ジャーナリスト

明治維新150年・「富国強兵」でなく『富国富民』の選択肢ならば……、歴史は変わっていた=中国新聞・岩崎誠論説副主幹

 中国新聞(本社・広島市)の2017年新年号・1月3日の「オピニオン」に、同社の岩崎誠論説副主幹による『大政奉還150年と近代日本』と題する記事が掲載された。
 テーマは『多様な歴史観から再検討を』という副題になっている。

 わたしたちは学校教育で、明治政府は「文明開化」、「明治からの近代化」、「富国強兵」とおそわってきた。どの教科書にも、それが3本柱となっている。国民はそう教え込まれてきたし、むしろ刷り込まれてきた。
 明治新政府の「富国強兵」は疑いようのない、正当な施策だと信じてきた。しかも、その強兵策は教育とともに太平洋戦争まで引き継がれ、あげくの果てには原爆投下におよんだ。

 悲しいかな、これは事実である。

 岩崎さんの同記事は、この維新150年を機会に、明治新政府の勝利者がつくった幕末・明治史観も、単に鵜呑みするだけでなく、みんなで検証してみようよ、と提案するものだ。
 そこには新しい発見もあるし、封印された新事実も出てくるだろうし、現代の人々が将来を見渡すときの基礎材料にもなるし、今後の政治のヒントもあるだろう。

 
 岩崎さんが、その趣旨で『二十歳の炎』の作者として、わたしに同行取材を申し込まれた。12月17日にいわき市に入り、20日まで、『芸藩誌』を片手に、ふたりして現地をみてまわった。

 それは単に戦い・戦場の確認にとどまらず、
「なぜ、戊辰戦争が起きたのか?」
「当事者の広島県民も、まして、福島県相馬市民までも、なぜ戊辰戦争・浜通りの戦いが知らていないのか。だれが歴史から消したのか」
「こと京都市の呼びかけで、『大政奉還150周年記念プロジェクト』が幕開けする。勝者も・敗者もなく、萩市、鹿児島市、会津若松市、阿部正弘ゆかりの福山市など21か所の時事団体が入っている。広島市はそれを袖にした」
 とジャーナリストと作家がまわりに影響されず、本音で事例検証して語り合った。


 京都市・佛教大学歯学部の青山忠正は、「薩長芸軍事同盟がむすばれた。これは歴史的事実である。それすら教科書にでてこない。3藩の圧力をもって大政奉還がなされた。(土佐はジャンケンの後出しと同じで、歴史に残った)。
 土佐のためにシナリオが狂ってしまった。薩長芸のシナリオ通りならば、また違う政府ができていただろう」
 と話されていた。
 紙面でも、青山教授は「明治からの近代化は、昭和10年代から、国家権力が跡付けし、流布したものだ」と紹介されている。

 実際には、ペリー提督が来航したとき、機関車、電信機、ミシン、あらゆる産業見本品を持ち込み、そこから近代化がはじまった。
 小栗上野介は横須賀に、大規模な製鉄所・造船所の一貫工場も手がけた。(製鉄所は昭和50年代まで、ドックは米国海軍・横須賀がいまもって使っている)。
 新橋⇔横浜間の蒸気機関車の発注は江戸幕府だった。(途中で、明治になり、外債の都合で米国から英国に鞍(くら)替えした)。
 どうみても、近代化は德川政権からだ。教科書では「近代化は明治から」と嘘をおしえている。

「明治時代の最初の発明は人力車なんですよね」という話題は、さすがに岩崎さんは記事にされていなかったけれど。 


 同記事は、穂高健一著「二十歳の炎」と、神機隊の藩士たちが中心となって編纂した「芸藩誌」との整合性についても、随所で紹介してくれている。

 私の意見の結論として、

 むろん歴史に「もし」は禁物だろう。穂高さんは「(広島藩の執政・家老級で、第一次、第二次長州征討において広島藩の非戦を貫いた)辻将曹(つじ しょうそう)のような、非戦論者が明治日本のイニシアチブを取っていたら、戦争を繰り返す軍事国家になっていたかどうか」と問いかける。
 
 富国強兵でなく『富国富民』の選択肢もあったはずであり、あるいは原爆投下も避けられたのではないか、と。大胆だが重い視点ではなかろうか。

 このように、岩崎誠論説副主幹が紹介してくれている。富国強兵でなく『富国富民』が、現代社会に広がり、流行語大賞にでもなれば、岩崎さんの正月号のオピニオンが、漸次、世の中の流れを変えていくだろう。


