寄稿・みんなの作品

【寄稿・フォトエッセイ】パッケージ=伊藤宗太

 作者紹介:伊藤宗太さん

東京工業大学卒業の20代で、現在はIT企業インフォ・ラウンジ合同会社に役員として勤務しています。
趣味は登山です。高校時代は山岳部に所属していました。

朝日カルチャーチャーセンター・新宿「フォトエッセイ入門講座」の受講生です。 


パッケージ  伊藤宗太


 社員が数人の小さな会社に勤めている。みんな音楽が好きで、僕も大好きだ。なので、仕事中はずっと音楽をかけている。
 iTunesという、パソコン用の音楽再生ソフトに入っている1000以上の曲から、その日の気分に合わせてかける。
 その中に聴きたいものがない時は、インターネットラジオで音楽専門チャンネルに繋いでいる。
そう、今、音楽を摂取するのはとっても簡単なのだ。

 音楽と、それを包むパッケージの歴史は100年ぐらいしかないと思う。大まかには、LPレコード→CD→データ(MP3など)という道筋を通ってきた。その歴史の中で、音楽はどんどんラッピングを剥がされ、生身の姿となった。

 LPレコードは、素敵なジャケットをプリントするに十分な大きさのケースに入っていた。ケースの中身にはライナーノーツだったり、アーティストのメッセージだったりする印刷物が同梱されていた。再生するときはレコードの初めからで、曲を聴く、というよりもその一枚のレコードを聴くという体験だった。
「かっこいいジャケット + ライナーノーツ + アルバムとして聴く音楽」。

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【寄稿 フォトエッセイ】梅雨どきの楽しみ=三ツ橋よしみ

 三ツ橋よしみさん:薬剤師です。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセイ」の受講生です。
 

梅雨どきの楽しみ 縦書き PDF


 


梅雨どきの楽しみ 三ツ橋よしみ


   1.江戸っ子ゆずり

 6月になると、天気図で、沖縄あたりに、東西にのびた梅雨前線を目にするようになる。
 梅雨前線は、しばらく、高気圧と低気圧が押したり引いたり、力くらべをする。いつも勝負はきまっていて、梅雨前線はだんだん北へ移動する。東京の朝の空模様があやしくなり、傘をもって出かけることが、多くなる。ある日、気象庁は「関東地方の梅雨入り」を宣言する。

 そうなると、気になるのが八百屋さんだ。青梅や赤紫蘇、泥付きラッキョウが目立つ場所に並びはじめる。もうそろそろかな。いや、まだもうひといきかしら。一、二週間まってから、渋谷の八百屋さんに向かう。その店は、渋谷の料理屋さんが客筋らしい。一般の八百屋にはない、むらめ、ほじそ、菊などのつまや添え物の、取り扱いがある。先週は、まだだった。今週あたりそろそろいいんじゃないか?

 私は走るように店に行く。売り場に目を凝らす。ありました。私のお目当ての、実山椒です。
 青い小さな実は、その日のうちに、ひとつずつ小枝をとり、水洗いして、ゆでてから、流水にさらし、あくをとる。そのまま食べると、くちびるがびりびりして、しびれてしまう。 

 ちりめんじゃこをみりんとしょうゆで軽く煮たものに、さらした実山椒を加える。煮汁がなくなったら出来上がりだ。とても簡単なのに、季節を感じさせる、特上の味となる。江戸時代の人も食べたんだろうなと思うと、江戸っ子と握手したようなうれしさが、こみあげてくる。お酒のおつまみにはもちろんだけれど、ご飯にのせたり、パンにはさんだりと楽しい食卓となる。

     2.平安のむかしに


 雨上がりの草地に、もじずり草を見つけた。和名をねじ花という。ラン科の草花である。ピンク色の小花が花茎のまわりにらせん状に並んでいる。丈は10センチから30センチほどで、まっすぐのびた細い茎が風にゆらゆらゆれる。ほっそりした乙女の風情がある、いとおしい花である。

