波打ち際の小さな魚『コハダ』に、胸を痛める=三保の松原
太平洋の波打ち際の玉砂利のうえで、銀色の美しい魚が飛び跳ねていた。大きな白い波がくり返し、打ち寄せ、しぶきが飛び散る。
「コハダはまだ生きて」
私は凝視した。白い波がコハダのかぶさるのに、なぜか沖に逃げていかないのか、と疑問に思っていた。あちらこちらに、コハダが魚体を横たえている。どれも、海にもどれないでいるのだ。
コハダにとって、荒々しく渦巻き打ち寄せる波のなかでは、水平感覚が取れず、泳げきれないのだと理解した。
私があえて一匹のコハダを手にしてみた。5センチていどで、小さな命が妙に哀れに思えた。私は釣りをしない。釣り針が口に刺さった魚を見ると、あまりにも痛々し過ぎるから……。
手にした一匹を海に戻しても、この命はきっとダメだろうな、と思った。
そこに、釣り人が私に近づいてきた。周辺のコハダを指すと、
「コハダの群れが、大きな魚(サバなど)に追われたんだよ。時にはイワシが打ち上げられているよ」
「海のなかでも、生存競争は厳しいんですね。そういえば、コハダが打ち上げられる、数分前、ここから10mほど沖合で、海面から飛び跳ねる魚がいた」
それは20センチから30センチの魚だったと思えた。その魚に、コハダたちは追われていたのだろうか。
釣り人はビニール袋を持ってきて、コハダを入れはじめた。私は立ち去った。
3.11大津波の補足取材として、11月29日、清水駅からバスに乗り、三保の松原へ出向いたのだ。それは、陸前高田の7万本の松の木が津波で折れて、市街地に流れ込んだ。一本松を残して、全部である。
折れた松の先端は尖(とが)った槍のような凶器になった。津波とともに住民たちに突き刺さった。そして、陸前高田は最大の悲惨な都市になった。
現地取材しながら、「三保の松原」はどうなんだろうな、と重ねあわせるものがあったからだ。
コハダたち海水魚は泳ぐプロだ。それでも、コハダは波打つ砂浜から海のなかにもどれないでいた。まして、人間は時速100㌔の猛スピードで渦巻く津波のなかで、泳げるはずがない。
大津波の海中から泳いで生還したという体験談は取材ちゅうに一度も聞かない。 屋根の上や車の中で、流されて助かった人はいたけれども。
三保の松原の「羽衣松」近くの堤防には、海抜12mていどの表示があった。思いのほか高いのだな、と思った。そこには観光客がガイドの説明を聞く、のどかな情景があった。殆どは、津波に無関心で、見応えのある、富士山に関心を寄せていた。
海辺には背広姿の十人ばかりの団体がいた。茶封筒を手にする。数人は作業服で「静岡県土木」のIDカードを吊り下げている。なにかしら調査か、視察団の同行だろう。行政の人だとわかった一人を呼び止めて、
「この近くの開発業者の看板には、津波は大丈夫ですと書いていましたけれど、本当に大丈夫ですか」 と聞いてみた。
「羽衣の松あたりは高いんですよ」
とそっけなく一言だった。
私は作家だと身分を名乗ったわけでもないし、役人の説明なんて、一般人に対してはそんなものだろうな、と思った。
「羽衣の松」から、古びた防波堤に沿って、清水灯台に向かう。堤防に記された海抜表示の標高が8m、5mとだんだん下がっていく。すると、「羽衣の松」の周辺が最も小高い丘で、そこから傾斜面で海抜が低くなっていく、と地形が理解できた。
小高い丘だけを指して、大丈夫だといった、役人の姿が何かしら腹だたしくなった。
堤防の外側(海辺)を見ると、土盛り工事がなされていた。複数のダンプが水際の仮設道路を行きかう。この様子をじっと見ていた老婆がいた。何の工事かと聞いてみた。
3.11震災の後、土盛り工事がされているという。
「一度、台風?で流されたから、やり直している」
とつけ加えていた。
砂利を台形に盛っただけで、杭すらもない。嵐の大波で流されるなら、大津波で耐えられるはずがない、と工事に疑問を覚えた。これは公共事業というよりも、行政が津波対策を施している、というカムフラージュすらに思えた。
「本気で、住民の命を守る姿勢は感じられないな」
少なくとも明日にも大津波が来る、そんな緊迫感など、この工事から感じられなかった。
私はかつて小説『五O一人の遭難(歴史小説)』(このHPにも掲載・サイト内検索で)、安政東海大地震を背景とした小説を執筆した。
ロシアから日露和親条約の締結で、ロシア提督がわずか一隻の最新軍艦・ディアナ―号でやってきた。下田港で運悪く、安政東海大地震に遭遇した。下田の町は全滅で、大勢の死者が出た。と同時に、ディアナ―号は大破した。
ディアナ―号の修理のために、戸田湾に曳航しているとき、富士山から吹き下ろす「魔の風」の悪天候となった。ディアナ―号は沼津沖で沈没してしまった。501人のロシア人は帰還できなくなった、史実に基づいた作品である。
これら執筆中に、安政東海大地震の資料から、伊豆半島のみならず、東海道の駿河湾、三島、沼津、など軒並みに壊滅状態になった、と私は知り得ていた。「駿河湾内で海面が山のように盛上がり、崩れるのが海岸から目撃された」と記録されている。(高さ明記は、南伊豆町で、16.5m)
その大津波から約150年である。安政東海大地震の周期は90年から150年毎に起きている。周期的にも、南海トラフの危険性が叫ばれている。
「三保の松原の浜辺に、陸前高田と同じ20m大津波が来たら、どうなるのか」
三保の松原の大木は津波に耐えきれるのか。凶器とならないだろうか。私はそんな目で見ていた。
清水灯台まできた。三保から清水市街地を見渡しても、20m以上の高層の建物は殆どない。住民はどう逃げきれるのだろうか。わが身をここにおいて、大津波を考えるとぞっとした。
清水灯台の手前で中学校があった。そこまで引き返した。グランドでは生徒がテニスを行う光景があった。校庭内の電柱には海抜8.5Mの表示がなされている。
(中学校はどんな防災訓練をしているのだろうか)
私はアポイントなしを承知で、取材で飛び込んでみた。あいにく職員会議だった。いま始まったばかりだというから、あきらめた。
元来た道を戻ると、高校野球部の生徒がジョギングしていた。清水灯台の灯りがわかるほど、まわりがうす暗くなった。私はふただびコハダを思い出した。
一方で、私の手元にあった、上智大国際学科の元教授が薦めてくれた、ジャパン・タイムス社発行『3.11one year on』英文雑誌(1000円)を開いてみた。1ページ目には南三陸の破壊された町が痛々しく飛び込んできた。破壊するエネルギーの強さは膨大なものだ。コハダと同様に、津波に巻き込まれたら、人間はとうてい生き延びられないだろう、と心から思った。
三保・清水の各電柱にはいたるところに「海抜表示」が張られている。南三陸町の被災写真をワンセットにしておいたら、誰もが津波対策に本気になるはずだ、と考えた。「海抜表示」それだけでは生き永らえないのにな、というつよい疑問が残った。
大自然の脅威を前にすれば、コハダも人間もきっと同じだろう。でも、人間には知恵があるはずだ。それが生かされるのだろうか。