寄稿・みんなの作品

【孔雀船100号 詩】  砥ぐ  中井ひさ子

川沿いのアパートの窓は

冬でも簾をかけたままだ

日暮れがまっすぐ

入り込んでくると

俺は流し台の前に立ち

いつものように
砥石と包丁.jpg包丁と砥石をとりだした


職を転々とした俺の腕に

残ったのは

包丁を砥ぐことだった


左手で押さえる包丁のはらに

女の姿が浮かぶ

何があったわけじゃない

忘れた物を

思い出したように出ていった

砥ぐ手に

隙間からの川風が

やたら冷たい

夕まぐれに

橋一つを違えて渡って行ってしまったか

橋を渡ったらもう帰ってこないだろう


鋭くなる刃先が少しずつ
鈍い怒りに変わっていく

包丁を研ぐたび女を思い出すのか
女を思い出すたび包丁を研ぐのか
今はもうわからない


227−1 砥ぐ(中井.pdf


【関連情報】

 孔雀船は100号の記念号となりました。1971年に創刊されて40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船100号 詩】 ロクの来る日 (「詩篇たどりつけない」のためのエスキス) 脇川郁也

日だまりで毛繕いするロク

黒くまるまると太った野良だ

見慣れた景色の中にあるきれいな空が

クロネコの背にも乗っている

黒犬.jpegロクの匂いを嗅ぎつけてか

お向かいに住むビーグル犬のソラちゃんが

けたたましく大きな声で仕事をする

夏みたいな日差しと回る風がさわやかな日


鼻先の白い毛が漱石の髭に似ていて

妻はロクを白ひげと呼んでいる

隣家でおやつに呼ばれるときは

ホワイトソックスの名で通っている

ロクの名とてぼくが勝手に付けたものだから

だれもほんとうのロクに出会うことはない


風が回っている

うっすらと汗ばむ肌を撫で

立ち尽くす木々のあいだをめぐり

消滅への道をただまっすぐに

ためらいながら進んでいく


もう一匹

つきの悪い黒い野良猫がいて

ときどきうちの庭を横切っていく

髭もないし白い靴下もはいていないから

そいつを

ろくでもない猫

と呼ぶ

口からもれる頼りないことばが

かよわい手ざわりだけを残している


ロクが来た日は

何かいいことがありそうな気がして

中空を見上げてみるけれど

彼岸に吹きわたる風が

気配を消してただ回っているだけ

いつまでたってもぼくの声は届かず

どこまで行ってもたどりつけない


そこらじゅうにいる黒い猫は

帰る家を忘れてしまったロクとぼくだ

むかしに見送った小さないのちも

初夏の緑の中でころころとはしゃいでいる


PDF・縦書き ロクの来る日(脇川.pdf


【関連情報】

 孔雀船は100号の記念号となりました。1971年に創刊されて40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船100号 詩】 駅 および 短詩三篇    日原 正彦

《  》

おだやかな螺鈿の腹を見せて

雲たちがゆく


闇に汚れた地下列車があかるいホームへすべりこんでくる


地下鉄.jpegその 真上の昼の空と都会の

通奏低音のように


ドアが あき

昨日からのいろいろな顔が降りてくる

明日へのさまざまな後頭部が乗りこんでゆく


吐いて そして吸って

人も 列車も

次の駅へ


終着駅はあるのだろうか


それはあるだろう

でも 地上に這い出た列車は そこで

闇をぶるぶると払い

最後の乗客を降ろしてから


さらに遠く

殻を脱ぎ捨てるようにして 青い空の

さらに 遠く遠くの


見えない終着駅をめざすのだろう

そこで 人びとの

拭い難い 最後の 夢を

降ろすため


《 短詩三篇 》                 

一花

むこうを向いている桔梗ばかりだ

じっと見ていると

顔を静かにたたまれてしまう


それが ある日

こちらを向いている一花があったのだ


目が抱きつかれて
 
涙が出た
  

握手

ひょいとかたむいてきた 一本の

芒と 握手する


何か大いなる音楽が終わったばかりのような

午後の 風のなかで


空に 鍵盤の まぼろし

この 芒の 十一二本くらいある細い指が 秋の

ひかりと かげを

たたいていたんだな


捨てる

飛ぶときは 捨てる

何かを 捨てる

人は その 何かを知らない


鳥たちは とっくの昔に

捨て去っている

「孔雀船」作品(日原.pdf


【関連情報】

 孔雀船は100号の記念号となりました。1971年に創刊されて40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船100号 詩】 ストリートピアノ 藤井 雅人

