寄稿・みんなの作品

雨雨雨と、雨て読み? 廣川 登志男

 五月も中旬となった。先日、沖縄が梅雨入りしたと天気予報が告げていた。今年も早や梅雨の季節だ。この時期になると思い出す句がある。句と言っても、これは古川柳だと記されていた。漢文好きが高じて漢字に興味を持ち始めた頃に、強烈に印象に残ったものだ。『漢字遊び』(山本雅弘著)にあった。

「同じ字を 雨雨雨と 雨て読み」(作者不明)


 どのように読むかと、問いかけとなっていた。ずいぶんと悩んだが、それらしい答えが見つからない。古川柳だから、十七文字の読みがベースなのだろう。
 読み方は、「おなじじを あめ さめ だれ と ぐれてよみ」と書かれていた。

【雨】の字は、読み方が結構多い。「あめ」は当たり前の読み方で、「さめ」は【氷雨】、「だれ」は【五月雨】で、「ぐれ」は【時雨】だという。なるほどと納得した。特に、最後の「ぐれ」は語調が良い。それに、「ぐれ」は「ぐれる」の掛詞で、面白おかしく読みましたと解釈される。

 これは、日本語だからこその表現だし、トンチでもある。

 同じ字でも全く異なる意味を持つ熟語がある。【良い加減】には、二つの意味が辞書に載っている。読み方は、「よいかげん」でも「いいかげん」でもよいが、辞書には、両方とも同じ意味のことが記されている。
 一つは、お風呂などの温度が適切な状態で、入るとちょうど良いという意味だ。文字を反対にすればよくわかるが、「加減が良い」で、日本語大辞典では、①ほどほどであるさま・なまぬるいこと、とある。

 もう一つの意味は、②でたらめ・おざなり、とある。「いい加減な男だ」といった使い方だ。

 イントネーションの違いでわかりそうに思える。
 前者の意味では、「かげん」に力点を置いているようだし、後者の意味では、全体的に平坦なトーンとなるような気がする。万事においてこのような違いがあるわけでも無いのが難しい。

 漢字の熟語には、よく考えないと思いもかけない意味を表しているものもある。例えば、【親切】などは、外国人には理解不能な字のようだ。
 八年ほど前になるが、「外国人による日本語弁論大会」で、ネパールの専門学校生が「日本語のおもしろさ」と題して「親切」に言及していた。「おや」を「きる」と書いて、『情が厚く、丁寧なこと・さま』を意味するなんて理解できない、と。

 これなどは、日本人にとっては早くから覚える熟語だが、外国人にはどうしてそのような字を充てるのか理解できないだろう。
 個々の漢字の意味を調べると、「新字源」では次の説明になっている。

【親】①みずから。②親しむ、親しい。③みうち、みより。④おや(父母)。

【切】かなりの多義語であるから、簡潔にまとめられたものを引用すると、

(せつ)切る。こすり合わせる。ぴったりする。さし迫る。身に迫って感じる。しきりに。・・・
(さい)すべて。

【親切】は、「身に迫って親身に世話する」という、我々が普段から無意識に理解しているとおりの「情が厚く丁寧なこと・さま」の意味になる。
 ここで思うのは、単純にそれぞれの漢字から意味を推察するにしても、それぞれに、思いも寄らない意味が含まれていることに注意しなければならないことだ。

 特に【切】は「切る」とは全く違った意味をもっていて、こういう言葉・漢字の勉強が大事なのだろう。
 雑誌「武道」の本年一月号に「日本人の心根を考える」と題して、東京大学名誉教授・竹内整一氏が、「切なさ」について寄稿していた。
「切なさ」だけで、図表も入れて六頁四千文字にもなる説明が展開されている。確かに難しい内容だったが、興味あるものだった。その最後に、「切なさ」とは、『ある種の「耐えがたさ」であり行き場のなさである』とあった。序文だけ簡単に紹介する。

