寄稿・みんなの作品

【寄稿・フォトエッセイ】 死んだらどうなるか=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験があります。(作者のHPでは海外と日本のさまざまな対比を紹介)。
 周辺の社会問題にも目を向けた、幅広いエッセイを書いています。

            死んだらどうなるか PDF

           作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から

死んだらどうなるか  久保田雅子


 3週間ぐらい前のことだ。土曜日の午後、ラジオで<死んだらどうなるか>というテーマの番組があった。鳥越俊太郎氏が知名人たちに「死んだらどうなると思うか?」と質問していく。
 「最後の晩餐(食べたいもの)は何がいいか?」などもたずねる。
 (私だったら冷たいビールかなぁ…)
 仕事をしながら聞いていたので、詳細まではよく覚えていないが、大多数の人があたりまえのように、死んだら<無>になる、と答えていた。
 天国へ行く前に裁判があって行く先が決められる、と答えた人もいた。
 思ったより少なかったのが、肉体は無くなるが霊魂は残るというものだ。
 生まれ変わる(輪廻転生)はなかった。
 臨死体験をもった人もいた。美しいお花畑や、川があったという。とてもいい気持ちのところに誰かに呼ばれて気がついたら、生き返っていた…。
 最後の晩餐は他人が聞くと「へぇ」と思うものが多くおもしろかった。

 ずっと以前、キューブラー・ロス女史著<死ぬ瞬間>という本がベスト・セラーになったことがあった。(30年ぐらい前?)
 精神科医の彼女が末期患者の心理と臨死体験者の話をまとめたものだった。
 死を間近に迎える時の心理プロセスを、段階的に解明していた。
 大勢の臨死体験者によると、精神が肉体から離れて浮遊し、自分の寝ている姿を上から見ることができる。遠距離の会いたい人のところへ瞬時に行ける…。
 魂は肉体から離れてトンネルに入ってゆき、その先に至福の光を見るという。
 私の母は、遠くに住む祖父が、死ぬ前夜に寝ている自分の枕元へ来たと話していた。こういう話はほかでもときどき聞いたことがある。
 同じころ、上智大学でアルフォンス・デーケン教授(イエズス会司祭)が死の準備教育(死科学)の講義を開始して評判になった。
 (勉強すると死もこわくなくなるのかなぁ…)

 世界中の宗教は突き詰めれば<死んだらどうなるか>からはじまったと思う。

 <輪廻転生>は仏教やヒンズー教、古代エジプトやギリシャなど世界各地で信じられている。
 チベット仏教の<ラマ=高僧>は死亡すると弟子が転生者を探し出す。候補者の子供の中から前世の記憶をテストして確認する。正式に生まれ変わりと認定されると、<ラマ>としての特別教育を受ける。 
 「前世はね…」などの会話は最近聞かなくなったが、輪廻転生の実録はたくさんあって興味深い。現在ではアメリカなどで宗教と関係なく、精神科の心理療法などに使われているようだ。

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【寄稿・写真エッセイ】 原発を考えるペンクラブの集い=石田貴代司

石田貴代司さん=シニア大樂の「写真エッセイ」の受講生
         東京・世田谷区に在住
         「アマチュア天文家」として、
         同区の地元プラネタリウムが主催する星空観測に出向いています。 

原発を考えるペンクラブの集い  石田貴代司

<福島・チェルノブイリ・そして未来は>
 日本ペンクラブは核兵器の廃絶を訴え、あらゆる核実験に反対し続けてきた。チェルノブイリそして福島原発の事故が、地上での核実験や核兵器使用に匹敵する被害状況であることは周知の事実である。もはや核兵器の平和利用という言葉に惑わされることなく、脱原発を目指すべきだと考え、すでに集会を開くなど活動を続けている。(リーフレットから抜粋)

