寄稿・みんなの作品

【寄稿・詩】 歩くということ = 結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん

日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、
日本詩人クラブの各会員

日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家


歩くということ 縦書き


 写真: USUYA KOHARU


 歩くということ  結城 文 

                             
歩きながら 思う
生まれたての赤ん坊は歩けない
歩くことができるようになるまでの
知らず知らずにした
いくつもの努力

歩く前に 立ち上がる
立つのだって大変
寝返りさえできなかったものが
坐ることを覚える
見守りのなかで―
寝かされてばかりいた姿勢から
初めて座った時 
世界はいかに変ったことか
誰にも 坐れといわれずに
座りたいと
知らずしらずに願った結果だ
立とうとして 何度もくずおれ
やがて立つ 
みずからの意思で

なんでもないことのように歩いている
すてきなことなどと感謝していない―
それはたくさんの試行が
獲得した能力―
初めて立てた時の
初めて歩けた時の 
幼子はなんと誇らしかったろう
私たちは、自分の手で食べることもできる
言葉を使うこともできる

人間のなかにひそむたくさんの力―
生れながら うちにもっている希求
揺り籠にゆられた日からの たゆまぬ試行
私たちは こんなにも多くの
能力を発達させてきた
人間って こんなにすばらしい


短歌

いとけなき嬰児のからだに脈々と伝ひぬ希求といふ名の遺伝子

【寄稿・詩】 天頂の虹 = 結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん

日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、
日本詩人クラブの各会員

日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家


天頂の虹  縦書き


 天頂の虹  結城 文 


もうすぐ五月というのに
今朝がたは
白い花びらのように雪がながれた
旭川の針葉樹林
根方の根雪はまだ溶けない
林の切れ目から遠望する大雪山系は
白銀の輝き

ふと見上げた天頂の空は透明に潤い
太陽の周りにリングをなす
あるかなきかの虹――
見上げているうちにふっとかき消え
また現れる

なにも覚えていない旭川での幼児期
まだ若かった父母がようやく歩きはじめた私を連れ
移り住んだ第七師団官舎
とぎれとぎれの大人たちの会話と
戦災をのがれたいくひらかの写真――
  雪に埋もれそうな私
  母の膝にのって雛段の前にいる私

そんな手がかりだけをたよりに
訪れた自衛隊旭川駐屯地――
その奥に当時の佐官級官舎が二、三軒
今なお残っているのも驚き
思わぬ立派さで立つ白亜の偕行社は
かつて父母が生活物資を調達したところ
――ただ今改修中

たよりないというより
ほとんど記憶皆無の地に
何に曳かれて
たどりついたのだろう
また現れる天頂の虹を見ようと
いくたびもいくたびも大空を仰ぐ

【寄稿・詩】 包丁の跡 = 結城 文 

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん

日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、
日本詩人クラブの各会員

日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家


包丁の跡 縦書き


 包丁の跡  結城 文 


流しのわきの白い天板の上に
三筋 四筋黄ばんでついている
包丁の跡
新築間もない頃
母さんが林檎かなにかを切ろうとして
つけた傷
すぐ目の前にまな板があるのに!
なぜ?
直接口に出さなかったけれど
――私は内心腹をたてた
傷が目立ってくると
漂白剤をしみこませては拭いたものだ

いまその傷に目がいって
「まあ いいか」と呟く
睫毛に狭霧のようなものが降る
もう帰らないあのことこのことが
どっと私を浸したかと思うと
互いに目配せしあってたちまち消えた

母さんがそれまでやっていた婦人会の仕事などから
退いて 同居をはじめたのだった
それまで親としてものを言っていた母さんが
自分自身しだいに頼りなくなって
人間としてのかなしみを一番感じていた時なのに
私はその心に添って生きてはいなかった
せかせかと乾いていた
――その心にもっと向き合えばよかった

