A010-ジャーナリスト

戊辰戦争「会津の悲劇」の真相を求めて(3)

 第二次長州征伐の長州は一藩で、全国の諸藩を集めた幕府軍と戦った。そして勝利している。戊辰戦争の会津軍は、米沢、仙台、庄内、桑名藩など奥羽列藩同盟軍だったが、破れた。この違いは何だろうか。

 会津藩の身分制度はことのほか強く、戦いは武士で行うものだと決めていた。農兵は殆どいなかった。
 長州の場合は高杉晋作たちが農民など区別なく募集し、奇兵隊を作った。そして、藩の主導権を握った。かれらは西洋的な散兵戦術(狙撃隊)で訓練された部隊である。少人数で、大勢の徳川軍に襲いかかれたのだ。

 会津藩の家老たちは、保科正之の時代から二百年余に渡る世襲制度だった。それら家老たちがトップとなり、会津盆地の出入り口となる4ヶ所の峠をそれぞれに固めた。火縄銃と、槍と刀による、戦国時代からの戦法の踏襲だった。
 武士道、会津魂だけで戦う、時代遅れの戦法だった。

 戦略面でも、会津軍政局は4ヶ所の峠を固め過ぎていた。城下や城周りの防御があまりにも手薄で、老人と少年たちだけで、無防備に近い状態だった。

 薩摩、土佐、長州など、西の各藩を結集した新政府軍はライフル銃を使い、西洋式の訓練を受けている。会津の峠を打ち破り、一気に会津城下に流れ込む。会津藩はまったく防御の手立てがなく、逃げ惑う婦女子や少年たちが大勢犠牲になった。ここに会津の悲劇が生まれたのだ。

 藩主の松平容保はろう城していた。戦場から搬送されてきた負傷者、武士家族の婦女子たちが逃げ込んでいた。やがて家老たちや一部藩士が城に入ってきた。
 その数日後、8月26日(新暦の10月7日ごろ)、新政府軍は会津城をめがけて砲弾を撃ち込みはじめた。

 城内で死者が出ると、会津藩主たちは遺体を埋葬でなく、井戸に投げ棄てていたのだ。現代でも、その行為を会津人の恥部と見るひとがいる。

 一か月間のろう城が続いた。会津藩はやがて白旗を揚げた。「会津城は強固だったから、一ヶ月もの間、砲弾攻撃を受けながら、ろう城できた」と地元の人は自慢する。

 新政府軍は、一日の限られた時間だけ、かたどおりに砲弾を撃ち込む。まったく突入しなかった。夜間には、会津藩士がつり橋から城外に出入りしていた。
 新政府軍はそれすらも見てみぬふりをしていた。ここで強行突破すれば、新政府軍にもさらなる犠牲者が出る。

「新政府軍の砲弾は定時になると、城内の防御鉄板に向けて、決めた数だけ撃ち込んでいたんです。城内の藩士を本気で殺す気はなかった。かれらは突入する気もない。いずれ白旗を揚げるだろう、と考えていたのです」と会津の研究者の一人は語っていた。

 つまり、兵糧攻めすれば、これ以上は傷つかず、戦いが終了する。九州、四国、中国地方など遠方から来て、なにも無益な戦いで戦死などしたくない、と誰しも考えるだろう。【つづく】

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