寄稿・みんなの作品

コロナ禍の権現山(1312m)   佐治ひろみ       

日時...2021年4月1日 晴れ

• コース...猿橋駅8:18 → 浅川バス停8:50 ~ 浅川峠9:40 ~ 権現山11:10 ~ 雨降山12:35 ~ 初戸バス停14:30/14:54 → 上野原駅

• メンバー...佐治他4名

 久し振りの権現山山行に心は弾む。山頂から綺麗な富士山は眺められるだろうか?

 猿橋駅発8:18のバスに乗り、浅川バス停まで約30分。里山には山桜があちこちに咲いている。終点のバス停に着き身支度を整えて5人で出発した。
 今日は久々の千メートルを越える山、まずは浅川峠を目指してゼイゼイしながら登る。
 9:40 峠に着き、小休止をとる。

 ここから権現山へ行く道と、扇山へ行く道に分かれている。いつも権現山しか行かないが、今度は扇山方面にも行ってみたいものだ。
 休憩を終え歩き出すと、あちこちに鳥の声がする。綺麗な自然林の新緑の中で、きっと小鳥達も気持ちがいいのだろう。人間も同じ。
 権現山へのジグザグの急な登りに喘ぎながらも、心は何だかウキウキしてる。自粛生活の中でのたまの休みに、こうして山の中を歩き回れる幸せをしみじみと感じてしまう。

 山頂までの辛い登りもようやく終えると、尾根に出る。ここからは尾根伝いにもうひと頑張りだが、まわりの景色が開ける分やる気が出てくる。
 平日のせいか、すれ違う人はゼロ。山頂に着いても私達だけで、広々とお昼ご飯をいただく。
 あいにく富士山の方向だけ雲がかかっていた。だが、北側の笹尾根、東の坪山、南の扇山、これから行く雨降山等、素晴らし景色に、ご飯も一段と美味しく感じる。

 30分の休憩の後、雨降山に向かい出発すると、今日初の登山者に遭遇した。恰好からして、サイクリングの人? 少し下った祠の近くに、かっこいいマウンテンバイクが止めてあった。この山道をチャリで登るとは恐れ入る。

 尾根上に2つのピークを踏む。以前は名札など付いてなかったけれど、大窪沢ノ頭と次に鍋割沢ノ嶺を越えすみれの丘?を通り、雨降山の雨量観測施設に到着する。
 今日はここから初めての黒房尾根を通って下りるのだ。どんな道なのだろうと興味津々だったが、ほとんどが檜林の下り一直線である。
 こちら側から登るのは大変だろうと思ってしまう。

 ようやく里の家々の屋根が伐採地から見えるようになると、山の中腹には山桜が咲き、川が流れ、足元には小さな花が現れた。
 さらに下りバス停近くにはスイセン、色鮮やかな花桃、さくらが咲き乱れ、こんな山奥に桃源郷! と思わせるような景色に疲れも吹き飛んでしまった。
 最後にこんなステキなお花見ができて、本日の山行も大満足でした。


         ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報261から転載
 

コロナ禍の山行・宇都宮アルプス=佐藤京子

                                  
日時 : 2020年11月7日(土) 快晴

参加者 : L武部実 佐治ひろみ 宮本武 金子直美 佐藤京子
                         
集合 : 宇都宮駅 8時00分 集合
 
コース : 宇都宮駅 8:30のバス(日光方面行き) ~ 一里塚停留所下車 ~ 平成記念子どものもり公園内 冒険活動センター管理棟から山に入る 榛名山 ~ 男山(527m) ~ 本山(562m) ~ 飯盛山(501m) ~ 晴嵐峠~高舘山(477m) ~ 黒戸山 ~ 登山口 ~ 中徳次郎バス亭 ~ 宇都宮駅

 新幹線に乗ったのは今年になって初めてである。7時8分発。コロナのせいか普通車両はガラガラだ。宇都宮で下車した。西口歩道橋下からバスに乗り約30分で、一里塚バス停で下車する。