【関連情報】

穂高健一著「二十歳の炎」 

 出版社 : 日新報道
        03-3431-9561             

 定価 : 1600円+税

 販売先 : 全国書店(品切れの場合は、書店に取り寄せを依頼してください)、ネット販売

  ※ 左の「二十歳の炎」の写真の上で、クリックすれば、アマゾンに飛べます。

北朝鮮はことし2度の核実験。歴史から学べば、「経済封鎖は逆行なり」(上)

『歴史から学ぶ』
 それは現在の事象に対して、将来への予知、予測ができる洞察力を磨くことにもつながる。

 北朝鮮が今年度(2016)において2度も核実験を実施した。片や、ミサイル開発も進んでいる。この先、どうなるのか。評論家はメディアに出て、あれこれ言うが、推論ばかりで不透明だ。

 3年後、5年後、10年後の歴史学者や歴史作家、歴史マニアたちは、きっと
「北朝鮮は、2016年に2度も核実践を実施したのだから、当時の為政者は当然、こうなると予測できたはずだ」
 と見解を示すだろう。

 過去ならば、誰でもなんでも言える。

 ペリーが来航する1年前に、長崎のオランダ商館長から、アメリカ艦隊が来航すると、かなり具体的に予告されていた。ところが、老中首座の阿部正弘は、なんら手を打たなかったといい、ブログなどで、偉そうぶって批判する歴史通が多い。

 こうした人は教科書や作家のことばを真にうけて、それを既成事実とする。およそ独自の検証などないまま、歴史的批判をおこなう。当人は歴史好きでも、洞察力など養えない。


 阿部正弘は評定所に計り、幕閣ともども協議している。当時のオランダ情報はとかくガサ・ネタが多かった。鎖国の日本では、他国から裏付け情報が取れない。
「ペリー来航は本当か、うそか」
 もしもガサネタなのに、真にうけて厳重警戒すれば、現在のお金に換算しても、数十億円の出費がかかってくる。幕府には財力に余力がない。そこで、
 東京湾の入り口の浦賀周辺や、房総半島に、彦根藩と川越藩を張り付けるていどにとどめた。

 それをもって、阿部正弘には危機意識がなかった、という。歴史は後からならば、なんとでもいえる。

 自称・歴史通は、太平洋戦争の直前、アメリカは日本軍の無線を傍受して解析していたという。だから、パールハーバーの攻撃は、すべて筒抜けだった。それは事実だろうか。
 膨大な数の情報のなかに、事実が混ざっていても、的確に一つを事実認定できるのは至難の業だ。ましてや、司令長官がそれを迷いもなく作戦計画に落とし込むのは……。

 かりに、仮想敵国・日本の攻撃情報が特定できていたとすれば、自国民の兵士や家族に待避警告を発するだろう。隠しきれるものではない。
『一人が秘密を喋れば、7人に知れ渡る』
 
 真珠湾攻撃は筒抜けだった、と信じる方には、
「2016年に、北朝鮮が2度も核実験した」
 北朝鮮は〇年〇月〇日に、いずれの国にミサイル攻撃をしてくる、という予言者がでたら信じますか、ということばを返したい。

 世界中のどの国でもスパイ活動をやっている。アメリカからの情報、韓国、中国、北朝鮮の側近筋の情報、むろん日本の内閣府からも、核実験にたいする情報が入り乱れているはずだ。
 数十万、数百万の情報から、
『事実は一つ』
 その一つだけを取捨選択し、的確に言い当てられる人がいるだろうか。

 評論家の多くは、アメリカ、中国、ロシアなど軍事パワーバランスで今後の展開予測を語る。しかしながら、朝鮮の軍事歴史から、考察、洞察して語るひとが少ない。
「歴史から学ぶ」
 この王道の格言から、北朝鮮の今後を語っていくべきである。

                                       【つづく】

北朝鮮はことし2度の核実験。歴史から学べば、「経済封鎖は逆行なり」(下)

 150年前、朝鮮は興宣大院君((こうせんだいいんくん)の時代だった。日本と同様に、かたくなな鎖国政策をとっていた。1866年には、開国を強要するフランス軍が上陸し、侵攻してきた。朝鮮はそれに打ち勝った。フランスは大勢の犠牲者を出した。(日本が、長州征討の年)
 それから5年後の1871年には、アメリカが開国を要求し、力で侵攻してきた。朝鮮はそれも排撃した。当時の朝鮮は、ロシアに門戸を閉ざし、明治新政府となった日本からの、修好条約の要求を退けている。外国からの強要や威圧には、精神的にも強かった。

