軍事政権の残虐な行為、妊婦と幼児に銃弾=4半世紀後の証言
『アルゼンチンの行方不明者の問題』という、タイトルには興味がなかった。地球の裏側の出来事で、遠い国の行方知れない人? そう思うと、まったくの他人事だった。
日本ペンクラブ会員向けの『詩人ファン・ヘルマン氏を囲んで』という懇談会の案内が来たときの、率直な印象である。
外国人作家には疎いし、どんな経歴の人物かよくわからなかった。アルゼンチン大使館の関係者が参加するので、席の都合上、30人限定だった。私は広報委員して覗いてみるか、という軽い気持ちで出かけた。
4月30日、懇談会の席で配布された、ファン・ヘルマンさん(79)の略歴をみると、ノーベル文学賞候補にノミネートされていた。会場にはアルゼンチン大使夫人もきていた。「大物作家だな」という気持ちをもった。
1976年にクーデターで、アルゼンチンに軍事政権ができると、市民の言論弾圧が始まった。「誘拐(連行)、拷問、殺人、遺体の消滅の4つが行われてきました」とファン・ヘルマンさんは話す。
連行された先は海軍の軍人養成学校で、そこが秘密拘置所だった。拷問の末に、麻酔を投与され、生きたまま海に投棄されて殺害されていた。あるいは遺体が焼かれた。家族たちには行方不明者扱い。現在も、その実態がわかっていない。行方不明者とは、軍事政府の手で殺害された人たちだ、と理解できた。
「息子夫婦は同年8月、朝4時にパジャマ姿で連行されました。息子は拷問の末に殺害されました。妊娠七ヶ月の嫁は、出産した後に、殺害されました」とヘルマンさんは悲しい出来事を打ち明けた。
殺害から13年後、世界中のノーベル賞受賞者、知識人、芸術家、詩人、作家の支援の下に、ヘルマンさんは息子・マリエルさんの遺体を取り戻すことができたのだ。遺体はドラム缶に石灰、砂、セメントをいれて川に沈められていた。
7年間にわたる独裁政権は、ゲリラの掃討という名の下に、約3万人の行方不明者(殺害者)が出たという。
「発見されたなかに、妊娠中の女性の遺体がありました。二発の銃弾が撃ち込まれていた。一つは出産した母親に、もうひとつは嬰児でした」と語る。
「ここまでやるのか」と思った。軍人政治の怖さ。それを私の筆で伝えたいと思った。日本ペンクラブ・メルマガとPJニュースに書こうと思った。
アルゼンチンの政治状況はわからない。ヘルマンさんはかつて政治亡命もしている。ネットは地球の裏側でも読めるし、迷惑が及ぶ? という不安が脳裏を支配していた。懇談会の最後の質疑で、私は手をあげた。
「ヘルマンさんは海外で、かつての軍事政権の批判をされています。こうした活動は、現在においてもリスクはありますか」と質問した。ヘルマンさんは「まったくありません。国内でも、いまは自由に語れます」と応えてくれた。
懇談会のあと、近くの居酒屋で、参加者たちが懇親した。ヘルマンさんはノーベル文学賞候補者だが、気さくな人だな、と思った。日本を知ろうとして、料理に興味を向け、あえてハシを使って刺身や焼き鳥を突いていた。最後には、私たちに自ら握手を求めてきた。
PJニュースでは、記事の切り口を模索した。5月3日は憲法記念日だから、軍事政権の怖さと憲法論議とを重ね合わせ、多少の私見をからめて執筆した。日本ペンクラブ・メルマガはヘルマンさんの発言に忠実に書き込んだ。