東京下町の情緒100景 (駅ビルのない町 005)
更新日:2006年7月22日
三十代の女性が三歳の女児の手を取り、駅舎の階段を上っていた。駅舎とはいかにも古めかしいひびきだが、エレベーターも、エスカレーターもない、昔ながらの造りだった。
足元をぬらせば、乗降客が滑って転倒するから、ことのほか慎重だ。
「がんばって、あといくつかな」
母親は一段ごとにわが子を励ます。幼子は懸命に歩幅を広げている。
駅員が如雨露(じょうろ)に水を汲んできた。植木鉢ひとつずつ丁寧に水を撒く。 さっきの幼子が指す。
「この小さなバラは、今年よく咲いているわね」
それはわが子よりも、駅員に聞かせる口調だった。駅員は日ごろの手入れを誉められたかのように微笑む。それだけことだが、親しみのある情景だ。
駅舎は近ごろすこし洒落っ気を出して自動改札になった。ホームへの下り階段の踊り場には、窓枠を利用した、小さな花壇がある。小ぶりの植木鉢が8鉢ばかりならぶ。
ミニ園芸は駅舎が二階建てに改造されたときから、いつもなにかしらの花を咲かせている。
乗降客の目を愉しませて、もう十数年経つ。
母子がホームに立つ。最新型の特急や快速がこちらのホームの乗客を見下したような態度で、風を切って通過していく。急ぐ電車など、先に行ってしまえばいい。この駅に停車すれば、かえって情感を壊し、不似合いなのだから。
かつて鈍行とよばれた各駅停車が、やがてノコノコやってきた。母子が手をつないでゆっくり乗り込む。後方では車掌がじっと見守っていた。