 少し歩くと、一里塚と書いた高い標識が立っている。船生街道入口交差点を左折した。約2キロで、「こどものもり公園」に入る。宿泊棟や炊事場もある大きな公園だ。
 木々の紅葉が私たちを迎えてくれた。遠足なのだろうか。小学校の名前を書いたバスが2台駐車している。


 冒険活動センター管理棟から榛名山を目指した。低山ながら、けっこう急登で岩場もある。きつい。ハアハアいって登っていると、子ども達の声が聞こえてくる。もう榛名山に登頂し、下山のようだ。
 聞くと市内の小学五年生だ。2校の長い列だった。軽々と下りてくる子どもたちがほとんどだが、恐々おしりをついて下りてくる子もいる。
「お弁当が楽しみだね。」
 なんて声をかけた。

 遥かに日光の山並みがくっきりと見える。男体山と女峰山だと、仲間が教えてくれた。メンバーではもう登った人が多い。
(私は、いつか登ることがあるかしら。)

 昼前に本山に到着する。待ちに待った昼食だ。朝が早かったので、お腹はペコペコだ。陽だまりの中、昼食を楽しむ。

 帰りは、急坂があるとは聞いていたがけっこうきつい。ロープを張ったところが何か所もある。このロープがなければ、もっときつかっただろうと話す。ロープをきちんと張ってくれた方々に心の中で感謝する。

 そういえばスーパーボランティアとして有名になった尾畠春夫さんが、今年、緑綬褒章を受章された事を思い出した。
 登山道の整備がボランティア活動の最初だそうだ。私にも何かできることはあるのだろうか。ゴミ拾いくらいか?

 時間が押してきたので兜山は省略した。バスに乗って宇都宮駅に戻り餃子屋さんを探す。「GO TO EAT」のせいか? 各店には行列ができている。空いている店を見つけて入る。
 宇都宮餃子とビールで静かに乾杯だ。


 当日の天気予報は、「曇り。夜は雨」だったが大外れ。温かい山歩きだった。
 晴れ男の武部氏と同行者に感謝する。Kさんが落とした上着を、すれ違いで登って行った若い男性が見つけてくれたようで、管理棟に届けてくれたことは、本当に嬉しい出来事だった。


    ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報256から転載

薬膳料理入門   黒木 せいこ 

 私は60歳を過ぎた。コロナ禍が続く中、毎日の食事でより健康になれたらと思い、身体によいという薬膳料理の勉強を始めようと思った。それは、昨年秋のことだった。

 近くに教室がないかと、ネットで調べてみると『心味(ここみ)』という薬膳料理教室があると知った。東京都内の三軒茶屋と横浜の青葉台の二か所に教室があるようだ。
 私は自宅に近い青葉台に行くことにした。場所は最寄り駅で降りたあと、歩いて15分ほどの住宅地にある一戸建ての家である。(そこは先生のご実家だそうである)。

 迎えてくれたのは若いすらりとした美しい女性の先生だった。一階の15畳ほどのリビングが教室になっており、生徒は女性ばかり5人である。一人ひとりの間には、アクリル板が立ててあり、コロナの感染対策にも配慮されている。


 薬膳とは、東洋医学の理論を取り入れた健康料理である。西洋医学のように、からだの悪い部分だけを見て治療するのではなく、全体のバランスを見ながら、体内の環境を整えることで健康へと導いていくものだ。

 2時間の講座の前半は、先生の講義を聴く。まずは身体(おもに内臓)の仕組みを勉強することから始まる。「肺の働きについて」「腎の働きについて」「冬の養生・陰陽の概要」などである。

 講義の前には、必ず先生が入れたお茶をいただく。その日は、菊の花だけを用いた「菊花茶」だった。
 これは眼の疲れや喉の痛みによく、解毒、鎮静作用があり、高血圧にもよいと言われている。その効用もさることながら、ほのかな甘い香りの芳香成分が神経を刺激して、快い感情を与えてくれる。とても飲みやすいお茶である。

 気持ちがリラックスしたところで、先生の講義が始まる。中国医学に基づいた論理なので、難しい漢字の熟語が多い。たとえば、肺の働きについては次のような説明があった。

「肺は呼吸の管理や、発声、汗の調整、外邪(がいじゃ)を追い出したり、水分代謝を管理したりします。肺の働きを支えているエネルギーは宗気(そうき)といい、これは清気(せいき)(肺が取り込んだ空気)と水穀(すいこく)精微(せいび)《脾(ひ)が作り出した栄養》でできています。」
 という具合である。

