寄稿・みんなの作品

荻外荘(てきがいそう)通り  井上 彦清

 フーテンの寅さん風に言えば、
「わたし、生まれも育ちも現在も、東京杉並荻窪です。祖父の頃から数えて三代目です」

 令和三年・コロナ二年が始まってもう一月中旬です。今日一六日は、日本で初めてコロナ感染者が出てからちょうど一年が過ぎました。

 昨年四月七日に新型コロナイルス防止のため緊急事態宣言発出があって以降、我が家は、巣ごもり生活を余儀なくされている。今年に入ってから感染爆発を受け、政府はやっと年明け七日に再度七都府県に緊急事態宣言を発出した。
「とにかく国のやることは遅い」とテレビの前でいつも怒っている。


 家に居続けることで、注意しなければいけないのは、体力、筋力が落ちることだ。いざ歩こうと思ったら思ったように歩けないでは情けない。

 その危険を察知した我が家のコロナ検疫官である妻は
「あなた、今日は、天気がいいから散歩をしなさい」
 と勧める。

 彼女には、先を読む能力があるようで、絶えず先回りしてくるので、ときには、癪に障る。
一日合わせて一時間のヨガ・真向法、テレビ体操などを、メニューを時々入れ替えながら半世紀近く続けている。

 朝晩の瞑想も、三十年を越える。
 しかし、これだけでは、十分ではない。外に出て、新鮮な空気を吸い、陽射しを浴びながら自転車を漕いだり、歩いたりすることが重要なことを、コロナ下で嫌というほど痛感している。


 コロナ前は、自宅からの散歩の方角を、東西南北まんべんなく決めていた。しかしコロナ後は、我が家から南の方角、最寄りの荻窪駅の南側が定番の散歩コースとなっている。最近、妻から「また南側なの」とよく言われる。

 
 北側方面は、最近大規模の老人ホームの建設がアチラコチラで進んでいる。わたくしも八十歳に近づき、老人ホームが身近に迫ってくるみたいで気分が重くなる。
 妻からも朝刊の折込広告を見ながら
「この辺って、老人ホームだらけになっちゃうわね」
 とよく言っている。
 なんとなく北の方角は暗い感じがして、散歩の足が遠のいている。



 それに比べ、荻窪駅の南側は、荻外荘・大田黒公園・角川庭園の三庭園や、昨春、新装なった杉並区の中央図書館もある。
 荻窪は、百年前は「西の鎌倉、東の荻窪」と呼ばれた、別荘地のイメージだった。関東大震災後、文化人を含む多彩な人々が暮らす、緑豊かな郊外の屋敷町に変貌を遂げた。


 私が、四季折々に足を運ぶ「大田黒公園」の由来を見てもわかる。戦後、NHKラジオの番組「話の泉」のレギュラーとして知られた音楽評論家の大田黒元雄氏は、昭和八年にこの地に移り住んだ。
 洒落た洋館を建て、八十六歳で亡くなるまで四十七年間音楽活動を続けた。氏の屋敷跡を杉並区が日本庭園として整備し、昭和五十六年に開園した。

 園内には、樹齢百年を超える銀杏並木や、武蔵野の巨木がうっそうと茂っている。桜や紅葉の季節など四季を通じて訪れる人の眼を楽しませてくれる。
 駅から歩いて十分ほどと交通の便も良い。祖父が、神田から移って荻窪の地に家を建てたのも昭和八年だ。幼い時父から、移り住んだ頃は、家がポツンポツンと点在していたと聞いた記憶がある。


 三年前に、自宅近くのゆうゆう桃井館で開催している、「おとこのおしゃべり会」に荻窪地域区民センター副会長をお呼びして講演会を企画した。

 同センターは、設立四十周年記念事業で『荻窪の記憶』とりまとめた。
 今回はその中の「大田黒公園周辺百年の歴史」を、戦前に撮影された貴重なホーム・ムービーの映写を交えながら、興味深い話の数々を聴いた。同センターでは『荻窪の記憶』を伝える道の愛称を公募した。その結果「荻外荘通り」と名称が決まった。


 この地域は、昭和史の舞台になった国指定史跡の「荻外荘(近衛文麿旧宅)」のほか、四つの国登録有形文化財「西郊ロッヂング」(昭和初期に賄い付き下宿として建てられた。現在も形を変え営業中)、「旧大田黒家住宅洋館」、「渡邉家住宅主宅(戦後旧八幡製鐵社長を勤めた渡邉義介氏の敷地にある、建築家吉村順三氏による昭和の名建築)」、「幻戯山房(旧角川家住宅主宅、俳人で角川書店の角川源義氏の旧宅)」が至近距離に集まっている都内でもまれなエリアだ。