 若いころ「もじずり草は、百人一首に歌われているのよ」と、友人に教わった。しのぶ恋の歌である。
河原左大臣が詠んでいる。

『陸奥の しのぶもぢずり誰ゆえに 乱れそめにし 我ならなくに』
                                      
もじずり草は、何気ない草はらに咲く、とてもちいさな花だ。そんな花を平安の人々は愛で、恋の歌にまで登場させた。

 そして今、車が行きかう道路わきで、その花が咲いている。車が走り去り、風を受けたもじずり草が、大きく茎をゆらした。
 梅雨どきの道は捨てがたい。草はらに平安の乙女がかくれている。

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【寄稿・写真エッセイ】いい夢をみよう=野本浩一

 作者紹介:シニア大樂「写真エッセイ」講座の受講生です。
 
 1951年長崎県生まれ。1975年に三菱重工業㈱に入社し、2000年から6年間はフィリピンに駐在勤務しています。2011年9月に定年退職しました。
 ユーモアやジョーク愛好家とともに「ジョークサロン」を結成し、20年以上にわたり、笑文芸作品を持ち寄り、発表する会を楽しんでいます。
       

    いい夢をみよう    野本浩一

 自宅から蒲田駅まで、往復8000歩の散歩には、いくつもの楽しみがある。妻と会話しながら、暖かい日差しを浴びるのは楽しい。

 散歩道に沿った店舗のショーウィンドウを見るのも楽しい。初めてのお店を覗くと、思いがけない発見や出会いがある。

 東急池上線・蓮沼駅から、徒歩1、2分の「プロムナード蓮沼通り」には『Native Rock』がある。昨年の暮れ、散歩を始めたころに見つけた。その時はアンティーク小物を売る店なのだろうと思っていた。年が明けて、遊びやゲーム関連の品がないか、と覗いた。
 それがきっかけで手作り皮製品の店だと分かった。店内には財布、バッグやベルトが所狭しと置かれている。

 店主の永木貢さんと話が弾んだのは、彼が昭和50年6月生まれと分かった時カラだ。昭和50年は私が社会人一年生になった記念の年なのだ。
 そんな偶然もあり、私が今まで見たことがないもの、ある物を買った。それがドリームキャッチャーという、アメリカインディアンのお守りだった。

 大きめのリングに蜘蛛の巣状の網目があり、悪夢を捉え、良い夢だけを届けるという。天井や壁にかけて飾ると、夢がかなうらしい。その名前に惹かれて、2個買い求め、1個を受験生の甥にプレゼントした。
 
 今春、その甥は無事に合格した。永木さんに合格報告をすると、にっこり笑ってから、新作のドリームキャッチャーを見せてくれた。数年前には、結婚式の引き出物として、100個近く作ったこともあるらしい。
「皆さんに、いい夢をみてもらいたいですね」


 久しぶりに覗いた6月4日は、彼の誕生日の翌日だった。

 「これが、僕の一番のお気に入りです。こんな大きなものは、滅多にありませんよ」
 特大のドリームキャッチャーは、どんな夢を届けるのだろか。

  店内に飾ったままで、誰の手元にもいかないのは、勿体ない気がする。

                        撮影日時 2012年6月4日 蓮沼:Native Rock

【関連情報】
「プロムナード蓮沼通り」にある『Native Rock』

★オリジナルオーダーメードのネイティブアメリカンの物がたくさん揃ってます。世界に一つしかないかっこいい物が欲しいあなたに★

東京都大田区西蒲田7丁目34-6
営業時間
平日・土13時~21時
日曜定休

【寄稿・写真エッセイ】公邸の庭と小泉策太郎=美川 季子

 作者紹介:シニア大樂「写真エッセイ」講座の受講生です。
       
小泉策太郎さんの13番目の実子として生まれました。ところが、出生前に小泉の縁戚の子としてもらわれていく約束事があり、そちらから出生届が出されました。戸籍上は小泉家の子ではありませんでした。

 集合古写真の最前列・和服姿(小泉策太郎さん)の前に立つ、幼い女子が作者です。
     

公邸の庭と小泉策太郎    美川 季子


 小泉策太郎(1872~1937)は、 明冶末期から昭和のはじめに政友会に属した 静岡県伊豆出身の政治家である。
 
 自らは政治の表面には出ず、策士といわれる実力派で、数々の場面で暗躍していた。一方政界きっての文人として、多くの伝記などを上梓している。とくに注目される一点は、保守派の政党に身を置きながら、社会主義者である 幸徳秋水 と刎頸(ふんけい)の友であったことである。秋水が亡きあとも夫人を援助し続けた。さらには秋水の墓の墓碑銘は策太郎の筆になる。
(※大逆事件=幸徳秋水が明治天皇暗殺を企てた首謀者とされ、社会主義者26名が処刑された)