 難しい漢字が多く、先生の説明を聴き、内容はなんとか理解できても、とてもすぐに覚えられるものではない。
 だが、そんな難しい話ばかりではない。
「よく、風邪をひいて鼻水が出ると、ネギやショウガで身体を温めるとよいと言われていますね。水溶性の透明な鼻水の場合は、身体が冷えているのでそれでよいですが、粘着性の色のついた鼻水になると、身体に熱がこもっているので、逆効果になります。その場合は、身体を冷やす大根、ごぼう、春菊などがよいですよ」などという有益な話もある。

 先生は、時にはホワイトボードにわかりやすく図を描いたり、難しい理論の中に、親しみやすいエピソードなども加えて、薬膳の話を進めてくれる。

 1時間の講義のあとは実践である。先生があらかじめ用意した薬膳料理を試食する。私にとって、毎回とても楽しみな時間である。
 冬の養生に必要な、身体を温めたり、血の巡りをよくする食材としては、米、イモ類、黒豆、シナモン、鶏肉、にら、エビなどがある。昨年秋は、それらを取り入れた4品のメニューだった。
 薬膳料理とは、薬のようで味気ないイメージだったが、食べてみると全く違う。野菜や肉の味がしっかり出ていて、とても美味しい。レシピを見ても、手に入りにくい食材はほとんどない。料理法も特殊なものではない。

 身体にいい物を食べているという意識も手伝って、食べたあとは、元気になった気がした。
 そこで私も先生のメニューを参考にして、自分なりの献立を作ってみた。


   ・黒豆のチーズリゾット
   ・カボチャと卵のサラダ
   ・鶏肉と山芋とレンコンの煮物         

 食べてみると、黒豆のチーズリゾットは、黒豆の量が多すぎて、煮込みが足りず、豆が固かった。それに、チーズと黒豆は相性が悪いようだ。
 だが、他はまぁまぁの味だった。
 

 その後、季節は冬から春へと変わり、月に一回、学ぶ内容も「春の養生」へと変わっていった。
 5月には「梅雨の養生」を学んだ。梅雨どきは湿気が多いので、余分な水分が身体に溜まり、うまく排泄できないと様々な不調が出てくることがある。むくみやのぼせ、頭痛などである。
   
 そこで、水分の排泄を助ける食材としては、あずき、そら豆、大豆などの豆類、とうもろこし、冬瓜(とうがん)、はまぐりなどがあるそうだ。
 今回も先生のメニューを参考にして、自分なりの「梅雨の養生メニュー」を作ってみた。

   ・そら豆のごはん
   ・ソバの実のサラダ
   ・鶏肉のグリル、もずくソースがけ
   ・カボチャとにんじんの煮物

 蕎麦の材料であるソバの実は、教室で先生が紹介してくれた食材である。ビタミン、ミネラルなどの栄養素が凝縮されている。
 今回は少し茹でて、生野菜に混ぜて食べたが、ソバの実を使ったレシピは、他にも色々あるらしい。
 鶏肉は油で焼いてあるが、もずくと一緒に食べることで、さっぱりとした味わいになった。
今回は、どれも失敗なく美味しく食べることができた。

 
 薬膳調理は、季節や体調、それぞれの体質などによって臨機応変に選ぶ食材を変えていくので、奥が深い。
 習い始めてからもうすぐ1年になるが、私は、まだその時に合った献立をすぐに考えるまでには至っていない。

