A010-ジャーナリスト

新津きよみさんを囲む「世田谷散策」、戊辰戦争の謎が解けた?

 関根稔さん(ライフ)が春先に企画してくれた、新津きよみさん(作家)を囲む「世田谷散策」が諸般の事情で、夏を越え、秋まで繰り越されていた。10月23日(火)に決定した。メンバーは新津フアンである古関雅仁さん、佐藤恵美子さん、そして私の5人。従前から交流がある仲だった。

 前日の天気予報となると、23日は発達中の低気圧の通過で、竜巻、突風、豪雨の悪天候だという。ニュース番組でも、明日の外出は注意するように、と報じていた。その低気圧は昼過ぎに関東地方を抜けていくという。
「どうするの?」
 この機会を失くして再調整となると、いつになるか判らない。関根さんの判断で、世田谷見学をする時間はかなり圧縮されるが、集合は3時間ずらしで、午後3時に新宿駅と決まった。

 5人は京王線、東急世田谷線と乗り継いで宮の坂駅に着いた。関根さんの案内で世田谷散策がスタートした。

 世田谷八幡神社の境内には珍しい土俵や力石があった。毎年9月には東京農大の奉納相撲が行われるようだ。
 わがメンバーもと古関さんと佐藤さんが奉納相撲をしていた。

 豪徳寺は井伊家の菩提寺である。「招き猫」発祥の地でもあるらしい。江戸城桜田門外で、水戸・薩摩の浪士に暗殺された井伊直弼(なおすけ)の墓があった。こんなところに井伊大老の墓があったのか。そんな感慨を覚えた。

 一方で、徳川に近い井伊家の豪徳寺がなぜこうも広い敷地なのか、と私は疑問をおぼえた。明治の廃仏毀釈など考えても、境内が大きく圧縮されもおかしくないはずだ。

 本堂の近くには三重塔があった。二層の垂木に彫られた猫を説明するボランティア・ガイドの老人がいたので、その理由を聞いてみた。井伊家が戊辰戦争の時に官軍に付いたからだという。(猫の木彫りしか興味がなさそうだった)

 私には過去から戊辰戦争の歴史疑問があった。


 家康が最強の守りとする譜代大名の彦根・井伊家が、江戸へと進みはじめた官軍となぜ戦わなかったのか。なぜすんなり通過させたのか。もし井伊家が徹底抗戦していたならば、官軍はまだ京都を出たばかりで、力は弱かったし、つぶせた可能性はある。歴史は変わっていたかもしれない。

 関ヶ原の戦いの後、家康が西を警戒し、江戸を守るために東海道筋に譜代大名をびっしりおいた。最強の布陣だった。それが殆んど戦っていない。なぜだ?

「家康が泣いているだろうな。260年間、譜代大名たちには無駄飯を食わせたのと同じ」

 戊辰戦争の時、井伊家は徳川から寝返り、薩長土芸との間で密約があったのだろう。だから、菩提寺である豪徳寺が敷地を削られなかった。
 そんな風に歴史の疑問が一つ解けた心境だった。

 世田谷城址などを観て、代官屋敷、世田谷区立郷土資料館に行った。4時半が過ぎていたが入館させてもらった。(閉館・5時)。古代から近代(陳列・模型)を観た。ボロ市通りから松陰神社に足を運んだが、午後5時で同神社の境内は入れなかった。

 天気予報の荒れる時間が狂っており、夕方から雨が強くなった。国士舘大学に立ち寄ってから、梅ヶ丘駅前の居酒屋「へちもんや」に入った。手の混んだ家庭料理を出す店で、新津きよみさんのサイン会、推理小説の舞台裏などで歓談した。
 次なる、スナック「葵」では関根さんが持参するギターを奏でていた。

 新津さんはきっとミステリー小説で、今回まわった場所が使われるだろう。私は豪徳寺で得た、戊辰戦争の疑問解明をさらに裏付けるために、来年にでも彦根を歩いてみようと決めた。

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