 近くを流れる善福寺川が造り出す起伏豊かな地形も魅力の一つだ。

 蛇行する川の両側には、桜並木や、常緑樹、広葉樹の多彩な樹々がそびえる。例年、桜や紅葉の季節には、妻とともにサイクリングで訪れる。
 私は、距離と時間を稼ぐのと、自転車運転の勘を維持するため、自宅から駅前の自転車駐輪場まで自転車を使っている。そこから南側を散歩するのが定番になっている。

                                   
「荻外荘の道」に面したマンションに住んでいる俳句仲間の女性が、季節の折々に、中央図書館横の「読書の森公園に睡蓮が咲いているわよ」とか、「大田黒公園の紅葉が見頃で王朝絵巻みたいよ」と知らせてくれる。

 こうした情報にも助けられ、俳句のテーマや、スケッチのモチーフになったりして、「荻外荘通り」は、私の創作活動の源泉になっている。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

似た者どうし  金田 絢子

 103歳の叔母(母の妹)が「水も受けつけなくなって、医師から、もう長くはないと言われた」と、従妹が電話をかけてきた。

 令和2年9月20日のことである。私はちょうどお昼を食べていた。そこへ、電話の音を聞きつけた長女が二階から降りてきた。報告しながら涙がこぼれた。大層高齢であるし、覚悟はしていたはずだのに。

 亡くなった私の母は活発で、叔母はどちらかというと大人しい人だった。私は、その点母より叔母に似ている。



 私と娘三人は、電話があった日の翌日、大田区中央にある叔母の家に出かけた。もともと大きなパッチリした目の叔母が、うっすら目を開けているという按配だったが、私の来たことがわかった様子だった。
 両手を頭の上まであげて、しきりに動かす。私たちはかわるがわる、その手を握った。叔母は、力強く握りかえしてくる。

 叔母の顔は皺々ではなく、なめらかであった。私の母が死んだ時夫が「こんなに美人だったかなぁ」と死に顔を評したが、その時母はまだ79歳だった。103歳の叔母の顔には、母と同じ穏やかな表情に加えて仏さまのような清らかさがあった。

 手もよく動かすし、顔には艶があり、わずかだが目もあけている。私たちは“まだ当分大丈夫ね”と目交ぜて語り合い、それでも後ろ髪ひかれる思いで帰途についた。


 あくる日、従妹から叔母が亡くなったとの知らせが入った。よかった!きのうみんなで行って、会って、手を握ったり、すっかり毒気のとれたスッキリと美しい顔にも接したのだったと、思いは盡きなかった。

 この私だって、余生を生きているのだし、よろよろと老いの道を歩んでいる。早く死んでしまいたいと思う日もある。


 叔母が亡くなってひと月余り経った11月9日、食後に食べた柿の皮を、ゴミ容器の足許のペダルを踏んで捨てた。
 次の瞬間、よろめいて尻餅をついた。後頭部が、フローリングの床にあたって音をたてた。

“冷やさなきゃ”と咄嗟に思った。
 幸い転んだのが、冷蔵庫のまん前だった。保冷剤をとり出して、髪の上からあてた。瘤は出来たが、大したことなさそうだ。
 体のそちこちが痛いのに気づくのは、2、3時間経ったころで、ことに右脇腹から背中にかけて、ちょっと体の向きを変えるだけで、えぐられるように痛い。尻餅をついたあと、急いで起きあがろうとしてひねったものか。


 尻餅をついたのは月曜日だった。
 3日後の木曜日、いつものように、糖尿のくすりをもらいにちかくの内科に行った。医師に、尻餅をつき頭を打った話をした。
 すると、「脳外科で診てもらったほうがいい。この足ですぐ行くように。紹介状を書くから」とたたみこむように言われ、びっくりした。

 CTの結果は、頭の骨にも、頭蓋内にも異常は認められなかった。実は、これより二週間ほど前には、包丁を落として、右あしの甲を傷つけ、血が沢山出た。
 この時は、自らすすんでレントゲン検査を受け、結果は問題なしと出た。