 これからも奥行きのある薬膳料理を学び、楽しく、美味しく食べて元気に過ごしたいものだ。
                           【了】

【孔雀船98号 詩】うつぶせの春 望月苑巳

うつぶせの春がまたやってきた

顔を上げて見ることが出来ない

不条理に包まれた春だ

そこには上書きされた町がある

遠くに港を出てゆく漁船の幻

水平線には拳を振り上げた真っ黒い海坊主


岸壁でゆりかもめが歌っている

それを追う猫も

猫を追う子供らも

魔法のように

その日、消えた



すべては午後2時47分の魔法

上書きされる前の町を

もう忘れかかっているという自己嫌悪が

記憶の海に浮かぶ

もがく家並み

慈悲を忘れた神のいたずらかとも思う

などとはいうまい

そんな薄っぺらい形容詞では言い表せないのだから


人知を超えた歴史のデザイン変更が終わり

上書きされた町には

猫もゆりかもめも

子供らの笑顔も戻ってはこない

それらは偽りの幻の町だから

まだ何も終わっていない

まだ何も始まっていない

うつぶせの春がまたやってきた

PDF縦書き うつぶせの春・望月苑・

【関連情報】

 孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船98号 詩】  眠れなくて 臺 洋子

しんとした階下の部屋のテレビをつけた

風そよぐ花畑の映像に 聴きなれない穏やかな旋律


四拍目に入る コッ という小さな音が

心地よく響く

音楽はやがてデクレッシェンドして消えたが

コッ コッ コッ の音だけは残っている

とても近しく聞こえるその音は

台所から響き

寸分の狂いもなくその音楽と溶け合っていた

時計の 秒針の音


誘われるように台所へ向かい

月明りの差し込むシンク 調理台 鍋の置かれた棚を見る


この場所に二人で立って料理を教えてもらった

義母(はは)はいつも「洋子ちゃんの慣れた切り方でいいよ」と

私の仕草に微笑んでいた

義母(はは)の自慢のコロッケには椎茸が入っていた

慣れない実家の台所で

丹精に漬け込まれた辣韭の瓶を倒してしまい

床にまき散らした時も

そのくらいのそそっかしさは大事と

途方に暮れる私を慰め 先に立って片付けてくれた

休日をみつけては帰る息子夫婦

遠くで暮らす嫁に

義母(はは)はいつも優しかった


この一年 帰省もできず面会もできないまま

義母(はは)は今日 荼毘に付された


台所に響く 静かな秒針音

ここへ誘ってくれたのは

「おかあさん でしたか」

夜は深くなり

何気ないやりとりが

浮かんでは刻み込まれていく


         二〇二一年 三月の終わりに


PDF縦書き  眠れなくて 臺 洋子

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 孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
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イラスト:Googleイラスト・フリーより
 

【孔雀船98号 詩】 ダーリング夫人のキス 船越素子

ダーリング夫人には

だれにもあたえない

キスがひとつ 

いつでも右の口もとにうかんでいる

ご亭主のジョージも

ウェンディも 弟たちも

もらうことができなかったキス

決して大人にならない

あの少年だけが

風のようなあいさつをして

受けとっていくのだ


バリはどうして

彼の物語の最初に

あんなことを綴ったのだろう

10歳のわたしには

人生の不思議な烙印だった

それに夕餉の支度をする

母の口もとにも
 
たしかに

ダーリング夫人のキスが

うかんでいた


近ごろは鏡のなかに

ダーリング夫人の

慕情に似たちいさな蔭を
 
わたしの口もとに時折見かける

それを誰にあげるのか

いえ、あたえてしまったのか

わたしにもわからない


ただ 銀行家のダーリング氏には

端から無縁なことなのだ

株や配当には とても素晴らしい

知識と才能をお持ちですがと

作家はすこしだけ辛辣だから


そんなことには関わりなく
 
わたしの口もとに残る痕跡は

胸の奥でひりひりと
 
キスの行方を捜している

失われた記憶と 何かを 何ものかを
 
尋ねかねているのだった


PDF・縦書き 『ダーリング夫人のキス』 船越素子

【関連情報】

 孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
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イラスト:Googleイラスト・フリーより
 

【孔雀船98号 詩】 穴のあいた靴 小松宏佳

この底に穴のあいたくつは四年生のころ国立駅で
買ったくつです。五年生になるときつくなったの
でくつしたをぬいではくようになりました。その
せいで夏はあつくなったコンクリートに足がふれ
ていたくなったり冬は雪などが入りしもやけにな
ったりしました。       二組 小松玄汰         