『幼い子どもたちは、「せつない」という言葉を使わない。「かなしい」「さびしい」は子どもたちにわかっても、「せつない」は、大人にならなければわからない、ある独特なニュアンスがあるからだ。また、これに該当する欧米語をもたない。それは、漢字「切」から発した独自な日本語だからである』。

 色々と書いてきたが、漢字には、その成り立ちからして意味があり、それを理解することは非常に大事だと思う。
 文字を書く、すなわち文章を書くにあたって、作家の人達は、行間の空気にふさわしい最適な文字を選択することで、自分の「思い」を読み手に深く伝えようと努力するのだろう。

 これまで私は、理学書や新聞・雑誌などを中心に読んでいたが、これからは、小説や詩集などにも目を通していきたいと思う。作家が、思いを込めて選び抜き充ててきた、興趣を覚える言葉・漢字を調べ、日本語のおもしろさをこれまで以上に勉強しようと思う。時間はかかるだろうが。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

清い水槽は誰のため   青山 貴文

 吹き抜けの玄関を入った左側に、大人の背丈の半分くらいの高さの下駄箱がある、その上に水槽(巾60×奥40×深さ30センチ)を置いて、ほぼ5年になる。この水槽の水は、フィルターを通して循環し、かつポンプで空気を水中に補給している。だから、常に酸素の豊富な水流を水槽の中に作っている。


 これまで、この水槽の清掃は、毎年数回行っていたが、だんだん億劫になってきた。ここ数年は年一回しか洗浄や水の入れ替えをしていない。

 5年前、当時小学4年生の孫が、近郊の別府沼の小川から1センチくらいの小魚6匹を捕まえて、この水槽に入れた。
 そのうち4匹は、1年経って子供の拳くらいの大きさに育ち、髭もある。鯉であったら、この水槽は小さすぎる。妻と孫たちと一緒に元の小川に行って、放流してやった。残っているのは2匹だけで、大きさ7センチくらいだ。魚の種類はどうもタナゴらしい。


 数日前から、妻と顔を合わせると、
「青苔が水槽に付着して中が見えないわ。そろそろ清掃しなくてはね」と言う。
「我家の水槽は、水が循環しているから魚は平気だよ」
「清掃しないなら水槽を片付けるから、魚を別府沼の小川に戻してきてよ」
「今ごろ戻したら、自然対応力がないから、すぐ死んでしまうよ」
 と言って、水槽の洗浄を伸し伸しにしていた。
 
 事実、水槽のガラス全面に苔が付着しているが、水流のお陰で水質は綺麗で無臭だ。しかし、玄関に苔むした水槽が置いてあると、はなはだ格好がわるい。特に、来客があると見栄えが悪く、妻はそれが嫌なようだ。

 水温むころになった4月11日、天気予報によると翌日から天気が下り坂になるらしい。水槽の洗浄は、晴天の今日こそやるべきだと重い腰をあげた。 
 3年日記を見ると、水槽の洗浄は、去年5月12日、一昨年4月7日に行っていて決して遅くはない。

 私は昼食後、掃除道具として、水槽の水を吸い上げるサイクロン、バケツ2個、ブラシ類や網などを玄関に揃える。まず、ホース付きのサイクロン全体を水槽に沈めて、出口側のホースをバケツに入れる。
 だが、うまく水が出てこない。一年前は難なく出来たのに、どうも巧くできない。いろいろ試して、やっと水を上手に吸い上げられるようになる。私もまだ捨てたものではない。

下駄箱より低い踏み台に載せたバケツに水槽の水を貯める。バケツの7分目くらいに水が入ると、空のバケツに置き換える。交互にバケツを替えながら、水槽の中の水を殆ど放出する。二匹のタナゴを網で掬いだし、バケツに移す。魚たちは、毎年のことで覚えているのか、バケツの中では静かにしている。

 水がなくなり軽くなったとはいえ、水槽の底に砂粒が入っているので、一人では水槽を上げ下ろしができない。妻と声を合わせ、水槽の両端を両手で持って、下駄箱から玄関の外の三和土(たたき)に降ろす。去年は、確か、自分一人で動かしたはずだ。傘寿を過ぎてから、急に用心深くなった。