 趣旨に賛同して、8月30日(木)夜の専修大学校舎での集会に参加した。450人以上の参加で、さすがに格調の高さを感じた。
<福島・チェルノブイリの視察>
 総合司会、高橋千劔破(ちはや)氏のもと8氏が壇上で視察の報告をした。印象的なものを紹介する。
吉岡忍氏(写真右):今年3月福島原発のぎりぎり20kmまで迫った。普通の生活に見えるが中身は違う。夫婦別々の生活、農業を目指す人は農地がだめ。
 女川原発で感じた。北上川から水を引いて成り立っているこの原発は、「テロ」が水を止めさえすれば原発はパンクする。これでいいのか。

 住友達也氏:マスコミを信ずることはすでにナンセンス。この発信者は「どこから金が出ているのか」を分析して対応すべきだ。一人づつが声を上げると国を動かせる。皆さんが選挙で「原発推進派」を落とそう。
  <ペンクラブに期待できるか>
 浅田次郎会長:経済界の圧力で原発を再稼動するのは“ピストルを頭に突きつけられているのに、今夜の食事の話をしている感じだ”この先日本が浮かぶか沈むか、「民に力多くして、国いよいよ暗し」
(老子)、2000年前のこの老子の警告で、(日本は)素晴らしい技術を持っているが、こなせなければ何もならない。と。
「ペンは剣よりも強し」は古いことわざだ。この勢力に期待しよう。 

 

  

【寄稿・写真エッセイ】 ニューイヤーコンサート=齋田 豐

 夏は旅行会社から、世界各国、冬向けの音楽旅行冊子が来る。
 私はそれらを丹念に見る。ウイーンの今年の大晦日から元旦のニューイヤーコンサート指揮者が、フランツ・ヴェルザー=メストに決まったと報じている。うれしくなった。

 オーストリヤ出身の指揮者ということで、ウイーンの人たちも喜んでいるそうだ。

 1昨年までの私は、演歌から、クラシックまで、音楽にはほとんど興味関心が無かった。聴くのも、演じるのも苦手なのだ。ところが、昨年の元旦、たまたま掛けたテレビから、優美な画像と美しいメロディーが流れて来た。何曲かは聴き知っていた。解説者の言葉から、これが有名なウイーン楽友協会「黄金ホール」でのニューイヤーコンサートと知る。結局、最後まで見てしまった。

 以来、私は、そのコンサートホールで聴きたいと思い始めた。たまたま、ボランティヤーで、数人の女子学生と一緒になった折、そのコンサートの話をすると、事務局のT子1人を除いて、皆が「いいわね。行きたいわ」と言っていた。
 さっそく周囲の音楽好きや外国旅行好きな人たちに、ニューイヤーコンサートに行った経験や行き方を聴いてみた。だが、誰もが、チケットの入手が困難だという。
 行くのは無理、と言っている。がっかりしてしまった。

 そんな折も折、あの時黙っていたT子から、「とよさん、私、行きたいのだけれど、連れて行って」とメールがきた。びっくりして、「連れてなんか行けないけど、ただ、一緒に行くというならOKよ」と返信する。

 それからは情報集めに弾みが付き、聴きまくり、探しまくった。50年前に行った人からは、楽友協会「黄金ホール」はすばらしく、チケットは現地留学生に頼んだとの返事がきた。
 別の知人は、「家にきた冊子に出ていた」と言い、そのページを切りとって送ってくれた。しかし、その計画は余りにも高額で、私たちには手が出なかった。
 どの計画書も、帯に短しなのだ。
「ニューイヤーコンサート」の券はエージェントが買い占めるから、一般には出回らないのだとわかった。以前、相撲の切符をお茶屋が買い占めていたのと同じだ。

 私たちでガイドブック、インターネット、旅行社を総動員し、スケジュールを作り、ホテルも決め、チケットの取得に漕ぎ着けた。指定席の一覧が示され、希望を聞かれた。席はこまかいカテゴリーに分けられている。バイオリニストの指使いが、見える場所を望む客もいるそうだ。

