ジャーナリスト

ジャズグループが浅草で世界一の記録(上)=驚異的な300回

 東京・浅草で、ギネスブックの記録をぬり替えて、世界一の記録をつくるジャズグループがいる。そのバンドは『ハブ デキシーランダース』で、結成から25年。リーダーは小林淑郎(ひでお)だ。

 プロのジャズ演奏家たちが、メンバー・チェンジを一度もせず、月1回度の演奏をつづけてきた。ことし(2015年)11月15日(日曜)に、浅草で、来月記念すべき300回を迎える。
 海外からも「ぜひ、記念すべき日に聴きに行きたい」というフアンもいるほどだ。

 浅草を拠点とする『ハブ デキシーランダース』というジャズバンドを立ち上げた「春川ひろし」によると、
「ギネスブックに、同一のプロメンバーで22年続いた記録があります。私たちはその記録を塗り替えます」
 とおしえてくれた。

 どの世界でもトップクラスの人材ともなると、個性派が多く、主義主張もあるし、見方、考え方、目指す方向性も微妙にちがってくる。歳月を重ねるほどに、まずもって意志疎通に問題が出てくるものだ。
 それがやがて意見の対立となり、5年に一度くらいは、ごく自然にメンバーが入れ替るのがふつうだろう。
 
『ハブ デキシーランダース』はなぜ分裂もせず、同一メンバーで、300回もの演奏会がつづけられてきたのか。

 プロ演奏家にも健康の問題とか、個人的な転居とか、思いもかけない物理的な理由も生じるだろう。人間には個性があるし、わがままもあるし、自己主張もあるから、それとなく遠のく者もでてくるはずだ。
 それが人間だともいえる。そう考えるほどに、同一メンバー、浅草の同一場所での演奏300回となると、簡単にはできない驚異的な記録だ。

 ジャズ発祥の地はアメリカである。約100年間にわたり、世界じゅうを魅了してきた音楽である。この間にも、伝統が守られ、アレンジされ、進歩しながら、息の長い音楽としてジャズの活動が世界各国で続けられている。
 
 リーダの小林淑郎(ひでお)はクラリネットとテナーサックスだ。昭和8年生まれだ。10代の多感な時代に、ジャズに出会っている。

 日本へジャズが入ってきたのは戦前で、横浜港、神戸港、長崎港からだ。新しく・派手な音楽として拡大していった。
 大きなブームがきたのが終戦後で、進駐軍と呼ばれた米軍基地を中心とした繁華街で、ジャズが演奏され、バンドが結成され、日本じゅうに旋風が巻きおこった。
 それを第1期ジャズブームとすれば、小林は第2期だったといえるだろう。
「無理してやってきた、という感じがないのです」
 ジャズが小林のからだと同化し、体内に息づいているのだ。

 トランペットを受け持つのが下間哲(しもま てつ)である。トランペットは日本人好みだ。哀愁の曲、親しみのあるメロディーなどは特に心にひびくものがある。一方で、快活なリズムのトランペットも心を躍らせる。

 プロとはお金を稼げるひとだ。お客を魅了するのは演奏だけでない。司会進行の小気味な明るいトークが必要だ。下間にはお客を笑わせる芸がある。わずかなトーク時間も、お客の立場からすれば、支払うお金のうちだ。

 ただジャズ演奏が巧ければ、それで良しとならない。音楽とトークで、お客と一体になることが魅力なのだ。その役目のひとつトークはとても重要だ。
 下間は、音楽に付加価値をつけているといえる。

 バンジヨー坂本誠(さかもと まこと)、ひたすら演奏に没頭する。チーム内で無言・無口を売る。これが不思議なチームワークになっている。
 
 最近は舞台、テレビなどで、やたら喋っている歌手が多い。トーク訓練がなされていないうえ、「この作詞家、作曲家、唄との出会いですけれど」という毎回、おなじ紋切型だ。
「あんたの長話しなど、どうでもいいんだよ。はやく歌いなよ」
 そんな罵声の一つも浴びせたくなる。