喉元にわく林檎の酸のようなものを
こくんと飲み下す
「まあ いいか――真っ白にしなくても」
母さんのつけた
包丁の黄ばんだ傷跡を
私はふきんでそっと拭く

【寄稿・詩】 ピアノ = 結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん
 
日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、
日本詩人クラブの各会員

日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家


ピアノ  縦書き


 ピアノ 結城 文 


トルコマーチのピアノの音色が
明るい木洩れ日のように降りかかった
暖かい潮のように押し寄せた
青く凪ぐ海の果てからのように
遠く過ぎ去った時代からの波のように


かつてリビングで響いていた音
上の子が弾き
下の子が弾いたピアノは
ある時から鍵盤に触れられることもなくなって
マホガニーの光沢も曇り
それでも家族の言葉をききながら
三十年 いや四十年以上ともに在った


そのピアノをとうとう手放した――
家移りをする私には
もう一緒に存在するためのスペースを確保できなくなって


そんな矢先のピアノの発表会
彼方から娘たちのソナティネがよみがえる
練習を強いたかつての私がいた
不意打ちのようにきた潮は
私を包み
きらめきながら引き
また寄せる
忘れていた感覚にとまどう私をよそに
プログラムはよどみなく進行していった

【転載・詩】 記憶を綴る人 = 平岡けいこ

「孔雀船83号」より転載です。

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船83号」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳


〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

 
記憶を綴る人  縦書き

 記憶を綴る人 = 平岡けいこ 


何度目かの台風が行き過ぎた午後
街は徐々に速度を上げ疾走している
滑り込んでくる列車
人ひとヒトの群れ
帰宅ラッシュの大阪駅
生きることは時に残酷でさえある
今日を生きる人たち
学生、会社員、主婦それぞれの役割を担って
子供、成人、男、女さまざまな場所で点在する命の灯
今日を精一杯生きても報われない
何でもない一日が引いてゆく夕刻
沢山の足が同じ場所を目指して群れを成す
その道は光に満ちている
音楽家(ミュージシャン)になりたい
こんなにも多くの人に届く詞を紡げるのなら
ホールを命の灯が埋め尽くす
体温が熱気に変わる
音が身体を抜けてゆく
動き出す無数の灯 輝く無数の命
こんなにも人が息吹いていることの美しさ
こんなにも人が笑っていることの奇跡
どうしようもない毎日の同じ時間同じ場所を共有する
一つの記憶
不穏な世界は問題なく動いてゆく
けれどきみがいなければこの景色は
すこし変わっていただろう
わずかな欠損や欠落でも
この一瞬は訪れない掴めない体感できない
だから音楽家は声を枯らして唄う
この一瞬の輝きを
音楽家は激しく打ち鳴らす
命の鼓動を高らかに響かせ
きみが きみが きみが
きみがいてくれて
良かったと
生きることに纏わるさまざまな憂鬱と歓び
わたしは綴る
音楽家にはなれない
こんなに多くの人がまた元の場所に戻ったあとの
足跡の軌跡 解体される舞台セット
ほんのちいさなため息とふと口ずさむ
幸せな記憶の欠片


            2013年10月17日大阪城ホールにて

【転載・詩】 車内で = 坂多 螢子

「孔雀船83号」より転載です。

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船83号」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳


〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

車内で  縦書き

【坂多螢子さんの作品】

 坂多螢子詩集 『お母さんご飯が』 花神社版  頒価1000+税
   としよりかいるいものよ/明るい声でいう/あしたもどってくるからね     

 東京都千代田区猿楽町1-5-9-302
  

 


 車内で = 坂多 螢子 

人違いです
で終るはずが
嘘をついているだろう なぜ逃げる
顔がすっと近づいてきた
目のなかに豹変したとなりの男が座っている
出ていってようなんて気の弱いわたしはいえない
なぜ逃げるといわれたって
あんたはお尋ね者なのかい
くぐもった声が聞こえてくる
詐欺師だっけ
ひと殺しだっけ
ほら ほら
ひいひい爺さんの大叔母さんの
そのまたひいひい婆さんの
そこまでさかのぼらなくたって
人間ぐらい殺す わたしだって何回も殺された
血がぎゅっと濃くなる
とたんに力がわいてきて
豹変男を真っ正面からにらみつけてやった
それで
一件落着したしたけど
乗客はいつのまにかいなくなって
うすぐらい車内には
わたしそっくりな女がうすく立っている
豹変男はもっとうすくなっている
わたしと間違えられるといけませんから
こちらにきてかけませんか

【転載・詩】 ミセスエリザベスグリーンの庭に=淺山泰美

「孔雀船83号」より転載です。

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船83号」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳


〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

ミセスエリザベスグリーンの庭に  縦書き


淺山泰美さんの作品

 淺山泰美エッセイ集 『京都銀月アパートの桜』 コールサック社 1428円+税
     京都がいきいきと目を覚ます このような才媛に声をかけられ(新川和江)
     東京都板橋区板橋2-63-4-509
  

 ミセスエリザベスグリーンの庭に=淺山泰美 


ミセスエリザベスグリーンの庭に
秋が来て
白いコスモスがたおやかに揺れ
飲む紅茶の種類も変わる
空には いちめんの羊雲

わかっているわ
虫たちは もうじき
枯れた草を分けて
遠い家に帰る
家路の果てを
ひととき 秋の夕陽が染めて
その先にあるのは
ほんとうの静けさだけ

長いあいだ
わたしは学びつづけた
一本の木のように
ただそこにあることを。
忘れられた泉のほとり
啼(な)いていた名も知らぬ小鳥
ふいに
もう 手放しなさいと
声がするまで

豊かな実りは いつも
何もないところへ還ってゆくの
答えなどはない ただ
人生に
何も求めない者だけが
幸せでいられる

蜻蛉が低く飛ぶ夕べ
エリザベスは 庭でひとり
虫の音を聴いている
虫たちは
枯れた草を分けて
生まれた家に帰る
どうぞ その扉に
鍵はかけないで。
無へと通じている
ふかみどりのドアに

 

【寄稿・写真エッセイ】 ピアノ = 久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験があります。(作者のHPでは海外と日本のさまざまな対比を紹介)。
 周辺の社会問題にも目を向けた、幅広いエッセイを書いています。


「週末には葉山の夕日と富士山を狙っています」。その写真は毎月、ブログの巻頭・巻末で紹介されています。心の憩いになります。

作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から

作品『ピアノ』 PDFはこちらです


   ピアノ   久保田雅子    

          
 テレビで「ピアノ買います…」とコマーシャルしているのを見た。ふと、自分のピアノの事を思い出した。
小学5年生のとき、私の誕生日に突然、家にピアノが届いた。
 両親は私への誕生日プレゼントだというが、欲しかった覚えもないし、興味もなかった。もちろん弾けない。うれしそうなふりをして「ありがとう…」と言った。
 さっそく妹とふたりで、母の知り合いのピアノ教師の家へ通うことが決まった。
<バイエル>というつまらない教本で、個人レッスンがはじまった。
 妹は楽しそうに自宅へ戻ってからも練習を重ねていた。私はなにも練習をしないで、次のレッスン日に行く。先生は不機嫌で、私には苦痛な時間だった。2~3か月するとピアノ教師から母に、
「妹さんは良くできますが、お姉さんはお断りです」と連絡があった。
 母は不満そうだったが、私はほっとした。
 そのころ小学校では<スぺリオパイプ>という楽器(プラスチックの縦笛?)を、全員が買わされて音楽の時間に練習させられた。これも私はみんなと同じようには出来なかった。どうしてもちゃんと音がでない、指が動かない。
 私は指先が不器用で、音楽は苦手だと、子供心にしっかりと自覚した。
(ずっと後になって、私は左利きだったのを、母が小学校入学までに直した事が、右手が不器用の原因だとわかり少し納得した…)
 ピアノは妹のものになり練習に励んでいたが、妹が海外留学して家からいなくなると、誰も弾かないピアノが残った。

 やがて私が結婚するときに、
「あなたにあげたプレゼントよ」と母はピアノを持っていくように言った。
 狭い新婚の部屋を、ピアノがさらに狭くした。ピアノの上は物置になって、雑誌や洗濯物などが積み重なっておかれていた。
 それでも娘が生まれてちょうどよい年齢になると、早速ピアノを習わせた。
幸いなことに娘はいやがらずに練習に通った。発表会にはおしゃれなドレスで出演をかさね、家族を楽しませてくれた。

 だが、彼女が結婚するときに、
「ピアノは?」とたずねると、
「いらない」と言われた。
 実は娘もそれほど好きな事ではなかったのだと気付いた。
 また、だれも弾かないピアノが家に残った。
 ついに私はピアノを専門業者に頼んで処分した。

