戊辰戦争「会津の悲劇」の真相を求めて(4)
木戸孝允は、吉田松陰の皇国の思想を受け継ぐ、長州藩の外務大臣役だった。
日米通商条約など海外の各国との条約は、形だけでも天皇の勅許を必要とした。尊王思想の志士たちはそれを逆手にとり、天皇の勅許を阻止させる行動に出た。
幕府は天皇の勅許が欲しい。徳川幕府の目がごく自然に、京都・御所の天皇に向かってきた。つまり、江戸中心だった政治が京都に移ってきた。長州・木戸孝允は功労者の一人である。
ところが、会津と薩摩が仕掛けた8.18クーデターから、長州は7人の公家たちとともに朝廷から追い出だされてしまった。
京都に残って政治工作をする木戸は池田屋事件で、新撰組に命を狙われた。禁門の変でも、かろうじて逃げ延びた。それでも京都に残った木戸は、ホームレスに身を扮して情報してきた。
艱難辛苦の髄にいた木戸は、諸悪の根源は会津だと最も憎んでいた。これは事実だ。
『長州藩は過去からの憎しみで、会津藩士の死骸の片付けを翌年まで認めなかった』と福島在住ジャーナリストが堂々と書いている。
白虎隊の武将姿ガイドなども、観光客相手に「少年たちの死骸を片付けさせてくれなかった」と説明する。
会津城が落城したあと、新政府軍は本当に埋葬を許しなかったのか。
修羅場をくぐってきた木戸は、知的判断力に富んだ人物だ。彼が会津を強く憎んで、仕返しを考えていたにしろ、「死体を片付けさせるな」という指図(法令)を出すとは思えない。
その疑問を持ちながら会津を歩くほどに、埋葬禁止令の物証などない(2011年までに発見されていない)し、死体が野犬やカラスに食べられている史料も絵画も見当たらなかった。
長州の主力の奇兵隊は、河井継之助の長岡藩に手こずり、会津城の攻撃に間に合っていない。そんな長州藩から「死体を片付けさせるな」という命令が下せる状況にはない。会津との降伏交渉は、土佐の板垣退助だった。板垣も、埋蔵禁止令など出していない。
実際はどうだったのか。
「死骸が市街地とか、峠とか、範囲が広く、会津藩だけでも数千人の規模と膨大過ぎた。勝者の新政府軍から片付けはじめたのです。現在もその墓地があります」と研究者は語る。
会津藩は武士すらも上下の身分制度が厳しかった。その点では土佐藩に似ているという。
「死体の処理すらも、上級武士から始められたんです。遺体処理人(下賎)は金のある上級武士から埋葬していく。下級武士たちは貧しくて家族から金が貰えないので、なかなか手を付けようとしなかった。やがて1、2ヶ月も遺体が未処理のまま、会津に雪が降りはじめた」。春先になって、やっとすべての死体が片づけられた。それが実態のようだ。
東日本大震災の被災地と対比すれば、その実態がわかる。大津波が発生した後、全国から消防や警察やボランティアが入った。延べ数万人が、被災者の遺体の発見と埋葬に尽くした。それでも長期にわたっている。
敗者となった会津藩士は、格式が高く、死骸の処理は下賎のみにやらせていた。反面、勝者の政府軍の兵士たちは会津の遺体処理に手を貸さない。
遺体処理の手は限られているから、積雪期をむかえてしまった。
東日本大震災と対比してみれば、会津藩の遺体処理がそう簡単に進むものではない、とわかる。
会津落城後、藩士たちは会津の土地を奪われ、武士階級の身分の者は斗南藩(青森県)に一人残らず移された。会津に残ったのは農民と商人だけである。
農兵もいない会津だ。農民や商人たちに、新政府軍が畑を荒らし、家を焼いた、という恨みがあったとしても、全国から集まった部隊だから、一つ二つの藩に絞り込んだ恨みとはならない。
作家やジャーナリストたちが武士感覚で、会津人の長州への怨念を語る。それは後世の作り物だ、と見なしたほうが良いだろう。
『薩長軍は、会津若松城の内外に散乱する遺体を埋葬させてくれなかった。雪解けまで放置されたままだった。これは非情な見せしめである。残虐な行為から、多くの会津人が薩摩、長州との向かい方に迷っている、心の決着がついていない』
まさにジャーナリスト特有の事実と見せかけた、独りよがりの推量だろう。会津と長州の敵対関係をことさら作り上げ、双方の確執を煽っているものだ。
今回の取材で、敗者側にも歴史の歪曲があるという認識にたどり着いた。【了】
写真:近藤勇の墓、9月27日、会津・丁寧寺