日露戦争・一兵士の戦地からの手紙が発見
更新日:2007年4月30日
学友が仏壇の引出しを整理していたとき、日露戦争で亡くなった兵士からきた手紙が出てきたという。明治37年8月の差出日だった。
差出人は溝口枩三郎(陸軍歩兵軍曹)である。奉天陥落が1905(明治38)年3月10日。その5日前に、溝口軍曹は歴史に残る激しい『奉天の戦い』で命を落としている。それは、当時の家人が封書に添え書きしていた。
手紙の内容は、戦死の半年前の戦況を語るものだった。
7月31日から8月1日の『木城より海城に至る。敵の要所第一線、闘魂の戦いに加わった』という。海城から退却する敵兵が倉庫に火を放つ。わが軍は追撃する。
こうした戦況と戦勝ぶりが記されている。
他方で『わが十師団の死傷者は七百名余り、五師団二百名』という犠牲を述べている。軍曹はいっしょに入営した上等兵の吉田氏が、敵の銃で足の腿を打ち抜かれた。砲声はますます激しく、小銃は豆をいるように、雨が降るように浴びた。『小生もこの戦いで死せし思いが起きた』と、激戦でのわが身の怖さをつづる。
そのうえで、神仏や皆様のお陰で、わが身は健勝だったという。
この戦いを無事に切り抜けた溝口軍曹だったが、半年後には戦死している。行年24歳だった。そこには戦争における兵士の痛ましさを感じるものだ。
このところ憲法改正問題が論議されている。日露戦争の若い兵士の手紙から、あらためて『戦争とは何か』と考えさせられた。戦争が起きれば、死ぬのは若い兵士だ。法を変えた老獪な政治家はけっして戦地で死なない。
いまや遠くなった日露戦争だが、21世紀の戦争でも、『戦争とは、人間のいのちを奪いあうものだ』という認識は覆らない。