A010-ジャーナリスト

龍馬の「船中八策」は作り話し。司馬遼太郎もダマされていたのか

 明治・大正時代の土佐の文筆人による、坂本龍馬の関連書物には架空の話が多い。随所に作り話を挿入している。それが後世の歴史的な事実として一人歩きし、司馬遼太郎著「竜馬がいく」においても数多くの下地になっている。

 明治16年、土佐新聞に坂本龍馬の伝記が連載された。タイトル「汗血千里の駒」(かんけつせんりのこま)は、維新のために東奔西走した龍馬を、千里を走る馬にたとえている。

 龍馬が暗殺されてから16年後、維新から数えてもわずか16年なのに、龍馬の最大の功績とされる大政奉還の船中八策(慶応3年6月)が一行も出でいないのだ。
 つまり、土佐藩の夕顔丸で、龍馬が後藤象二郎に、大政奉還を示した内容はみじんも記されていない。すると、龍馬は無関係だったのか。

 いったい、どこから「船中八策」が出てきたのか。船中八策と誰が名づけたのか。
 これは推量だが、どうも千頭清臣著「坂本龍馬」1914(大正4年)らしい。疑う理由として、千頭清臣氏にはゴーストライターがいたことだ。

 田岡正枝氏(土佐出身)が『坂本龍馬は、実は千頭さんから依頼されて僕が書いたものだよ。謝礼として80円もらったが、あれはいい酒代だった』と述べている。ここに注目したい。

 現代のゴーストライターは、著名人(政治家、社長、芸能人)の人物をより大きく見せるために、故意に大きく書いたり、他人の業績を横取りしたり、そんな書き方をする者も多い。

 ゴーストライターの田岡正枝氏が無責任に本が売れれば、酒代が弾んでもらえる、同郷の土佐人として、龍馬を大きく見せてやろうと「船中八策」を作り上げた可能性がある、と私は疑っている。


 司馬遼太郎著「竜馬が行く」で、このところは

『第一策 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく、朝廷より出づべき事』
 この一条は、竜馬が歴史にむかって書いた最大の文字というべきであろう。

 と記す。
 司馬氏はまさに土佐人の作り話に騙され、龍馬に最大の賛辞を与えてしまった、最大のミステークだといえる。少なくとも、同氏は明治16年「汗血千里の駒」から疑うべきだったのだ。

       
            広島・縮景園(芸州藩主・浅野の別邸の庭)


【大政奉還はどこから出てきたのか】

 芸州藩(広島藩)が大政奉還を真っ先に藩論とした。それは慶応2年である。翌年、芸州の辻将曹が薩摩・家老の小松帯刀に話を持ち込んだ。武力的な圧力を背景に、徳川家に大政奉還を迫る内容だった。薩摩は公武合体派だったが、幕府に嫌気がしており、これに乗った。

 小松がそれを後藤象二郎に話して聞かせると、「土佐藩もぜひ乗りたい」と加わってきたのだ。

 辻将曹が土佐藩も乗るならば、京都に兵力を連れてくるように、と条件をつけた。そのうえで、芸州、薩摩、土佐の3藩連盟で、15代将軍の徳川慶喜に建白書を出すという約束だった。

 後藤象二郎は、20日間で兵を連れて上京するといい、それを土佐に持ち帰ったのだ。しかし、山口容堂の派兵反対から、芸州・薩摩との約束が果たせず、窮地に陥った。
 後藤がスタンドプレーで、土佐一藩で大政奉還を建白したのだ。そこで、芸州藩もすぐさま同様の建白書を出してきた。
 芸州藩はある意味で、後藤に裏切られたのだ。
 
 土佐の文筆者がそれらを知りながら、故意に「船中八策」を捏造し、芸州藩からでなく、龍馬からの提案だとした可能性が高い。それは歴史をわい曲し、冒涜していることになる。
 少なくとも、船中八策は明治16年、土佐新聞「汗血千里の駒」のあとに、だれかしら文人によって作為的に創作されたものだ、と言い切れる。


 紀州藩の軍艦と衝突・沈没した、いろは丸事件でも、土佐出身の研究者や学者に、作り話が見られる。
 平成に入り、鞆の浦沖合いで、京都埋蔵文化財研究所が中心となり、海底調査が行われた。推定・いろは丸の船内から発見されたものはレンガ(蒸気船の炉)や石炭、一部瀬戸物、革靴など、ガラクタばかりだった。

 これまで土佐人の研究者や学者たちは、いろは丸が長崎から金塊と最新式銃を積んでいた、と文献にもっともらしく記載してきた。ところが、これが海底調査から弾丸一つすら発見されず、でたらめな史料だったと判明した。

 龍馬が長崎から芸州藩・震天丸(しんてんまる)で、1000丁のライフル銃を土佐に運んだ。龍馬は手紙に1000丁の買い付けをすると記載している。それなのに1500丁を長崎から積み込み、200丁は下関、300丁は大阪に送ったとする。これも根拠に乏しい、数字の上乗せを行っている。


 司馬遼太郎氏は、土佐人による、こうしたさも史料に見せかけた巧妙な作り話に乗せられて、「龍馬が行く」を執筆している。
 小説だから、多少の違いや憶測は許される面がある。問題なのは現代でも、司馬氏の作品から龍馬が船中八策、大政奉還の発案者だと信じていることだ。


 龍馬は3万両もする大洲藩の蒸気船・いろは丸でを沈めた。一般的に言えば、嵐でもないのに高価な船を沈めた船乗りに、だれも船を貸さない。まして、当時は日本国内で、蒸気船など建造できないのだから。(ジャンボジェットを墜落させたパイロットに航空機を貸さないようなものだ)

 幕末・芸州藩は大政奉還の火付け役だった。武力を背景として徳川幕府に政権を返上させる。そのために、大切な蒸気船・震天丸を龍馬に貸与し、長崎から土佐に最新の銃を1000丁運ばせたのだ。
 慶喜の大政奉還(慶応3年10月15日)までに、龍馬が直接関与したのはこの程度のことだろう。
  
 倒幕は薩長土芸だったが、明治にはいると、(佐賀人の巧妙さから)薩長土肥となった。大政奉還の最大の推進役だった芸州藩が、なぜ幕末史から消されたのか。これも歴史ミステリーである。

        写真の城は・広島城=原爆で焼失したので、戦後再建された
  

「ジャーナリスト」トップへ戻る

ジャーナリスト
小説家
カメラマン
登山家
「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより
歴史の旅・真実とロマンをもとめて
元気100教室 エッセイ・オピニオン
寄稿・みんなの作品
かつしかPPクラブ
インフォメーション
フクシマ(小説)・浜通り取材ノート
3.11(小説)取材ノート
東京下町の情緒100景
TOKYO美人と、東京100ストーリー
ランナー
リンク集