戊辰戦争「会津の悲劇」の真相を求めて(2)
長州と会津の敵対関係は、関が原の戦いにさかのぼる。毛利(当時・広島)が徳川に敗れた。毛利には徳川家を嫌い、260年余り倒幕思想が脈々と流れていた。そこから考える人もいる。
一般的には、会津の悲劇は松平容保(かたもり)が京都守護職を引き受けたときからはじまったといわれている。
当時の京都は尊皇攘夷の旋風が吹き荒れ、テロリストたちが横行していた。治安と御所の警備をつかさどる京都守護職(きょうとしゅごしょく)には、リスクが大きク、どの藩も敬遠していた。しかし、その権限は大阪にまで及び、強烈なものだった。
会津藩の家老たちは反対した。しかし、藩主の容保は保科正之の家訓(かきん)を忠実に守り、引き受けた。(第一条・徳川家の危機には忠誠を尽くせ、という趣旨)。
その実、松平容保は松平春嶽たちに口説かれて引き受けている。容保は小藩から会津藩に養子にきた人物だ。京都守護職は魅力的で、強い権限で自分を大きく見せたかったのかもしれない。保科正之の家訓は後付という見方もできる。
長州と会津の憎しみの発端は、会津が薩摩とともに謀った「7卿の都落ち」で有名な8.18クーデターである。さらには新撰組による池田屋事件で、長州藩士たちは殺戮された。それが一つの発端となり、長州藩は武力をもって京での勢力奪回を図り、上京してきた。
御所で会津軍と衝突した。五分五分の戦いだった。夕方、薩摩軍と芸州軍が駆けつけてきた。長州軍は発砲しながら敗走した。(蛤御門の変)
長州藩は有能な人材を大勢亡くしたうえ、屈辱的な朝敵にさせられたのだ。
長州は会津と薩摩を憎んだ。薩摩への敵視は坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介で、薩長同盟という和睦で収まった。しかし、京都守護職の会津への憎しみは消えなかった。
大政奉還後に、鳥羽伏見の戦いが起きると、幕府軍の会津藩は破れた。すると、容保は徳川慶喜とともに船で江戸に帰ってしまったのだ。約1000人の会津藩士は見捨てられたも同然である。
不思議なのは、現代でも会津の人たちは容保を崇め、胸像などを市内で作っている。殿様が一人さっさと逃げてしまう。それが会津の象徴的な人物とは思えないのだが……。
鳥羽伏見の戦いで勝利した官軍は、倒幕への再編成がなされた。新政府軍は西郷隆盛が事実上のトップで、江戸へと進んだ。それが戊辰戦争である。西郷・勝海舟の会談で、江戸城の無血開城が行われた。
倒幕エネルギーはそれだと意気込んでいた、新政府軍の兵士は収まらない。その敵意のエネルギーが会津藩に向けられたのだ。結果として、会津の悲劇が起きた。【つづく】
写真:会津若松駅、9月27日