画用紙に書かれた詩のしたに

割り箸ペンの墨で

柔らかくゆがんだ黒い運動靴の絵があった

息子がこれを持って帰ってくるまで

この靴のことをわたしは知らなかった

靴底を見ておどろいた

直径四センチくらいの穴だ

あわてて買いに走った

こういうことを言わない子供なのだとわかった

言われないと気づかないわたしだとわかった

彼の足の哀れだけを見て

靴を処分したら彼はとても残念がった

穴も好かれて広がっていったのだ


小人のせいだろうか

低学年のころまで

猫が路上でごろんごろんするのを真似て

路上でぐるぐる転がったり

お店でなにを聞かれても

「にゃおー」としかこたえなかった彼の国には

靴屋の小人やまねっこ小人が住んでいた


絵のまえで小人が咳払いをすると

絵の靴はひとりごとのように言ったのだ

おれはね、脱皮の皮なんだよ。

PDF縦書き 穴のあいた靴 小松宏佳


関連情報】

 孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
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イラスト:Googleイラスト・フリーより

長続きの訳は 吉田 年男

 いま、私が続けていることの一つにウォーキングがある。少しでも時間が取れそうなときには、なにをさておき、家の周りを気軽に一回りしてくる。ひとまわりといっても2~30分ほどで、距離にして3000歩くらいか? 近所のこの程度の歩きでは、ウォーキングとはいえないかもしれない。

 ほかに、隔月に一回、江戸東京歴史探訪と称して、主に都内の由緒ある神社・仏閣などをめぐるウォーキングの会に、参加させてもらっている。

 2009年5月、杉並区主催の「知的好奇心生活を始めよう」という集まりがあった。キャスター・リポーターの 東海林のり子氏による「好奇心からすべてが始まる」という講演を聞いた。ウォーキングの会は、この集まりが誕生のきっかけになっている。

 その時に用意されていた「応援教室」に、マージャン、江戸・東京を歩く、読み聞かせ入門、パソコン、ダーツ等があった。
 集まりに参加していたのは、60歳~70歳前後のひとたちであった。区としてはこの集まりをきっかけに、各「応援教室」からの自主グループが立ちあがることを期待してのことであったように思う。

 私は、幼少のころから東京の町並みには少なからず興味があった。迷わず応援教室の中にあった「江戸・東京を歩く」を選択した。
「江戸・東京を歩く」グループに集まった人は、男女半々で20名ほどであった。
一週間後に、「江戸・東京を歩く」グループは、徳川記念財団の学芸員から、「篤姫の生きた江戸・東京を歩く ~調べて・歩いてその魅力を再発見~ という資料をもとに、江戸市中の話を聞く機会に恵まれた。そのあと、場所を杉並保健所に移して、五人一組の四班に分かれて、班毎にコースを決めて都内を歩き、歩いたコースの紹介のような発表会を何度か繰り返ししたことをおぼえている。

「江戸・東京を歩く」グループに集まった人は一年後には、十名ほどになった。
残ったのが、今のウォーキングの会のメンバーたちで、年齢もだいたい同じくらいの仲間だ。
とりあえず会の名称を何にするかを話し合った。2008年1月から始まった、NHKの大河ドラマ、天璋院「篤姫」にちなんだ名前がいいのではないか。ということで、「於篤の会」に決まった。於篤の会は、今年で12年目になる。

 会の運営は、あえてキーマンを作らず、幹事は三人一組で、(そのうち一人は女性)で一年を通して輪番制にした。そして、一年後にまた新しい組み合わせで、幹事を決める。
ウォーキング計画の当番になった幹事は、次回歩くコースを話し合って決める。コースが決まったら、昼食はどこでするかなど、予めコースを幹事3人で下見をする。そして、コースの地図を添付した計画書を作って、定例会にて全員に発表する。

 定例会、ウォーキング、定例会、ウォーキングと、歩くのは隔月にして、1年に6回になっている。

 コロナ禍で、ちょうど一年前から、まともなウォーキングは全くできなくなってしまった。今年、四月になって久しぶりに歩くことに決めた。今までより、内容が乏しいが、冊子「すぎなみ景観ある区マップ」和田・堀ノ内編の一部を歩くことにした。
 コロナ禍以前は、昼食はファミレスなどですることが多かったが、天気もよかったので、各自コンビニでおにぎりや弁当を買って、済美山運動場に隣接した芝生で、ひとやすみしながらの昼食になった。それでも久しぶりの気晴らしウォーキングが実現した。

