司馬遼太郎の幕末史観はどこまで正しいのか? (2)
龍馬は長崎・亀山に社中(会社)を立ち上げた。ここは経済活動として、部下に長崎をほとんど任せていた。
龍馬の政治活動の主体は長州だった。お龍との新婚生活も下関である。それには理由がある。
「当時の庶民は、第二次長州征伐で、長州一藩が巨大な徳川を倒したことから、圧倒的な長州人気となりました。他方で、庶民は物価高騰で、打ちこわしが広がり、徳川から心が離れていった。毛利対徳川。関が原の戦い、と同様の構図で、長州人気にいっそう拍車がかかってきました」
毛利が徳川打倒の象徴になる。そう捉えると、龍馬の行動がわかりやすい。すべての同盟に長州を絡ませる。あるいはその努力をしている。
「龍馬の政治活動の主軸は長州です。薩摩ではないのです」
当時の薩摩藩は嫌われものだった。
徳川11代将軍、13代将軍の正室は島津家から嫁いでいる。薩摩の討幕といっても、徳川家対島津家であり、それは政治的な陰謀であり、権力の野望に過ぎない。
庶民は薩摩の権力と強引さに嫌悪感を持っていた。だから、薩摩一藩ではまったく動きが取れなかった。
「政変や革命は、権力者だけで成すものではないのです。庶民に支持されないと成功しない。フランス革命、アメリカ独立、ロシア革命もしかり。幕末の倒幕も同じで、民衆の力を最大限に引き出すことです。龍馬は身をもって認識していました。いろは丸事件がそれです」
脱藩浪人の海援隊の船が、紀州藩の大型軍艦と衝突し、沈没した。鞆の浦、長崎、と交渉は難航した。
『船を沈めたその償いは、金を取らずに国をとる』
龍馬は長崎でみずから歌をつくり、流行させた。紀州藩は世論に負けて、8万3000両の賠償金を支払うことになったのだ。
龍馬は世論作りの名人だったともいえる。薩摩の討幕では民がついてこない。薩摩の武力よりも、龍馬は大政奉還の道を推し進めていた。やがて、龍馬は暗殺された。
「政治は庶民が変えるものです。現代でも同じです。政治家は支持率という民の目を気にして動く」
司馬氏の作品は、権力者の対立構造に偏重している。個人的に薩摩が好きだったからだろう、薩摩志士を美化した面がある。庶民の討幕期待の目は長州にあった。龍馬はそれを感じ取っていた。
「司馬さんは民衆の捉え方が弱い。世の中は権力者だけで動くものじゃない」
私は講演の最後で、そう強調した。