 かれらは朝鮮民族は優秀だ、世界最強の軍隊だという自負心をもった。そして、かれらは朝鮮全土に斥和碑を建てた。『侵略してくる洋夷と戦わなければ、結果はそれらと和することになる。和を主張するのは売国なり』と記す。

 その左側には、『わが子々孫々を戒めて、丙寅年(1866)年に創り、辛未年(1871)に建立するとする』と刻まれている。

 日清戦争後、朝鮮は日本の植民地にされてしまった。しかし、『和を主張するのは売国なり』と言い、太平洋戦争のさなか、金日成が独立への旗揚げした。かれらは旧日本軍とたたかった。

                    『写真 : 李朝時代の末期に活躍した興宣大院君』


 日本が敗戦で戦争が終結した。その後、朝鮮が南北に分断し、北朝鮮という国家が誕生した。朝鮮戦争においても、北朝鮮は最強のアメリカ軍を釜山まで追いつめていった。反撃に遭い、38度線で、和平に応じたのだ。

 朝鮮は内戦に強い歴史がある。TVなどで北朝鮮の国民が声高に、米帝国主義に打ち勝つ、というのも、そんな歴史的な背景があるからだ。

 日本の評論家や政治学者は、米国、中国、ロシアを中心としたパワーバランスで、北朝鮮の核武装を論じている。150年の近代史、現代史から、北朝鮮の軍隊的特徴があまり加味されていないのだ。


 いずこの軍隊も、突然変異的な軍事行動はまずしないものだ。民族的な特性や、過去の歴史的な特徴、そして現在の環境から軍事行動がきまってくる。

 朝鮮の特徴とはなにか。豊臣秀吉、旧日本軍とちがい、内戦は強いが、外国侵略をしないことだ。ここらは最も重要視するべき点だろう。


 イデオロギー面で、社会主義国家としてソ連は失敗した。中国もどちらかと言えば、もはや資本主義理論でまわっている。
 北朝鮮もこの先、経済的な資本主義に巻き込まれていくだろう。全体主義から個人主義へと静かな移行がはじまるはずだ。
 片や、狭い国土で、くり返される核実験は、国民に放射能被害をおよぼす。為政者が強行する核実験においても、ブレーキがかかってくるのは自明の理だ。


「攻撃は最大の防御だ」という日本人的な発想で、わが国が他国と共同歩調で北朝鮮に侵攻すれば、激しい戦争になるだろう。核兵器だって使ってくるだろう。

 朝鮮の150年の歴史をしっかり分析すれば、ミサイルを持ち、核を持った北朝鮮を「世界最強の軍隊の一つだ」とおだてておけば、満足する民族だ。

 アメリカが社会主義のキューバの核武装化に脅えた時代がある。ベトナム戦争で、北ベトナムの南下にも脅えた。それから半世紀たてば、和合しあえるのだ。
 中国と台湾がいまや手を取り合う時代だ。

 日本にはABCラインという経済封鎖で、太平洋戦争への突入になった苦い歴史がある。いま、北朝鮮の「核の使用」という過剰な恐怖におびえ、経済封鎖が声高になっているが、私たち負の歴史の経験からしても、それは逆効果になる。

 国連において制裁の決議でなく、経済面で、北朝鮮を世界市場へと導く、交易の門戸を大きく開くべきだ。ならば、世界中を駆け巡る北朝鮮のビジネスマンが大勢生まれる。社会主義からごく自然に資本主義に移行してくるだろう。

 個人にしろ、国家にしろ、制裁には報復がつきものだ。朝鮮はみずから軍事力で出てこない民族だけに、北朝鮮の軍事活動を国外へ呼びださないことだ。(旧日本軍のパールハーバーのように)。

 核の脅威を拭い去る最大の道は、北朝鮮の国民一人ひとりが、はやくに個人主義へと移行できる、加速させるように導くことだ。それが北朝鮮の核の拡大を根本から止めさせる道になる。歴史から導かれる最良の策だ。
 
 

                                            【了】

 

