東京下町の情緒100景(100 下町の桜)
中川は桜土手で有名だった。花見といえば、中川の桜。隅田川の桜には比べても、見劣りがしないものだった。年一度の、花見の宴はどこまでもつづいていた。下町のひとは総出で酒を飲み、歌い、踊り、料理をつまみ、子どもらは嬉々として走り回っていた。
100年を一区切りとみなせば、数十年に一度は中川の水は暴れていた。曲がりくねった堤防はどこかで破られた。被害は出るが、総出で復旧させていた。
自然災害は人間の力や能力を超えている。水害に慄くよりも、春爛漫の桜を楽しむ。葉桜並木は夏も涼しい。それが先人の英知だった。
世のなかには利巧ぶるひとがいる。「中川は氾濫の歴史だ。水害から人命を守る、治水対策は不可欠だ」とかれらは正義の声として叫んだ。
人命が最優先。このことばは桜よりも美しくひびく。下町の住民は反対できなかった。