 お客が呼べなければ、メンバー同一による、300回の演奏など根底から崩れてしまう。

 坂本はちらっ、ちらっと司会役の下間を見ている。「愉快だけれど、長々と話をするなよ」と目線で抑えている。これがお客との絶妙な間合いになっている。


 金管楽器のなかでは最も大きいチューバは、菊池和成(かずなり)だ。おおきな目で、にこっと笑う。この顔が素敵だ。

 チューバはリズミカルな曲となると、かなり肺活量を必要とするのだろう、演奏ちゅうはマラソンランナーのような顔つきにもなる。
 曲が終わった、わずかな合間のトークに、かれは上目の笑みで補完している。それが、客を魅了している。

 人間はことばが通じなくても、笑顔で世界の人と会話できる。演奏会場の浅草『HUB』には、外国人がことのほか多い。

 
 ピアノの清水納代(のりよ)は唯一の女性だ。にこやかに演奏している。彼女はどこか浅草的だ。
 浅草といえば、演芸・芸能のメッカである。1930年代の日本を代表するコメディアン「日本の喜劇王」といわれたエノケンや、古川ロッパが浅草をより有名にした。その後も、ぞくぞくと多くの芸能人が浅草を活動拠点にしてきた。
 映画「男はつらいよ」などに出演した渥美清、ビートたけし、かれらも若手時代に浅草で芸を磨いた。

 清水のピアノは、どこか浅草の下町の方々が、親しみを持てる雰囲気で鍵盤にむかっている。清水のピアノの横から、お客を見ていると、
「このジャズグループは、浅草の財産だ」
 という目と耳で、聴き入っている。
 

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ジャズグループが浅草で世界一の記録(下)=驚異的な300回


「かわすみ はるか」(写真)は、歯医者のドクターである。彼女は『ハブ デキシーランダース』のフアンである。10年まえにこのバンド・メンバーを知り、浅草に通っていた。
「一曲、歌わせてあげるよ」
 と言われて、それからやみつきになっている。

 歯科医院ともなれば、歯が痛い。患者は顔をしかめている。「お客さんには、いま歌っている心地好い、この気持ちを分けてあげたい」
 日本一のアマチュアのシンガー・ソングを目指したい、と彼女は抱負を語っていた。


『ハブ デキシーランダース』(リーダーは小林淑郎・ひでお)は、ジャズグループを結成してから25年間にわたり、メンバー・チェンジをしないで演奏活動をしている。あと1回で、世界一の記録だ。

 人間は個性があるし、自己主張もある。それぞれ何らかの理由で、メンバーから離れていくのが常だ。同一メンバーの演奏活動の継続10年は、すごいな、となんど考えても感慨を覚える。まさに賞賛に値する記録だ。

 観客席で、オーストラリアから来ていたトニー・フォグーさんは、
「大フアンなんです。日本に来る目的は、『ハブ デキシーランダース』のジャズを聴くためです。きょうの299回もシドニーから、これが目的できました」
 と決してビジネスなどの合間でなく、あえてこの演奏を聴きにきたと語っていた。

「日本にはじめてきたのは1971年で、領事館勤務の貿易促進のしごとでした」
 その後、1979年から8年間ほど、イラク、ユーゴスラビアで働いていた。イラクはジャズはない。ユーゴのジャズはなじまなかった。

 1996から8年は大坂に住む。東京にきた折、浅草に案内されたトニー・フォグーさんは、『ハブ デキシーランダース』を聴き、一度で大好きになった
「日本のジャズの情感が、オーストラリア人の体質に合っています」
 帰国しても、このメンバーのジャズを聴くために、折々に日本へ来ているのだ。

