A010-ジャーナリスト

陸前高田における昭和の厳しい食事情を語る=大和田幸男さん

 3.11大災害で、食が欠乏した、あるいは食に飢えたともいえる体験をしました。
 これは私たちだけでなく、陸前高田の昭和史を紐解いてみると、昭和初期からチリ地震津波(昭和33年)被害が落ち着くまで、慢性的に貧困だった、厳しい食生活だったのです。

 【撮影:大和田秀雄さん(作者の父) チリ地震津波が襲来した当日の午後】


・ 昭和8年から昭和10年にかけて「日本史上の最後の飢饉」が発生しました。

 それは「昭和東北大飢饉」です。日照りや干ばつではなく、日照不足と聞いています…。昭和8年の三陸大津波と重なり合っています。まさに飢餓の生活に陥ったのです。

 私がこの飢饉の事実を知ったのは、恥ずかしながら、3.11大震災の数年前です。 それも、奇異なことからです。

 広田町、小友町、米崎町を結ぶ「アップルロード」が、大津波の前年、2010年春に開通しました。この道路を建設中(土地買収中)に 、「無限会社○○の再開と解散について」

 そんな内容の怪文書まがいのチラシが、我が家のポストに入っていました。最寄りの公民館にお集まり下さい、と記載されていました。訳が分からず、会合に出席すると、次のような内容でした。

『昭和8年、高田は飢饉であった』
『そのうえ津波もあり、村人には食糧や物資を購入する金もなかった。村の有力者が、自分の資産を担保にして、村民の借入資金に充てた』
『その担保の共有地(無限会社)が、「アップルロード」の建設予定地に存在している。地権者の同意なく、勝手に使用して道路建設は出来ない。しかし、権利者の皆は他界している』
『法律上、この会の子孫(20名位だったと思う)が集まり、無限会社をふたたび甦らせる。そして、土地を市に譲渡したうえで、あらためて解散する』
 そんなニュアンスでした。


 参加した古老を含め、だれもが初めて聞く団体(無限会社)でした。飢饉に遭った村民は、生死を左右する必要にせまられたから、できた重要な団体だったことが推測されます。


 昭和4年・ウォール街からの世界恐慌で、昭和5年・日本の昭和恐慌に及びました。
 東北では、昭和6年の冷害で農村は疲弊した。昭和8年の大地震および津波で漁村も疲弊した。昭和9年にはまた凶作だった。


昭和初期の陸前高田の住民は、空腹との戦いだったはずです。昭和9年頃、岩手県の小学5年生のある女子児童が書いた作文を紹介します。

『お弁当のとき先生は、私たちのお弁当をまわって見られました。私たちははずかしいのでかくしました。すると先生は稗(ひえ)のごはんでも食べられるうちはいいのです。お米がさっぱりとれないから、と申されました。
 お米がとれないから稗は私たちのいちばんの食物だと思います。 でも今では、弁当を見られてもはずかしくなくなりました。(中略)二、三日前、お父さんは、なんぼお米がとれなくても、 お前たちには食べさすから、いつものように勉強するんだぞと、ご飯のときに話されました。』


 ひどい時期、岩手では松の木の皮まで食していたらしいです。その後、太平洋戦争が勃発したわけですが、私のオヤジはちょうど仙台の薬科大学の学生でした。

 オヤジ(秀雄さん)から、よく聞かされました。
 皆で学生時代に歌ったのは『都の西北』から始まる
『早稲田〜♪ワセダ〜♪ワセダ・ワセダ・ワセダ〜』の校歌をもじった
『やせた〜♪かれた〜やせた〜かれた〜日干しだ〜』だった、と。
 あげくのはてには、仲間の学生が酒がわりに薬科大学のアルコールを盗んで呑んだが、それはメチルアルコールで失明してしまった。

 

 戦時中、全国的な食物不足だった。高田も例外ではなかった。戦後はどうでしょう? あるエピソードがあります。

 1997年に、私は某団体の記念事業の実行委員長になりました。委員仲間が何かの拍子から、戦後の貧しかった頃の陸前高田の話に及びました。
「俺たちみんな貧乏で、弁当持ってくる奴は半分くらいだったよ。それも弁当たって、硬い餅が2個くらいでね。今だったら、弁当の無い子供の前で、他の子が食べたら、『かわいそうー!!』とか言いそう。だけど、当時はそんな感情なかったよ。』

 昭和22年生まれの委員が、幼い頃の高田の食糧不足の状況を語ってくれました。米が余った。そんなニュースを聞いたのは、私が高校生になってからです。


 高田の昭和史ですがまさに飢えとの戦いだったと思います。3.11の被災者となった日々を想うと、住民の食の歴史が無縁でなくなります。

 話は昭和史から時代を遡りますが、米崎町と高田町の境界に「万人供養」という巨大な供養石碑があります。「万人供養」はそこの地名にもなりました。昔からその名のバス停もあり、地元民は略して「マンニンク」と呼称しています。

 天保年間(1830~1844年)の大飢饉時に、当時の米崎町の豪農・新沼三太夫が、飢餓で苦しむ多くの村民・旅人に自らの米蔵を開けて食料を与えました。
 その数は1万人を超えたとされています。彼の人徳をたたえ、それでも大量の餓死者が出たので、それを供養するための石碑なのです。

 飢饉がおき、山や畑に全く食物が無くなると、人々は海が近いこともあって豊富な魚と海産物を獲りに浜に来ました。
 漁獲は暗闇の早朝から出かけますが、当時は自動車も懐中電灯も無かった。必然的に利便の良い浜辺に家を建てはじめたのです。


 そのうち40~50年周期で襲来したであろう巨大津波が村を襲う。
 岩手の最南端の海辺の町は飢饉のたびに過去を忘れ、海の傍に家を建ててはまた津波を被る歴史の繰り返しだったのです。


 日本の食料自給率は昭和40年度には73%だったが、平成25年度には39%まで落ち込んでいるようです。
 南海トラフ地震や火山の爆発など何らかの要因が引き起こす極度な食糧不足を予見した時、陸前高田のみならず備えるべきは何かを歴史が教えてくれます。


                                   写真提供・文 大和田幸男さん
        

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