A010-ジャーナリスト

希望・中学生のカキ養殖体験・収穫(中)=陸前高田市

 陸前高田市の3校合同・中学生カキ養殖体験の第1陣が帰ってきた。

 さあ、水揚げだぞ。

 カキは思いのほか重い。一つ当たりのカキ殻の自重はあるし、そのうえ海水がついている。


 中学3年生たちはカキ・カゴを次つぎに漁船から岸へと揚げていく。

 報道陣はここぞとばかりに、ビジオやカメラにおさめる。

 夕方には放映されるし、翌朝の新聞には競って載る。中学生のカキ収穫は、被災地では数少ない、明るい話題だ。明日への希望になる。

 第2陣が沖合のイカダへと向かう。

 この漁港には2隻のカキ漁船しか残らなかった。3校の生徒全員を一度に運べず、イカダまで折り返す。

 陸上では先生たちが手を振って見送る。カキ作業場の、漁師「浜の女」たちもいた。

 PTA(親)がいない。それが東京など大都会と違うところか。

 親が津波で流されて亡くなった生徒もいるけれど。

 漁船は岸を離れると、スピードを上げていく。

 生徒たちをみていると、真剣な表情で沖合を眺めているもの、船酔いを怖れて下向きの生徒など、さまざまだった。

 女子ばかりを乗せた、カキ漁船とすれ違う。

 第1陣の2番手のカキ漁船だった。

 カキ・ロープを引き揚げる作業に入っていく。

 熊手に似たフックには、7つのカギ先がある。そこにカキ・ロープ一本ずつを引っかける。
 そして、イカダから海中に吊すロープを引き揚げるのだ。

 中学生たちのローブは、カキ10個/1本ロープあたりだから、最大限70個のカキが一度に引き揚げられることになる。

 


 イカダのうえで、生徒にずいぶん気配りしている人物は教師かと思っていた。若手の漁師だった。

 米崎漁港には、20代、30代の跡取り漁師がいる。だから、震災後の復興への道を歩めているのだ。

 

 熊手型のフックに引っかけられた、7本のロープが引き揚げられてくる。

 生徒は感無量だろう。

 感激よりも、まずはボクのローブは? 私のロープはいつ揚がってくるのかしら?

 そちらの期待の方が強いかもしれない。


 生徒たちがイカダから漁船にもどってくる。

 海に落ちたら死ぬぞ。そう漁師から言われているだけに、へっぴり腰だった。

 仕方ないことだ。


 船上には収穫されたカキがいちだんと増えてくる。

 教師が、教育カリキュラムの一環だから、カキの諸々の特性を語っていた。、

 「どうでした? カキの体験学習は」

 女性ジャーナリストから質問を受ける、男子生徒はまじめな顔で、しっかりした口調で応えていた。


 この丸籠の中に入っているカキは、ローブにつるされていない。なぜか。

 3・11大津波で、広田湾のカキ養殖イカダはことごとく破壊されてしまった。杉丸太もカキロープもバラバラで、ガレキとなった。

 海岸から多少なりとも拾い集めた稚貝・カキがあった。それを丸籠に入れて、養殖してきたものだ。

 この海域ではカゴの漁法がない。

 それだけに、丸カゴから、震災の深い傷跡が読み取れた。


 第2陣は収穫を終えて帰路につく。漁船の船側から高い波しぶきを被っても、男子生徒たちはやたら明るい。むしろ、波自体と楽しんでいるようだ。

 彼らの笑顔が高田の希望だろうな、と思えた。



 米崎の岬が見える。変哲ない景色に思える。私が小説3・11『海は憎まず』(2013年3月末日刊行予定)の舞台にした、1か所である。

 ストーリーのなかで、「16.4mの津波だった」という漁師の話から、津波の高さを検証していく、場面である。

 海辺に家がないのは、家屋がすべて流されたからである。

 朝と昼との、狭間の太陽が真冬の海を照らす。

 生徒たちは寒さなど口にしないで、元気に上陸してきた。


 水揚げされたカキはこれから作業所に運ばれていく。二人一組でカゴを運ぶ中学生たち。

 

 先生方も、漁船からカキ作業場へと運んでいく。


 生徒たちから目を外し、真横の防波堤をみた。震災前は、この4.5mの巨大堤防は津波に対して絶対大丈夫だといれてきた。

 しかし、巨大な堤防がかんたんに倒壊した。そのときの爪痕のままだった。

 これら設計に関与した人物はいまどうしているのかな、名乗り出ないだろうな、と思った。

 震災復興が遅れている。まる2年にして、米崎漁港の波止場の作業がはじまっていた。

 どんな工事だろうか。

 のぞきに行ってみた。

 岸壁づくりだった。

 復旧と、復興は違う。それが官庁の考え方だ。「復興」は明確な計画がなされていないと、認可されない。

 「復旧」は元通りにすること。予算をつけるときには、プラスアルファー(+)の工事は一切認めない。
 だから、元通りにしても、次なる大津波対策にはならない。

 

 3・11から2年経っても、真冬でも、ボランティアで通ってくる人はいる。まさしく鍛えられた本物の精神力だ。

 震災直後は、震災報道を見て「気の毒」「可哀そう」という気持ちで、ボランティアにやってきた、大勢のひとは2-3回の現地入りで終わっているようだ。

 被災地では、それはそれでずいぶん役立ったと言う。 


 前回みたボランティアはイカダづくりの活動だった。こんかいは皆が土運びをしていた。

 首都圏から来た人たちだった。

 
 

 女性たちはきっとふだんオフィス・ワークで、こうした肉体労働はしていない、と思えた。

 顎があがり加減だったから。

 だけど、みんな懸命に取り組んでいた。 

 ここ2年間は何度も、何度も、来ているのだろうな。  【つづく】
 

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