 いま思うにピアノは高度成長時、庶民の夢の象徴だった気がする。
 ピアノは女子のお稽古事では一番の人気だった。家にピアノがあることは、とてもすてきなことだったのだ。(私には大迷惑だったが…)
 いまの子供たちはピアノのお稽古をするのだろうか?
 現在ではもっと進んだ新しい楽器が人気なのかもしれない…。

 長い間一緒に過ごした私のピアノは、すでに外国に売られて、いまごろ誰かが弾いているのだと思うと少しほっとする。

【寄稿・写真エッセイ】 シニアライフはあかね色 = 乙川 満喜子

作者紹介・乙川満喜子さん : シニア大樂「写真エッセイ教室」の受講生
 

はじめに

  医学の発達や食生活の改善により、人の寿命は驚くほど大幅にのびた。

  それに並行して、家庭や社会にも膨大な医療費が発生したのである。誰しもが元気で長生きしたいものだ。

  快適なシニアライフを過ごしていく為のヒントを探してみた。


   シニアライフはあかね色   乙川 満喜子  


現代の古稀は

 古稀のお祝いは70歳だが、「現代の古稀は100歳に相当する」といわれている。現代では70歳まで生きるのは稀なことではないので、とても古稀とはいえない。 
 そうすると100歳を古稀とするならば70歳はいくつになるのか。
 それには大体7掛けが適当ではないかといわれている。すると70歳は49歳になるので、まだまだ壮年ということになる。古稀だからといって祝ったりしている場合ではないようだ。


                 『写真の人:見た目も若々しい86歳 シニアの趣味作品展で』


100歳は古来稀なり    →  100歳は「よく頑張った。さあこれからひと踏ん張り

90は奇とするに足る無  →  90は「まだ」九十だと心得る

80は大いに為す可し   →  80は学んだことを実践するの意

70は得ること多し     →  70はもっともっと勉強するの意


(中国の有名な篆刻家で詩人の沙孟海(さもうかい、1900~1992)が80歳の友人に送った詩  原田種成薯より)


長寿国になった背景は

 2012年の厚生労働省の調査で、日本人の平均寿命は女性が86.41歳、男性が79.94歳で世界一の長寿国を保っていることがわかった。
 ところが今から100年ほど前、欧米諸国が平均寿命50歳台を上回った頃は、日本人はわずか30歳台だった。日本はまぎれもなく短命国だったのだ。
「人生50年」が現実となるのは昭和22年のことだったという。長寿国世界一になった背景には、医学の発達とともに、動物性食品による栄養状態の改善、穀類中心から動物性食品を併せて摂る食生活移行などがあったと記されている。

 今後は寿命の長さだけではなく、質の向上が重要と考えられる。
 誰しもが、心身共に元気で寿命を全うできる生き方を考えなければいけない。それには、頭を使う、食生活を考える、運動を意識し、生き生きと自立した生活をすることが大切である。
 日常生活で頭を使い楽しく過ごす
 そうは言っても老いは少しずつやってくる。ただ老いぼれていくだけと、あきらめの心境は私の性に合わない。多少難があっても、これからの人生、未知との遭遇を面白く楽しく過ごしてやろうと思う。だが、特別なことは何もしない。


物忘れ防止で逆発想

 たとえば、出かける前には電気関係や、ガスの消し忘れ防止の為に、玄関の内側ドアにしっかりメモを貼ってある。だがそれらは無用の長物になっていて、外出したあとで気が付き「あっしまった」と思うことがある。
 そこで、忘れることを前提にして考えることにした。電気製品は使い終わったら必ずコンセントを抜く。それが節電や漏電防止にもなる。電子レンジも洗濯機もパソコンの周辺機器も、寝る前にはテレビのコンセントも外す。
 さすがに、冷蔵庫だけは抜くわけにはいかない。残念だ。


