小さな奇遇が、3つも連続=ご近所から、徳川家茂と和宮の謎まで
日本写真協会(東京・千代田区)の総会に出席した。2011年4月1日に、同協会は公益社団法人に認可された。
宗雪雅幸会長をはじめとした執行理事は、安堵の表情で、総会に臨んでいた。事業報告、決議事項とも、会員からは質問も、反対もまったく出てこない。すべて挙手で、原案通り可決だった。
文芸関係や山岳関係の総会では、質問が立て続けに出てくる。日本ペンクラブなどは発言者が多く、議事の進行が止まってしまう。それら荒れる総会を知るだけに、写真の会員はおとなしいな、と妙に感心してしまった。
写真はカメラを被写体に向けて、目と心で語りかけて撮るものだ。口は必要ない。そんな勝手な解釈で、自分を納得させた。
この総会のさなか、右横の席から、不意に肩をたたかれた。鈴木幸次さんだった。
「これはまた奇遇ですね」
ふたりの驚きの言葉だった。議事進行中だったから、それだけの言葉だった。
昨年末には、わが家に一枚の展示会の案内・はがきが届いた。鈴木さんが同会に入会し、名簿を見ると、極々近いところに、私の住居(葛飾区)あると知り、連絡してきたものだ。日程の都合がつかず、展示会には参加できず、そのままになっていた
約半年が経った。
2011年6月1日の『写真の日』のレセプションで、私が会員のネームプレートから『かつしか写真クラブ』主幹を見つけて、声がけをしてみた。
「よくわかりましたね」
鈴木さんが感心していた。
「葛飾区東立石で、わずかな番地違いで、同じ会員とは奇遇ですね」
ふたりはともに住居の場所を確認し、あまりの近さに驚いていた。
鈴木さんは、山岳写真からスタートし、現在は花とポートレートだという。私も略歴を語り、一気に親しい会話となった。
それから半月後、この総会で真横に座っていたのだ。まさに奇遇に思えた。
総会終了後は、懇親を深めるために、「お茶しましょうか」と誘った。1階の写真展をのぞいてから、近所の喫茶店に入った。
鈴木さんが主幹のクラブは会員が約20人、月2回の会合を開催している。構図が中心の指導だという。作品提出は数枚だが、300枚近くを出す方がいると聞いて驚かされた。
「数多くの枚数を撮ったうえで、絞り込むのも能力の一つなのに……。それができない方なんですね」
そんなコメントをさせていただいた。
鈴木さんから、半月前の「写真の日」レセプションの話題に及んだ。
私が会場で、会員・滝アヤさんと田沼副会長や石黒敬章さん(古写真研究者)とのツーショットを撮っていた。私が膝を折ったり、両手を頭上にあげた高い位置からもカメラを構えていた。
「ハイアングルの方が、10歳は若く写るんだよね」
石黒さんがユーモラスに語っていた。
鈴木さんがその光景を記憶されていた。
「穂高さんは撮り方が違いますね。アングルが多角的で、並の人じゃないと思いましたよ」
「私は芸術写真でなく、ジャーナリストの撮影に徹しています。スピードが命ですから。一枚ずつ違う角度から、瞬間をすばやく切り取る、それに徹しています。(機械的な連写は殆どしない)」
そのように自己解説した。
(写真の左・石黒敬章さん 右・滝アヤさん)
鈴木さんとは半蔵門線で別れた。京成立石駅から家路に向かっていた。アーケード商店街で、葛飾区役所の芝本一郎さんにばったり会った。教育委員会の方々と飲む酒場のすぐそばだった。
「いっぱい飲んでいきましょうか」
10秒で店内に入っていける距離だった。
かつしか区民大学や「かつしかPPクラブ」の話題が尽きなかった。私が昨年執筆していた坂本龍馬の話題から、歴史に及んだ。
「きょうの読売新聞に、皇女和宮の写真は別人、と出ていましたね」
芝本さんが驚きの報道を教えてくれた。と同時に、カバンから6月16日・朝刊を取りだした。
同紙によると、これまで故・小坂善太郎元外相(個人)の祖母が持参していた、古写真の台紙の裏側に「静寛院和宮」と書き込みがされていた。徳川家も同じ写真を所有していることから、14代徳川家茂の正室・和宮の写真だと認知されていた。
ところが、古写真研究者が同じ写真が1902(明治35)年発行の雑誌「太陽」に、昭憲皇太后の姉の、柳沢明子の肖像として掲載されている、と発表したのだ。これまで信じられていた、皇女和宮の写真は別人だとする、諸々の推察がなされている。
同紙は石黒敬章さんのコメントを載せている。「説得力はあるが、雑誌(太陽)が間違っていることもありえる。断定は難しい。再検討する契機にはなる」と述べている。
私は、鈴木さんから、石黒敬章さんと滝アヤさんのツー・ショットの話がでた、その同一日に、芝本さんと偶然に出会い、ここでも石黒敬章さんのコメントを目にしたのだ。妙な偶然だな、と思う。
さらに十数年前にさかのぼれば、私は芝・増上寺の学芸員を訪ねたことがある。皇女和宮の墓の発掘調査が、終戦後に行われた。和宮が胸に14代徳川家茂の銀板写真を抱えて永眠していたのだ。政略結婚の和宮が、早くに家茂を亡くし、永遠の愛に変わっていった、という証明もなるものだ。
大学教授を中心とした発掘調査隊が、銀板写真を研究室に持ち帰り、空気に触れさせたために、一晩で酸化して家茂の姿が消えてしまったのだ。
家茂の写真は下岡蓮杖が撮影したのではないか。私はその仮説の下に、増上寺を訪ねたのである。膨大な発掘調査資料を長時間にわたって閲覧させてもらったが、手がかりはつかめなかった。
同寺の学芸員の取り計らいで、特別に徳川霊廟に入り、家茂と和宮の墓前で手を合わさせてもらった。墓までも、ふたりは寄り添っていた。それらが印象的によみがえった日でもある。
他方で、家茂の写真のなぞ、和宮のなぞがさらに深まった。悲劇の愛に生きた、ふたりの写真が一段とミステリアスなものになっていく。この日は、日本写真協会の総会から始まり、写真を通した、奇遇な歴史上の出来事にまでつながっていった。