 私は水槽のガラスや砂粒を、妻は循環器の部品やパイプあるいはフィルターなどの洗浄をおこなう。私が中腰になって、水槽のガラスに付着したコケをブラシで落とす。
 なかなか落ちない。
 何度も丹念にブラシをかける。また、水槽の砂粒の水を何度も入れ替えて砂粒同志を擦りながら洗浄する。腰が痛くなり、何度も立ち上がって、腰を伸ばす。

 十数年前から、中腰の仕事をすると直ぐ足腰が痛くなる。妻を見ると、水道栓の近くで、彼女専用の折り畳み台に腰かけて、一心にパイプなどの苔を除去している。彼女は、なかなの合理主義者だ。

 洗浄後、水槽を下駄箱の上に設置し、水の循環装置を取り付ける。ホースで水道水を水槽に入れる。水槽の中で、2匹のタナゴが、よりそって泳いでいる。苔むしていたころは、2匹は別々にわかれて物陰に隠れてじっとしていた。

 玄関の水槽回りの空気がよどんでいて暗かったが、洗浄後は、透き通った水槽の回りが明るい清潔な雰囲気に様変わりした。
 清掃はやり出せば、3時間弱で滞りなく終わった。終わってしまえば、腰の痛さも心地よく、何か新しい力が湧いてきた。
 自分の心の内にはいつももやもやとした闇が漂っていた。清掃が終わったとたん、その闇がすっと消えて心身ともにすっきりした。

 水槽の洗浄は、タナゴのため、いや来客のためと思っていた。ここまで言うのは妥当性を欠くかもしれないが、妻のため、いや自分のためであったのか。

 今朝も、透き通った水槽に二匹のタナゴがゆったりと泳いでいる。

              イラスト:Googleイラスト・フリーより

小京都ミステリー ~大崎上島への想い~  黒木せいこ

 私は、2時間ドラマ、中でもミステリーが大好きだ。なぜなら、1話(2時間)ですべてが完結するからだ。どんな難解な事件でも、お気に入りの主人公たちが、困難を乗り越えながら、さっそうと事件を解決する。旅のシリーズならば、各地の観光地にも必ず訪れる。名所での謎解きは、売りになっている。

 そんなわけで「西村京太郎トラベルミステリー」や内田康夫の「浅見光彦シリーズ」など、私にはいくつかの好きなシリーズがある。

 その中のひとつに山村美紗の「小京都ミステリー」がある。これは、片平なぎさ演ずるフリーライターの柏木尚子(しょうこ)が、相棒のカメラマン山本克也(船越英一郎)とともに、取材のため日本各地にある「小京都」と呼ばれる場所を訪れ、そこで起こる難事件を解決していくドラマである。


 20年ほど前の作品だが、人気シリーズなので、CS放送で継続して再放送している。その日も私は、あらかじめ録画しておいた「小京都ミステリー・安芸奥の細道殺人事件」を何気なく見始めた。今回は広島の話らしい。
 小京都とは、古い街並みや風情が京都に似ている街である。現在は、日本全国で40ほどの市町が小京都と呼ばれているという。

 今回の舞台、竹原市は広島県の南部にあり、室町時代より港町として知られ、江戸時代後期は製塩業で栄えた。今は「安芸の小京都」と呼ばれており、街並地区が「都市景観100選」に選定されている。

 ドラマでは竹原市で、尚子と克也が、全国的に有名な俳句の先生が主催する「小京都吟行」が行われると聞き、取材に出かける。街を歩きながら俳句を作る吟行は、この竹原の街にぴったりと言えるだろう。

 そこで二人は、俳句の天才少女の川口真木という女子高生と知り合う。知り合った途端、まきの父親が今度の「小京都吟行」に、娘のまきを参加させるかどうかで、俳句協会の役員ともめている現場を目撃する。
 それには、どうやらまきの交際相手の昭一(しょういち)の父親が関係しているらしいので、父親の住む大崎上島へ行ってみることになった。