 このコースは、「和田・堀ノ内編」をできるだけ時間短縮して幹事(私を含めて三人の輪番制幹事)が、今年一月の定例会で「第六十八回ウォーキング計画書」として、会のメンバー全員に発表したものであった。

 緊急事態宣言が出ている最中は、外出も儘ならない。計画書は作ったものの、未実施のコースがまだ数件ある。しばらくは新しく計画書は作らず、すでに計画したコースを、歩く距離と時間を短くアレンジをして、歩こうと皆で話し合って決めた。

「於篤の会」が、長続きしているのは、あえてキーマンを置かずに、幹事は輪番制にして、歩く距離や時間はその場に合わせて、あまり堅苦しく考えないで、臨機応変に行動していることかもしれない。

                    イラスト:Googleイラスト・フリーより

つながる・つなげる 井上 清彦

 ジャロジーを少し開けると、北からの涼しい風が入ってくる。坪庭みたいに居間との間に隙間があるからだろう。
 先週、いつもZOOMミーティンで使っている居間から、一坪ほどの書斎にパソコンを移して、初めてZOOMミーティングを行った。昨年、書斎で受けようと、PCを持ち込んだが、ワイファイの受信が不安定で、せっかく机の上や背後を片付けたのに無駄だった。

 
この一月近く、頼みのワイアレスのワイファイの受信が、不安定になった。親機のルーターの向きを変えたりして、うまくゆくこともあるが、椅子から立ち上がり、席を空け戻ってくると、扇マークが消えて受信できなくなっている。我慢の限界に来て精神衛生上も良くない。
 月500円で契約しているニフティに相談し、「中継機」を教えてもらった。早速、自転車で井草八幡宮近くの家電量販店で購入した。親機が古くて、セットを手動でやらねばならず、同じく月額500円で契約しているNTTに教えてもらって、なんとか中継機をセットできた。コンセントに差し込むとランプが2つ点灯し、居間は言うに及ばず、書斎でも安定して受信出来たときには、胸のつかえがとれた気分だった。

 オンラインの雄であるZOOMとの出会いは、昨年、夏から、所属する会のホームページ委員会の縁だ。仲間の大学名誉教授に志願して、彼の懇切丁寧な指導で、ZOOMをやっとマスターした。コロナ感染を避けるため、ホームページ委員会で使うようになった。ここで自信をつけ、昨年秋からは、「元気に百歳」クラブの編集長を務める季刊誌の編集会議にも使うようになった。


 今年に入ってから、自宅近くの「ゆうゆう桃井館」で月1回開催される発足6年目に入った「おとこのおしゃべり会」も導入した。最高齢は90歳の方も居て難航したが、スマホで対応する人もいる。昨年名誉教授に教えて頂いたことへの恩返しで、「ZOOM伝道師」を自認している。

 妻は、私の教え方が、「教えて上げるんだの気持ちが強くて、上から目線よ」と、指摘が入った。たしかにそうだ。その後は気をつけて対応している。

「おしゃべり会」がうまく行ったことを、ゆうゆう桃井館運営側が評価し、同じゆうゆう桃井館の調理室で開催している、今年で12年めに入った「男の台所教室」は、昨年3月から、コロナ感染を避け、調理を行っていない。これを打破するためZOOMを使って活動ができないかとの話が持ちあがった。運営するNPO法人の旧知の女性代表からも私宛に正式依頼があった。この件も、時間はかかったが、なんとかうまくいき、先月は、初めてZOOMで今年度の運営方針を決めた。

 降って湧いたコロナ危機に対応するため、様々な、つながる方法がある。伝統的な電話とパソコンメールに加え、進歩系の「ライン」が登場し、つながりが便利になってきた。私も、所属クラブのスケッチサロンや、大学同期のサークル仲間や家族のグループラインを活用している。