 私は全体の雰囲気に浸りたいから、舞台から3分の2のボックスにきめた。ホール全体がよく見渡せる。だが、旅行社は事前にチケットを渡してくれない。何回も「本当に観られるのね。向こうで、チケットが取れなかった、なんてことないわね。」と、くどくど聞き、念を押した。
 せっかく行くのだから、「セビリヤの理髪師」「第九」「オペレッタ蝙蝠」も鑑賞することにした。全額支払って初めて、チケットは大丈夫だが、現地で手渡すという。腹をくくる。

 音楽三昧の1週間の旅行だ。私を知る人が聞いたら、何と言うだろう。

 いよいよ成田空港から飛び立つ。ウイーンでは、中世的なマントのおじさんがボランチヤーで、道案内してくれる。シェーンブルグ宮殿前の屋台で、ホットワインがさし出される。

 旅立つ前、T子が振袖を持って行くと言う。「着られるの?」「特訓します。」「えっ」それで、私も訪問着を持参することに決めたのだ。現地では2人で、帯と格闘し、なんとか恰好を付け、会場へ向かった。

「黄金ホール」の内部はイタリヤからの花で飾られ華やいでいる。フランツ・ヴェルザー=メストの指揮はすっきりしていた。
 最後は「美しき青きドナウ」と「ラデッ行進曲」の手拍子で、演奏者、聴衆が一つになった。私は異国の会場で、はるか昔、音楽の先生が、聞かせてくださったドナウ川を思い出していた。わけもなく涙が流れた。来てよかった。
 ふたたびフランツ・ヴェルザー=メストの指揮が聴ける。待ち遠しい。

【寄稿・写真エッセイ】 島崎藤村の悲しき時代=一ノ瀬善秋

作者紹介:一ノ瀬善秋
       長野県出身。シニア大樂の写真エッセイ教室の受講生
       同大樂の理事であり、ユーモア共和国大統領として、秋葉原をはじめとして首都圏9か所で、「ユーモアスピーチの会」を主宰している。

島崎藤村の悲しき時代  一ノ瀬善秋

 藤村(1872~1943)は小諸時代、1897年に詩集「若菜集」を
 出した。ロマン主義の詩で、伝統的な詩語や韻律を生かした文学史上記念すべき詩集である。翌年‘98に「一葉集」「夏草」ついで「落梅集」を出版して浪漫派詩人として大きな業績を残した。しかし出版社から原稿料が入らず生活に苦しんだ。
散文へ転じ小説家として身を立てることを考え「千曲川のスケッチ」などを書き、地方文化を観察し、交流していた人びとを確かな文章表現で書き上げている。
島崎藤村が意を決し明治38年5月、未完の原稿をもって信州小諸から上京し、新宿大久保(現・歌舞伎町2丁目)に住んだ。
 極貧の生活に耐え‘06に名作「破戒」を完成させたが、自費出版であった。   

 この家を紹介したのは画家の三宅克己であった。
 藤村と克己は小諸時代の友人で互いに啓発し交際は終生続いた。三宅克己(1874~1954)
は洋画家で徳島出身、渡米、渡欧して文展・帝展の審査員をつとめた人である。三宅克己の回想記
「思い出ずるまま」に『藤村さんも未だ幼少なお嬢さん達を引き連れ不安の思いで上京される。間もなく引き続く不幸が重なり、とうとう大久保の住居も見捨て・・』と書いている。藤村はその年の5月に三女、翌年4月に二女、6月に長女を失った。
 原因は麻疹、脳の病、栄養失調であった。苦しき、悲しい三年であった。

 三人の娘を居宅から西500メートル、家主坂本家の世話でその菩提寺である山手線に近い「長光寺」に葬った。寺の隅に三人の供養像が小さく残っている。後年駒込の「蓮華寺」に合祀され墓石がある。夫人も目が見えなくなり五年後転居先で死んだ。転居したのは浅草新片町(現・柳橋1丁目)である。
 藤村は苦しみながら「破戒」を書いた悲しい時代であった。
 その後立ち直って幾多の名作や「桜の実の熟する時」父をモデルにした大作
「夜明けまえ」「東方の門・未完」などを書いて昭和18年になくなった。
 木曾馬篭に藤村記念館、小諸に市立藤村記念館がある。