戦争が子どもらにどう影響するか = 世界報道写真展2016

 リニュアルした東京都写真美術館で、9月3日(土)から『世界報道写真展2016』が開催される。主催は世界報道写真財団(本部・オランダ)、朝日新聞社である。10月23日(日)まで。

 世界のプロ・ジャーナリストから約6000人、8万3000点を超える応募があり、その中から、大賞など選ばれた150点の入賞作品が紹介・展示されている。

 昨年(2015年度)は、難民がテーマになった。どうして、祖国から出たくなるのか。戦争が、どう子どもたちに悲惨な状況を醸し出しているか。

 報道記者たちは密着取材で、それを世に伝えている。

 今年の「スポットニュースの部」の大賞は、オーストラリアのウォーレン・リチードソンさんで、シリア難民の男性と子どもが、国境の有刺鉄線を越える瞬間を写し撮っている。

 警備隊に見つからないように、フラッシュなし、月明かりのもとで撮影されている。生死を分ける、強い緊張感が読み取れる。

 他にも、オランウータンの愛らしい子どもたちが展示されている。主催者の解説によれば、約10頭それぞれ母親がいない孤児です、と教えられる。とたんに、哀れになってくる。

 日本人カメラマンも、入賞している。チェルノブイリ原子力発電所事故の犠牲者を追う、組み写真である。

 主催者の世界報道写真財団によれば、世界中の100か所以上で、展示会をするという。

 こんかいは、大怪我の民兵クルド人がベッドに横たわり、医者の手当てを受けている写真が入賞している。ドクターの背後には、トルコが反社会運動主義者だと認定している人物のポスターが貼られている。


 トルコ関係者から、世界報道写真財団に、同国内の展示会では、その写真を外してほしい、と要請があった。
「私たちは、いかなる写真も外さない」
 と拒絶した。
 それで、トルコ国内の展示会はなくなったという。

 ジャーナリストたちは命をかけている。写真を通して、戦争の厳しさ、つらさを世に報じている。同財団は、政治圧力に決して屈しない、と強く打ち出したもの。その判断は高く評価し、賞賛したい。


【関連情報】

東京都写真美術館t
 
 観覧料は一般800円、学生600円、中高校生および65歳以上は400円である。

みごと東京都写真美術館のリニュアルオープン、『杉本博司 ロスト・ヒューマン』はおどろきだ

 東京都美術館が、約2年間の改装で、2016年9月3日から、リニュアルオープンする。同館は発足から21年目である。
『TOP MUSEUM』と名付けられた。9月1日、記者に公開された。荒木誠副館長がパワーポイントで、新たな施設を説明した。コンセプトは「また、訪ねたい、誰かに紹介したい」であり、美術館専用LED照明、可動式の展示壁です、と数々の特徴を説明した。

「TOPとはちょって恥ずかしいのですが」と同館事業企画課長の笠原美智子さんが、壇上で照れていた。「TOKYO PHOTO~、そういう意味か」と納得できた。そして、今後の展示スケジュールを発表した。


 内覧会の『杉本博司 ロスト・ヒューマン』では、まず杉本さんの説明から入った。杉本さんはニューヨークを拠点に活動されているアーティストである。

 サブタイトルが『今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない』で、33作品を展示しているという。文学的にも、解ったような、判らないような、すんなり頭に入ってきにくい。 
 

「真新しくなった美術館なのに、作品が古くて、ぶち壊しのようですが……」という前書きが、杉本さんの口から何度もでてきた。
 それすら、意味合いが分からず、記者からも突っ込んだ質問は出なかった。


 同館の3階展示場に入って納得した。

 展示壁が、古く錆びたトタン張りだ。

「リニュアルの第1回の展示が、古くて、ぶち壊しのようですが~」という意味も理解できたし、これを企画した東京都写真美術館の大胆さにも、おどろいた。

「同館の企画段階では、きっとリスクの問題も出ただろうな」

 その意外性からしても、先頭打者、初球を一発、場外ホームランを放ったようだ。

 


 トタン板ののぞき窓から、艶めかしい女体が見える。

 『今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれないけど、私は男に愛されるためだけに生まれてきました。中略、~老人が、私を最後に愛してくれた人でした。でも、ごめんなさい。私は不妊症。そして、この世に、人は生まれなくなったのです』

 1枚のわら半紙に手書きされた内容は、33作品とも読ませる。そうか、こうして人類が消えた、と杉本さんは展開しているのだ、と観る側を納得させる。

 