「300回記念は涙が出るくらい感動するはずです。もちろん、300回記念もシドニーから駆けつけますよ」
 と語る。


 
「日本人の心にひびく、日本人の心をつかむ、それには聞きなれた曲とリズムです」
 ドラムの春川ひろしは、それをくり返し強調する。
 
 お金を払って軽くドリンクを取り、音楽に聞き入っても、全曲まったく知らないとなると、お客はリピーターにはなってくれない。

 童謡は誰でも知っている。演奏しているさなか、観客は口ずさんでいる。それが観客が支えてくれる源になっている。
「この曲は知っている。観客は、それを聞きたいのです」
 多くはリクエスト曲が中心だから、馴染み曲が大半だ。



「演奏してしまえば、終わりではありません。ジャズメンバーと観客が一体になれる。間合いも大切にすることです」
 クラリネット/アルトサックス後藤雅広 (まさひろ)は小休憩中も、かれらは客席に入りこむ。観客の立場からすれば、生演奏を目の前で聴けて、さらにはミュージシャンと接することができる。いま聴いた音楽を語れる。

 小休止に間、楽屋に引っ込んだメンバーは誰もいなかった。これがまさに演奏者と観客との一体化で、魅力だ。ギネスに載るだろう世界一になるだろう、300回も支持してくれたのだ。

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【戦後70年・特別寄稿】中國と仲良くしよう=桑田冨三子(河本大作の孫娘)

 地学を学び、石油資源開発の専門家になった同級生から、メールが届いた。新聞にも投書したらしい。
 東シナ海ガス田問題について、「中國は合意を守っていない」と首相が国会で懸念を表明した。また
「中國が一方的に資源開発を進めるのは、極めて遺憾」と官房長官が発言した。
 これに対して国民やメディアが、共感している。長く石油開発の仕事に携わった僕としては、合点がいかない。


 日中両国は、2008年に東シナ海で共同開発を目指すという合意をした。そして中國側から、
「中國企業は、日本法人が中国の法律に従って開発に参加することを歓迎する」
 という提案が来た。

 これにたいして、日本企業はどこも参加せず、中國の要請にこたえていない。こういう事情だから、日本は、中國側が今進めている開発事業に異を唱える名分はないだろう。

 僕は、あれだけ広い海域のことだから、油の可能性がないとは言えないと思っている。掘ってみるべきである。石油・ガスの共同開発の最大の目的は、リスク分散である。こういう新地域こそ共同探鉱にとって絶好の場所だと思う。


 このメールに対して、私は「耳よりな話。いいことを聞いた」と共感した。私は、今も昔も変わらず、強く願っている事がある。
「日本は、中國と仲良くしなくてはならない」
 過去において、日本はいろいろと失敗をした。
 だからこそ、これからの日本にとって、隣の大国と友好的にやっていくことが何よりも大切、と私は信じている。


 友好的関係を保つには、じっとしているだけでは駄目である。
「中国との間に、なんとか友好関係を育んでいこう」
 とする心構えと、覚悟と努力が必要である。

 共同で事業を行うためには、友好関係が必要であり、その関係を続けることによってますます友好関係が深まる。東シナ海の中間線の日本側海域こそ、その良い対象地域であるという。
外交は不得手と言われている日本のことだ。


 東シナ海ガス田問題は、外交手腕をふるう最良のチャンスである。海上保安庁の巡視船で威嚇したり、文句をつけて挑発するより、
「一緒にやってみよう」
 という方が、はるかに優れたやり方ではなかろうか。

 軍艦や武器をそろえ、戦うための強化訓練などにお金をかけるより、この平和的手段をとれば、最終的には、より国益にかなうだろう。

 国のお金の使い方には、いろいろあると思う。直ぐに利益に結びつかなくても、こういうところにこそ、国はお金を使ってほしい。

 外交上もプラスだし、資源開発をしながら、人材や技術を回し、雇用だって、多分、増えるのではないか。
 国境にこだわる話は、ナショナリズムを煽るから、双方にとってリスクである。