【寄稿・エッセイ】北陸路の旅=丸山哲彦

作者紹介:シニア大学「写真エッセイ教室」(2012.1月~)の受講生                              
 テニス暦は長く、ミッチイブームに日本中が沸いた数年後からです。それから50年近くテニスを楽しむ。勤務先や東村山市内のテニス仲間らと硬式テニス連盟を設立し、役員を20年以上努めています。
 その間、初心者講習会や指導者講習会を毎年開催し、底辺の拡大に努め、多くのテニス愛好者を増やしてきた。
 最近は、市内のテニス仲間と日曜・祭日の午前中に心地良い汗を流し、年に数回は軽井沢などのテニス旅行を行っています。

           『写真エッセイ』はこちらをクリックしてください。
           北陸路の旅・PDF 

 

北陸路の旅 丸山哲彦

 4月1日、金沢バス旅行に友人3人と出掛けた。駅前のマンテンホテルを拠点とする、3泊4日のフリープランの旅で、総額19800円の格安料金が魅力である。


能登半島めぐり

 4月2日、金沢駅前7:50発の能登定期観光わじま号に乗り、約2時間で輪島に到着した。輪島漆器会館で、重要有形民俗文化財の指定を受けた輪島塗制作用具や製造工程を見学した後、4,000点 にも及ぶ展示製品を見てまわりました。そのすばらしい技は、後継者を育成して後世まで伝えてもらいたいと思いました。

 漆器会館を出ると、すぐ先が輪島朝市の場所です。新鮮な海産物、干物、野菜、民芸品などの露店が所狭しと道の両側に並んでいます。おばあちゃんの店が多く、そのかけ声に負けて、ついついいっぱい買ってしまいました。
 朝市の先にある総持寺は、曹洞宗の大本山でした。本山が鶴見に移ったため、現在は大本山総持寺祖院というそうです。地震で痛んだ本堂の修理が行われていました。
 巌門は、海に突き出た岩盤に、浸食によってあいた洞門のことで能登金剛を象徴する光景です。風が強く遊覧船が出なかったのは残念でした。
 帰りに千里浜なぎさをバスが走り、右側の窓のすぐ下が海であるのにはびっくりしました。

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【寄稿・写真】チェルノブイリ視察報告=大原雄

 作者紹介:大原雄さん

 元NHK報道局の幹部。現在はジャーナリストで活躍されており、日本ペンクラブ理事、電子文藝館「委員会」委員長です。
 同クラブのチェルノブイリ視察(団長・浅田次郎会長)8人の理事メンバーとして、4月中旬、チェルノブイリ原発事故の影響をつよく残す旧ソ連ウクライナを視察してきました。
 8月30日(金)の【脱原発を考えるペンクラブの集い】part2では、パネリストとして壇上で発言されます。
 

チェルノブイリ博物館の内部の説明者


チェルノブイリ博物館の展示資料



チェルノブイリ原発の規制区域



チェルノブイリ原発の規制区域に出入りするマイクロバスの汚染測定


チェルノブイリ市・中央公園に設置された、フクシマのモニュメント


廃都・廃村になった街の名札

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【寄稿・フォトエッセイ】  監督の背中=三ツ橋よしみ

 三ツ橋よしみさん:薬剤師です。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセイ」の受講生です。
 

                 監督の背中  縦書き PDF


監督の背中  三ツ橋よしみ

 2007年の8月の暑い日だった。私は渋谷の映画館に、山本保博監督作品「陸に上がった軍艦」を観に出かけた。これは新藤兼人がみずから戦争体験を語ったドキュメンタリー映画である。私は中央通路わきに席をとった。あたりを見回すと、ほぼ満員だった。学生らしき客が多かったが、戦争体験者と思われる、年配者の姿もちらほら見受けられた。