キッチンに立つときは           

 生きていく上で、食べる事は欠かせない。したがって、台所仕事を再検討してみることにした。料理は段取りだ。
 献立を考える→材料の買い出し→下準備→手順→熱いとおいしい料理、冷たいほうがおいしい料理がある。だったらいつ火にかけて下すのか、それだけでも頭を使う。
 時には冷蔵庫に入っているものだけで作る。自然に創作料理ができて、美味しくいただけたときは何か得した気分になる。食材がなければないで工夫していく、それが楽しみだ。
 イメージ力を膨らませて工夫するのは脳トレに効果的という。
 料理はこうでなければいけません、というルールはないはずだ。煮物に緑を入れたいな、キヌサヤでも使おうか、とか、カレーライスのご飯にパセリで彩りを…など、食器はこっちの方がカッコイイかな、とか見た目にもこだわってみる。
 年齢を重ねれば重ねるほど、食事は大切だと思う。
 皮むきにピーラーを使わない。野菜のみじん切り器も使わない。それらは、確かに便利だが、手に慣れた道具に勝るものなし、と信じる。
 賞味期限を整理の判断にしない。冷蔵庫の無い時代に生きてきた人間だから、匂いをかげば傷んでいるかどうかわかる。
 それだけで判別できなくても口に入れればすぐわかる。自分の五感を信じる。過去には一度も食中毒にはならなかった。
 但し若い世代には通じないようで、わが子とのバトルは続く。消費・賞味期限に惑わされることなかれ。それが理解できていない。


情報機器を使えば世界は広がる 

 タブレットやスマートフォン・パソコン・携帯など、病気になった時、外出や移動が難しくなった時でも、これらがあれば世界はぐんと広がる。
 必要な情報を集める。音楽を聴く。メールや声で会話ができる。買い物もできる。私たち高齢者に多少の不便が生じても、こんなに楽しく自由に生きていけるのだ。


笑い

 笑顔はその人にとって一番素敵な顔だ。45歳以上になると、顔の表情はその人自身の責任といわれている。もはや親の遺伝ではない。ならば、もっと早く気が付けばよかったが、これからでも遅くはないと自分に言い聞かせる。
 なにしろ「笑い」は医療にも取り入れられており、大きな成果を果たしているという。笑うと脳の配線が変わり、不安の神経回路に血液が流れないそうだ。
 難しいことはわからないが、確かに声を出して笑うとストレスもどこかへ行ってしまう。笑いジワは許すとして、顔の表情筋を鍛えよう。
「シニア大楽」でも、日本笑い学会の藤井敬三氏が講師で普及活動をしており、各地で高い評価を得ている。

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【寄稿・写真エッセイ】  Hi Beatles, = 野本 浩一

◆ はじめに ◆ 

 2013年6月にロンドンへ旅行した。家内にひとつだけ頼み込んだことがあった。それはかねてからの念願だったビートルズ発祥の地、リバプールへ行くことである。
 ロンドンでは天気にも恵まれ、事故も無く順調に過ぎた。6月16日、待ちに待ったリバプール行きの日がやって来た。わたしはその日聖地の空気を思い切り吸った。


 
1.Hi Beatles,

 わたしが中学校に入ったのは、東京オリンピックが開催された1964年である。その年から愛唱し続けてきたビートルズの曲は、憂鬱になったり落込んだりした時、たたみかけてくるビートと張り裂ける声が醸し出すハーモニーで元気づけてくれた。
 彼らに合せて一緒に歌うと気持ちは高揚した。一曲一曲が英語のリズム感を体得する上での何よりの教材だった。
 メンバー4人の顔と名前、生年月日から始まり生き様までを、新聞・雑誌で読んだりラジオ・テレビで視聴してきた。レコードだけでなく関連する書籍も買い続けた。だから、リバプールに着いた時、“Hi Beatles, thanks a lot.”と挨拶しながら駅ホームに降り立った。


2.リバプール

1)Please Mister Policeman
 ロンドンからリバプールまでは列車で2時間程だ。往復の切符以外は、出たとこ勝負の旅だった。すぐに見つかると思った観光案内会社を探しあぐねて、リバプール・ライム・ストリート駅近くの交番に飛び込んだ。運よく陽気な警察官が近くのホテルから出る2時間コースのツアーがある、と教えてくれた。
 甘えついでに、「ビートルズが演奏したクラブや関連グッズの店があるマシュー・ストリートに行きたいのです。Please Mister Policeman 教えて」と頼んだ。
「よし、パトカー(バン)で連れて行こう」と手厚い英国式『おもてなし』を受けた。車中では一緒にビートルズを歌って楽しんだが、下車する時は焦ってしまった。まるで犯罪者を見るように黒山の人だかりが出来たからだ。
 観光客と分かると、警察官と懇意なグッズ店主が、個人ツアーのガイドを紹介してくれた。