「えっ、大崎上島?」
 針仕事をしながら何気なくテレビを観ていた私は、思わず顔を上げた。
 大崎上島は、私のエッセイの師である穂高健一先生のふるさとである。と同時に、私の好きな先生の著『神(かみの)峰山(みねやま)』の舞台でもある。

 この本は、太平洋戦争後の庶民の悲惨な姿を描いた五つの中編小説で構成されている。先生御自身の記憶も織り交ぜ、しっかりとした昭和史の証言が、叙情的な文章で描かれている本である。

 なかでも「ちょろ押しの源さん」を読んだ時は、涙がこぼれた。中年男の源さんは、船員らにからだを売りに行く女郎が乗る「おちょろ船」の船頭である。
 
 女郎たちの悲惨な生活が、源さんによって静かに語られていく。亡くなった女郎たちの霊を弔う石仏を、神峰山にかつぎ上げる源さんはどんな想いだっただろう。本を読んだ時から大崎上島には興味があった。


 そんな時、偶然にもドラマに登場するとわかり、私は身を乗り出してテレビ画面にくぎ付けになった。


 大崎上島は、竹原港からフェリーで30分ほど、人口約8,000人の瀬戸内海に浮かぶ島である。造船業や、温暖な気候を利用した柑橘類の栽培が盛んだという。


 ドラマでは、こんなのどかな島の果樹園で、俳句の天才少女・真木の恋人の父親がナイフで殺害されるという事件が起こる。第一発見者はライターの尚子(しょうこ)とカメラマンの克也である。

 そして、その時島に来ていた、真木の父親が犯人として逮捕される。以前から、真木と昭一のことで、もめ事があったとの情報があったからだ。まきの父親は、警察の取り調べで、なんと「自分が殺した」と自供してしまう。謎は深まり、ドラマは大きく動いていく。

 あまりのショックに、高校生の真木は「小京都吟行」には出場しないと言い始める。十八年前に行われた俳句会での事件や、真木の出生の秘密など複雑に絡み合った謎を、尚子がさまざまな推理を働かせ、次第に明らかにしていく。


 だが、私としては、こんな平和な島が殺人事件の舞台となってしまったことが、とても残念だった。それも、果樹園で刃物で刺されて亡くなるとは、何ともむごい話である。


 尚子の活躍で、事件は、俳句協会の役員が、以前の俳句会での不正を隠すために行った犯罪だったとわかり、真木の父親は釈放された。彼は、真木の実の父親でもある俳句の師匠が犯人ではないかと思い込み、嘘の自白をしていたのだった。

 こうして真木の家族に再び平穏が戻り、まきはまた俳句の道をまい進する決意をした。
 

 同じ土地が舞台でも『神峰山』で描かれたのは、女郎たちの悲惨な出来事だった。
 時代の流れの中で、若い女性が生きて行くための必死な生活から生まれた悲劇である。一方、現代のドラマでは、人間の欲や恨み、妬みなどの薄汚れた感情が動機となった犯罪から生まれたものである。悲劇といっても、ずいぶん質が違う。時が流れ、戦争もなく平和な時代でも様々な形で悲劇は起こるものだ。
 
 今回、ドラマでは島の情景を見ることができたが、私は、いつか『神峰山』の本を携えて、実際に自分の目で大崎上島の地を踏み、ちょろ押しの源さんの足跡をたどりながら、神峰山に登ってみたいと思っている。

                       了

【関連情報】

・ 黒木せいこ さん
   熊本市出身、趣味はパッチワーク、エッセイ歴は約10年。

・アサヒカルチャ―センター 千葉教室 フォトエッセイ提出作品 

・ ストーリー写真:日本テレビ系「小京都ミステリー・安芸奥の細道殺人事件」より

   竹原市(ウィキペディアより)         

       