 東アジアに、国境という概念が作られたのは、せいぜい19世紀後半である。中國・朝鮮・ロシア・日本・は、樺太(サハリン)や、沿海州などで、住民が混在して生きていた。
 そこでは、共同管理の雑居地として、互いに認め合い、うまくやっていた。東アジアの民族は、そういう知恵をもっていたのである。易しくはないかもしれないが、やる気さえあれば、日本人には充分に出来ることであろう。


 今日は、8月25日で、中國の収容所で生涯を終えた祖父・河本大作の祥月命日である。祖父は、生涯、「支那と戦争をしてはならない」と主張し続けた。
 孫の私には、同じ思いが伝わっている。

淑徳大学・公開講座『知られざる幕末史』10月から5回(土曜)の講座

 淑徳大学・池袋サテライト・キャンパスで、2015秋・冬『公開講座』が開催されます。このたび、同大学からの依頼で、幕末史の講座をもつことになりました。

 タイトル『知られざる幕末史』で、平成27年10月17日~28年2月13日で、回数は5回の講座です。毎回、土曜日(13時15分~14時45分)です。
 5回で10,000円です。
【問い合わせ先】 03-5979-7061 ネット「淑徳大学公開講座」

『ポイント』

 江戸時代260年間は戦争をしない国家でした。明治時代に入ると、10年に1度は海外と戦争をする軍事国家になりました。それが77年間つづき、広島・長崎の原爆投下で終焉です。
 海外から、日本人は戦争が好きな民族だ、と思われてしまいました。だれがこんな国家にしたのでしょうか。
  
 明治政府は歴史を歪曲し、ねつ造しました。とくに幕末史にはウソが多いのです。それが戦後も引き継がれていますから、高校日本史は必修にできないのです。
 自国の歴史を必修にできない国家などあるのでしょうか。

 77年間の海外侵略を導いた軍事思想家はだれだと思いますか。幕末に「満洲国をつくれ」と最初に言いだし、海外侵略に大きな影響をあたえた人物は誰だか知っていますか。

 教科書では伏せています。伏せる教えない、それは隠すことです。

 この思想家を神さまとし、他国の領土に「満洲国」をつくったことで、日本は国際連盟の常任理事国でありながら、すべての加盟国から非難決議されて、経済封鎖までされました。軍部はパールハーバーへ、広島・長崎で戦争が終焉です。
 
 二度と戦争はしてはいけない。「知られざる幕末史」は、77年間の戦争国家となった起点を知り、学ぶことです。
 
 
 講座内容

 第1回 10月17日 「鎖国から開国へ」。開国は過剰人口の飢餓を救う策だった。

 第2回 10月31日 「長州藩は倒幕に役立たず」 朝敵の長州は京都に入れず、倒幕には関わっていない。明治政府のウソの教育だった。

 第3回 12月12日 「船中八策はウソの創作」 大正時代に、土佐の文人が、龍馬をおおきく見せるために創作した。明治時代まで一行も文献にはない。

 第4回 1月9日 「鳥羽伏見の戦いはクーデター」 下級藩士たちのクーデターで、軍事国家が生まれた。太平洋戦争への起点はここにある

 第5回 2月13日 「文明開化は安政から」 開国してから15年間で、日本はおおきく西洋文化を取り入れた德川の業績だった。明治から文明の起点はウソの歴史教科書だった。

【問い合わせ先】 03-5979-7061 ネット「淑徳大学公開講座」

炎天下で、インタビューの実習=かつしか区民大学

 2015年度の「かつしか区民大学」の第4回目は、7月25日、葛飾区内の都・水元公園のバーベキュー広場で行った。今回はインタビューの課外実施である。

 参加した受講生は7人だった。午後1時から3時まで、2時間に渡っておこわれた。炎天下で、汗をながしながら、そのうえバーベキューの火焔のそばで、なおさら汗だくだった。

