景だ。

【つづく】

恒例の餅つき「農家が好き、本ものが好き」(上)=埼玉・幸手市

 日本の正月には、伝統食材の餅(もち)は欠かせない。北日本は四角い餅、西日本は丸い餅である。この伝統も変わらない。ただ、家族ぐるみ地域ぐるみの餅つきは年々、影を潜めている。いまや、老若を問わずスーパーや商店で買う商品だ、と決め込んでいる節がある。

 埼玉県・幸手市の農家の松田光男さん(66)は、「完全無農薬」の米づくりで、国際大会(米・食味分析鑑定コンクール)において埼玉県でも1、2を争う。

 年の瀬になると、親の代から自宅の庭で餅つきを行っている。もう半世紀以上もつづく。ことし(2014)は12月28日(日)に行われた。2種類の餅を搗(つ)いている。


 松田さんは餅の材料にもこだわる。白い餅は、山形県東根市のもち米を取り寄せている。飴色に仕上がる餅は、白岡町の無理農薬の玄米をつかう。
 松田さんは材料費を貰うていど。近在の人たちが30人余りやってくる。常連だから、家族ぐるみで仲良く手伝ってくれる。


「春先は田植え、年末は餅つき。皆さんは楽しみにしてくれています。農家が好き、本物が好きなんですね」と松田さんはにこやかに語る。


 次女の松田八重子さん(33)から、餅つきの手順を聞いてみた。

「朝5時から、薪(まき)火を入れます。蒸籠(せいろう)で蒸すには、約1時間半はかかります」とうす暗い寒空の下の作業を語る。


 元会社員の須藤泰規さん(73)は釜戸の前で、「火を絶やさない。火が切れると、遅くなりますからね」と、切り揃えた薪を補充する。薪の燃える煙と匂いが庭いっぱいに拡がる。


 朝6時半ころ、蒸したもち米は蒸籠からステンレスのボールに移す。この季節はやっと日の出の時間になる。

 2キロずつ計量し、餅つき機に入れる。搗く時間は平均して3分。最初の出来上がりは7時頃になるという。


                                       【つづく】

クリスマス・イブの神社仏閣は閑散なり=広島・宮島

 中國新聞の文化部の記者と、12/24の午後から取材に同行することになった。広島入りしてから、前泊は宮島に宿泊した。

 幼い頃から宮島はなんどもきたが、宿泊は初めてだった。夜の散策に出かけてみた。

 ライトアップされた鳥居ははじめて観る。
 


 厳島神社が満潮の海面に浮かぶ。だれもが幻想的だと思う。

 私が育った瀬戸内の島にも、厳島神社がある。「十七夜祭」で、宮島の「管弦祭」と同一日だ。祭りの夜の華やかさを知っているので、この程度か、という想いだった。

 むしろ、久しぶりに見る夜空の星のきらめきの方が感動した。

 


 世界遺産となった宮島は、世界中からハイ・スクールの生徒が集まり、若者で大混雑している。そんな気持で朝の海岸を歩いた。おどろくほど閑散としていた。

 そうか。きょうは12月24日はクリスマスイブだ。行くなら教会だろう。

 社寺仏閣には用がない。


 神社仏閣の社務所はいつもならば拝観料を求める人で、長い行列ができる。

 窓口の人は「1人でも十分だ」という顔で、3人が退屈そうにしていた。



 世界遺産の宮島は、海外で、評判が良い。ふだんは観光客の頭越しにシャッターを押す。

 こんな人のいない空間の厳島神社は初めてだ。
 

 
 「写真エッセイ教室」では、受講生につねに人を入れなさいと指導している。

 殆ど人がいない場合は、しかたないな、と改めて思う。



 額縁の撮影方法で、能舞台を撮った。

 日本人かと思いきや、確認すると、アジア系のカップルだった。

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私たちは3.11を忘れない 「いまの陸前高田を語る」= 大和田幸男

 大和田幸男さんは、かつて陸前高田市米崎で製材所を経営されていた。3.11大震災で「鉛筆一本持ちだせなかった」と語る。避難所生活で、企業再建資金はなかった。しかし、知識と技術を生かした大和田さんは、材木販売業で立ち上がった。