 さらに進んだZOOMだ。所属クラブのリーダー会議やスケッチサロンの講評会もZOOMで行っている。
 コロナでデジタル時代が進化した。「巣ごもり生活」が続く中、人々の「つながりたい」との気持ちは強い。私も微力ながら「繋げる」ことを続けて行きたい。

            イラスト:Googleイラスト・フリーより

記憶の計らい 金田 絢子

 つい先日(令和3年3月)、スペインのアンダルシア地方に旅したときの、大学ノートが見つかった。淡いブルーの表紙に「スペイン記」と書いた覚えがあるのに、すでに表紙はない。最初のページに4・24と日付が記され、その右、欄外に平成元年とある。咄嗟に「平成元年のわけがない。間違いじゃないか」と思った。
 娘にも、
「平成元年と書いてあるけど、ちがうの。もっとずっと後の筈よ」
 とまくしたてた。

 というのも、夫と私は昭和63年に初めての海外旅行をしたが、阪急交通社のツアーだった。とっかかりの旅行社に操をたてて、次もその次も同じ阪急の企画に参加したのだと、私の記憶にある。だから、ジャルパックで行ったアンダルシアが、何で、平成元年であるものか。

 ノートには明らかに私の筆跡で平成元年となっている。そうだったんだと素直に認める前に、記憶を優先させたのだ。ほかの資料をあたったら、私の独り合点であった。

 こうした場面に馴れっこの娘たちは少しも驚かない。終始、何をかいわんやの心境であったろう。とこうするうち、娘が言った。
「ロエベの商品を買ってきて欲しいって、女性社員に頼まれたってお父さん言ってたわね」
 初耳である。ロエベにまるで興味のない私の耳を、夫の言葉は素通りしたものと見える。
 ここで私は、
「ロエベにはいかなかったわ、バカラには行ったけど」
 と愚にも付かぬ発言までしたのである。

 もちろんガラス製品を扱うバカラに行ったのは、全く別の旅行で、コート姿の私が写っている写真をおもいだしたからにすぎない。
 バカ丸出しの発言をくりかえしているうち、ようやっとわたしも記憶の一端をとり戻した。娘たちの土産にロエベのバッグを買ったっけ。色も形も目に浮かんできた。私がロエベに行かなかったなんて、まさに嘘っぱちだ。


 さて、私の記憶にもノートの記述にも、はっきりと残っているのは、グラナダのフラメンコである。
「洞窟のフラメンコを見に、デコボコの夜道をゆく。ライトアップされたアルハンブラ(アラビア語で『赤い王城』の意)宮殿が美しく暗闇に浮かびあがる」
洞窟の情景は、今も瞼に鮮明だ。
 ノートには
「まだ多分、とおくらいのかわいい顔立の髪の黒い女の子が、おばあさんのとなりの椅子から、私と目が合うとにっこり笑ってくれた」
 と書かれている。だが、むしろ、汚れた身なりの、そのおばさんが、膝の上の楽器を鳴らしながら、アメリカ人のカップルをじろじろ眺めまわしていた姿の方が、はっきり記憶に残っている。

 スペインに入国するとから
「ジプシーには気をつけろ。金持ちの日本人を集団でとり囲み、盗みを働くから」
 と忠告された。

 流浪の民ジプシーも、現在ではその多くが定住しているそうだが、ナチスによる絶滅政策など、各地で厳しい迫害を受けた歴史を持つ。未だに爪はじきされているらしい。彼らが、かっぱらいもどきに走るのは、無理からぬ行いではないだろうか。ノートにはないが私はひとり、複雑な気持ちに駆られた。

 フラメンコを見に、デコボコ道を歩いたのも、ジプシーのおばさんが薄汚かったのも、演出だったろうか。
 セビリアで教会の「涙のマリア」の像に感動しての帰りみち、夫はころんだ。すると、歩きながらソフトクリームを食べていた青年が、まるで舞台のワンシーンのように救いの手を差しのべた。

 手に触れそうに蘇るアンダルシア!

 30年の月日をはねのけて、わたしに近づいたアンダルシア。ひょっとしてそれは「記憶」の粋な計らいだったかもしれない。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

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