 そんなこんなで
「お母さんは百まで生きるわ」
 と長女が言ったら、すかさず次女に
「お姉さん(お母さんを)頼むわね」
 と釘をさされたんだとか。ふふ、娘たちのやりとりが、目に見えるようだ。


 ここらで叔母の話に戻ろう。
 軍医として戦場にも赴いた叔父は大分前に他界したが、どんなに叔母を愛していたことだろう。私も幸せな結婚をした。私は叔母に似ているし、それに叔母と同じ三人の娘を持っている。

 私も仏さまのような顔で、この世に別れを告げる日がきっとくる。しきりにそんな気がする。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

感謝のお正月  武智 康子

 テレビから除夜の鐘が聞こえ、令和三年の新年を迎えた。昨年は、コロナで始まりコロナで終わった。さて、今年は、どうなるのだろうか。

 例年ならば、二人の息子達家族と共に三家族で、大晦日から二泊三日で都内のホテルに宿泊していたのだが、今年は無理だ。私は、一人正月を覚悟していた。しかし、二人の息子達の企画で、元日の朝、いつものホテルの京料理の料亭の個室で、祝い膳を食べることになったのだ。

 長男夫婦が私を迎えに来てくれた。私は、夫の写真を手提げにそうっと入れて出かけた。そして、料亭の部屋に入ると、六人掛けのテーブル二脚に七人が距離をとって座り、上座に夫の写真を置いた。私が夫の代わりに新年の挨拶を行い、いつものように皆で祝い膳を囲んだ。

 すると、店主が夫の写真の前にお水とお雑煮を供えてくれた。私は、店主の温かい気持ちに感謝した。久しぶりに家族が皆で顔を合わせたが、大きな声で話すことは出来なかった。
 しかし、皆が健康であることに心から感謝した。きっと、神様になった夫が家族みんなを守ってくれているのだろうと話し合った。



 会食後は、密を避けて東郷神社ではなく、地元の氏神様に初詣でをした。そこでも十分ほど並んだが、それぞれに今年の目標の成就やコロナの終息、そして何よりもみんなの健康を願い、新しいお札と破魔矢を頂いて私宅に集まった。
 皆が私宅に集まったのは、本当に久しぶりだった。

 そこで始まったのが、「百人一首」だった。それこそ何十年ぶりだろうか。私は、すっかり忘れていると思っていたが、いざ、始めてみると、私は読み手ではあったが、上の句を一言読むと下の句が自然に頭に浮かんだのだ。

 私自身がびっくりした。若い時に学んだことは、思い出せるのだ。今、八十路で学ぶことはなかなか覚えられないのだ。若い時にしっかり学ぶことの大切さの実証だ。即座に孫たちに伝えた。やはり沢山取ったのは、大学生の孫達だった。
「先に取ったのは私よ」
「いや、僕だよ」と大賑わいのかるた取りだった。

 私も、久しぶりに大笑いした。こんなに笑ったのは何年ぶりだろうか。

 夕食もちゃんと企画されていて、正月は元日だけ店を開ける私達が行きつけの老舗寿司屋にすでにテークアウトが予約されていて、息子たちが取りに行っている間に、お嫁さんたち二人がお吸い物やサラダなど作ってくれた。そしてリビングの八人掛けの大きなテーブルが、久しぶりに一杯になった。


 すると、今春、大学を卒業して大学院に進学する孫が、神殿の前に置いてある夫の写真を持ってきていつもの席に置いた。
 そして、一言ボソッと「僕も研究者になろうかな」と言った。この一言は、私の脳裡に強烈に刻み込まれた。夫の父と私の父の二人から三代続いている研究者魂が、専門は違っても四代目に受け継がれるかもしれないという大きな夢を、私に与えてくれ元気をもらった。夫も喜ぶだろう。
 私は「応援するよ」と答えた。それに続けて、「今日は、皆でいろいろ企画してくれて、本当に有難う。楽しかった」と言って、心から感謝の気持ちを伝えた。


 二つの大きな寿司桶は、あれよあれよという間に無くなっていき、お嫁さんたちが作った料理もなくなり、こんなこともあろうかと、私が用意していた苺とアイスクリームのデザートを食べながら、賑やかで楽しい令和三年の元旦の夜は、更けていった。