 ドイツ大使館は、港区麻布広尾、有栖川公園横の南部坂の途中にある。敷地は5000坪ほどの土地に大使館と大使公邸が建ち、かなり広い日本庭園である。1937年まで、ここは小泉策太郎の邸宅であった。策太郎の没後は何回か人手に渡った。そして、1960年にはドイツ大使館となる。

 現在の日本の法律では、相続の手続きによって土地家屋は売却し、果てはコマ切れとなり、もとのかたちは見る影もなくなる。しかし、外国の大使館が買い取れば、日本の良き時代の姿がそのまま残るというのは、皮肉なものだ、と私は常々思っている。

 ひょんなことから、「大使ご夫妻が美川季子さんをお茶にお招きしたい」というお手紙が舞い込んできた。
 そのきっかけとなったのが、日本経済新聞が連載する『私の履歴書』に、昨年8月に策太郎の6男の画家である小泉淳作の文章が載ったことからはじまる。
 私はそのコピーをドイツにいる夫の友人に送った。彼のドイツ人の奥さんは、たいへんな日本びいきで、美術に関しても知識が深く、講師として日本のことを教えている。それほど日本通なのである。
『私の履歴書』の中で、小泉淳作は、現在ドイツ大使館になっている、広尾の邸で育ったと記している。

(夫の友人はドイツとつながりがある)
 私は単にそれだけのことで日経の記事コピーを送ったのであった。

 ある日、唐突に、ドイツ大使から「お茶にお招きしたい」と言ってきたのである。何がどうなって、こうなったのか、私には理解できなかった。まさに降って湧いただ。
 公邸の庭に関しては何ら知識もなく、お茶を頂きながら、何の話をお話しをすればよいのやら、考えるほどに戸惑うばかりであった。
 私の全身は好奇心でできている、と言っていいほど、何にでも興味津々人間である。日ごろは縁のない『大使館』である。
「この機を逃す手はない」
 ごたいそうな場所に足を踏み入れる絶好のチャンスだとあって、喜んでお招きに応じることにした。


 写真・左の女性が作者


 私は小泉の家と縁のある人間である。(※実子・13番目。作者紹介参照)。そんなことから、小泉家ゆかりの人たちは、『ドイツ大使館の庭が、小泉の庭である。昔の面影がそのまま残されているらしい。一度見てみたい』と思っている。それら事情の認識から、誰かを誘いたかった。

 策太郎の子どもは(戸籍上)12人姉弟で、11人は既に他界している。残る一人とできることなら、一緒に行ってもらいたかった。
 ところが、心臓の手術をした直後で、外出は難しいらしい。思い切って私一人で出かけて行くことにした。

 ドイツ駐日大使は京都大学で勉強をされ、日本語は堪能である。そのうえ、非常にフレンドリーな人柄であった。奥さまは台湾の方である。
 一目お会いした瞬間から緊張がほぐれ、私は気楽にお話ができた。
 大使夫妻から、小泉の邸宅だった頃について、いろいろ質問された。もとより私に説明できる訳もなく、申し訳なく思った。結局のところ、お庭をご案内して頂き、逆に大使から説明を受けるありさまだった。紅茶とクッキーをご馳走になり、
「小泉の家だったときの資料を集めてもらえないだろうか?」
 という宿題を持ち帰ることになった。

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【受講生・フォトエッセイ】二人の外出=原口なつ

原口なつ:作者紹介
       朝日カルチャーセンター・新宿「フォトエッセイ入門」
       よみうり文化センター・金町「たのしいエッセイ教室」  
       ふたつの受講生です


二人の外出  原口なつ

 結婚してから、夫が休日の土曜、日曜日は二人で、どこかしらに出掛けている。たまには自宅で過ごすこともあるが…。五月の下旬に差し掛かった土曜日、私の実家へ二人で外泊するつもりにしていた。
 約一月ぶりなので、私は喜んでいた。その二日前に電話をかけたところ、母がその日は用事ができて、家を空けなければならないという。
 それを夫に伝えた。すると、夫が、明日は社長に急に仕事を頼まれたので、本社の銀座の会社まで出勤しなければならなくなったと言った。当日は自宅で過ごすのだな、と淋しく思っていた。

