戊辰戦争「会津の悲劇」の真相を求めて(1)
歴史上のちょっとした疑問から、それを掘り起こしていくと、従来の認識とはまったく別の史実や、事実などが出てきたりするものだ。
会津と長州は仲が悪い。かつて両藩の子孫は結婚も認めなかった。それは世間一般の認識で、疑いもなく受け入れてきた。
私は戊辰戦争の関連書物に目を通していた。某著「会津戦争……」の書物には長州藩・木戸孝允が会津を徹底的に憎んでいた、と明記した上で、
『(落城後)会津若松城の内外に散乱する遺体は、放置されたままで、野犬に食い荒らされ、カラスについばまれるままだった。中略。会津戦争では、死者の埋葬を禁じる異例の処置がとられた。これが大きなしこりとなって、(長州との間に)長く尾を引くことになる』と明記している。『これも一種の見せしめである』と追記している。
著者は福島県在住の放送ジャーナリストで、会津の視点と立場で書かれている。
「本当かな?」と疑問が起きた。
日本人は冠婚葬祭でも、葬儀となると、すべてに優先させる。江戸時代から、村八分の人間でも弔いには協力する習慣を持っていた。神教、仏教にしろ、死者の魂は大切にされている。
その著者は別の本でも、「会津に朝的の汚名を着せた長州は、すべては欺瞞に満ち、死者の埋葬をゆるさなかった」とほぼ同じ内容になっている。
長州藩が8.18のクーデターと「蛤御門の変」から、憎き会津にしろ、会津城が落城した後に死体を片付けるな、と命令を下すのかな? となおさら疑問が生じた。
他方で、ジャーナリストにありがちな憶測と推量を交え、双方の確執をやたら煽っているのではないか、という疑いをもった。
この疑問と直接向き合ってみようと、9月下旬に会津に出向いてみた。
会津城のガイド・ボランティア、元市長、県立歴史博物館の学芸員、一般市民など、時間の許すかぎり、現地の情報を収集してみた。
と同時に、逐一、会津と長州に関係する歴史的な検証も試みてみた。【つづく】
写真:会津城、9月26日