 映画は、新藤さんが自ら画面に登場し、戦争体験を語るドキュメンタリー部と、軍隊生活を描く再現ドラマ部とが、交互に映し出される構成になっていた。
 脚本は新藤兼人、監督は新藤兼人の助監督を務めてきた山本保博で、本作が監督デビューということだった。

 昭和19年4月、32歳の新藤さんは招集され、広島の呉海兵団に帝国海軍二等水兵として入隊する。
与えられた任務は、奈良県の天理教本部で、特攻隊となっていく予科練生が使う宿舎の掃除だった。そこは一年に一回しか使用されない建物で、ノミとほこりだらけだ。召集された100人は一カ月かけて掃除する。年下の上等兵にこき使われ、くずと呼ばれ、木の棒で気の遠くなるほどたたかれた。
 掃除が終わると、100人の中からクジで選ばれた60人がフィリピンのマニラに陸戦隊となって行った。60人はマニラに着く前に、アメリカの潜水艦にやられて亡くなる。残りの40人のうち30人は日本の潜水艦にのってこれも全員なくなってしまう。
 残った10人は、宝塚劇場の掃除に配転となった。掃除が終わり、10人の中から4人が選ばれ、日本近海の海防艦に乗せられた。
 新藤さんと一緒に召集された100人のうち、宝塚に残ったのは6人だけになった。
 自分はどこへ行かされるかと、空を見上げた。青空が広がり、周囲がやけに静かだった。その日の昼に、終戦を知らされる。八月十五日だった。


 映画が終わり明るくなった。場内にアナウンスがあった。
「これから新藤兼人監督のトークショーがありますので、座席でそのままお待ちください」
 予想外だったが、これはラッキーと、立ち上がりかけた座席に座りなおし、新藤監督を待った。やがて、スクリーン脇のとびらが開き、監督が姿を見せた。若い女の人に脇を支えられている。たぶん孫の新藤風さんだろう。95歳の新藤監督は、背を曲げ、杖にすがりついている。一歩一歩、通路を進んで来る。
 スクリーン正面には、三段ほどのステップが用意されていた。そこまでの20mほどが監督には遠い。一歩ごとに座席の背もたれに手を伸ばして、体を支えながら進んで来る。監督がやがて私の方に近づいてきた。しみだらけの監督の顔が目の前にあった。監督の手が、私の顔の横に伸びてきて、座席の背をつかむ。鋭い目が、前方を見つめ、強い意志を感じさせた。監督がスクリーンのほうへ向きを変えた。私は思わず、監督の背中に手をあてた。
(お元気で、頑張ってください)と、祈った。
 細い縞の入った青い背広だった。背広の下には、骨太でがっちりしたからだがあった。農民のからだ、戦争を生き抜いた身体だった。
 監督が無事にステップを登りステージの椅子に腰を下ろすと、皆が拍手をした。監督の顔が笑顔になった。
「62年前の八月十五日も、今日みたいに暑かった」と、監督が話された。

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【寄稿・フォトエッセイ】  テレビ=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験があります。(作者のHPでは海外と日本のさまざまな対比を紹介)。
 周辺の社会問題にも目を向けた、幅広いエッセイを書いています。

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           作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から

テレビ  久保田雅子

 私が小さかった頃、テレビは近所の家に見に行った。
 プロレスが人気だった。黒いタイツのレスラー<力道山>がなつかしい。
 私の家にテレビが来た? のは、今の天皇陛下のご成婚のときだ。もちろん白黒テレビだったが、自宅にテレビがあることで、急にお金持ちの気分になったものだ。ご成婚パレードを、家族全員でテレビの前に並んで座って観た。

 その頃は駅前や公園などに街頭テレビが置かれていた。プロ野球中継のときには、それらのテレビの前に人が大勢集まって観戦していた。まだ一般家庭にテレビが必ずしもある時代ではなかったのだ。

 東京オリンピック(1964年)の中継は国中で盛り上がった。この頃から家庭にテレビが普及した。
 アメリカのテレビ番組が放映されるようになった。
<ララミー牧場><ローハイド>などウエスタンは特に人気だった。


