A010-ジャーナリスト

それでも死体の写真報道はするべきです=オピニオン

 私のもうひとつのHP「穂高健一の世界」を編集して下さっている方(40代・男性)から、PJニュースの『大惨事の報道はこれでよいのか。大手メディアの自主規制の是非を問う』に対して意見をいただきました。
「(死体を)見る権利もあるが、見ない権利もある。公共メディアではなくインターネットや、有料本の様な物に限るべきだ」という趣旨です。

「海外のメディア(ニューヨークタイムズなど)では、遺体が放送されているようですが、遺体を写したフジテレビがかなりたたかれているようです」という補足がありました。


 大震災の話だけならば、「(死体を)見る権利もあるが、見ない権利もある」という意見は正論かもしれません。
 しかし、なぜ、日本のメディアが死体を見せないのか。その本質(根幹)は明治以降の戦争から培われてきた、危険なものなのです。

 いま声高に言わないと、日本がもしも戦争に突入したら、メディアはまたしても戦場の若者の屍を見せない報道になるでしょう。これで良いのでしょうか。 

 いま現在でも、ベトナム戦争、イラク戦争、イスラエル・パレスチナ、アフガン戦争など、日本では死体のない兵器戦争しか報道されていません。それはアニメの戦争世界と同じ。死者への痛みなど知る由もなく、戦争を仕掛けた、あるいは背後にいるアメリカに対して、日本はもろ手を挙げて大賛成となるのです。

「えっ、南ベトナムから、アメリカはなぜ全面撤退するの?」
 それが当時の日本人の殆どの感想です。若い米国兵士の戦場死体など、報道写真で見せられていませんでしたから、日本人はピンボケ状態でした。戦場の凄まじさは知らなかったのです。


 世界各地で「世界報道写真展」が毎年、開催されています。日本では、東京都写真美術館などで開催されます。
 世界中のジャーナリストたちの報道写真・10万点以上から優秀作品が100点強選ばれています。
 焼け焦げた遺体、四肢が吹き飛んだ死体、子供の死体もあります。悲惨な死体が写っています。それを見れば、戦争など絶対してはならない、という強い気持ちにさせられます。

 新聞・雑誌などで報道した写真に限定した、世界的なコンクールです。当然ながら、青少年たちも報道として屍を目にしているでしょう。若いときから、「悲惨な戦場死を直視させられている」と解釈したほうが良いでしょう。
 同展を見ながら他方で、なぜ日本では報道で遺体を見せないのか、その疑問が付きまとうのです。毎年です。


 第二次世界大戦で、日本のメディアは戦場死体を報道しませんでした。勝った勝ったばかり。婦女子の集団身投げ自殺も報じませんでした。この隠蔽(いんぺい)が強いては日本人が全員玉砕(ぎょくさい)、死んでもいい、きれいごとで戦争を推し進めさせました。

 結果として、日本人だけでも数百万人の戦死者を出しました。そして、最悪の原爆投下まで行ってしまったのです。

 広島市で、一発で26万人が死んだのです。東日本大震災の死者・行方不明者の総計の10倍です。ひとつ都市が一瞬にして、大量犠牲を生み出したのです。

 日本のメディアが真の戦争を報道しなかったことから、そこまで及んだのです。いや、3日後には長崎にも原爆が投下されているのです。

 いま、日本全体は放射能に敏感になっています。それと対比すれば、規模の大きな原爆の恐怖は理解できるはずです。フクシマ原発が頭上で炸裂したのと同じなのです。

 なぜ、戦争がそこまで行ったのでしょうか。

 パールハーバー(真珠湾)の急襲以降、日本のメディアは戦場の「兵士の死」を見せませんでした。悲惨な事実を悲惨なまま報道しない。だから、戦争抑止とか、早期解決(早めの和平交渉)が働かなかったのです。

 当時は旧日本軍の軍部がつよい勢力をもっていた。とはいっても、選挙で国会の代議士が選ばれ、首相も決まる、民主主義の体制を持っていたのです。東条英機すら、最後は首相の座を降りています。

 もし第二次世界大戦で、毎日、毎日、戦場の死体が報道されていたならば、わが子、わが夫を戦場に送り出している人はいたたまれず、ごく自然に反戦に動いたはずです。「早く戦争を終わらせてほしい」という機運が高まってきたはずです。

 本土決戦、日本人全員の玉砕、というバカな思想の土壌はまさしくメディアが作ったようなものです。ある意味で、戦争加担者になったのです。

 ベトナム戦争で、アメリカのメディアは「これでもか、これでもか」と若き兵士の死体、死骸を報道してきました。それが強力な反戦運動の源になり、戦争を終結させたのです。


 江戸時代の犯罪者は、獄門・磔、さらし首という大衆に見せる公開処刑でした。首だけの死体を見るのは、犯罪者に対する恐怖の共有でした。それは犯罪への抑止力となり、治安維持になっていました。

「死体を見たくない、怖い、気味が悪い。日本人はそれを嫌う」というのは、仏教徒の宗教上のものではありません。
 明治時代以降の為政者に媚(こ)びた、メディアの後付です。

 戦前の三陸大津波では、死体が地引網で引き上げられていました。リアルな写真報道が残されていたならば、「海岸近くに民家を作っては危険だ。認めない」と為政者(行政)はどこまでも強気に出られたでしょう。
 今後においても、強引に「沿岸部・住宅禁止」をどこまでも推し進めるには、為政者と民衆との死への恐怖の共有が必要です。

 メディアは客観的な報道をめざす、と綺麗ごとを言いながら、その実は勝手な編集を行っているのです。
 東日本大震災で、日本のメディアが遺すのは、またしても結果として「瓦礫の山」ばかりとなるでしょう。あとは死傷者数です。

 10年後、20年後、海岸近くに家を立てようとする人の抑止にはなりません。同じような大津波の犠牲者がふたたび出てくるでしょう。


 日本がもしも数十年後に外国と戦争したならば、メディアは今回の大震災と同様に死体を見せないでしょう。となると、日本人にはアニメの戦争動画と同じで、深い悲しみなど生じません。政府発表の死者の数だけが上滑りします。
 他方で、犠牲者のいない、焼け焦げた戦車の報道写真だけを見せつけられるでしょう。


 自然災害も戦争も宿命ではないのです。

 津波に襲われて逃げ遅れた児童がいます。潮が引いたときに、屍となり樹にぶら下がっていました。悲惨な子どもの写真が報道されたならば、近い将来予想される、東海地震、南海地震の沿岸部にある、小中学校の「津波避難訓練」はより真剣なものになるでしょう。
 それが死者との共有化です。

 犯罪報道と違います。災害、戦争報道は別枠です。それは興味本位でなく、死の共有化です。諸外国のように、「子供の遺体にも発言さてあげる」という姿勢が必要です。宗教とは関係ないのです。

「被災地の大量の遺体を写真で見てください。これが災害の現実です。将来、同じ犠牲を出してもよいのですか」
 これが問える報道。それが将来に生かされる、あるべき報道でしょう。

 かつて軍部の圧力で、「外国に対して不利な状況を見せず」と、戦場のみならず、災害すら死体写真の報道は禁じられていました。ジャーナリストたちは勇気がなく、それに屈してきました。「宗教的な問題だ」とすり替えて、今なお脈々と続いているのです。

 いま、日本人が外国報道しか、日本での出来事の真実を得られない。ここに日本のジャーナリズムは大きな欠陥を抱えているのです。
 日本のジャーナリストたちに「国民は死体を見たくないはずだ」「宗教的な問題だ」という言い訳をさせてはいけないのです。
 それは実に危険なことなのです。

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