雑踏に かすかな響きが裂け目をつくる

地下センターの片隅に降りた

黒い鳥の影が見える

ピアノ.jpeg
(水流は どこから響くのか

(源は どこに在るのか


たどっていた直線の道は

空に浮かびあがり

青の谷間におぼめく


(泉は どこに在るのか

(耳で浸るために 唇で聴くために


分岐する音の繁み

葉ずれの形に波打つ指

ひらかれる森の暗がり


(誰が 水を導いているのか

(分散和音のみなわを湧きあげ


宙に組みあがったフーガの歩み

雲のアルペッジョが空を縁取り

響きを乾いた喉の湾がむかえ


(水は どの心から湧くのか

(響きは いつから地底に在ったのか

PDF・縦書き ストリートピアノ(藤井.pdf


【関連情報】

 孔雀船は100号の記念号となりました。1971年に創刊されて40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船100号 詩】 壁 田中圭介

こころに続く帰りの空は寒い

ぺたぺたと四角い箱のなかに駆け込むと

壁が行く手を遮った


スリッパ.png
スリッパは立ち止まる

壁面から呼吸音が聞こえる

今日はここで終わる

ここから先の明日にはまだ誰も行けないのだ

と壁が呟いた

するとスーツの胸元に零れていた言葉が

ざらざらと零れ

意味が剥げ落ちて男は透明になった

そこで腋の臭いシャツは椅子に腰掛ける
今日はどこへ何をしに出かけたのかと

スリッパが魚の目に訊いている

靴のなかが痛かったとだけ応えている

壁は黙ってこちらを見ている

静寂が一人部屋の暗さと共鳴していたらしく

時間が横に広がっている

電気のスイッチがはいると

ひかりは瞬時に壁と直角に交わった

ぼんやりと物語の入り口が浮かんでいて

壁の向こうには言葉のない物語の続きがあって

人の姿の見えないところで

季節は鮮やかに色づいているはずだと

スリッパはぼんやり

蒸れた足の先で揺れている 


身の丈の大きさだけぴったしと

空間を刳り貫いて納まっている縦と横の

暗喩のスクリーン

森が騒めいている見えない風景

答えが返ってこない問うだけの無言の言葉が

映像を探しながら浮遊している

物語のなかで行方不明にならなければ

こちら側に明日の物語もないのだからと

スリッパは足の先から飛び降りて

壁のなかにぺたぺたと歩いて行った

PDF・縦書き壁(田中.pdf

【関連情報】

 孔雀船は100号の記念号となりました。1971年に創刊されて40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船100号 詩】 白雲 紫 圭子

真夜中

窓をあけてベランダにでる

頭上に白い雲が大きく楕円にひろがっていた

空は群青に冴え渡って

白雲.jpg白い雲は

かたちをくずしながら呼吸している


(宇宙からきた巨大雪玉が大気に触れて白雲に変化し雨をふらせる

と言った科学者がいた


真夜中の白雲

眺める眼の淵で量感を増し

雲の縁はきらきらとゆれて

なにかが吹雪いた

はなびら

雲に宿るいのち

水分だった


真昼

境内で満開の桜を見上げたとき

鈴の音がひびいてきた

鈴のなかの桜の昼が呼ばれて

わたくしの鳩尾をゆすった


そっと

足裏のはなびらを踏みしめて

真夜中

あの白雲を追っていた

PDF・縦書き 白雲 (紫.pdf

【関連情報】

 孔雀船は100号の記念号となりました。1971年に創刊されて40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