小説3.11『海は憎まず』で、大和田さんには多大な協力を得た。同書が出たあと、読者からその後の推移や現況などを聞かれることがある。

 自然災害の住宅復興と材木業は深くかかわりあう。大和田さんには住民の姿がリアルに見える立場から、陸前高田の現況を伝えてもらった。

  

 いまの陸前高田を語る  大和田幸男さん  


 岩手の湘南・陸残高田は、12月も半ばになると、霙(みぞれ)で氷点下3度まで下がってくる。
 寒さながら、被災地はさぞかし「住宅建設ラッシュ」と思われているかもしれない。だが、ひと頃の盛況ぶりではなくなった。

 資金に余裕のある人たちは、今年(2014)、昨年、一昨年と、独自に自分で土地を購入し、 再建してきた。
 しかし、高台移転への希望組は、未だ造成が終わらず、大半は早くて来年(2015)秋からの住宅着工である。(一部の地区は着工済)。

 資金のある人たちが建てた家は、やはりハイクラスな家が目立つ。ここにきてコンパクト(25〜35坪)な家の注文が増えてきた。

 そのことを東京の工務店経営の友人に話すと、「東京じゃ、そのコンパクト・ハウスに、みんな住んでいるのだぞ」と怒られてしまった。

 材木販売業の商売柄、設計図面をいただくと、失礼ながら廉価版が多くなってきた。3.11大震災の直後は、再建住宅単価が当時相場で坪当り50万円の予算を描いていた。
 ここにきて、生コンの高騰、消費税のUP、人手不足による人件費の高騰で、夢をコンパクトにせざるを得なくなったのが実情である。


「現在、小規模な住宅は田舎でも坪70〜80万したりします」
それでも県や市の住宅着工補助金各種を合計すると、1000万円前後になってくる。公営住宅を借りて、月2万5000円を支払ったとしても、年間は30万円。30年間、それを払い続けると、900万円を支出しても、その部屋は自分の物にはならない。

「どちらにするか、その判断は家庭により様々です。もともと人生のスケジュールには、「自宅新築」のキーワードなんか無かった方々が多いので、どのくらい思案したか、同類項の私には気持ちがよくわかります」

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陸前高田における昭和の厳しい食事情を語る=大和田幸男さん

 3.11大災害で、食が欠乏した、あるいは食に飢えたともいえる体験をしました。
 これは私たちだけでなく、陸前高田の昭和史を紐解いてみると、昭和初期からチリ地震津波(昭和33年)被害が落ち着くまで、慢性的に貧困だった、厳しい食生活だったのです。

 【撮影:大和田秀雄さん(作者の父) チリ地震津波が襲来した当日の午後】


・ 昭和8年から昭和10年にかけて「日本史上の最後の飢饉」が発生しました。

 それは「昭和東北大飢饉」です。日照りや干ばつではなく、日照不足と聞いています…。昭和8年の三陸大津波と重なり合っています。まさに飢餓の生活に陥ったのです。

 私がこの飢饉の事実を知ったのは、恥ずかしながら、3.11大震災の数年前です。 それも、奇異なことからです。

 広田町、小友町、米崎町を結ぶ「アップルロード」が、大津波の前年、2010年春に開通しました。この道路を建設中(土地買収中)に 、「無限会社○○の再開と解散について」

 そんな内容の怪文書まがいのチラシが、我が家のポストに入っていました。最寄りの公民館にお集まり下さい、と記載されていました。訳が分からず、会合に出席すると、次のような内容でした。

『昭和8年、高田は飢饉であった』
『そのうえ津波もあり、村人には食糧や物資を購入する金もなかった。村の有力者が、自分の資産を担保にして、村民の借入資金に充てた』
『その担保の共有地(無限会社)が、「アップルロード」の建設予定地に存在している。地権者の同意なく、勝手に使用して道路建設は出来ない。しかし、権利者の皆は他界している』
『法律上、この会の子孫(20名位だったと思う)が集まり、無限会社をふたたび甦らせる。そして、土地を市に譲渡したうえで、あらためて解散する』
 そんなニュアンスでした。