 十一時頃、そろそろ帰り支度をはじめ、最後に神前で「おじいちゃん、また来るね」と孫たちは手を合わせていた。
 そして、帰り際に、次男一家の孫は「おばあちゃん、コロナにかからないでね」、お嫁さんは「お母さん、くれぐれも気を付けてください」、次男は「お母さん、早く寝るんだよ」と言って、孫の運転で帰って行った。
 長男のお嫁さんは「お母さん、無理しないでくださいね」、最後に家を出た長男は「御袋さん本当に、気を付けてくれよ。何かあったら、すぐ連絡くれよ」と言って、車を発車させた。私は、自動車がマンションの駐車場を出て行くまで見送った。

 長男夫婦は、私宅から東の方向に車で十五分くらいの所に、次男一家は、私宅から南の方向にやはり十五分くらいの所に住んでいる。

 私は、皆を見送った後、家族皆が、私を心配してくれているのだと、目頭が熱くなった。

 五十代半ばの二人の息子夫婦は、日頃は、それぞれに会社の仕事で忙しくしており、一人暮らしの母親を、せめてお正月くらい賑やかにしてあげようと、二家族でいろいろな企画をしてくれたことが、とてもうれしかった。
 このことは、生前の夫が築いてくれた武智家の家風であり、家族の絆であろうとあらためて、私は夫と家族に心から篤く感謝したのだった。

 私は、今年も十分に健康に気を付けて、コロナ禍を乗り切りたいと心に誓った。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

ヒストリー・福島安正の単騎アルタイ山脈越え 上村信太郎    

 明治維新から25年後、まだシベリア鉄道はなく、日清・日露の戦争が勃発以前、1人の日本人が世界を驚かせた快挙がある。それは、当時まだ誰も成し遂げなかった厳冬期シベリア横断を、同僚や従者を伴わずに馬で完全踏破して日本人の存在を世界に示したことだった。

 その人物は当時ベルリン駐在武官の福島安正陸軍少佐(40歳)で、任務を終えての帰国にあたり、あえて騎馬で陸路を走破したもの。赴任地ベルリン出発に先立ち、福島はドイツ皇帝ウィルヘルム二世に謁見している。

 明治25年2月11日、英国産の9歳牝馬「凱旋号」に跨って勇躍出発。ベルリンを発ちポーランドのワルシャワ、ロシアのサンクトペテルブルグ、モスクワ、カザン、エカテリンブルグ、オムスク、セミパラチンスクを経由し、ロシアと清国(中国)国境地帯の山脈を越え、モンゴルのウランバートルから北上してロシアへ入った。さらに、バイカル湖畔のイルクーツクに立ち寄り、東シベリアのチタを経て、旧満州(中国東北部)に入り、ハルビンを経て三度ロシア入り、ウラジオストクから「東京丸」に乗船。釜山で汽船に乗換えてスタート翌年の6月29日横浜に上陸して市民の盛大な歓迎を受けた。

 所要日数は488日。延べ走破距離およそ1万4千㌔メートルだった。


 馬によるこれだけの長期旅行を実行するくらいだから、福島は騎馬隊出身と思ってしまうが実は歩兵。乗馬訓練は「凱旋号」購入のあと猛特訓している。

 また、幾つもの国を通過するのにどの国の言葉を使ったのか気になるが心配無用。福島は中国語、英語、ドイツ語、フランス語が堪能で、ロシア語を習得中だったからだ。

 この長大な横断のために福島が携行した荷物は全部で40㌔グラムと驚くほど軽量。主な持ち物は下着、手袋、洗面具、医薬品、地図、製図用具、日時計、晴雨計、馬体手入具、予備の蹄鉄、人馬の予備食糧1日分、護身用として軍刀と拳銃。他に寝具用毛布1枚と外套を鞍の後部に括り付けた。

 最初の難関はウラル山脈越えだ。入山5日目の7月9日、山頂に建つ「欧亜境界碑」に到達した。二番目は、ロシア、新疆ウィグル、モンゴルの国境に連なるアルタイ山脈越えだ。ロシア人将校の助言によりキルギス人の案内人を雇う。

 山脈中の富士山に似た峰に「アルタイ小富士」と命名したスケッチを残している。9月20日、ロシア国境警備隊に見送られて麓の村を出発。山中で大吹雪に遭うもウランタバ峠を突破。国境を越えて9月24日にモンゴル側の遊牧民天幕に到着。アルタイ山脈踏破は日本人最初であった。

 三番目はバイカル湖の東に位置するヤブロノヴィ山脈越え。標高こそ低いが厳冬期のため気温は氷点下30度以下。1月14日この山脈の峠を越えた。その28日後、アムール河上流の凍結した氷上で落馬し、昏睡状態に陥る瀕死の重症を負うも、奇跡的に恢復して旅を続行。


