東京下町の情緒100景(095 道しるべ)
更新日:2007年12月 1日
下町の一角には、苔むした古い「道しるべ」がある。史跡の碑によれば、1755(宝暦5)年に建てられたもの。いまから250年前だ。出羽三山の信者(講中)が無事に参拝できた記念に、『旅人に役立てよう』と作ったものだという。
交通機関のない時代に、徒歩ではるか遠く、山形県の出羽三山(山月山、湯殿山、羽黒山)まで出向いていたのは驚異的だ。
昔の人は健脚だったにしろ、旅先で病気とか、不慮の事故とか、追剥(おいはぎ:強奪、略奪)とかに遭う確率が高い。無事に帰りついた喜びは納得できるものがある。
現在ならば、葛飾の一角に出羽三山の方角を示されても、まったく役立たない。京成電車で上野駅に出て、新幹線で山形駅に向かうだけだ。
江戸時代は、この「道しるべ」が信者に、千葉方面の成田山と、東北方面の出羽三山と、岐路だと教えてくれたのだ。役立つほど、旅人の往来があったと推量できる。
松尾芭蕉の『奥の細道』を学んだ学生時代、芭蕉が俳人として特別な人間だから、奥州の旅ができたのだと、勝手に信じ込んでいた。
しかし、下町の苔むした「道しるべ」をみて、『奥の細道』の見方が違ってきた。
「道しるべ」建造の動機が、『旅人に役立てよう』という趣旨だ。それほど、庶民の間で、奥州の旅が流行していたのだ。だから、道しるべが必要とみなされたのだ。
当時は、伊勢参り、富士講など、秩父路の遍路、数を上げれば多々ある。江戸の庶民は信仰を背景にした、旅が好きだったのだろう。信仰にしろ、観光にしろ、旅に出たい人間の気持ちは、古今おなじなのだ。
少なくとも、芭蕉が特別の旅人だとは思えなくなった。