 私が結婚したときは、彼が持参してきた古い白黒テレビだった。(彼の実家でカラーテレビを購入したので不要になった…)。
<シャボン玉ホリデー>や<座頭市物語><子連れ狼><11PM>などを楽しみに観たものだ。<ブラウン管のスター>などといわれて、テレビで活躍する芸能人が人気になっていった。

 だんだんテレビ局が増えて、朝も夜も休みなく番組が溢れるようになった。
 私は子供たちにテレビを見ながらの食事を禁止した。テレビは家族から会話をうばう存在だと思うようになっていた。

 昨年7月のデジタル化で、仕方がなくテレビを買い換えた。
 いままでと同じ大きさにしたら、主人は不満そうだった。(充分大きいのに…)。
 子供たちはそれぞれ結婚して、今は主人と二人の暮らしだ。
 夕食時には必ずテレビをつける。
「きょうも面白い番組はないね…」と毎日言いながら…。
 二人の会話のなさをテレビが補ってくれるのだ。
「近頃のテレビは見たいものがほとんどない」と言う彼の書斎には、リビングにあるよりずっと大きなブルーレイ搭載のテレビがある。

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【寄稿・エッセイ】  I君のこと=久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験があります。(作者のHPでは海外と日本のさまざまな対比を紹介)。
 周辺の社会問題にも目を向けた、幅広いエッセイを書いています。

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           作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から

I君のこと  久保田雅子


 I君とはデザインの勉強を学んでいたころの友人だ。
 私はインテリアデザインを、彼は工業デザインを専攻していた。
 若かった私たちは仲間が集まればすぐに飲み会になって、だらだらと朝まで騒いで過ごした。仲間といるだけで楽しい時代だったのだ。
 仲間たちはそれぞれに結婚したり就職したりしてばらばらになっていった。
 I君はデザインとは関係のない芸能界で、お笑いタレントとしてテレビで活躍するようになった。結婚して子供ができたうわさを聞いた。彼は仲間の結婚式や、その子供の結婚式にも出席して、久しぶりに会う私たちを、芸能人らしく明るく陽気に盛り上げてくれた。
 そのうちに離婚はしていないが別居している…、病気の子供がいる、などの話が伝わってきた。

 先日、朝日新聞の特集<障害者が生きる>で、障害者の父としてI君が語る、インタビュー記事を読んだ。
 そこには私たち仲間には知らされなかった内情があった。
 (今になってやっと話すことができたのかもしれない…)
 彼の次男は今年26歳になる。次男は頭の骨に異常がある(クルーゾン氏症候群)先天性の重い障害をもって生まれた。手術をしなければ手足がマヒしてしまうと言われて、生後4か月で大手術をした。
 彼は次男の病気を知ったとき、死んで欲しいと思ったと告白していた。
 先々のことを考えると、怖くて悲しくて、頭がまっしろになったという。
 なにがあっても、テレビでは明るく人を笑わせなければならない仕事が、つらくてできなくなった。陽気なお笑い芸人として活躍していた彼は、その時から人生が変わった。

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【寄稿・旅エッセイ】  旅の記憶 宮島と大願寺=長島三郎

  作者紹介=長島三郎さん
         目黒カルチャースクール『小説の書き方』の受講生
         私小説を得意としています。 

旅の記憶  宮島と大願寺  長島三郎

 私は旅行会社から送られてきたパンフレットに目を向けた。表紙には赤、白、ピンク、色とりどりのつつじの花が咲き誇っている。手に取ってめくって行くと、北海道から九州、沖縄までの観光名所がきれいなカラー写真で掲載されている。