『いたましい海難事故』 1955(昭和30)年5月11日は? 土岡健太

 土岡健太です。広島県・呉市在住です。

 広島県大崎上島がご出身の穂高健一先生の著作「神峰山(かみのみねやま)」を再度ご紹介させてください。

 この本は5作の短編で構成されています。先夜、その中の「女郎っ子」をまた読んで、また泣きました。
1img536 (1).jpg

 1955(昭和30)年5月11日、大崎町木江南小学校6年生の修学旅行で、主人公の乗船していた"宇高連絡船"「紫雲丸」が高松沖で沈没。多くの方が犠牲になりました。

 犠牲者は168名に上り、うち修学旅行中の四校の児童生徒、先生は100名を数え、木江南小学校は児童22人、先生3人が犠牲になったとあります。大惨事でした。
 主人公も亡くなりました。

 じつは父の実家が香川県にあるので、幼いころこの宇高連絡船には何度か乗って、四国に渡ったことがあります。

 連絡船は岡山県の宇野港から高松港まで貨車も積む大きな船で、出航を知らせるドラの音も懐かしく思い出されました。

 その記憶と小説の描写が重なります。また、私(土岡健太)の修学旅行も「金毘羅さん、屋島」、とよく似たコースでしたので、尚更共感しました。

 3.jpg
   栗林公園で昼弁当 1962(昭和37)年


4aimg525.jpg
   丸亀城 1962(昭和37)年

  1957(昭和32)年4月12日、広島県生口島瀬戸田港近くで起きた、忘れてならない身近な大海難事故に「北川丸沈没事故」があります。

 あらためて、ご冥福をお祈りしたいと思います。

                        【了】   

【特別・寄稿】 津田正生と『天保鎗ヶ嶽日記』=上村信太郎

 槍ヶ岳は登山者なら登ってみたくなる日本を代表する名山である。記録に残る槍ヶ岳開山は意外に新しく、江戸時代の文政11年7月、念仏行者「播隆(ばんりゅう)」と安曇野の村人たちによって成し遂げられた。


 播隆が3度目の槍ヶ岳登山をした天保4年に、尾張の地理学者、津田正生(つだまさなり)が槍ヶ岳に登頂してその記録を『天保鎗ヶ嶽日記』として1冊の書物に纏めたとされている。
 だが、新田次郎の小説に津田は登場しない。また、平成17年発行の『日本登山史年表』(山と溪谷社)にも津田の名前は出てこない。

 なぜかといえば、登山史研究者の間では津田の日記は「幻の登山日記」とも呼ばれていて長い間存在は知られているのに、原本を見た者が殆んどいなかったからだ。

槍ヶ岳.jpg
 ところが昭和57年に進展があった。『天保鎗ヶ嶽日記』の草稿が発見されたのだ。発見の経緯は『岳人』(419号)に杉本誠氏が《幻の書ー世に出る》の見出しで写真入り4ページにわたって紹介している。

 ただし、愛知県下の旧家(服部家)から発見されたのはあくまで草稿で、和紙2枚の表裏に墨書して綴じた4ページ分と別紙1枚である。


 文章の冒頭に、槍ヶ岳登山の動機が述べられている。

 それによれば、39歳のとき加賀白山を登った折りに、ひときわ高い飛騨の乗鞍岳と信濃の槍ヶ岳を望見して、その時からずっと登りたいと思っていた。そして58歳になった天保4年7月、いよいよ友人と尾張を出立した......。と書き始めている。だが、中山道の妻籠に入ったところまでのわずか3日分で終わっている。

 草稿発見のスクープを中日新聞社の杉本氏に知らせたのは、杉本氏の友人である民俗学研究者の津田豊彦氏(津田正生から6代目子孫)だった。

 一方、『天保鎗ヶ嶽日記』の写本を実際に目にしたという人物がいるのだが、結局みつかっておらず今でも「幻の書」なのである。

         *

 ところで津田正生とはいったいどんな人物なのだろう。安永5年に尾張国(現愛知県愛西市)の津田與治兵衛盛政の子として生まれる。

 生家は酒造りを営み、地元では近村に並びなき豪農と言われていたという。幼い頃より様々な習い事を体得し、20歳頃から学問に励み、旅行や史跡を訪ね、高山にも登った。

 やがて寛政12年頃から号を「六合庵」と名乗り、多数の書物を著す。なかでも文化年間から長い期間を費やし天保7年に完成したのが『尾張地名考』全12巻。尾張藩に納められた。今では尾張地方の歴史研究には必需書とされているという。

