東京下町の情緒100景

東京下町の情緒100景(072 やぐら太鼓)

 駅前アーケード街には、浴衣姿の男女が歩く。浴衣の帯に団扇を差す、粋な姐さんもいれば、長老の姿もあった。

 路地からは太鼓の音が流れてきた。下町っ子の心にひびく、『東京音頭』だ。誰もが浮き浮き顔だ。

 リズミカルな曲に誘われて、路地に入ってみた。映画館の跡地が小さな公園。ゲートには『納涼大会』。中央の高い櫓からは四方に提灯が吊り下がる。寄付した店の屋号が一つひとつ光を放つ。大きな商店街だけに、その数が多い。

 やぐら太鼓の音が勇ましい。男女が二組で叩く。民謡や音頭がくり返し流れる。

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東京下町の情緒100景(071 看板)

 明治時代から昭和半ばまで、物資の大量運送は陸路よりも、河船による水運が中心だった。荒川の四ツ木は荷揚げ場だった。河船が船着場に着くと、雑貨や穀物などの生活物資が荷揚げされ、大八車で各方面に運ばれていた。

 当時は住居にしろ、店舗にしろ、ほとんどが平屋だった。晴れた日には荒川の遠景として富士山が浮かんでいた。往年の人々の目には、その手前に「玉子屋」の看板が映っていたものだ。

「玉子屋」の屋号からすると、鶏卵料理専門の店だと思ってしまう。その実、ウナギ、鯉などを使った川魚料理の大衆割烹屋だ。値段は手頃。だから、下町の人たちの会席場としても利用されている。

 屋号のルーツは玉子と無関係ではなかった。昭和初期には養鶏業者だった。四ツ木周辺が船着場として栄えてきたことから、兼業で飲食店をはじめたのだ。

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東京下町の情緒100景(070 修理工場)

 津々浦々には自動車の修理工場がある。車が走るところには、必ず痛々しい事故が発生する。下町も例外ではない。
 空地を利用した修理工場では、油汚れの修理工が傷ついた車をなおす。新車もあれば、中古車もある。フロントガラスの飛散、バンパーの破損、ボディーの傷など多種多様だ。

 乗用車はアクセル一つ踏み込めば、豹、ピーターなどの野獣より速く走れる。なおかつ長く距離が延びる。
 天が人間に与えた平衡感覚、スピード感覚となると、人間が両足で走れる範囲までだ。それを超えた速さになれば、あらゆる感覚が狂い、神経が高ぶる。だから、運転が粗雑になったり、乱暴になったり、疲労蓄積から運転中に眠ってしまったりする。そして、事故を起こす。

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東京下町の情緒100景(069 のうてんき)

 下町・立石駅の裏通りで、面白い看板を見つけた。それは『呑(のう)てんき』。上手なネーミングだ。人間味がある店に思える。
 落語に登場する人物を、この呑み屋に立ち寄らせてみた。

「おいハッさん。いい店を見つけたぞ。一杯やっていこうじゃねえか」
「真っ昼間からか。赤い顔して帰ったら、カカアがうるさい。稼ぎは悪いし、甲斐性もないのに、昼間から呑んだ、と」
「まいど女房の大きな尻に敷かればなしか。呑んで帰って、デケエ尻を一つ、二つ蹴飛ばしてやれ。亭主の威厳をみせて」
 噺家が威勢よく、身振りで示した。

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東京下町の情緒100景(068 七曲)

関東地方の川は秩父連峰、丹沢連峰から流れてくる。河口近くになると、直線の形状で東京湾や相模湾に流れ込む。
一級河川の中川は葛飾の町なかに入ると、とたんに曲がりくねる。曲がりは一つや二つではない。幾つも蛇行をくり返す。そのうえ、極度の鋭角で曲がる。

中川・七曲の朝は東京湾からかもめが飛来し、鳴きながら、群れて遊ぶ。日中になると、河船がエンジン音を響かせ、橋下を潜り、上り下りする。日暮れになると、茜色の夕焼け雲が川面に映る。夜には河岸の灯火が揺らめく。どの情景も良い絵になる。

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東京下町の情緒100景(067 廃墟)

 廃れた工場を見るたびに、「あの会社の社長さんは? どうしただろうね?」
 と老婆は孫の息子に話しかける。

「うちらが若い頃は、羽振りが良かったのに」
 中川沿いには染物工場、ゴム工場が並んで、町全体がことのほか活況だった。だから、駅前には花街もあった。老婆はそんな時代を知る。

 住いの窓を開けると、繊維とゴムの臭いがぷーんとにおってきたものだ。それで風向きがわかった。異臭だと毛嫌いするのではなく、景気のよさだと思っていた。

 工場はやがて時代の荒波に乗り切れなくなった。

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東京下町の情緒100景(066 朝の公園)

 夜が明けると、児童公園には隣近所の住民たちが清掃用具を持ち寄ってくる。

 お揃いのウインドブレーカーを着ている。これだけでも、住民の心が一つになれるから、不思議なの。朝の清掃は地域の奉仕というよりも、私の心を掃き清めるためにやっているのよ。

 きょうは地面がことのほか乾いているわ。吹く風が肌に感じられる。南風だわ、だから寒くない。丁寧に履かないと、砂埃が立つ。私は慎重になる。

 園外の周辺道路にも足を伸ばすの、いつも。私有地の道路とか、公道とかわずわしいことなど考えない。みんなの生活の道なのだからだ。心を磨くように隅々まで丁寧に掃くことが、私の心を納得させる。

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東京下町の情緒100景(065 交差点の信号待ち)

 下町の一角には、町を串刺しにする大街道がある。駅前の大きな交差点で、信号を待つ、ベビーカーを押す母親たち。目のまえを大型トラック、トレーラー、配達便が行きかう。汚れた空気を意識してしまう。

 母親はつねにわが子の幸せを願う。そして、この子たちに何かを残してあげたい、と。
「一番のプレゼントは新鮮な空気だけれど?」
 大都会の物流を支えるトラックが数珠つなぎ。私も享受している身だから、悪くいえない。どうすればいいのかしら。

 空気の汚い交差点は通りたくない。駅前商店街の買物はここを通らないと行けない。幼い子をひとり家に残せないでしょ。危なくて。

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東京下町の情緒100景(064 金魚屋)

 江戸時代から、夏の風物詩のひとつに金魚売りがある。『きんぐょ、金魚え~』という抑揚のある声を聞くだけで、涼感を満たしてくれる。袢纏姿で、天びん棒を担ぐ男が『きんぐょ、金魚え~』と江戸城に近い大名屋敷の街なかを歩き、金魚と風車を売る。


 大名たちは立派な鯉を買い求めて山水をかたどる庭の池に放った。豪商は武士の真似をしたがる。豪華で色鮮やかな、数十両もする金魚を求めて自慢する。華美を追求する道楽となった。

 江戸川の川べり一帯は沼地で、農耕に適さない不毛の地だ。農民は沼に小舟を浮かべて蓮を取る。収入は少ない。貧農たちが金魚に目をつけて、沼に囲いを作り、金魚の養殖をはじめた。金魚売は江戸川の沼池で仕入れ、江戸の町なかで売る。

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東京下町の情緒100景(063 水車)

 下町っ子は花が大好きだ。狭く入りこんだ路地裏でも、可憐な花を植える。そして、咲いた花は近所づきあいの話題を取る。行きかう人たちの目を楽しませる。

 下町っ子は駅前アーケード街の路肩も見逃さない。プロの庭師から、大学生、小学生までもが、テーマ花壇の腕前を競う。いまやフラワーロードと名づけられた。展示された造形花壇が延々とつづく。

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