『文明が終わる33のシナリオを自身の作品や蒐集した古美術、化石、書籍、歴史的な資料などから構成しました』と杉本さんは語る。

『(この展示会をみれば)、私たちが作り上げてきた文明や認識、現代社会を再考せざるを得なくなるでしょう」と語る。

 
『地球の歴史からみれば、人間なんて、氷河期の後のわずかな時間に存在していた生き物ですよ』
 という言葉が強く印象に残ったし、展示会を見れば、十二分に説得力があった。


  文学にでも求められる、人間とは何か、文明とは何か、社会とは何か、歴史とは何か、永遠のテーマが33さんのシナリオを通して、ものの見事に表現されている。

 底流には、過剰人口と、人間の起こす戦争という内在されたふたつのテーマがよみとれた。


 これら33点は、私が過去に観た数々の展示会場で最も感動したものだった。老若男女を問わず、いちどは観ておかれるとよい。


 2階では、「廃墟劇場」 が展示されている。京都の「三十三間堂」の千手観音を幻想的な空間として表現している。

「平安時代の乱世の末法を現代に再現してみました。三十三、という数字、日本人は奇数が好きです。それはワビ、寂に通じています」
 杉本さんじしんは、その奇数にこだわると協調していた。


 私も、小説の作品タイトルには、かならず1、3、5、7文字の奇数をつかう。そこらは共通点を感じさせられた。

天草下島の見聞の旅=景観と歴史

  天草にきたな、という実感がわきます。

  河浦の地には、コレジョ(大神学校)が開講されました。(1591-1597年)

  


 案内者の坂本龍爾さんが、崎津教会に案内してくれました。


 天草の民家の造りを見れば、豊かなところだとわかります


 開放感に満ちた光景が、旅の心をのどかにさせてくれます。

 陶芸工場に立ち寄ると、江戸時代の大変珍しい、陶器を利用した藩札をみせてくれました。


 
 世界平和大使の人形の館です。

 57か国・117体のお国柄の人形は、見応えがあります。民族衣装にはウットリさせられます。



 水産高校の練習船が停泊していました。船長にモデルになってもらいました。



 

  富岡港に停泊する水産高校の練習船です


 グーデンベルグ印刷機です。

 日本初の金属活字による印刷が行われました。

  



 「天草市立天草キリシタン館」を訪ねました。

 天草四郎の陣中旗などが展示されています。なぜ、天草・島原の乱がおきたのか。それが理解できます。

 夏休みの子どもの学習には最適です。


 天草沖合に出れば、イルカの群れがみえるそうです。

国民の祝日「山の日」の意義を知ろう=山の恩恵と日本人

 世界で初めての、ナショナルホリデー「山の日」の成立過程から、意義、そして日本人が山を愛でる心まで、インターネット 超人大陸で、衆議院議員 務台俊介さんがとても、わかりやすく説明されています。

 タイトルは『2016年8月11日「山の日」 国民の祝日がスタート それは地方を 元気にしていくこと」衆議院議員 務台俊介氏』


 山の恩恵の歴史的・文化的な意義が、『燃える山脈』によっても描かれていますと、務台さんは作品の骨子とテーマにも、簡素にして明瞭にうまく紹介されています。

 拙著『燃える山脈』の本に関心がある人、祝「山の日」の意義を知りたい人、外国人が山を敬虔な存在としてみる日本人をどう見ているか、ことしの8月11日に開催される「第一回全国大会・上高地」がどんな祝典が計画されているか。皇室の方々は参加されるのかしら……、

 それらも知りたい人は一度は見てほしい、You Tubuです。


【関連情報】

① インターネット 超人大陸ここを左クリックしてください。

②山岳歴史小説「燃える山脈」は、各書店、ネット販売でも、品切れ続出です。山と溪谷社は増版の印刷に入っています。6/16頃までお待ちください。

小さな駅で見つけた「鉄のアート職人」=鈴木格子さん

 見知らぬ土地に旅する。おもわぬ発見があるものだ。
 浜名湖・天竜川のあたりを走る天浜線・一両編成に乗っていた。旧国鉄の二俣線のままの駅舎でとても古風で、文化財だった。旅の情感は存分に味わえる。
「ブリキに興味がありますか」
 中年男性から話しかけられた。地元のカメラ愛好家らしい。