 平成9年、槍ヶ岳山荘の穂刈三寿雄氏、長男の貞雄氏共著による『槍ヶ岳開山 播隆〔増訂版〕』(大修館書店)が刊行され、この本で初めて津田の登山について初めて簡単に紹介された。

           *
 
 国民の祝日「山の日」が平成28年に新設された。これを記念して『燃える山脈』というタイトルの安曇野と上高地を舞台にした時代小説が執筆された。
 作品は前年~翌年にわたり地方新聞『市民タイムス』(本社・松本市)に連載され、連載終了後に山と溪谷社から単行本として出版された。


 著者は穂高健一氏。小説では槍ヶ岳を登攀した津田正生が出てくる。

 穂高氏は、執筆前に津田の故郷、愛知県愛西市を訪れて取材を重ね、津田の槍ヶ岳登山を裏付ける有力な史料を確認している。それは《尾張路を立て日々を重ねて信州鑓ヶ嶽とほ登りしに1番にあらず2番と代わりしも口惜候也...》と記された短冊だという。

 また、津田の2年後には安曇野の庄屋・務台景邦が信仰心からでなく槍ヶ岳に登った記録が松本の玄向寺に残されているという。当時の槍ヶ岳には津田のような知識人が他にも登っていたかもしれない...。(白山書房刊『山の本』119号記事を縮小)


    ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報268から転載

雪化粧した富士山くっきりの矢倉岳(870m)=関本誠一

日時 : 2021年11月25日(木) 晴れ

参加メンバー : L佐治ひろみ、武部実、佐藤京子、開田守、関本誠一(計5人)

コース : 新松田駅(バス)⇒矢倉沢BS~矢倉岳(昼食)~(足柄万葉公園)~地蔵堂BS⇒新松田駅

登山記録

 これから登る矢倉岳は、おむすびの形をした山で、その特徴的な形状から、標高が高くないにもかかわらず、街なかからも目立ち、地元の人たちからは「たけのこし」と称して親しまれている。

 ここ南足柄市周辺はフィリピン海プレートと北米プレートの境目になっており、世界でもまれな場所である。
 国府津-松田断層があり、山頂付近はマグマが噴火せず、地下深くでゆっくりと冷え固まってできた「深成岩(石英閃绿岩)」 と呼ばれる岩石が、現在の高さ(870m)まで隆起してできたもの。しかも、数キロしか離れていない箱根山が、今も活発な火山活動しているのとは対照的である。
 この場所がダイナミックに変動したかを物語ってくれる。ブラタモリもびっくり!ジオサイトだ。


 新松田駅に8:40集合した。8:45発のバスで、南麓登山口のある矢倉沢BSに9:20到着する。

 バス停からジオパークを過ぎ、民家(?)の壁に大きく書かれた標識に従って進む。舗装路から急な登りが始まり、さらに鹿(イノシシ)柵をくぐると、本格的な登山道に入る。

 緩急の坂を繰り返しながら、日当たりのよい登山道を登ってゆく。紅葉が一部残っており、これを目の当たりにすると、息苦しさも忘れるくらい和ましてくれる。
 山頂直下の最後の急登を登りつめると、矢倉岳山頂に到着(11:25)した。

 山頂には数パーティーが休憩中だったが、我々が登ったコースで他の登山者とすれ違うことはなかった。
kamimura2022.3.8.002.jpg
 山頂からの展望はいうことなし。かつては木製の展望台(櫓)があったらしいが、この山には不要である。

 箱根・神山と外輪山の金時山、明神が岳、7~8合目まで雪化粧した富士山、愛鷹山群にかけての眺望撮影に30分も夢中、落ち着いたところでようやくランチタイムとなる。

 山頂滞在1時間後に出発(12:30)する。足柄峠方面に向かう。途中、万葉集が書かれた立て札のある足柄万葉公園を通過する。

 下山は足柄古道を下る。

 この道は1200年前の奈良・平安時代の東西交易路の一部で御殿場からこの地(足柄峠)をえて、坂本(関本)を通り小絵(国府津)から箕輪(伊勢原)、武蔵へと続いていた。だが、富士山の噴火で一時通行止めになってから東海道が主流となり人々の往来も少なくなり、わずかに残る石畳がかつての風情を醸し出していた。