 最初の取材は、筑波大学の「学園祭実行委員OB」たち9人(男子5・女子4)だった。リーダーの平山明広さん(26)から、話しを訊くことができた。「こんかいの予算は3000円です。年に3回ていど集まっています。水元公園は初めてです」と語った。

 水元公園の印象につていは、とても広く、緑が多くて、野鳥もいて良い感じす。アルコールは、同公園の売店で調達したひとや、金町駅前の大型スーパーで買い求めてきたひと、さまざまだった。


 
 バーベキューをたのしんだ後、スイカ割りに興じるグルーフがあった。品川区・南品川からきた、安倍幸信さん(29)グールプは約30人だった。
「友だちの友だち、ご近所の人たちです」
 と自然にできた集まりだった。

 このなかに招かれたのが、お笑い芸人「P&M」の2人だった。ひとりは「ぶってい」さん(三重県出身)は、岩下志摩と映画共演をしている。もうひとり「まっさん」さん(群馬出身)は、高橋秀樹さんと時代劇に出演したと話す。

 かれらはTVにも活躍する芸人で、コンビを組んで2年になる。
「バーベキューの盛り上げで、小さなネタを披露しました」と語っていた。

スイカ割り大会で、ゲットした男女が楽しげに、おいしそうに食べていた。

 かつしか区民大学・受講生たちは、個別に分かれて、それぞれ実習した。2時間で、2グループほどインタビューができた。
 最初に答えやすい質問から入り、最後に名前と年齢を訊く。この基本手順を学び取った。作品の提出は1か月後である。

「山の日」関連の歴史小説を取材中。長野県の地元新聞で紹介される

 私は現在、祝日「山の日」に関連した、山岳歴史小説を執筆ちゅうである。天明・天保時代の松本市と飛彈高山市の周辺取材をはじめてから約一年が経った。この作品は、新しく祝日となった「山の日」を盛り上げる狙いがある。2016.8.11からカレンダーに赤い祭日の印がつく。

 現在、現地で展開する取材のようすが、2015年7月2日(木)の信濃毎日新聞で紹介された。タイトルは『「山の日」盛り上げる歴史小説 執筆中』である。サブタイトルとして、『舞台は上高地や「飛州新道」」としている。

 同記事のなかで、「山の日」が超党派の国会議員連盟によって制定された。そのメンバーから、東京の作家・穂高健一に執筆を勧められたもの。昨年5月から、長野・岐阜の両県で精力的に取材している、と記す。

 作品の背景となる飛州新道(現在の安曇野市三郷小倉から大滝山、上高地を経て、焼岳の肩の中尾峠から奥飛彈に至るルート)に、記事は多くの紙面を割いている。
 新道開削に関わった岩岡家が文化時代に、上高地に湯屋(宿屋)をつくった。主人公は、その上高地の温泉宿で過ごした岩岡家の娘である。
 安曇平(現在の安曇野市)は、荒れ地で水不足で苦しんできた。天明、文化・文政のころに、当時の農民たちがみずから、約20年間にわたる苦労の末に、巨大な15キロにもおよぶ農業用水路「拾ヶ堰」を開通させた。荒廃地が一躍、水の豊かな農耕地帯になった。
 作品はここから書きだす、と同記事で紹介されている。

 掲載の写真撮りは、同年6月17日、松本市・安曇(上高地の麓・島々)でおこなわれた。資料など槍ヶ岳山荘・社長の穂苅康治さんが、同記事のなかで、『小説が「近代登山が始まる以前の地元の歴史や、山の生活が発信される貴重な機会になる」と、出版の日を心待ちにしている』と述べている。

                            【了】

私たちの歴史は平和として描かれるのか(下)=平和は瀬戸物なり

 幕末を大名家でなく、「藩」単位で見ていると、司馬遼太郎史観など、薩摩とか、長州とかの「藩」の見方がまかり通る。

 戦場で戦う者は武士であって、農商工の領民は無関係である。為政者の大名家が勝とうが負けようが、年貢が変わらなければ、生活は変わらないのだ。大名家どうしの戦い。この認識は重要だ。民を巻き込んだ戦いは明治の徴兵制からだ。