「単騎シベリア横断」を実行した福島の動機は、欧州人が事あるごとに日本人ら東洋諸国を軽蔑した態度をとるのに反発し、それなら世界初の偉業を達成して彼らの鼻柱を折ってやろうと思ったのが真相らしい。

 冒険ブームの今、「冒険家・福島安正」をマスコミが取り上げないのはもったいないと思う。


 最後に、単騎シベリア横断の主役は馬だ。「凱旋号」の運命は哀れ途中で死亡。すぐ現地で次の馬を購入して「ウラル号」と命名。ウラル山脈を越えたがケガをしたため手放す。難所アルタイ山脈越え直前にロシア人の牧場で5歳の牡馬を入手し「アルタイ号」と名付けた。

 全行程で購入した馬は10頭。この内、「アルタイ号」など3頭は日本まで連れてこられ、最後は上野動物園で余生を送ることができたのだった。

   (白山書房『山の本』112号掲載文を短縮)

   ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№250から転載

いつもと違う夏・コロナ禍の陣馬山=市田淳子

 新型コロナ感染の収束が見えず、夏になってもいつもと違う生活を強いられている。withコロナの山行はどうあるべきなのか、自分自身に問いながら、8月22日、陣馬山から高尾山までを歩いた。

 山に行くことを考えるなら、まず、体力を維持しなければならない。今までなら夏山のためトレーニングをして山に臨んでいたが、春から自粛生活をしているのだから、トレーニングは他の形でできる限りしておかなければならない。
 そして、山では人との距離を持つ工夫が必要で、出会ったならマスクを着用して、自分も他人も守らなければならないと思ってきた。

 そんなことを念頭に8月22日、陣馬山から高尾山という縦走を実施した。最寄り駅から始発で高尾駅へ。高尾駅を降りると、さほど暑くはなく爽やかだとさえ思えた。

 しかし、高原下でバスを降りて登っていくにつれ、風はなく足どりが重くなった。足は鍛えていたが心肺機能は衰えたのだろう。

 ちょうど近くに1人で歩く女性がいて、「暑いですね。風がないですね。きついですね。」と話しながら、苦しいのは自分だけじゃないと言い聞かせて歩いた。いつもより単独行が多いような気がする。


 山頂近くになると、様々な秋の花が頑張れと言わんばかりに次から次へと現れた。キバナアキギリ、オミナエシ、オトコエシ、シラヤマギク、ススキ、キンミズヒキ・・・そんな花を見るだけでも吹いてもいない秋の風を感じられたような気がする。

 春から秋にかけて陣馬山頂付近には草原の花が多く見られ、私にとってはこれから始まる縦走の充電をする場所だ。


 しかし、先が長いからゆっくり楽しんでいるわけにはいかない。景信山までが飽きるほど長い。この日は高温で風がないため、特に長く感じた。小仏城山手前の階段まで行くと、もう少しだという気分になる。

 時計を見てもまだまだ余裕があり、最後まで行けそうだ。それにしても、すれ違う登山客やトレランを楽しむ人たちがほとんどマスクをしていないのには驚きだ。

 夏の奥高尾は高温でマスクは厳しいのはわかるが、私はマスクなしでは歩く気になれず、すれ違うたびにフェイスカバーを付けた。高尾山まで来ると、もう先が見えたようなもので、どのルートで降りようかと余裕も出てきた。

 そして、ついに高尾山口駅まで到着することができ、この日の目標を達成した。こんな山行がいつまで続くのか、これからはこうなるのか、先が見えない不安はあるが、自分なりに確立していく必要があると感じた。


  ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№253から転載

奥多摩・上高岩山(1010m)  武部実

 2020年9月5日(土) 晴れ

 参加メンバー : L武部実、佐治ひろみ、針谷孝司、佐藤京子、金子直美、藤田京子、他1人

 コース : 武蔵五日市駅からバス ~ 大岳鍾乳洞入口 ~ サルギ尾根 ~ 高岩山 ~ 上高岩山 ~ ロックガーデン ~ 御嶽ビジターセンター ~ ケーブルカー駅


 
 武蔵五日市駅のバス停は多くの乗客が並んでいた。ほとんどがトレランのいでたちで、これから大岳山まで練習に行くとのことだった。
 その多人数のせいもあってか、バスは臨時便がでて2台で出発する。ほとんどの乗客が大岳鍾乳洞入口で下車した。

