A010-ジャーナリスト

私たちの歴史は平和として描かれるのか(下)=平和は瀬戸物なり

 幕末を大名家でなく、「藩」単位で見ていると、司馬遼太郎史観など、薩摩とか、長州とかの「藩」の見方がまかり通る。

 戦場で戦う者は武士であって、農商工の領民は無関係である。為政者の大名家が勝とうが負けようが、年貢が変わらなければ、生活は変わらないのだ。大名家どうしの戦い。この認識は重要だ。民を巻き込んだ戦いは明治の徴兵制からだ。

 龍馬を描く小説は決まって薩摩藩とか長州藩とかになる。「德川家」と「毛利家」の戦いにしない。「そうせい公」と毛利家は隅にやっている。そうでないと、巨大な大名で強い権力を持った毛利家の前で、脱藩浪人の龍馬が貧弱に見えるからだ。


 当時、長崎・グラバーという武器ブローカーが南北戦争で余った兵器を密輸入していた。各藩の武具奉行たちは、武器の買い付けに長崎にでむく。グラバーはおおむね安価で古い銃を売りつけていた。地方の大名家の家臣は火縄銃よりも西洋銃の方が良いというていどの認識だった。

 連発銃などは高くて、藩財政に影響するから、安価な西洋銃で数の辻褄(つじつま)合わせをしてきた。
 海運業を興した龍馬は、あちらこちらで蒸気船を借りた、それら武器の運び屋だった。

 德川家は藩をつぶす政策は取っていない。あくまでも、『家』の存続か取り潰しなのだ。長州藩自体はつぶさない。
 毛利家が改易(お家取りつぶし)、転封(てんふう・他に移る)なっても、次なる長州藩の大名家にはおおかた岡山・池田、熊本・細川、阿波・蜂須賀などが大ものが転封してくるだけだ。仮に細川家ならば、龍馬はその家臣に武器を売り込めばよいのだ。

 龍馬が毛利家に忠義をつくす必要は何もない。相手が細川でも、蜂須賀でも、密貿易の鉄砲を買ってくれるならば、誰でもよい。
「儲かれば、どの家にでも武器を売買する。密輸で儲けさせてもらう」
 現代社会で拳銃を売買すれば、法律に違反する。德川時代もおなじルールがあった。
 この違法な行為をした龍馬は、正義でなく、まさに死の商人なのだ。あえて言えば、それが鳥羽伏見、戊辰戦争で、多くの日本人を殺傷した兵器となった。これは「戦争ごっこ」ではない。おなじ民族の大量の流血の大惨事となったのだ。


 第二次長州征伐には大きな後遺症があった。国内経済が急激に悪化し、物価高騰で、庶民の生活は圧迫された。となると、武器を持たない民衆だが、許しておけない。大反発のパワーが「ええじゃないか運動」となり、愛知から広島・尾道まで、男女を問わず一気に荒れ狂ってしまった。
 将軍家の徳川といえども、民衆に武力で鎮圧できない。為政者と民衆が血と血で戦うと、国家の破滅に及んでしまうからだ。


 徳川慶喜には外交能力はあるが、優秀な経済ブレーンがいなかった。結果として、「大政奉還」で、天皇家に政権を返上したのだ。だれも「徳川家」を倒していない。これは倒幕ではなかったのだ。
「薩長による倒幕」は、明治政府が自分たちに都合よく作った、歴史のわい曲だった。

 攘夷(外国人へのテロ)を叫ぶ下級藩士たちが、戊辰戦争を引き起こした。そして、東京に明治軍事政権をつくった。政治家となった、毛利家の下級藩士の山縣有朋が武力主義で、明治6(1873)年に「徴兵令」を発布した。


 国民に武器を持たせたのだ。明治22(1889)年には法律にまで昇格させた。それが第二次世界大戦まで77年間もつづいた。国家総動員令で、婦女子までも巻き込まれた。

 戦国時代まで、戦争は武士のしごとだった。
 農商は戦場へと荷運びを手伝わされても、戦いが始まれば、逃げてもよいのだ。流れ弾に当たらなければ、畑仕事をしていてもよい。その意味では、国民皆兵を導入した山縣有朋の罪は末代までも重い。
 一度飲んだ麻薬の味は忘れられないという。

 私たちの子孫が、外交の失敗で戦争にでもなれば、自衛隊の隊員数だけでは国が守れない、国民皆兵制が早急に必要だ、と政治家や軍人は言いだすに決っている。

 もしも、数年後に戦争など引き起こせば、第二次世界大戦後の日本は平和だった、と歴史家はだれも書かないだろう。平和主義はすぐさま1945年にさかのぼって霧消してしまう。

『平和』は瀬戸物と同じで一発の銃(鉄槌)で粉々に崩れてしまう。
 徴兵制は平和を壊した銃だった。遡れば、たった70年まえまで生きていた法律だ。

 自衛隊は軍隊で、いまや世界でも最大級の軍事力を持っている。これを認めてきた日本人にとって、
『戦争は起こさせない』
 それしか徴兵制を防ぐ道はないのだ。
 徴兵制が生まれると、それは一発の銃声から戦争へと加速していく。平和は瀬戸物と同じ。大切に持ち運ばないと、どんな1000年前の名器でも、落とせば、瞬時に粉々になる。

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