 車道を横切るように道が続いており、ところどころ矢倉岳を正面に見ながら下ってゆく。地蔵堂BSには約1時間で到着する(15:00)。

 バス便までの40分ほどバス停脇の茶屋でミニ反省会。その後は有志で新松田駅近くでの反省会で締める。新型コロナが落ち着いているなかのハイキング日和と、筆者とって2年ぶりの会山行、同行した山仲間に感謝だ。


            ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報266から転載

高尾東山稜 ~ 初沢山(294m)の新雪ハイク =佐藤京子

日時 : 2022.2.12(土)                
メンバー  : L上村信太郎、佐治ひろみ、宮本武、佐藤京子                           
集合場所 : 京王高尾山口駅 10時集合
コース :  高尾山口駅~四辻~金毘羅山~初沢山~高尾駅


今年初めての山行だ。風もなく天気も上々である。

 2日前に都心にも新雪が降ったので、アイゼンをというアドバイスをいただき、スパッツとともにリュックに詰める。
 高尾山口に10時に集合。パソコン検索で良い地図が見つからなかったこともあり、駅の売店で「新版高尾山登山詳細12,500分の1」を買う。これで今後、自分の行動範囲が少しは広がると思う。 

 西氷川橋を渡り、甲州街道を右へ。ホテルTAKAONE(タカオネ)の前を右に少し進むと商店と駐車場の間に細い道があり「登山道ではありません」という看板があった。
 紛らわしいがここを入る。
「かたらいの路・高尾・草戸コース 四辻・高尾駅」の看板が見えたところから細い山道に入ると、雪道が山へと続いていた。
 リーダーの指示によりアイゼンを装着しストックを出す。私は、アイゼンを使用するのが3回目なのでとても嬉しい。
 
 雪道を登っていくと遠くになだらかな初沢山がくっきりと見えた。椿の花が冬景色にいろどりを添えている。
 四辻から金毘羅神社に向かうところに蝋梅が咲いていた。茶色の枯れた大きな実をつけている。
 ろうばい園などでは、きれいに見せるため種を取っているのだと佐治さんが教えてくれた。

 金毘羅特別保全地区を歩き、浅川金毘羅宮の長い階段を登る。12時20分に狭い頂上に着いた。ここで昼食を摂る。
kamimura2022.3.8.001.jpg
 この神社では、雨水を大きなドラム缶に貯めて、蛇口をつけて利用し「自然護持 未来永劫 天水尊」と書いてある。

 午後は、1時に出発した。初沢山高尾天神社の階段を登ると、境内には蝋梅が咲いていた。二宮尊徳像もあった。
 1時40分頃、山頂の初沢城址跡に到着する。

<やすべえの森>と書いた手作りの看板に「やすべえさんは身代を興し、せっせと土地を買って、誰でも散歩できるよう柵もせず、ぐるぐる小径をつくった。のちに、山口安兵衛さんのご子孫が市に寄付された。」《高尾 浅川の自然を守る会》と書いてあった。


 ここでのんびりコゲラ、メジロ、ヤマガラをウオッチする。しばらく下ると、黄色い円錐形の巨大な塔が見えてきた。「高尾みころも霊堂」だ。
 みころも公園にシラサギが1羽が羽ばたく。雑木林から小鳥の鳴き声がたくさん聞こえる。カワセミもいた。
 双眼鏡で美しい姿に見とれる。
 いつか鳥の名前と鳴き声が、それぞれ聞き分けられるようになりたいものだ。

 久々に山歩きができて楽しい一日だった。高尾駅前で反省会をしたのは久しぶりだ。

     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報268から転載

ジャーナリスト
小説家
カメラマン
登山家
わたしの歴史観 世界観、オピニオン(短評 道すじ、人生観)
「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより
歴史の旅・真実とロマンをもとめて
元気100教室 エッセイ・オピニオン
寄稿・みんなの作品
かつしかPPクラブ
インフォメーション
フクシマ(小説)・浜通り取材ノート
3.11(小説)取材ノート
東京下町の情緒100景
TOKYO美人と、東京100ストーリー
ランナー
リンク集