A010-ジャーナリスト

宮島・世界文化遺産を訪ねる=写真と文で旅情を楽しむ

 芸州藩の幕末史を調べる私は、宮島(広島県)に出かけた。宮島は松島・天橋立とならぶ日本三景の一つ。同島の厳島神社がユネスコの世界文化遺産(1996年)として、原爆ドームとともに登録されてから、すでに16年が経つ。
 外国人の観光客の多さには驚かされてしまう。

 原爆ドームとの相乗効果だろう、ハイスクールの生徒たちが集団(日本流にいえば、修学旅行?)で、あちらこちらに一杯だ。


 宮島口から対岸の宮島までは、連絡船やフェリーで約10分である。JRの連絡船と、広島電鉄との2つの会社がピストン輸送をおこなっている。

 2社の競争というよりも、出航のたびに、どちらの船舶のデッキも、乗船客が一杯だ。10分間の混み具合だから、席の奪い合いなどはない。

 厳島神社の世界文化遺産のモニュメントからのぞくと、海上に浮かぶ、高さ16メートルの大鳥居(重要文化財)が中心に座る。巧くこしらえたものだな、と感心させられた。


 島に来る人、帰っていく人、観光客が双方とも一杯だ。
 「安芸の宮島」と広島県民に親しまれていたころも賑わっていたが、それと比べても隔世の感がある。

  関東では源氏が好まれるが、西は壇ノ浦に没した平家びいきだ。平家と厳島神社の結びつきが強い土地柄でもある。

 平安衣装の観光嬢が宮島PR活動を行っていた。カメラを向けると、すぐさまカメラ目線でボードを取ってくる。そして、微笑む。自然体でいいのに、と思ってしまう。

 衣装は若々しいが、顔をのぞくと、思いのほか中年の「おばさん」が多かった。観光協会の職員かな? それを仕事としている人たちだろう。そのせいか、PR嬢と並んで撮っている人がほとんど見当たらなかった。
 

 宮島になぜ鹿がいるのか、よくわからないが、私が幼いころから島にいた。
 
 広島市が原爆投下で、県全体がまだ物資が不足していた頃にも、宮島に来たことがある。鹿も空腹だったらしく、子どもの私がうっかり紙を見せようものならば、すぐさま寄ってきて引きちぎられ奪われたものだ。

 現代の鹿は飽食らしい。のんびりして、角(つの)があっても怖さなどみじんもない。

 平安時代ものの書籍は売れないという。NHKTVの大河ドラマは、平清盛で、過去にない低視聴率らしい。平家物語を理解するのは難しい。人名は似通っているから、なおさらわかりにくい。

 宮島には観光旅館、ホテル、お土産物屋がたくさんある。しかし、NHKTVの大河ドラマに寄り添った商売はほとんど感じられない。世界文化遺産の風格なのか。ある旅館前に記念写真コーナーがあった。それすら、大河ドラマを派手に宣伝している様子でもなかった。

「坂の上の雲」が放映されていたころ、松山市内は異常な熱の入れ方だった。その違いを感じさせられた。

 宮島桟橋から、灯篭と松並木の参道を行くと、やがて高さ16メートルの大鳥居(重要文化財)が見えてくる。海に浮かぶ大鳥居が一般的だが、引き潮のときも味がある。

 個人的な趣向でいえば、私は干潮の大鳥居の方が好きだ。

 厳島神社の赤い大鳥居は干潮とともに、1日2回は土台を見せる。水たまりに浮かんだ、鳥居はこれまたきらびやかである。


 この大鳥居は岩盤に埋め込んでいない。自重で建っている。台風でもびくともしない。平安時代の土木技術の高さには驚かされる。

 高さは約16メートル、主柱の周囲は約10メートルである。腐りにくく虫に強いクスの自然木が使われている。

 このたびの宮島訪問の目的は大願寺だった。
 住職が不在のために、坊守(住職の奥さん)平山純栄さんから、2時間にわたり話を聞くことができた。明治の廃仏毀釈で、幕末の資料の一切合切がないという。「400年以前のものはあるのですがね」と残念がる。

 第二次長州征伐(幕長戦争)の和平協定が、大願寺で行われた。幕府側から勝海舟ひとりが来た。ここらは事実らしい。そして、長州側は長州全権使の広沢兵助らと会談 したとされる。
 寺の伝承として木戸孝允が交渉に臨んだとされている。一般にいわれている認識とは異なる。

 密約は極秘に進め、書き物に残さない。「肝心なことは手紙にも、密書にも書か残しませんよね。後世の歴史家が云う史実はあてにならないものですよね」と平山さんと私との認識は一致した。

 勝海舟が書院の間で、この素敵な庭を見つめて、長州側の会談に臨んだ。これは確かである。平山さんの話では、勝は約1か月にわたり宮島に滞在した。そして、休戦協定成立が慶応2年9月 2日に成立した。

 平山さんとは廃仏毀釈について突っ込んだ話し合いを行った。仏教徒の弾圧で、貴重な資料や仏像や寺が焼き払われた。日本の文化が折り曲げ、歴史の事実を消してしまった。その認識でも一致した。明治政府を作った長州の思想が現代歴史教育のなかで脈々と流れている。
 戊辰戦争、廃仏毀釈が後々の戦争史観につながったと語り合い、話が弾んだ。

 明治に入っても大願寺を訪ねてくる伊藤博文に対して、同寺36代の住職・光典が、「このばかものが、廃仏毀釈などやって……」と叱ったという。そんな話も平山さんから聞くことができた。

 伊藤博文が、境内には植えた松がいまは立派に育っている。

 紅葉谷川の清流に架かる橋が、筋違橋(すじかいばし)である。宮島の情景の一つ。赤い橋が川に対して斜めにかかっている、珍しいものだ。



 厳島神社の裏手には承安4(1174)年に、後白河法皇が植えた松がある。明治時代に切り倒された。その幹の一部が保管されている。
 松は一般的に、2-300年しか育たない。700年余り生き長られた、老木だった。

 瀬戸内海の島は漁業が盛んである。古代から海産物問屋が交易の役を果たし、豪商たちが長く栄えてきた。それら贅沢な民家の建築物と、厳島神社の五重塔などが混在している。それが宮島の特徴でもある。

 五重塔に隣接したところに、千畳閣がある。豊臣秀吉が建立した入母屋造の大経堂だが、秀吉が死去したために未完成に終わった。
 それでも現在において、天井の板張り、壁、正面入口が残っている。畳を敷けば、857畳あるらしい。秀吉のスケールの大きさが読み取れる。


 秀吉が戦死者の武士を慰めるため、1000人の僧を呼び読経させる。その目的で建てはじめたもの。大型建造物を支える、土台と柱の巨大さは群を抜いている。

 干潮から満ち潮に変わると、海に浮かぶ厳島神社が雅やかになってくる。

 嚴島神社は、平安時代の寝殿造りの粋を極めた建築美である。廻廊で結ばれた、朱塗りの社殿は潮が満ちてくると、海に浮ぶ美の世界に入る。背後の弥山の緑とのコントラストは見事である。

 観光客は潮待ちで、その光景をじっと待っている。


 高さ16メートルの大鳥居が海面に浮かぶと、威厳を取りもどす。春日大社(奈良県)と、気比神宮(福井県)の大鳥居が、「日本三大鳥居」である。
  その中でも、宮島の大鳥居は日本一の美しさであろう。
 

 原爆ドームと宮島・厳島神社が世界中から若者を集めている。かれらがふたたび日本に来るとき、成長し、在日大使? ビジネスマン? 観光客? いずれにせよ、平和な日本を見てもらいたいものだ。

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