「会社に一緒に来る?」
 夫が言ってくれた。普段の生活は、たいがい毎日食材を買いに近くのスーパーへ行くくらいである。家のなかで家事をしていると、あっという間に一日が過ぎてしまう。
 夫の職場へ行く。どんなところで働いているのか、見てみたかった。遠い昔父が幼い私を職場へ手をひいて連れて行ってくれたことを思い出した。夫が何だか、父と重なって見えた。
 とても嬉しかった。

 当日になると、朝早く出ていかなくても、ゆっくり行けばいいという。朝食を食べ、夫は趣味のパソコンのゲームをはじめた。二時間ほどすると、自宅のマンションの一階にある、行きつけの整骨院に指圧をしてもらいに行こうと言い、夫婦で出かけた。
 その院は毎週土曜日に行っている。夫も私も肩こりがひどい。同院から帰ってきて、昼食の支度を急いでおこなった。料理が出来るまで、時間がかかるので出掛け前は気が気ではない。食事をすませてから、後かたずけを終えると、午後3時は過ぎていた。

 最寄り駅から池袋駅まで出て、地下鉄丸ノ内線に乗り、東京駅で降りた。かつて東京駅には何度か下りたことがある。それは数年前で、いまや新しく作りかえられている。
 駅の中の店で、夫が大判焼きを買ってくれて二人して食べた。駅のショッピング街を歩いていると、サンリオのキャラクターのグッズの店が目に入った。私の好みだと知る夫は、帰りに寄ろうかと言ってくれた。
 夫の会社へと向かった。私にはどの出口から出て、どのように街中を歩いたか、よく分からない。
 夫はIT関連の会社で働いている。いつしか、夫が勤務する会社が入ったビルの前に来ていた。家族といえども部外者は入室出来ないので、ここで別れた。夫はビルの中へ消えていった。私はデジカメでビルやその周辺の路地やら風景やらを撮った。

 夫の勤務するビルの前の喫茶店で時間をつぶすことに決めて、ひとまず落ち着いてコーヒーを飲んで過ごした。夜8時頃、ふたたび夫と落合、東京駅まで戻った。
「晩食は食べていこう」
 夫の提案で、東京駅ラーメンストリートへむかった。混み合う店らしく、少し並んで待った。そのうえで、二人して塩ラーメンを食べた。

 その後、東京駅に最近できた「おかしランド」のまえに通りかかった。出来立てのポテトチップスを売っている。この店は少し前にテレビで紹介され、かなり並ばないと買えないと報道されていた。いまは多少行列にはなっているが、それほどでもない。並んで購入した。味は他で売られているのと、さほど変わらないと思った。
 期待したキャラクターショップの店はすでにシャッターが下りていた。

 そんな体験の下、夜半に自宅へ帰ってきた。結婚生活が始まってから毎日、二人の間にはいろいろなことが起こって流れていく。これら一つひとつが積み重なり、家庭の雰囲気が形成されていくのだろう。最近はそんなふうに考えている。

【かつしかPPクラブ】2012 初夏を感じる=鈴木會子

 作者紹介:鈴木會子さん。住所は福島県双葉郡楢葉町山田岡(フクシマ原発から約20キロの地点)です。原発事故で、故郷を追われ、いまは東京・葛飾区で仮住まいしています。
『詩・一時帰宅』の寄稿などがあります。



2012 初夏を感じる  鈴木會子

 山野草

  都会の中で

   春をつげ


 初夏に咲く

  クリスマスローズ

      これいかに?
 