 参加した古老を含め、だれもが初めて聞く団体(無限会社)でした。飢饉に遭った村民は、生死を左右する必要にせまられたから、できた重要な団体だったことが推測されます。


 昭和4年・ウォール街からの世界恐慌で、昭和5年・日本の昭和恐慌に及びました。
 東北では、昭和6年の冷害で農村は疲弊した。昭和8年の大地震および津波で漁村も疲弊した。昭和9年にはまた凶作だった。


昭和初期の陸前高田の住民は、空腹との戦いだったはずです。昭和9年頃、岩手県の小学5年生のある女子児童が書いた作文を紹介します。

『お弁当のとき先生は、私たちのお弁当をまわって見られました。私たちははずかしいのでかくしました。すると先生は稗(ひえ)のごはんでも食べられるうちはいいのです。お米がさっぱりとれないから、と申されました。
 お米がとれないから稗は私たちのいちばんの食物だと思います。 でも今では、弁当を見られてもはずかしくなくなりました。(中略)二、三日前、お父さんは、なんぼお米がとれなくても、 お前たちには食べさすから、いつものように勉強するんだぞと、ご飯のときに話されました。』


 ひどい時期、岩手では松の木の皮まで食していたらしいです。その後、太平洋戦争が勃発したわけですが、私のオヤジはちょうど仙台の薬科大学の学生でした。

 オヤジ(秀雄さん)から、よく聞かされました。
 皆で学生時代に歌ったのは『都の西北』から始まる
『早稲田〜♪ワセダ〜♪ワセダ・ワセダ・ワセダ〜』の校歌をもじった
『やせた〜♪かれた〜やせた〜かれた〜日干しだ〜』だった、と。
 あげくのはてには、仲間の学生が酒がわりに薬科大学のアルコールを盗んで呑んだが、それはメチルアルコールで失明してしまった。

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瀬戸内の大崎上島で「桜田門外の変」の図と書状見つかる=大発見か?

 歴史小説を書いていると、思わぬ情報や史料に出合う。まずは「本物か、偽物か」と疑ってみる。後世に書かれた昔話しは、嘘が多い。その時代に書かれたものしか、私は信用しない。少なくとも、それを基準にして判断している。

 その時代の物証でも、書いた当人が意識してごまかせば別だが、おおかた本物だろう。たとえ、嘘を書いていたにしても、それを信じるよりしかたない。

 こんかい瀬戸内海に浮かぶ広島県・大崎上島で、「桜田門外の変」の略図と書状が発見された。貴重な史料だと思う。なにしろ、井伊大老が暗殺される現場の様子が克明に記されているからだ。

 なぜ、こんな島で、貴重な史料があったのか。ミステリアスである。


 井伊大老の暗殺場所は、絵図から、より絞り込んで特定できる。絵師による浮世絵では桜田門が強調されているが、(上段の史料)の目撃から、松平市正の表門が戦場だったとわかる。

 ことし(2014)12月11日、私の出身地の大崎上島に移住した布施氏と、葛飾・立石で、ひさしぶりに会った。布施氏は東京・葛飾出身であり、リタイア後に、同島に移り住み、島の文化活動に多くを費やしている。
「望月邸の襖の下絵から、桜門外の変の図と、書簡が出てきたのですよ」
 布施氏がおどろくことを言った。
「ほんとうですか」
 彼がスマホに撮影していたので、私はそのデータを貰った。これまで、(私の記憶の範囲)、文献では見たことがなかった、井伊大老が暗殺された現場の貴重な目撃証言だった。


  大崎上島とはどんな島か。
 本州・四国とも橋がつながらない、瀬戸内の孤島である。人口は約8000人。江戸末期から明治、大正、昭和にかけて海運、造船、塩田などで栄えた。当時は、約3万人ほどが住んでいたという。


 豪商の望月氏(同島・東野)は海運業者で、関西から芸州藩の御手洗、尾道、宮島の各港へ手広く物資を運んでいた。
 明治時代には内務大臣となった「望月圭介」の生家でもある。池田隼人や宮沢喜一の父親は「望月圭介先生は、私たちを政治家として育ててくれた、大恩人です」と語らしめている。


 往年の繁栄を忍ばせる見事な大邸宅である。このたび「海と島の歴史資料館(大望月邸)」と生まれ変わった。この改装工事の折、同家の襖の張替えが行われた。下張から、膨大な書類・書簡が見つかった。廃棄寸前に、郷土史家がそれを譲り受けて保管している。