 龍馬を描く小説は決まって薩摩藩とか長州藩とかになる。「德川家」と「毛利家」の戦いにしない。「そうせい公」と毛利家は隅にやっている。そうでないと、巨大な大名で強い権力を持った毛利家の前で、脱藩浪人の龍馬が貧弱に見えるからだ。


 当時、長崎・グラバーという武器ブローカーが南北戦争で余った兵器を密輸入していた。各藩の武具奉行たちは、武器の買い付けに長崎にでむく。グラバーはおおむね安価で古い銃を売りつけていた。地方の大名家の家臣は火縄銃よりも西洋銃の方が良いというていどの認識だった。

 連発銃などは高くて、藩財政に影響するから、安価な西洋銃で数の辻褄(つじつま)合わせをしてきた。
 海運業を興した龍馬は、あちらこちらで蒸気船を借りた、それら武器の運び屋だった。

 德川家は藩をつぶす政策は取っていない。あくまでも、『家』の存続か取り潰しなのだ。長州藩自体はつぶさない。
 毛利家が改易(お家取りつぶし)、転封(てんふう・他に移る)なっても、次なる長州藩の大名家にはおおかた岡山・池田、熊本・細川、阿波・蜂須賀などが大ものが転封してくるだけだ。仮に細川家ならば、龍馬はその家臣に武器を売り込めばよいのだ。

 龍馬が毛利家に忠義をつくす必要は何もない。相手が細川でも、蜂須賀でも、密貿易の鉄砲を買ってくれるならば、誰でもよい。
「儲かれば、どの家にでも武器を売買する。密輸で儲けさせてもらう」
 現代社会で拳銃を売買すれば、法律に違反する。德川時代もおなじルールがあった。
 この違法な行為をした龍馬は、正義でなく、まさに死の商人なのだ。あえて言えば、それが鳥羽伏見、戊辰戦争で、多くの日本人を殺傷した兵器となった。これは「戦争ごっこ」ではない。おなじ民族の大量の流血の大惨事となったのだ。


 第二次長州征伐には大きな後遺症があった。国内経済が急激に悪化し、物価高騰で、庶民の生活は圧迫された。となると、武器を持たない民衆だが、許しておけない。大反発のパワーが「ええじゃないか運動」となり、愛知から広島・尾道まで、男女を問わず一気に荒れ狂ってしまった。
 将軍家の徳川といえども、民衆に武力で鎮圧できない。為政者と民衆が血と血で戦うと、国家の破滅に及んでしまうからだ。


 徳川慶喜には外交能力はあるが、優秀な経済ブレーンがいなかった。結果として、「大政奉還」で、天皇家に政権を返上したのだ。だれも「徳川家」を倒していない。これは倒幕ではなかったのだ。
「薩長による倒幕」は、明治政府が自分たちに都合よく作った、歴史のわい曲だった。

 攘夷(外国人へのテロ)を叫ぶ下級藩士たちが、戊辰戦争を引き起こした。そして、東京に明治軍事政権をつくった。政治家となった、毛利家の下級藩士の山縣有朋が武力主義で、明治6(1873)年に「徴兵令」を発布した。


 国民に武器を持たせたのだ。明治22(1889)年には法律にまで昇格させた。それが第二次世界大戦まで77年間もつづいた。国家総動員令で、婦女子までも巻き込まれた。

 戦国時代まで、戦争は武士のしごとだった。
 農商は戦場へと荷運びを手伝わされても、戦いが始まれば、逃げてもよいのだ。流れ弾に当たらなければ、畑仕事をしていてもよい。その意味では、国民皆兵を導入した山縣有朋の罪は末代までも重い。
 一度飲んだ麻薬の味は忘れられないという。