【孔雀船97号 詩】 「眠れぬ夜の百歌仙夢物語 八十三夜」= 望月苑巳

 うっかりマグロの女房どのに「アイロンで顔のシワをとれば」と言ったら、
「あなたの足のニオイを先に取りなさいよ」と言い返された。
 天に召されたばあちゃんもさぞかし笑い転げているだろう。笑い過ぎて落ちてこないといいけどな。
 痒いのでふと腕を見たら真ん中に赤い切り取り線がある。
「それは蕁麻疹でしょ。バカな事言わないで」
 またばあちゃんに笑われるかな。
相変わらず焼肉定食、失礼、弱肉強食の我が家である。楽しいな。

 朝日新聞に掲載されているピーター・マクミランの詩歌翻遊「星の林に」は目からうろこ、なるほどと感心させてくれることが書いてある。日本人が見落としてしまう事をちゃんと発見してくれているからだ。例えば、

 梅の花誰が袖触れし匂ひぞと春や昔の月に問はばや
                (新古今和歌集、春上、源通具)

 この歌について「もののあわれ、儚さなどは日本の美学としてよく言われるが、連想についてはあまり言及されないような気がする。しかし私は、連想が日本の美学の基礎にあると思う。今回の歌はまさにごちそうのような作品だ」と書いている。

                     【つづく】

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【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

         

【孔雀船97号 詩】 ビスケット謀反す = 望月苑巳

ふわっ、
と、ひと吹き
素肌を駆け巡る
春の風はひとり旅
おちこちに孤独が降り積もっている
花びらのように
空には気難しい
オゾンの穴
取り返しのつかない人間の業
ぼくの武蔵野夫人は天を仰いで
ビスケットを一枚
カリリと噛んだ
仲直りした夫婦が垣根越しに
手をつないで通り過ぎる
永遠とは瞬間のことなのだと
悟る
もうすぐ穀雨ね、と
えくぼを作る
「奥さん、お届け物です」
玄関で配達人の明るい聲
春の風を払いのけ
素肌を脱ぎ捨てて
夫人が出てゆく
春の風は嫉妬して
テーブルの上のビスケットを吹きとばす
謀反は起きた
「あらあら大変」
夫人は掃除機と格闘する
慌てて地球が傾ぐ
時間が永遠を噛み砕く
春のひととき
ふわっ、と。

縦書き  ビスケット謀反す

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【孔雀船97号 詩】 軍艦島の春 =  淺山泰美

わだつみの深い青のただなかに
睡る島がある
かつて 遠くから
人々が集い ともに暮し
栄えた 島
人呼んで
「軍艦島」

すべての住民が退去して
四十年余り
樹木のない島だったというが 今
朽ち果てた鉄筋コンクリートの壁と険しい崖の間に
人知れず
一本の桜の木が満開の刻を迎えている
幻影のようなこの風景を
いったい誰が見ているというのだろう

かつて
この島の住民たちは 春
舟をしたて
よその島に花見に出かけたという
何組もの家族の
若い父親と母親と子供たち
さぞかし賑やかな花見船であったことだろう
今はとおい昔のこと

何度ものコンクリート住居の屋上で
住民は草花を育てていた
そこにはどんな花が咲いていたのだろう
絶海の孤島の陽を浴びて

島で唯一の映画館の名は「昭和館」
それは今 かろうじて建物の外側だけを残し
遠い西陽を浴びている

小学校の名は「端島(はしま)小学校」
そこで学んでいた子の影が揺れる
残された住居の壁に
見おぼえのあるシールが貼られていた
かつて
私のセルロイドの文具に貼られていたものと
同じ時代のものだ
子供たちは 皆どこへ行ったのだろう
今でも 夢に
この島での記憶が
潮風のように吹きこむことはあるのだろうか

彼らは知っているだろうか
誰もいないあの島で
一本の桜の木が
来年も また次の年の春も
花を咲かせつづけることを


縦書き 軍艦島の春


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孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