 9:00出発。サルギ尾根の登山口は養沢神社の右奥にある。ところで、サルギ尾根とは面白い名前だ。
「戦後間もなく、昭和20年代の前半のこと。大岳沢に群れをなして棲んでいた猿が時々、この尾根に出てきた。山仕事に出かけた人々が見て、猿が出てくる尾根だから猿来尾根/サルギ尾根と言い習わしたという」(日本山岳会多摩支部HPより)

 登り初めから急登だ。
 30度超えの気温と相まって、汗でシャツからズボンまでビショビショでまるで服の上からシャワーを浴びたみたいな状態だ。一時間半ほどで、炭焼き窯跡になる。このあたりから高岩山の由来となった、と思う露岩がでてくる。

 11:20高岩山(920m)着。山頂は狭く見通しもあまりない。唯一見られたのが、これから登る上高岩山の赤い東屋の展望台である。目標物に向かってもう一息だ。

 12:10展望台着。大きな赤く塗られた東屋があって20~30人は入れそうだ。見晴らしは抜群で、近くの御岳山や日の出山はもとより、眼下の青梅市から西武ドームまで眺められることができた。

 昼食を摂って出発。展望台から上高岩の山頂までは10分ほどであった。
 12:55に着。標識があるだけで見通しはあまりない。

 ここから下って芥場峠からロックガーデンに行く予定だったのが、少々のミスで、地図の破線ルートに入り込んでしまった。
 こちらからでも問題はないが、登山路の確認がおろそかだった。岩場とクサリのコースは、あまりお勧めできないと事前に調べてきたのに、反省。

 14:15ロックガーデン着。ここで小休止。サルギ尾根で出会った登山者は上高岩山から下りて来た時にすれ違った6~7人のパーティーのみ。コースとしての人気度はイマイチなのを感じる。

 途中ビジターセンターに立ち寄り、ケーブルカー駅には16:10に着いたが、一車両後にしてレンゲショウマの観察に行く。
 8月6日に訪れた時と同じくらいの数が咲いていて良かった。とにかく暑く大変な山行だったが、また来てみたいなと思ってくれれば幸いである。

(上高岩山展望台東屋にて)
   ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№252から転載

七言絶句 「世界最古の大賀蓮を観る」 「祝賀御列の儀に題す」 下田尚嶽さん

 ノコギリ演奏者「のこぎりキング下田」さんから、「七言絶句」の色紙二枚をいただいた。漢詩の世界もお持ちなのか、とおどろいた。号は下田尚嶽(しょうがく)さん。

 色紙は達筆で七言絶句が詠われている。ぜひ、紹介したいとおもいながらも、三か月ほどが経ってしまった。

 文学は枯れるものではない。いま、ここに紹介させていただきます。

 若き頃の下田さんは早稲田大学の応援団「吹奏楽部」で活躍されている。卒業後は親からの家業を引き継いだ。そして、ある時期からプロのミュージシャンになられた。

 現在は、世界最大のノコギリ演奏者(ヘブンアーチスト)として国内外で活躍されています。

 