「めずらしいものがあれば、どこでも」
 教えられた駅名は、いちどで憶えられない発音だった。遠江一宮駅(とおとうみいちのみやえき)だという。
 

 駅校内の蕎麦は名物だとも情報を入れてくれた。昼食時間に近かったが、蕎麦屋は店休だった。限りなく無人の乗降客だから、商売にはならないのだろうか。あるいは火曜日休みなのか。いすれにしても、昼食にはありつけそうもない。


「遠州の小京都」という巨きな看板があった。駅前にあると聞いたブリキらしい造形品は、見当たらない。あっちこっち歩いてみるがどこにもない。駅まで帰ってきた。
 鉄工所があったので、溶接をする職人の方に聞いてみた。
「ブリキなんてないな」
「そうですか」
 ここまできて、空振りか。天竜川の最寄駅で降りればよかったな。なおもぶらぶら探していた。昼休みになり、職人が工場から出てきた。
「鉄じゃないの」
 職人が声をかけてくれた。
「たぶん」
「だったら、この鉄工所の奥さんが鉄細工をしているよ」
 鉄とブリキはたしかにちがう。

 いきなり大蛇を見せてくれた。気色が悪いな。くにゃくにゃ曲がるし……。
「テレビを観て来たの?」
 大蛇を抱える奥さんが訊いてきた。
「いいえ。放映していたんですか」
「きのう、ボクサー出身のタレント・内藤さんがTVクルーと一緒にふいに来たのよ。事前に連絡がなくて、突然はめずらしいわよ。ほとんど突然のふりして、事前に打ち合わせには来るからね」

 ボクサーの内藤元選手なら、おなじ葛飾・立石の宮田ジム出身。きのうと今日の違い。そんな話題など別段関係ないので、話題にせず、彼女の作品を見せてもらった。
 現物は手元から離れているので、写真集だった。
 ぜいたくな庭園におしゃれな鉄製のテーブル、椅子などはとても高級感に満ちていた。作品全体からすると、葉っぱの形が好きなようだ。そのうちに、名前が、鈴木格子さんとわかってきた。
 さらには個展を開くなど、職人ではなく、本格的な鉄アート芸術家だと判明した。

 公園の動物ベンチも下地が鉄製だったり、神社に牛二頭が奉納されたり、ユニークなものが多い。著名な紙細工作家とコラボで行燈・スタンドなどもつくる。池坊大学(京都)から花瓶の筒が鉄製だった。その一つの実物があったので、持ち上げさせてもらうと、見た目よりも、はるかに重いが安定している。
 
「鉄を曲げるのは火力ですか」
「手作りのベンダーですよ」
  生まれつき手が器用なのだと、感心させられた。 、
「鉄は錆びますが、処理方法はどうしていますか」
「さび止め塗装は、5回くらいしています。色違いにして、何回塗ったか、わかりやすくしています」

 棚に置いた鉄製の小物は形よく上品だった。これらを見ながら、なおも質問した。
「製品の完成した達成感と、企画から制作のプロセスとどちらが好きですか」
「プロセスですね」
「ぼくも、作品ができるまで、何度も推敲するけれど、いったん手放すと、自作は見たくないし、送られてきても、読まないですよ」
 打ち解けてきたので、この段に及んで作家だと明かした。

「小説家と話しするのは初めてです。訪ねてこられたのも、初めて」
 メディアの対応慣てしているはずの鈴木さんだが、ずいぶん驚かれてしまった。話しの流れから、私が出身地が広島だというと、
「あら、私が生まれたのは、尾道の奥の御調郡ですよ。父はダム関係で、全国の転勤族でした」
「エリート官僚ですね」
 そんな話から、こちらの話題になってしまった。

 彼女は鉄ばかりか、竹細工も、木工もやられる。さまざまの物にたいする好奇心が強い人だった。
「想像力と好奇心は一体だな」
 そんな共通の想いだった。
 

巨大だな、大胆だな、おどろきの墨ト會書展=轡田隆史

 日本ペンクラブで親しい轡田隆史(くつわだたかし)さんから、書道展の案内状をもらった。2015年11月5日から3日間にわたり、千代田区・ポーラ銀座で開催される「墨ト會書展」だった。

『文字も、わたしたちニンゲンも、自然のいちぶです。漢字やひらがなたちといっしょに、わたしどもは天と地のあいだで楽しく遊んでいます』 と明記されていた。さらに、
『高野早苗さんをかこむ、ささやかな会です』
 とつづいていた。