  ぱっと散る

   桜は大地に

     又、咲きぬ


   早朝の

    芽ぶきの雨は

       花、ちらし
    

  光受け

   今日の命を

     生き生きと

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【寄稿・フォトエッセイ】フクシマ原発14キロからの訴え=石田貴代司

石田貴代司さん=シニア大樂の「写真エッセイ」の受講生
         東京・世田谷区に在住
         「アマチュア天文家」として、
         同区の地元プラネタリウムが主催する星空観測に出向いています。 
             

フクシマ原発14kmからの訴え  石田貴代司

 日差しが強い土曜日の午後、渋谷スクランブル交差点の一角に、小型バンに檄文看板を立てて訴えているのは浪江農場の吉沢正巳氏だ。

「農家が飼っていた家畜の商品価値はゼロ、自分の家にはもう帰れない、チェルノブイリになってしまった。絶望の淵で農家の仲間5人が命を絶ちました」

「警戒区域に取り残された家畜の多くが餓死した上に放置されミイラ化していることをご存知でしょうか」


若者の関心に感激した

 若者の街といわれる渋谷で、立ち止まって聞き入るのは、ほとんど若者だ。趣意書にサインをし、吉沢氏に激励の握手を求め、100円玉を箱に入れた。そばの写真は牧場で繋がれたまま餓死、ミイラ化している牛の列、そして爆発でグチャグチャになった原発建屋の拡大写真だ。

 改めてこれらを見聞きして、私もその場に立ちすくんだ。

 立ち入りできない吉沢氏の牧場には、今も300頭の牛が生きている。


この償いは東京電力と国に対し>           

 生き残った家畜についても政府は殺処分を下した。吉沢氏は続けて訴えた。

「被ばく覚悟で世話し続けてきた私には「殺せ」は納得できない。被ばくした家畜かもしれませんが、必死に生きているその命を、生かす方法はないのでしょうか」

 さらに「政府や自治体に対し警戒区域の家畜を被ばくの研究、調査に活かしてほしいと訴えています」と結んで、額の汗をぬぐった。

                  
 

【被災者・写真提供】廃墟の陸前高田市で生きる=大和田晴男

 私が3.11小説の取材を開始したのが11年11月からです。それ以前の被災地は自分の目で見ていません。それだけに、被災者自身の目で撮影した写真は、(報道機関の写真とは違い)、それぞれ想いが籠っているし、貴重なものです。

 陸前高田市を取材する折り、同市在住の大和田晴男さんから、被災当時から1年間にわたる写真を提供してもらうことができました。
 プライベートなものは割愛し、被災地のカキ業者の視点から掲載させていただきます。



 3.11の大津波で、大和田晴男さんの持ち船は陸に打ち上げられた。カキ養殖業にとっては、最大の生産道具です。
 その失意は計り知れないものがあったようです。

 

 陸前高田市は一瞬にして、廃墟となり、約2000人の方々が尊い命を亡くしました。家屋も、町も、すべて失なったのです。


 大津波の大災害から、難を逃れた子供たちは将来の希望です。

 写真の刻まれた日にちから、まだ1か月も経っていないのに、カメラむけると、ガレキの前で戯れる子どもたちです。
 とても、印象深く、貴重な写真です。

背後の白い建物が高台の中学校で、家屋を失った住民たちの避難生活場所です。この学校すらも、あと1メートル水位が高ければ、大津波に飲み込まれるところでした。


 陸前高田市はあらゆるものが廃墟となり、病院は一軒も残っていませんでした。


 撮影日:11年5月13日

 海から見た陸前高田市。同市の最大の高級ホテル『キャピタルホテル』が見えます。まわりの建物はすべて廃墟です。

 震災からわずか2カ月後の撮影です。また来るかもしれない、大津波の恐怖が残り、余震も多発してさなか、『海の男』漁師でなければ、とても沖合から撮影できません。

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【寄稿・エッセイ】 去年のさくら=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:画家、インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験から、幅広くエッセイにチャレンジしています


           昨年のさくら 縦書きPDF

           作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から

去年のさくら  久保田雅子

 昨年、私とクリスティーヌは、3月の終わりに目黒川でお花見ランチの約束をしていた。
 そこに東日本大震災が発生した。翌日12日の原発爆発事故が起きて、在日外国人にはそれぞれの国から国外退避勧告が出された。彼女も家族と共に香港に避難した。
 それから約1か月後、避難勧告が解除になったことから、日本に戻ってきた彼女と会った。
 桜を見ながらのランチだったはずが、目黒川の桜は花も終わっていて食事をする気分にもなれず、コーヒーだけになってしまった。

