「こまえ平和フェスタ―1012」穂高健一写真展
第8回 「こまえ平和フェスタ―1012」(戦争を忘れないで語りつごう)が8月19日(日)に、狛江エコルマホール(狛江市)において開催された。こんかいのメインタイトルは「子どもたちの未来のために」である。主催者は同委員会、および狛江市
大震災から二度目の夏であり、それら関連の催し物が主であった。
福島県いわき出身の神田香織さんの『はだしのゲン』を語って26年、いまがフクシマが、というお話と講談、狛江高校演劇部の朗読劇、きんたの会の太鼓演奏、和泉児童館のダンス、こまえ工房の合唱、そして平和を願う展示である。
穂高健一写真展『3.11を忘れない~大津波の傷あと~』が同フェスタ開場に展示された。約650人(会場700席)の人たちを前にし、写真展の趣旨について話す機会が与えられた。(手話通訳、要約筆記あり)
3.11大津波の小説を書くために、私は昨年の秋から毎月、三陸に入っている。その経緯から説明させてもらった。
私は広島県出身で、原爆投下から日が浅い、太田川沿いのバラック建てに大勢のケロイドの被爆者が生活していた、「気色が悪かった」それが原風景の一つになっている。それだけに、原爆は身近なものだった。
3.11の後、私はフクシマ原発でなく、あえて三陸の大津波に絞って毎月、取材に出かけている。それはなぜか。
災害と文学の面からみると、戦争文学は数多くの名作がある。ヘミングウェイの『誰がために鐘が鳴る』、レマルクの『西部戦線異状なし』。アンネの日記においては、ナチスドイツのユダヤ虐殺の恐怖が後世に伝えられている。
井伏鱒二の『黒い雨』では残留放射能が取り上げられ、被爆した娘が嫁の貰い手がなくなる、という人間差別などが描かれている。それはフクシマ原発問題に通じる作品でもある。
しかし、地震と文学に関しては、関東大震災、阪神淡路大震災など、これぞという小説の名作は生まれていない。三陸大津波は明治から何度も数万人の犠牲者を出しながら、純然たる小説は見受けられない。津波の被害の資料や写真は記録な要素が強く、数十年後に見ても、リアルな感じがしない。
小説は人間を描くもの。3.11大津波で人間がどのように心を傷つけられたか、どのように生きていくのか。それらを克明に描けるのが唯一、小説である。そうすれば、数十年後に読んでも、読者には昨日、今日、いま起きている事実のような、疑似体験として大津波が伝わるはずだ。
三陸リアス海岸の人々は、数十年ごとに大津波の危険がある、とわかっているのに、なぜ浜辺に住むのか。それを文学として描く、3.11の教訓を後世に活かしたい、と考えている。
小説の取材をする一方で、数多くの人たちにカメラを向け、「写真の中から、被災者の声が聞き取れる」という気持ちで、シャッターを切りつづけてきた。
実は、写真には写せないものほど重要なのだ。作家の立場で、同会場で説明した。
たとえば、7万本の高田松原に残った一本松。「希望の一本松」「ど根性松」「奇跡の一本松」と復興のシンボルだと言われている。
現地の人たちの気持ちは違う。写真に写せない約6万9999本が人間を襲う強烈な凶器となったのだ。
松の木は1本が2、3トンある。中高層ビルをいとも簡単に壊し。人間の身体をバラバラにした。頭も砕き、四肢を吹き飛ばした。だから、陸前高田市の遺体の損傷度が一番ひどかった。
一本松を美化するのでなく、約2000人の命を奪った、6万9999本の松を小説のなかに組み込む。
こうした取材事例を幾つかあげながら、写真展の趣旨を説明したうえで、「写真に写らないかつたものを見えるように」と、作家として精いっぱい、90字の枠でキャプション(説明)を記載したと述べた。
「フクシマ原発問題の陰で、私たちを忘れないで」という大津波の被害者たちの声も、同会場には届けられた。
写真:滝アヤ(舞台右は穂高健一、左は手話通訳)
関連情報
『平和を願う展示』として
・大震災と原発事故で狛江に避難された方の声
・相馬の子どもたちの絵
・津波被災の子どもたちの作文
・創作人形展
・川柳・俳句・短歌、絵手紙など募集作品の展示
・平和図書展、折鶴
・穂高健一写真展『3.11を忘れない~大津波の傷あと~』
これらは狛江市役所ロビーにて、写真パネルは8月24日(金)まで、展示されています。