 この日から、私は東京を離れるので、同日11時の開催時間に出むいた。記帳は一番だった。「えっ、字が下手なのに。書道展でトップに書くの」と躊躇(ちゅうちょ)したけれど、しかたないや、と乱筆そのもので記入した。

 轡田さんの作品をみて、おどろいた。江戸時代に、江戸の大火の犯人で、火あぶりの刑になった「八百屋お七」の戒名だった。『花月妙艶信女 』

 戒名を堂々と筆に書き、さらには堀口大学の「八百屋お七」の詩をつけている。すごい着想のジャーナリスト・文筆家だな、と感心するばかりだった。

  八百屋お七が火をつけた
  お小姓吉三にあいたさに
  われとわが家に火をつけた
  それは大事な気持ちです
  わすれてならない気持ちです

 さらには書と並んで、誕生寺の写真が3枚あった。轡田さんが撮影してきたものだという。
「15歳ではりつけ、火あぶりの刑のお七は大罪人であり、江戸で墓を建てられなかった。墓も位牌もないのは不憫だと言い、両親が何らかの縁で、岡山県津山に近い誕生寺に、戒名と位牌をたのんだ」
 法然の生誕地である。こうした点も教えてくれた。
「当時の住職が、死刑の少女の戒名を与え、位牌を置かせたのです」と轡田さんが説明する。
 
 後の世に、振袖お七が人気となり、展示された振袖が切り取られて持ち去られたことから、今ではぼろぼろになっている、と説明を受けた。

 轡田さんは、早稲田大学のサッカー選手として活躍し、朝日新聞社社会部次長、編集委員、8年間に渡り夕刊1面コラム「素粒子」を執筆した。読売新聞のナベツネが「朝日の素粒子だけは読まない」と言わしめたジャーナリストだ。
 その後、テレビ朝日系の『ニュースステーション』で、久米宏とのコメンテーターを務めた。夜桜などの中継で、記憶にある人も多い。

大看板の球団の制裁に甘く、選手に厳しい処分だ=佐々木信也

 75歳まで野球解説されていた佐々木信也さんは、82歳の現在でも、駅の階段を2段ずつあがる、という。実に健康人間だ。佐々木さんの「成功する監督のリーダーシップ」の講演が、11月13日に千代田区の海事センターで行われた。昼の弁当を食べながら、お話を聞く趣向だった。主催者はNOW観光情報協会で、同理事の近藤節夫さん(日本ペンクラブ)から声掛けされて参加したたものだ。

 

 50年間も電波に乗っていた佐々木さんの声は溌剌としていた。 

 幼いころ「病的といえるほど、無口でした」と佐々木さんは語る。小学校の同級生どうしでも、彼はろくに話せなかったと、回顧する。
 82歳でも流暢に講演する様子から、とても信じがたいものだった。野球界に入ったあと、落語家との交流から、会話ができるようになったと語る。
 
 前段の話から、人生最大の想い出から入った。かれは神奈川県の湘南高校(県内有数の進学校)の在学中(1年生)に、甲子園出場した。かれのバンド決勝スクイズが決まり、甲子園出場が決まった瞬間は、いつまでも忘れられないという。

 かれは1年生で強打者でもないし、7番ライトで甲子園に出場した。好打の連続で優勝ヒーローになった。夏休みが終わり2学期に入った初日は、学校にいけば、一躍ヒーローになっていたのでおどろいたという。
 その後、慶應大学~プロ野球「高橋ユニオン」(現・千葉ロッテマリーンズ)に入った。二塁手とした活躍した。新人ながら154試合に全イニング出場した。154試合出場はシーズン試合出場の日本タイ記録。26歳(1960年)のときに、西本幸雄との確執から退団している。

 放送局に誘われて野球解説の道に入った。話し方もうまくないし、「先天的な無口な、お前が解説するなんて、無理だ。止めておきなさい」と言われたほどだった。

 26歳の解説者の佐々木さんに対して、先輩の解説者から、「足で解説しなさい」と言われた。だれよりも早くに球場に行って、隅々を見てまわると、何かしら話のネタがあった、と教示的に話す。

 ある選手が球場に入る前、深々と最敬礼する。その姿に感動した佐々木さんは、それをマイクの前で語るチャンスを待っていた。後日、その選手が良いところでヒットを打った。「球場自体に感謝の念をわすれない、素晴らしい選手だ」と紹介すると、多くの人から、その選手のもとに賞賛の声がとどいたという。
 

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