勝海舟の玄孫・高山みな子さん=エピソードと史料拝見
「元気に百歳クラブ」の二上さんが、勝海舟の玄孫・高山みな子(こうやま みなこ)さんと面談できる労を取ってくださった。
1月24日、日本ペンクラブ・広報委員の鈴木さんと3人で、高山邸に出向いた。勝海舟とエピソードとか、貴重な史料をも見せてもらった。現在、鈴木さんと芸州藩(広島)を研究中である。その関係について、突っ込んだ質問をさせてもらった。
その関連から、高山さんからは数々の文献や研究者たちの紹介が得られた。
高山さんはフリーランスライターで、勝海舟、坂本龍馬を中心とした、執筆や講演をされている。他方で、ガラス彫刻の工房も行う。彼女の話し方は明瞭活発であり、勉強家であり、勝海舟のDNAを感じた。
勝は江戸・本所の貧しい旗本の倅(せがれ)と生まれ育った。仕官してからは、努力を積み重ね、地位を高めながら、龍馬など多くの人材を育て、徳川幕府の幕引きまで行った。日本でも稀有な歴史的な人物だ。
勝はとくに奉行職になってから、幕末の難局のなかで、高所大所から判断する立場に置かれていた。周りは大名や老中などの身分の高いものばかり。
「勝は身分の低い旗本でしたから、随所で辛い思いをしていたようです」と高山さんは語る。
勝の邸宅には菓子部屋があった、とその図を見せてもらった。勝は甘い物好きで、酒はダメだった。
勝の労で、龍馬が山口容堂から脱藩の罪を解いてもらった。「その交渉のとき、容堂は酒飲みですから、勝はきっと辛かったでしょうね」と話す。
勝はうなぎが好きで、ジョン万次郎と浅草「やっこ」に2人して食べに行っていた。長崎にもなじみのうなぎ屋があったという。
勝の三女(逸子さん)が龍馬に肩車をしてもらった。逸子の孫娘(高山さんの伯母)が逸子さんから直接聞いたという。龍馬と勝家の親密度がわかる、エピソードである。
勝が孫娘(理世)の初雛祭りに書いた、屏風が伝わる(明治15年)。万葉集の筆文字である。それを見せてもらった。(写真)
高山さんは、新谷道太郎著「維新志士 新谷翁の話」(昭和11年発行)の存在を知らなかったようだ。新谷は広島・御手洗(大崎下島)の寺の住職の息子だった。十代にして島を飛び出し、江戸の勝塾の門下生になった。
文久元年6月から、勝の伴をして、西郷隆盛を訪ねる、という下りがある。それを読んで差し上げた。文中で、勝が「小僧」と新谷に呼びかる場面がある。
高山さんはそこに強い興味を示された。祖母から聞いた、「女でも、小僧と呼びかける勝の口調と同じです」と話す。
歴史学者のなかには、同書の信憑性に懐疑的な面をもつ者もいる。ことばの語調は大切なものだ。勝からの「小僧」という単純な呼びかけた用語にすぎないが、新谷証言の信憑性の一つになると思えた。