 話題は国外退避時の話になった。
 急な勧告に危険を感じた彼女はわずかな時間のなかで、荷物の準備もそこそこに、家族と共に大渋滞の高速道路を成田空港へ向かった。空港内も大混乱の中、やっとの思いで出発できたと語る。
 震災では外国人も大変な思いをしていたのだ。

 日本に戻ってからも、日本語が読めず食品の安全については、不安な思いで毎日を過ごしていると話していた。私は無責任に「危険なものは販売禁止になるはずだから大丈夫よ」とアドバイスした。
                                (目黒川24年4月11日撮影)

 この頃に『トモダチ作戦』のニュースを聞いた。アメリカ軍が大がかりな日本救援作戦を展開していた。使用不可能になった仙台空港が、あっという間に復旧できたのは、日本の自衛隊に協力した米軍のおかげだ。
 私は日本の苦境を助けてくれた『トモダチ作戦』の全容を知りたいと思っていた。
 今年3月11日夜、テレビ朝日でドキュメンタリー番組『3・11映像の証言トモダチ作戦全容』を見ることができた。

 東日本大震災で自衛隊松島基地は、津波にヘリや航空機を流されて全滅状態になった。活動不可能になったのだ。
 アメリカでは日本政府の要請がある前に救援準備に動き出していた。
緊急指令―「日本を救出せよ」と横田空軍基地に作戦司令部が置かれた。

 すべての艦隊に全速力で日本を目指すように指令がでた。
 西太平洋を航行中の空母ロナルド・レーガンも進路を変えて日本に急行する。
「同盟国としてトモダチだ、困ったときには助けよう」
 約2万4千の兵士が日本の救援活動に動いた。

「陸の孤島、SOSを探せ」
 U-2偵察機が被災地の情報を集め、交通が遮断されてしまった所を、空から探して救援活動を開始した。

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【寄稿・エッセイ】田舎へ行こう=三ツ橋よしみ

【作者紹介】

三ツ橋よしみさん:薬剤師。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセィ」の受講生です。

             田舎へ行こう  縦書き PDF


田舎へ行こう  三ツ橋よしみ

  


 一昨年、同居していた母がなくなった。一年かかって、実家の後片付けをすませた。 今年になって、やっと一息つくことができた。気付くと、娘は彼氏の元に去り、家は私たち老夫婦と犬のタローだけの暮らしとなった。
「田舎暮らしがしたい」と夫が言いだした。畑をたがやし、米を作り、自給自足をするのが、かねてからの夢なのだそうだ。
「東京の狭い家では犬がかわいそうだ。ストレスがたまって、病気になってしまう」と犬をなでる。

 東京生まれ、東京育ちのわたしは、渋谷、恵比寿が遊び場だった。夜の街に繰り出すわけではなかったが、夜、真っ暗になるような場所には住みたくないし、不安だ。土いじりも、観葉植物の手入れもするが、それ以上の興味はない。
 
 夫は、うれしそうにネットで物件をさがしはじめた。郊外の不動産業者に予約を入れ、家を見に行く手配をした。家族の一員だから、家を見に、愛犬タローも一緒にいくことになった。

 東京から車で一時間あまり、千葉県佐倉市の住宅街に案内された。中古住宅だが、しっかりした作りの家だった。東京にはない広くて気持ちのいい庭があった。リードをはなすとタローの目が輝いた。走り回る犬に、夫はにこにこ顔だ。
「ここに決めよう」という。
 不動産屋に居合わせた地元の人が、畑がやりたいなら、一反(300坪)ぐらいどうですかとすすめる。坪一万円だという。いえいえ、ほんのお遊びですからと、夫は顔を赤くした。

 娘を佐倉に案内した。
「遠いいね」
「刺激が少なすぎて、お母さん、ボケちゃうんじゃない?」と心配する。
 世田谷に住む姉は「そんなに遠くに行ちゃうと、めったに会えなくなっちゃうじゃない」と電話口で涙ぐんだ。
 夫の友だちは「三日であきるんじゃないの?」と言った。
 知り合いのおばさんは「キュウリがたくさん取れたら送ってね。おいしいキュウリ漬をつくるから」とはげましてくれる。
 週二回、勤めている会社の同僚は、
「佐倉から所沢に通う気なんですか。えっ、それって小旅行じゃないですか」
 とあきれられた。
 

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