 その中でも、安芸の宮島にある大願寺に、五年の歳月を費やして、総白檀(びゃくだん)の不動明王を造像いたしましたと、書かれてある。白檀と言えばインドの香木で入手困難な高級素材だときいている。それも総重量六トンと書かれてあるのには驚いた。
 お香をやらない私でも、白檀がどれほど高価な香木であるかは解っている。どうしても、見て見たいと言う気持ちになった。
 そのツアーは新幹線、バスを乗り継いで、船で宮島に渡り、大願寺に行き、宮島に一泊して、次の日は厳島神社を見学、千畳閣、五重塔を見物して、再び船に乗り宮島口に渡り、錦帯橋、岩国城、吉川公園、津和野を回る二泊三日のツアーだ。私は五歳下の妻(小糸)にパンフレットを見せて誘った。
小糸はそのページを見入っていたが、
「貴方から旅行に誘うなんて珍しいわね。いいわよ。宮島には修学旅行で行ったきりだし、小京都と言われている津和野にも行きたいと思っていたのよ」
 小糸は、良し悪しは別にして、まず私の言ったことには反対をする。その後、貴方がどうしても、行きた いと言うのなら、仕方がないから付き合ってやってもいいわと、言うのが、いつものパターンだ。今回は、行ってもいいわよと、即答をしたのには、拍子抜けをしてしまった。

 定年を向かえた私は、毎日が日曜日だ。観光客で混雑する土、日曜日を外して申し込んだ。
そして一週間後、東京駅日本橋口に朝八時集合。新幹線に乗るのも久しぶりだ。
 キヨスクで、お茶、菓子を買い求め。新幹線に乗ると、これから行く宮島、津和野のパンフレットを見ながら、話は盛り上がった。
 昼食は、旅行会社から支給された駅弁で済ませて、広島駅に着ついた。待機していた観光バスに乗り込んで、原爆ドームなど、市内を車内から見て回り、宮島口に到着した。

 桟橋には、多くの人が並んでいる。私たちもガイドの後に着いて宮島に渡る船に乗り込んだ。
船内は混んでいて、団体客にまじって、肩からショルダーバッグを下げた高校生と思われる男子学生。スーツ姿にカバンを持ったサラリーマン風の男性たちが、私たちの周りに押し込まれてきた。
 中ほどに押し込まれたのでは、船から宮島の大鳥居を見ることは出来ない。ここからだと船尾が近い。小糸の手を引くと、外の景色が見える船尾に人をかき分けて、手すりに体をもたせた。波しぶきをかき分けて走る青い海。緑の宮島の景色を見入った。
 数羽のカモメが、ガア―ガアと、おおきな鳴き声で、近づき、離れては、船を追っかけてくる。すれ違う船からの波に乗り上げてか。体は上下、左右に揺れる。潮のしぶきが私の顔を通り過ぎて行く。海の上だということを、実感した。 
 小糸の髪の毛がなびき、私の顔に触れる。顔を反らせて、進むにつれて、大きく見えてくる朱塗りの大鳥居を見入った。この様な大きな物が海の中に立っていることに、感動をした。

 船は宮島の桟橋に着いた。大勢の人たちが、ゾロゾロトつながって、上陸をして行く。私たちも後に続き、船着き場の建物から外に出た。広場を見渡すと、餌をねだってか、鹿が歩いている人に近づいてくる。ほっと、癒される光景だ。
 その先には、ガイドが旗を振って、私たちが行くのを待っている。記念撮影の台に立つと、撮影スタッフが、餌を手に持って鹿を二頭連れてきた。鹿も加わっての記念撮影に、思わず微笑んでしまった。
目の前には朱色の大鳥居と、厳島神社。

「今は、引き潮で大願寺まで海の中を歩いてゆけますし、大鳥居にも触ることが出来ます。」
ガイドは説明を終えると、手旗を高く上げて、歩きだした。私たちも後に続いたが、海水を含んだ砂地はジュクジュクとして足と取られて、歩きにくい。
 暫く進むと、ガイドは私たちに振り返りむいた。
「高くそびえる朱塗りの大鳥居は海の上に置かれているだけで、固定はされていません。台風などで大きな波を受けても、倒れたり、移動をしないと、言われています」
私は台風にも動じないときき、どのようにしてあるのか、興味を持った。説明を受けながら、さらに、大鳥居に向かった。

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