 私たちの子孫が、外交の失敗で戦争にでもなれば、自衛隊の隊員数だけでは国が守れない、国民皆兵制が早急に必要だ、と政治家や軍人は言いだすに決っている。

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子どもの自転車競技会と安全教育=東京・葛飾

 葛飾区内は自転車による交通事故がとくに多い。2014年の交通事故の内、44.4%は自転車が関与している。


 警視庁葛飾警察署では、子供の自転車安全教育を目的とした、『セーフティ葛飾自転車競技会』が、5月17(日)朝9時から、平和橋教習所で行った。5月11日~同月20日まで「春の全国交通安全運動」の一環である。

 開会式の冒頭のあいさつで、同署交通課の阪下敏規課長代理は、
「葛飾区内は、自転車の通行量が多く、路地の出会いがしら事故が多発しています。自転車が関連した死亡事故の場合、8割が自転車側に違反があります。この大会を通して、交通マナーとルールを身につけてください」
 と、競技会による安全意識向上の趣旨について述べた。

 同教習所の佐藤光治所長が、「二人乗り自転車事故は、後の方が死ぬケースが多いのです。正しい自転車の乗り方を学びましょう」と前置きし、競技方法と採点について説明を行った。
 9時10分から学科テストが行われた。そして、「自転車競技」が開始された。参加者は約30人である。

 種目はS字、スクローム、30センチ幅の平均台、一度停止の確認、駐車する車両の側面の通過である。

 学科テストと競技大会の総合点から、「高学年の部」の優勝は宮内陽菜(はるな)さん、準優勝は渡辺優奈さん、ともに女子だった。

 競技大会が終了した後、「かつしかPPクラブ」は阪下課長代理と佐藤所長にインタビューを行った。

「自転車の危険な乗り方が目立ちます。法令改正で、本年6月1日より、自転車でも信号無視などの危険行為をして、3年以内に2回以上摘発されれば、講習会が義務付けられました。(5700円)。飲酒運転も禁止です」と阪下課長代理から14類型の危険行為について説明があった。

「赤信号で子どもが止まっているのに、親が渡ってしまう。安全教育は親の意識改革も必要です」と佐藤所長は強調された。

 同日11時からは「一日開放」が開催された。パトカー、白バイの展示および撮影会などが行われた。

 子どもたちはバスの運転手になったり、パトカーに乗せてもらったり、白バイにまたがったり、同署員の指導の下で、楽しい時間を過ごしながら、安全教育を学んでいた。

 同会場では、東京消防庁・本田消防署による、はしご車の体験も同時に行われた。

祝「山の日」記念全国大会の第1回・開催地が決定=長野県・上高地

 国民祝日「山の日」が衆参の国会を通過し、法案が可決したのが、昨年(2014)の5月28日だった。施行は2016年8月11日である。

 実施まで、約2年間において、国民が親しめる祝日として、全国「山の日」協議会(会長・谷垣禎一)を中心として、山岳団体、官公庁主催がこの祝日の意義をつたえるイベントを展開している。


 今年度(2015)は、東京・有楽町の国際フォーラムで、全国「山の日」フォーラムが開催された。2日間の総入場者数は約1万8000人で、盛況だった。特徴としては、最近は「山ガール』ブームであり、それを反映した若手登山愛好者の参加が目立った。

 全国「山の日」協議会の平成27年度総会が、5月23日から、衆議院議員第2会館の多目的会議室で、16時30分から開催された。
 今年度は、大分県・九重町で、プレ「山の日」記念、全国大会を開催することになった。

 衛藤征士郎(えとうせいしろう)さん(大分県選出・第64代衆議院副議長)とは、国会内の初映画試写会に招かれた縁である。プレイ「山の日」は伺いますよ、と言うと、ぜひ来てね、と握手された。


