A010-ジャーナリスト

新年早々

 元旦は快晴だった。羽田発の広島行2便の旅客機から、眼下に白雪の富士山を見た。山頂の噴火口も鮮明にのぞけた。機内から、こうも間近に富士山を見下ろしたのは初めてだった。
 スチュワーデスがコーヒーを差し向けながら、「とても素晴らしい富士ですね」と声をかけてきた。彼女の笑顔の一言も、心をうるおす。09年早々の素晴らしい光景だ。

 一昨年12月には富士吉田側の一合目から、富士山・山頂を目指した。アクセスが悪く、なおかつ積雪をなでる強風で、七合目半で引き返してきた。そんな登攀の思い出がよみがえった。

 正月に、広島に帰省するのは数十年ぶりだ。大学生のころか、少なくとも24歳で結婚した頃まで遡らないと、記憶にはない。子どもが生まれてからは、年末年始の帰省ラッシュに、郷里の島に帰ってことはない。難儀して交通機関の指定券を取る。そんな苦労はムダだと考えていたから。

 3日前の、12月29日の夕刻、瀬戸内の島で一人暮らしする老母が倒れた。島から救急車で竹原市の病院に搬送されていた。30日は島の親戚筋、31日は私の妻と息子。そして、元旦には私が現地に向かった。
「横浜にいればよかったものを」
 私はつぶやいていた。

 2年前だった。横浜在住の、私の実妹が別宅まで用意して老母を引き取った。都会生活を嫌った母親は半年で、瀬戸内の島に、こっそり逃げ帰ってしまった。一時は行方知れずで、逃げ隠れていた。数ヵ月後には、町営住宅に入居していた。もう一度、横浜暮らしを勧めたが、
「島で生まれ育ったけんの、島がええ、死ぬまで」
 それであきらめた。

(独り身だから、いつか倒れて、発見が遅くなる)
 そう予測していた。ある意味で、覚悟はしていた。それに近い状態だった。

 昨年の大晦日、ちょうど365日前に、同じ島にすむ従兄が死去した。正月の帰省ラッシュだからといい、葬儀に参列しなかった。この時期は帰れないと決め付けて、交通機関のチケットすらあたらなかった。
 実の母親が危篤となると、帰省ラッシュなどと言っていられない。

 着陸した、広島空港の周りは前夜の雪で、薄化粧していた。竹原市内の病院で母親と対面するが、こん睡状態だ。看護師から状況を聞くのみだった。
 フェリーで島に渡り、母親が住む町営住宅の部屋に入ってみる。素朴な生活の匂いが感じ取られた。おなじ島に住む親戚筋をまわってから、父が眠る今治市に向かった。

 正月2日は今治から福山にバスで渡った。「しまなみ海道」の島々や海岸、造船所などが車窓に次々に映し出されていく。ぜいたくな風景だった。

 JR福山駅ではすでに上京ラッシュがはじまっていた。指定券はゼロ。自由席も満員で福山に着くという。新幹線はあきらめて高速深夜バスをあたると、新宿行きに一席の空きがあった。それに決めた。夜までの時間つぶしで、福山城とその城下を見てまわった。

 単なる観光ならば、今年はこんなにも新年早々に景色を堪能できたと感慨深かっただろう。目的が違うと、良い景色を見ても、晴れ晴れとしないものだ。

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