 払暁池塘満紅蓮   清風一陣郁香伝

 出泥緑蓋揺揺処   玉露煌煌映日鮮

《現代文》

明け方の池に縄文時代の蓮の紅い花が一面に咲いている

爽やかな風がひとしきり吹き、

よい香りがただよう

泥中に清らかな花を咲かせる蓮華がゆらゆらと揺れ動く

玉露がキラキラと光り輝き、

日に映じ鮮やかなり 
   


晴朗皇居爽気催   光輝宝冠興佳哉

歓迎祝福天恩洽   観正是令和幕開


《現代文》

祝賀パレードは晴天、清々しい雰囲気の中、皇居・宮殿より赤坂御所へ出発

秋の強い日差しに照らされた皇后雅子さまのティアラが燦然と輝き、とても美しい

沿道を埋め尽くした観覧者は、日の丸の小旗を振って祝福、天の恩恵で万民が福を受け広くゆきわたる

天皇皇后両陛下は国民に感謝の心を恩顔で応え、

正に令和の幕開けを披露した祝賀パレードの儀となる

【孔雀船96号 詩】 ビスケット謀反す

ふわっ、

と、ひと吹き

素肌を駆け巡る

春の風はひとり旅

おちこちに孤独が降り積もっている

花びらのように

空には気難しい

オゾンの穴

取り返しのつかない人間の業

ぼくの武蔵野夫人は天を仰いで

ビスケットを一枚

カリリと噛んだ


仲直りした夫婦が垣根越しに

手をつないで通り過ぎる

永遠とは瞬間のことなのだと

悟る

もうすぐ穀雨ね、と

えくぼを作る

「奥さん、お届け物です」

玄関で配達人の明るい聲

春の風を払いのけ

素肌を脱ぎ捨てて

夫人が出てゆく

春の風は嫉妬して

テーブルの上のビスケットを吹きとばす

謀反は起きた

「あらあら大変」

夫人は掃除機と格闘する

慌てて地球が傾ぐ

時間が永遠を噛み砕く

春のひととき

ふわっ、と。


縦書きPDF 


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船96号 詩】  軍艦島の春  淺山泰美

わだつみの深い青のただなかに
睡る島がある
かつて 遠くから
人々が集い ともに暮し
栄えた 島
人呼んで
「軍艦島」



すべての住民が退去して
四十年余り
樹木のない島だったというが 今
朽ち果てた鉄筋コンクリートの壁と険しい崖の間に
人知れず
一本の桜の木が満開の刻を迎えている
幻影のようなこの風景を
いったい誰が見ているというのだろう


かつて
この島の住民たちは 春
舟をしたて
よその島に花見に出かけたという
何組もの家族の
若い父親と母親と子供たち
さぞかし賑やかな花見船であったことだろう
今はとおい昔のこと


何度ものコンクリート住居の屋上で
住民は草花を育てていた
そこにはどんな花が咲いていたのだろう
絶海の孤島の陽を浴びて


島で唯一の映画館の名は「昭和館」
それは今 かろうじて建物の外側だけを残し
遠い西陽を浴びている


小学校の名は「端島(はしま)小学校」
そこで学んでいた子の影が揺れる
残された住居の壁に
見おぼえのあるシールが貼られていた
かつて
私のセルロイドの文具に貼られていたものと
同じ時代のものだ
子供たちは 皆どこへ行ったのだろう
今でも 夢に
この島での記憶が
潮風のように吹きこむことはあるのだろうか


彼らは知っているだろうか
誰もいないあの島で
一本の桜の木が
来年も また次の年の春も
花を咲かせつづけることを


縦書きPDF : 軍艦島の春


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

「眠れぬ夜の百歌仙夢物語 八十三夜」  望月苑巳

 うっかりマグロの女房どのに「アイロンで顔のシワをとれば」と言ったら、
「あなたの足のニオイを先に取りなさいよ」と言い返された。
 天に召されたばあちゃんもさぞかし笑い転げているだろう。笑い過ぎて落ちてこないといいけどな。
 痒いのでふと腕を見たら真ん中に赤い切り取り線がある。
「それは蕁麻疹でしょ。バカな事言わないで」
 またばあちゃんに笑われるかな。
相変わらず焼肉定食、失礼、弱肉強食の我が家である。楽しいな。


 朝日新聞に掲載されているピーター・マクミランの詩歌翻遊「星の林に」は目からうろこ、なるほどと感心させてくれることが書いてある。日本人が見落としてしまう事をちゃんと発見してくれているからだ。例えば、


 梅の花誰が袖触れし匂ひぞと春や昔の月に問はばや
                (新古今和歌集、春上、源通具)

 この歌について「もののあわれ、儚さなどは日本の美学としてよく言われるが、連想についてはあまり言及されないような気がする。しかし私は、連想が日本の美学の基礎にあると思う。今回の歌はまさにごちそうのような作品だ」と書いている。
なぜか。
昔の月に問はばや、という部分。つまりこの作者の過去に何があったのかと想像を膨らませ、「伊勢物語」第四段にある歌、


 月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとのみにして
                 (古今和歌集巻十五、恋歌五)

 を連想させるからだと断じている。
 在原業平のこの名歌は、昔、五条通の邸においでになった皇太后の向かいに住んでいた女とねんごろになったが、ある日姿を消した。男は未練から翌年も梅の盛りにその家にいったが、女と過ごした昔は過去のものだとしみじみと知り尽くして泣いたというもので、この相手は後に清和帝の女御になった二条后のことを指す。
 つまり源通具の歌が「この梅の香りは誰の袖が触れて移った香りなのですか」と問う趣向だから、「春や昔の」のその根底には連想という共通のキーワードがあるというのだ。
しかももう一首