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【孔雀船97号 詩】   この単純さで = 坂多瑩子

「カタチをかかえていくしかないんだよ
私たち にんげんって」
なんという詩的なことばと
耳を傾けていたら
「昨日さ あちこがね」


あちこ と聞こえ
ちがうかな
なんかぐじぐじしながら
空白の輪郭が
あいまいになり
彼らの話は
とつぜん小声になり
よくある愚痴が続いている
よくあると思ったことに
ちがう
なにかが違うはずだ
ときれいにまとめようとすると
あちゃこ
花菱アチャコ あちゃこが出てきて
にぎにぎしい風が吹き
こみあげてくる愉快さに
バスの窓をたたく
バスが走っている
その正当性に笑いをこらえる
どうしてかね
にんげんらしい
そう聞こえたかどうか
にんげんたちはちゃんと歩道の上をあるき
あたしもあとを追う この単純さで
夕飯の支度にとりかかり
家族で
豆ご飯をたべる


縦書き この単純さで


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【孔雀船97号 詩】   床屋で = 松下育男

お客さん

ウチの犬が生きていたときにね
どうしても面倒をみられない時には
おふくろの所に時々
預けていたんですよ

おふくろ
はじめは面倒くさがっていたんですけどね
だんだん
可愛がるようになってくれて
引き取りにいくと
ずいぶんさびしそうな顔をするように
なってきたんです

それでね
こないだ話をしたように
犬が突然死にましてね
もちろんおふくろも
ひどく驚いていたんです

でもまあ
仕方がないかと
思っていたんですけどね

こないだおふくろが
電話をかけてきて
「一晩犬を預からしてくれないか」って
言い出したんです

あっ
これはまずいなと
思いましてね

だって
ウチの犬が死んだことを
知っているはずなんですよね

だから
とうとうおふくろ惚けたかなと
覚悟をしまして

来たら様子を見て
病院に連れて行こうかと思っていたんです
それでね

来ました

来たんですけどね
おふくろ
犬の骨壷と写真を大きな袋にいれて
さっさと帰って行ったんです

翌日
返しに来ましたけどね

一晩
骨壷と一緒にいたんだなと
思いましてね

それで何をしていたんだろうと
思いましてね

一晩で
いいのかなと
思いましてね

たまらなくなってきたんですよ


縦書き*床屋で


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頼りの車だが   廣川 登志男

「たまには、中の島大橋の公園でも行ってみようか」
「あら、呑気なこと言ってるわ。バラで忙しいのよ。だけど天気も良いし、たまにはワンコを連れての散歩も悪くないわね」

 こうして年末の小春日和のなか、いつものように「キャンピングカーもどき」の車に一家総出(夫婦二人とワンコ2匹)で乗りこんで、西に開けた木更津港に設けられた、赤い橋桁のきれいな大橋へ向かった。

 今では、主人の私と同じように耳が遠く足下もおぼつかない老犬の「イングリッシュ・スプリンガー・スパニエル」という長い名前の犬種である「ジャン」と、喘ぎながら高さ27mの橋をなんとか渡りきった。


 港に聳えるこの大橋が有名になったのは、「木更津キャッツアイ」というテレビドラマによるものだった。
 2002年に放映されたもので、現在では、このドラマ上の伝説が実際に話題となり、「恋人の聖地」に選定されている。今でも多くのアベックがこの橋を渡っている。我々もワンコ連れのアベックとなって散歩を楽しんだ。


 帰ろうと大橋の頂上に差しかかると、富士山の黒いシルエットがひと際はっきりと夕日に浮かび上がっているのが目に入った。

「西に富士山があるのは知っているけど、どのくらいの西なのだろうね。まさかぴったり西にあるとは思えないけどね」
「そうね。富士山が噴火したら、偏西風の影響で木更津にも相当な被害がでるって聞いたことがあるけど、あまり西にぴったりだと嫌だわね」
 興味がわいて、自宅と富士山の位置関係を調べてみたくなった。



 富士山の位置を、山頂の最高峰である剣ヶ峰とした。ここは北緯35・3607度にある。自宅は北緯35・3575度なので、富士山からみて緯度で0・0032度と、ほとんどゼロに近いところに位置する。

 これほどまでぴったりの東にあるとは想像もできなかった(byグーグルマップ、下7桁計算)。

 この角度差を距離に換算するには、35度付近の地球の半径6370kmに角度差0.0000559ラヂアンを掛ければよい。
 答えは南にたった363m離れたところが自宅となる。驚くほど富士山の真東に自宅が位置していることになる。
 363mというと、歩いて5分ほどの距離だ。同じように、東西方向の距離を計算してみると、自宅と富士山は134km離れていることがわかった。

