A010-ジャーナリスト

戊辰戦争の「浜通りの戦い」を歩く①=いわき市末次

 歴史は後世のものが勝手に作ったり、推測で書かれたものがまかり通ったりする。戦いの悲劇が美化されたり、若くして死ぬと英雄視されたりする。ここらは用心してかからないと、誤った史観に陥ってしまう。
 歴史小説が史実だと勘違いしているケースも、これまた多い。最も顕著なのが、司馬遼太郎の坂本龍馬である。どこまでもフィクション小説である。『船中八策』は幕末、明治、大正半ばまで史料にも、文献にも一行もない。
 大正時代の終わりに、土佐の文人が「新政府綱領八策』(国立国会図書館・長府博物館に本ものがある)を下地にして面白おかしく『船中八策』を創作した。司馬遼太郎がフィクション小説・龍馬がらみで作品の中核においたから、大半の人がそれを史実とみなしている。『船中八策』の現物などまったくあり得ないのに。

 会津落城(開城)などは、ご当地の作家や関係者が故意に美化し、薩長敵対とか、悲劇とかを作り上げている面もある。それに乗っかり、市全体が観光に利用している傾向すらある。(戦時中は、軍部から特攻精神に利用された)。その意味からしても、福島・戊申戦争関連は用心してかからないと危ないな、という警戒心が私にはある。

 現地に問い合わせても、こちらの資料には芸州藩がきたという事実は見当たりませんね、という回答すらあった。つまり、浜通りの戦いすら、薩長が誇張されているのだ。

 それを前提に、1月14日から3日間ほど、戊辰戦争「浜通りの戦い」の取材に出向いた。初日はいわき市・末次という集落だった。初日の14日は大雪だった。「50年ぶりじゃないかな。いわきで1月に、こんな大雪が降ったのは」と地場のひとがいうほど、時間とともにかなり積もってきた。

 この末次の寺にも、芸州(広島)藩の兵士たちが眠る。

 芸州藩は浜通りの戦いで、最も死傷者を出したのに、戊辰戦争後には「薩長土芸」が「薩長土肥」に変り、芸州藩が歴史から消えてしまった。なぜか。
 広島に出向いて幕末史を調べると、決まって「原爆で資料はなくなった。他藩から調べて構築するしか手がない」と言われてしまう。
 広島は他県に比べて、幕末の芸州藩の研究者が大学教授を含めて極度に少ないのが特徴だ。

 現代の広島人は、毛利元就(広島・吉田町出身)を中心とした、毛利には関心が強い。毛利が大好きなのだ。しかし、関ヶ原の戦いで敗れた毛利が萩に移されてから、その後の歴史となると、関心度が極端に低くなってしまう。
 浅野家が、德川色の強い和歌山から広島にきた、そのことすら認知していない人もいる。忠臣蔵の浅野の本家だとも知らない。つまり、德川(江戸)が好きではないのだ。

(浅野家は幕末に強い影響力を持ち、幕長戦争すら戦わず和平交渉に持ち込んだ、十五代将軍・德川慶喜には武力をちらつかせた大政奉還へと推し進めた)
 芸州藩が大きな働きをしている。しかし、現代の広島人には、紀州から来た浅野家の功績など、德川どうしだから、どうでも良いのだ。私にはそう思えてならない。

 戊辰戦争は3つのルートがある。日本海側、中通り、浜通りの戦いである。
 薩摩藩や佐土原藩は3隻の軍艦で、太平洋に面した、平潟(茨城県)に上がった。そして、小名浜、岩城平城を陥落させた。
 数日後にやってきた芸州藩に、浜通りから伊達・仙台藩への戦いを引き継いだ。薩摩藩の主力は三春・二本松から会津城へと向かったのだ。

 海岸沿いの戦いはその後、芸州藩と因州(鳥取)藩が主となり、仙台に向けて進撃していく。最初の陣地が現在のいわき市・末次の周辺なのだ。数キロ先の浅見川(福島県・広野町)で、相馬、仙台藩が迎え撃つ体制を取っている。
 官軍側の資料の絵図からして、末次で陣を敷いたのは芸州藩にほぼ間違いないと思う。

 周辺の住民はすでに「東軍・官軍がくるぞ。集落にいれば、殺されるぞ」と山の中に逃げ込んでいる。民衆とすれば、当然だろう。
 しかし、だれか交渉役が残らなければ、集落は進撃者たちに好き勝手に荒らされてしまう。

 私がいわき市・末次で訪ねたお宅は、旧家でもと庄屋だった。戊辰戦争のエピソードがひとつ残っている、と事前の打診の電話で聞いている。
「5、6歳の幼子が、お茶をたてて官軍の兵士をもてなした。こんな田舎の子でも、お茶がたてられるとは驚きだな、といわれた」
 これだけの内容である。歴史の発掘はわずかな手がかりでも歩くべきなのだ、と私は自分に言い聞かせて訪ねてきたのだ。

 5、6歳の誉められた幼子が曽祖母だという。
「幼子がお茶を出したとなれば、庄屋は逃げなかった……」
 そう認識ができた。
「そうなんですよ。この家には頑丈な造りのりっぱな客殿があったのです。代官が巡視の時には宿泊していました。私の代までその建物が残っていました。いまは取り壊しましたけれど」 
 その写真が残されていた。この家に官軍がきた、信ぴょう性はかなり高い、と私は見入った。                             
                                  【つづく】

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