 色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖触れし宿の梅ぞも
                (古今和歌集巻::読み人知らず)

 という歌も提示して、この二首からの本歌取りだと捉えている。
そもそも西洋の詩の発想には月に向かって尋ねるという発想がないという。
また別の日の原稿では「キーン先生…桜よ墨色に」という見出しの話が出ている。キーンとはもちろん、日本文学を世界に広めてくれた文学者、ドナルド・キーンさんのことだ。

私事だが自分もドナルド・キーンさんには二度お会いして名刺も頂戴したことがある。一度は日本ペンクラブで講演された時、二度目は東銀座の東劇で偶然の出会いだった。足腰は弱られていたが、まだご自分で歩けるほど元気でいらした。亡くなる前の年だったと記憶している。

話を戻そう。ピータ―は「キーン先生の死はまさに黒というイメージがぴったりだったのだ。失われたのは色だけではない。光も失われたのだ。先生の死によって、世界から大いなる光がひとつ消えてしまったように感じられた」という。それは、この歌に触発されたからだ。


深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け
                (上野(かむつけ)岑雄、古今集巻十六、哀傷歌)

 この歌は堀川太政大臣藤原基経が薨じたときに詠まれた一首で、深草の野に咲く桜よもし心があるならば今年だけは墨染の色に咲いておくれ、というとても直截的な惜別の歌だ。墨染とは告別式に着る僧侶の喪服の色のこと。したがって「源氏物語」の薄雲巻にも引用されている。憧れの人だった藤壺宮が亡くなって意気消沈した光源氏がこの歌を口ずさむ場面だ。
ちなみに令制によると薨去とは皇族や三位以上の貴族の場合に使われ、四位、五位では卒去というのだそうだ。いやー、知らなかったな。
 ともあれ、ピーターにとっても師と慕うキーンさんの死にはショックを受けたという事だろう。
こうしてみると和歌の面白みがますます湧いてくる。ありがとう、マクミラン。


新型コロナウイルスのせいで友人にも会えず、酒を飲みに行かれない日々が続いている。最初のころは散歩と称して近所のスーパーへ用もないのに買い物のふりをして暇稼ぎをしていたが、ついに東西南北すべてのスーパーを制覇して、ついには仕方なく家で晩酌ならぬ昼酌と相成った。秋でもないのに顔が紅葉している。
布袋様のような腹、どうしてくれるんでい! と月に向かって吠えても近所から苦情が出るだけ。怖いのは自粛警察と称する、自分だけは正しいと考え違いしているバカ者どもの出現。
新聞を読んでいたら、小さな子供ふたりと公園で遊んでいたら警官から職務質問を受けたとか。誰かが警察に通報したからだ。
でもバカなと思う。そもそも昔疫病が流行った時、菌を分散させるには公園がいいと公園が作られたのだという。そこは誰もが自由に羽を伸ばせる空間のはずだ。何かが間違っている。いや、そんなことも分からない輩が、オカミのいうことに右を倣え。それ以外は敵である、なんていう付和雷同、大政翼賛会的発想が怖い。クジラが空を飛んだって驚かねえ。オイラは誰にも束縛されねえぞ。


 地下鉄に乗った。
幼稚園ほどの男の子と一緒のお母さんが乗ってきた。走り出したら男の子が叫んだ。
「急に夜になった!」
 きっと初めて地下鉄に乗ったのかもしれない。
 以前朝日新聞の「あのねのね」という欄を読んでいたらこんな文章が。
「ユリの花が生けてあった。〈めしべは女の人で、おしべは男の人なんだよ。男の人は周りで、うっとりしているんだよ〉と言った」
八歳の女の子はあなどれないと実感した。
 夏の夜、孫の煌が遊びにやってきた。
 なぜか緊張している。
「どうしたの」と聞くと、後から入ってきた煌の生産者が蚊取り線香を持っている。
「そうか、それでキンチョーしていたんだね」


         ふぁいるをだうんろーど縦書き PDF


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

ジャーナリスト
小説家
カメラマン
登山家
「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより
歴史の旅・真実とロマンをもとめて
元気100教室 エッセイ・オピニオン
寄稿・みんなの作品
かつしかPPクラブ
インフォメーション
フクシマ(小説)・浜通り取材ノート
3.11(小説)取材ノート
東京下町の情緒100景
TOKYO美人と、東京100ストーリー
ランナー
リンク集