 これほどまで我が家が富士山の真東にあるということは、富士山噴火時の灰が偏西風に乗ってまともに我が家に到達することになる。


 その影響を調べると、2004年6月に報告された「内閣府 富士山ハザードマップ検討委員会 報告書」に詳細に記載されていた。木更津近辺の降灰厚さは10センチ程度となっている。
 これによる影響は、道路・鉄道・電力・水道・下水道・建物・人体 等、多くの住環境に及び、実生活に支障を来すことが記されていた。

 噴火の前提になっているのは、1707年12月の宝永大噴火である。その規模の噴火を前提にしたシミュレーション結果では、80キロほど離れた横浜でも時間あたり1~2ミリ程度の断続的な降灰があり、最終的には10cm程度積もると予想されていた。

 木更津でも同様な降灰が想定され、最終的には8cm前後積灰するとの結果がでていた。

 この程度の厚さでも被害は甚大で、過去データを元にした影響の度合いは、道路では5cmも積もると10キロ以下の速度でも危ないし、10cmでは走行不能に陥る。加えて降雨があれば3cmでも走行不能とのことだ。

 鉄道ではレールに3㍉も積もると走行不能になるし、電力においては3㍉程度の積灰に雨があるとショートして送電不能となる。

 建物も10cm程度の積灰で平米あたり100キロの重さとなるため、木造はもとより、大屋根の体育館などでも倒壊の危険が高まると言われている。降雨が加われば「推して知るべし」なのだ。

 遠い富士山の噴火と侮ることはできない。真東の木更津は、本気になって災害対応の施策を検討しなければならないのだろう。
 専門家によると、富士山噴火は過去のデータから、近い将来高い確率で起こると予測されている。


 こうしてみると、現在の「コロナウィルス災厄」に加え、関東大震災、東海地震、くわえて可能性のある「米中戦争(+尖閣日中衝突)」などの人災も含めると、いかに対策を講じる必要性が増しているかをひしひしと感じてしまう。
 
 大きな災害が発生しても「キャンピングカーもどき」の愛車で、ワンコも入れた全員でただちに遠くに逃げれば問題ないと考えていたが、そんな悠長な考えは捨てなければならないのかも知れない。
 だとすると何を準備すれば良いのか。まったく見当がつかない。


イラスト:Googleイラスト・フリーより

朝風呂  青山貴文

 新年の真っ青な空に、温かそうな太陽が光り輝いている。今年の正月三が日は、コロナ禍のためにどこへ行く当てもない。朝から実業団や大学対抗東京―箱根間往復駅伝のテレビ中継を観ながら、酒の強くもない私がよく飲んだ。

 四日目に正気に戻ろうと、朝風呂に入る。静かな朝の冷気の中、ゆったりと澄んだ湯に身を沈める。湯面から白い湯気がたち昇っている。
 腹を大きく膨らませながら肺一杯に清々しい冷気を鼻から吸い込んだ。次に、腹を思いっきり凹ませながら、口から肺の中の空気を全て残らずゆっくり吐き出す。いわゆる複式呼吸を繰り返す。体の芯から、アルコール分が抜けていくようだ。



 一方で、ここで朝風呂で飲んだら、どんな心持になるだろう、と誘惑にかられた。
 それというのも、若いころ何かの小説で知ってお燗をした徳利とお猪口をお盆に載せ、自宅の朝風呂に浮かべた、という作品を思い浮かべたからだ。作者も題名も忘れた。

 たしか35才の時だったと思う。それを温泉地の露天風呂で試してみた。しかし、お猪口一杯で気持ちが悪くなった。もともと酒は強くないし、なおさら風呂酒は私には向いていないと思った。