 穂高健一著・幕末歴史小説『二十歳の炎』を出版した直後、知り合いの布施氏から連絡を受けた。「大崎上島の豪商・望月邸から、兵庫の木綿問屋の運搬記録がありましたよ」
 さっそく中国新聞『緑地帯』の連載コラムで、私が執筆した『広島藩からみた幕末史』に、それを紹介した。


 同『二十歳の炎』の第3章で、主人公・高間省三が老中小笠原の暗殺を語る場面がある。そのなかで、「井伊大老の桜田門外の変では、幕府や彦根藩は病死として片づけた』という下りがある。

 実際は、水戸藩からの脱藩浪士の17名と薩摩藩士の1名が彦根藩の行列を襲撃した、暗殺であった。


「なんで、瀬戸内の島に、こんな貴重な史料があったのだろう?」
 よくよく考えると、なんとなくひも解けてきた。

 幕末志士たちは西国を行き交う時、陸路でなく、その多くは海路を利用していた。芸州広島の御手洗・鞆の浦などはありとあらゆる志士が上陸している。とくに御手洗の遊郭が情報交換の場だった。(京都や長崎よりも安全な密議ができた)。

 望月氏はこの御手洗航路の最も大手の海運業者だった。なんらかの理由で、例えば、貧しい脱藩志士から船賃替わりで、貰いうけたとか……。
 あるいは、井伊大老暗殺に無縁でない薩摩藩の幕末志士が、秘かに持ち歩いていた可能性がある。「二十歳の炎」第5章でくわしく展開しているが、御手洗港は、薩摩藩の海外密貿易の拠点であった。港には薩摩邸があり、同藩士6-7人が常駐していた。
 望月氏が、薩摩藩士と親しくても、なんら不思議ではない。


 こんかい発見された史料の歴史的な価値を考えてみたい。「当月3日桜田御門大騒動」と、その月の内に、広く知れ渡っていたことだ。つまり、幕府が井伊大老の病死を発表する以前に、瀬戸内の島の海運業者が、「桜田御門前、松平市正様の表門で暗殺があった」と知っていたことだ。

 安政の大獄では、幕府が厳しい思想統制と弾圧をしていたが、情報統制まで及んでいなかった。それを物語る史料でもある。

 前夜から雪が降り積もっていた、暗殺現場の情景までもしっかり書きとめられている。幕府は、目撃者の口封じまで出来ていなかったのだ。 
 それにしても、襖の下張りがよくぞ廃棄されなかったものだと、感心させられた。

「二十歳の炎」が「東都よみうり」で紹介=幕末史の視野を広げる1冊

『東都よみうり』は、隅田、江東、江戸川、葛飾、港区台場など20万世帯に配布される。毎週金曜日。同紙が10月17日号で、幕末歴史小説「二十歳の炎」を取り上げてくれた。
 タイトルは「幕末史の視野を広げる1冊」である。幕末の動乱のなかで、命を散らした広島藩士を主人公にした小説がこのほど出版された、と書き出す。

『幕末といえば、薩摩、長州、土佐、徳川家、会津などを時代を時代の主役に据えた物語が多いが、それ以外の地域や人々が決して時代のうねりと無縁で生きていたわけではない。この小説を読めば、そのことに気づかされる』
 このような講評などが盛り込まれている。

 同書はいま広島で、中国新聞、広島護国神社、修道高校、および関係者が推してくれている。漸次、拡大している。
 髙間省三を全国で知ってもらうために、メディアを通じた首都圏の販路拡大が課題である。その一歩が踏み出せた。

 当日、よみうりカルチャー金町から、「文学書を目指す小説講座」の新規申込者が複数ありました、と案内がきた。おなじ「よみうり」系列だけに、反応が早いな、と思わせた。

 かつしか区民大学の受講生に、同区・葛飾鎌倉図書館の女性職員がいる。彼女も同新聞の記事を読んでいた。
「幕末史に興味をもった住民の方々向けに、図書館内で講演してあげましょうか」
 と提案すると、喜んでもらえた。
『東都よみうり』の縁から、即日に、次なるステップへと歩み出した。

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