東京下町の情緒100景(071 看板)
更新日:2007年7月 3日
明治時代から昭和半ばまで、物資の大量運送は陸路よりも、河船による水運が中心だった。荒川の四ツ木は荷揚げ場だった。河船が船着場に着くと、雑貨や穀物などの生活物資が荷揚げされ、大八車で各方面に運ばれていた。
当時は住居にしろ、店舗にしろ、ほとんどが平屋だった。晴れた日には荒川の遠景として富士山が浮かんでいた。往年の人々の目には、その手前に「玉子屋」の看板が映っていたものだ。
「玉子屋」の屋号からすると、鶏卵料理専門の店だと思ってしまう。その実、ウナギ、鯉などを使った川魚料理の大衆割烹屋だ。値段は手頃。だから、下町の人たちの会席場としても利用されている。
屋号のルーツは玉子と無関係ではなかった。昭和初期には養鶏業者だった。四ツ木周辺が船着場として栄えてきたことから、兼業で飲食店をはじめたのだ。
船着場の四ツ木、立石、青砥、高砂へと、人々や大八車の往来が多く、道路の両側には商店街が数珠つなぎに並んだ。各商店街が一つの線で結ばれていた。
現在はトラック輸送が発達した。四ツ木の船着場はごく自然に消滅しまった。頻繁だった往来も淋しくなった。閉店する商店が多くなった。しかし、「玉子屋」はがんばっている。
京成電車が高架になると、町が分断された。高速道路が通り、四ツ木がインターとなった。時の移り変わりとともに、「玉子屋」の看板は見え難くなった。
それでも挫けず、「玉子屋」の高い看板はがんばっている。