 あれから数十年経った。酒にも強くなった。いまならば、何か風流で日本酒も美味く飲めるだろう、と朝風呂のなかで、誘惑はなおも強まった。

 日本酒と言えば、思いだすのは生前の父親である。ふだん静かな父が呑むと元気になり多弁となった。

 父は、若い頃、東北大の金属材料研究所に勤めていた。研究所の安月給では結婚できないと、東京高周波(株)の熱処理技術者になった。戦後、高周波(株)が縮小され、退職し、大崎の町工場を転々とする。
 町工場に行くようになって、社長と意見が合わず、コップ酒を飲むようになった。家人には分からない何か難しげな話をする。コップの酒が無くなると、ニヤッとして一升瓶からコップに新たな酒を注ぎ際限なく呑み不平を呟く。

 家人が止めると大声を出して反抗し、遂には目が座ってくる。「日本酒は父を狂わす氣ちがい水」と思い、私は好きになれなかった。
 
 父は酒の力でなんとか定年まで勤め、私を私大に行かせてくれた。

 父が亡くなり、二十数年経ったころから日本酒の旨さがわかるようになった。「父を狂わせた日本酒」という呪縛から解き放され、私は後期高齢者となっていた。

 日本酒はビールやワインなどの洋酒よりも香りとコクがあって美味い。夕方になり周囲が暗くなると、あの芳香といい、喉元を過ぎる豊醇な味覚を無性に味わいたくなる。

 昨年の暮れ、正月のお屠蘇用に高価な4合瓶「久保田」を購入し妻に渡した。

 それとは別に、数日後、清酒や吟醸酒の種類の異なる一升瓶3本を、時間をかけて選びぬいた。余った熊谷市商工会のプレミア付き商品券(1枚千円、13枚1万円)7枚全部を使って購入した。それらを二階の書斎の隅に隠し置きした。
 

 とりたてて、隠す必要もないが、一度に一升瓶3本は多すぎる。年取った亡き父が、家人に分からないように一升瓶を隠し飲んでいた。
 その気持ちが分かるようになってきた。一人こっそり飲むのは何とも言えずうまい。
 そのうちの一本目の吟醸酒「越後桜」や二本目の清酒「剣菱」を飲み干した。今は3本目の清酒「越の寒梅」を呑んでいる。私には二本目が一番合っているようだ。


 話が脇道に逸れてしまったが、朝湯にどっぷりつかっていると、昔のことがいろいろ思い出されてくる。

 小学4年生の頃だったと思う。
 立川市曙町の集合住宅に住んでいた。父は、その頃、大崎の街工場に勤めていたが、数年して失業したから、心労も多かったのであろう。休日には、そのストレスを和らげるべく、昼間から家人に内緒で日本酒を飲んでいたらしい。けれどもその頃は、まだ飲む量も少なく、顔に呑んだ形跡も表わさず、静かなものだった。


 日曜日の午後になると、明るいうちに、歩いて5分くらいにあった銭湯に、父とよく出かけた。
 昼間の明るい銭湯の洗い場は、大勢の人で混んでいた。私は胡坐をかいた父の大きな背中に、石鹸を塗りたくったタオルを両手で持ってこすっていた。頭を垂れて気持ちよさそうにしていた父が、ぐらりと横になり洗い場のタイルの上に寝込んでしまった。

 当時、私は瘦せた貧弱な体をしていて、父を抱き起こす力もなかった。
 動転して、頭が真っ白になった。急いで服を着て番台のおばさんに一言も言わずに、母親を呼びに駆け戻った。その後、父母たちがどのようにして帰宅したか定かでない。ただ、あの出来事は、未だに脳裡にこびりついている。


 正月四日、いま朝風呂のなかで、徳利とお猪口を載せたお盆を浮かべ、ゆっくり酒でも飲もうと思った。
 考えるに、ここは残念であるが、止めておこう。朝風呂で倒れるのを恐れてまで、酒を飲むことはないだろう。妻子に迷惑を及ぼす。

 思い起こせば、父と一緒に杯を交えたことは一度もなかった。あと数年して、亡き父のところに行ったら、二人してお湯の中で杯を交わしたいものだ。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

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