 2016年「山の日」記念全国大会の開催は、富士山か、上高地か、と意見が二分していた。5月28日の協議会の審議を通して、長野県・上高地に決まった。

 第1回の記念・全国大会に関する要望書が、阿部守一・長野県知事、菅谷昭・松本市長、上條敏昭・松本市上高地町会長から、同協議会に提出されていた。それが可決されたものだ。
 富士山となると、山梨、静岡、どちらが主体になるか。むずかしい調整があり、場合によると2県に分散した大会にならざるを得ない。それを避けた面がある。

 真夏の上高地は若者、家族連れ、槍穂への登山者が大勢集まる。全国に名高い。これらで、団体代表41人、個人13人(わたし穂高健一も個人会員)、合計54人による満場一致で決まった。

 私個人としては、来年8月11日の祝「山の日」にむけた、歴史山岳小説を取材・執筆している。その小説は槍ヶ岳登山、幕藩体制の下で安曇平と飛彈との間に、天保時代にできた「飛州新道」が背景のひとつである。
 
 主人公は、18歳の「湯屋」(旅宿)の知的な女性・岩岡志由である。豪農の4女の彼女が上高地の一軒家に入るのだ。幕藩体制(飛彈・信州)が、上高地の山奥にもつよく影響してくる。桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、幕府の圧力で飛騨新道は閉鎖される。志由は山を下りていく。江戸時代の上高地はここで一度歴史から消える。


 単に山の小説に閉じ込めず、天明天保は大飢饉に襲われた。一方で文化文政の華やかな旅ブームだった背景を織り込む。餓死する農民や農民一揆、栄華を極める豪商たち。当時の日本人の姿を克明に描いていく作品だ。

 務台(むたい)俊介代議士は長野県選出である。「上高地に決まって良かったですね」と声掛けすると、喜んでいた。小説取材先の紹介など、ご協力してもらっている。

 2016年「山の日」記念全国大会の開催が、長野県・上高地に決まった。私の作品もフォーラムの一環に間に合わせたい。その上で、可能ならば、超党派議員などのコンセンサスをとり、祝「山の日」記念出版に持ち込みたい考えである。

2015年度かつしか区民大学・区民記者養成講座が開講する。

 2015年度かつしか区民大学「写真と文章で伝える私の葛飾」の第1回が4月25日・同区内の青砥地区センターで開講した。
 副題は「歩く、撮る、書く、区民記者入門講座」である。講師は穂高健一、受講生は15人、主催は葛飾教育委員である。
第1回は、「取材した人の写真の上手な撮り方」である。

 事務局の秋本さん(同委員会・生涯学習課)にモデルになってもらい、受講生には撮り方の実践を行った。
 単に正面から、カメラ目線で撮るのではなく、両サイド、ハイアングル、ローアングル、背後から、と7カ所から撮影する。その技法を行う。受講生たちは、みんなして秋本さんの廻りを取り囲んだ。
 

 講座回数は5回である。曜日は第4土曜日の2時からである。課外活動(インタビューの実践・7月)は1回あり、午前から夕方までである。
 同講座の主目的は4つである。
 
① 報道写真が撮れる技術が学べる

② 記事が楽に上手く書ける方法が学べる

③ 聞いて、伝えてあげる。インタビュー技術が会得できる

④ 読んでもらえる記事・紙面が作れる

講座が終ると、アフターである。この講座がはじまったのが5年前で、毎年、恒例になっている。

 今年から、受講生は葛飾区内限定を外した。内尾さん(写真)は品川区在住で、国立科学博物館に勤務する、理学博士である。
「かつしかPPクラブ会長」の浦沢誠さんとはおなじ職場で、彼の推薦で入られた。彼女から話しを聞けば、広島大学から東工大・博士課程に進んでいる。私は広島県の島だが、彼女は広島市内出身だった。

 東立石在住の中川亮さん(ファイナンシャルプランナー)など、身近な住いの人もおり、講座の学べるスキルなどの質問が出るなど、会話が弾んだ。


 

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