 わたしが初めて買ったビートルズのレコードは“Please Mister Postman”である。リバプールの出だしが、“Please Mister Policeman”になってしまったのは奇遇だった。


2)ポール・マッカートニーの家

 ジョンとポールの家は、ナショナル・トラストが文化的遺産として管理運営している。期間が限られた上、1日3回各15名限定のツアーを予約しないと中へ入れない。リバプールに行く前日そのツアーを申し込んだが、残念ながら満杯と断られた。

 わたしたちがポールの家の前に着いた時、限定ツアーの面々が家に入る前の説明を受けていた。ビートルズが今もなお愛されていることを実感した。
 ビートルズファンが集まると「ビートルズのメンバー中で誰が一番好きか」ということが話題になることがある。誰が好きかということだけでお互いに通じ合うものを感じて、話が弾んだりする。
 存在感が強く天才肌のジョンに引き付けられる人は多い。わたしも初めはジョンが気に入っていたが、途中からポール派になった。彼らの映画「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」や「ヘルプ」を観て、人当りが良さそうな笑顔が気に入ったからなのだろうと思う。


3)ジョン・レノンの家 

 1980年12月8日、ジョン・レノンは凶弾に倒れた。まだ40才の時だった。
 この家は幼いジョンを引き取って育てた伯母夫婦の家である。結婚するまでジョンが暮らしていた家だ。中には入れず門の外から眺めるだけである。それでも何か感じられないかとわたしは何度も覗きこんだ。

 帰国後、思いがけない話が家内から飛び出して来た。彼女がロンドン旅行の話を友人にしていると、「私の妹はジョン・レノンの奥さん、オノ・ヨーコの弟と結婚したのよ。自宅にジョン・レノンのサイン入りのレコードジャケットとか、写真が沢山あったわ。ご主人がビートルズ好きだと知っていたら、何か差し上げられたのにね」と、その内の一人が家内に言ったのだ。
 わたしはそれを聞いて、のけぞりながら、「オーノー」と“Twist And Shout”した。貴重なお宝を入手しそこなった無念を抑えつつ、「世間は狭い」を通り越して、「世界は狭い」と思うばかりである。


4)ジョージ・ハリソンの家

 2001年11月29日死去。享年58才。
 彼は口数が少なく「静かなビートル」と言われていた。メンバーの中で最年少だったから遠慮していたのかもしれない。それでも意地悪いインタビューへの彼の答えはユーモア溢れるものだったので、記者連中に人気があった。
 わたしがとにかく気に入っている彼の受け答えが二つある。
 一つは、ビートルズがロンドンで初めてレコーディングに臨んだ日のことだ。「何か気に入らないことがあったら、言ってくれ」とレコーディング・プロデューサー(ジョージ・マーティン)が尋ねた。「あんたのネクタイが気に入らない」と即座にジョージが答えた。この一言でその場の雰囲気が和みスムーズに事が進んだ。
 もうひとつは、初めてアメリカに到着した日のインタビューだ。ある記者が「その長髪はいつ切るつもりですか」と挑発的な質問をした。間髪入れずジョージが、「昨日、切ったよ」と長髪に対する挑発を超溌剌な笑顔で即答した。その瞬間、会場に笑いが溢れ記者たちは魅了された。
 瞬時に切り返した彼のユーモアセンスはいつまでも忘れられない。


5)リンゴ・スターの家 

 リンゴの家は長屋の中の一軒だった。ドアに落書きが出来ると言われ「Koichi Nomoto & Sayo from Japan Tokyo 2013.6.16」と書いた。一杯になると消されるのだと思う。もう少し洒落た言葉を残せなかったか、今になって悔しいような思いが湧いてきている。
「『ビートルズの中で誰が一番好きか』ではトップになれないけれど、『二番目に誰が好きか』ではトップになると思う」とリンゴ・スターは自己分析をしている。彼は、作詞・作曲のライバルとして競い合うジョンとポール、そして一番年下のジョージの3人それぞれと等距離を置いていた。リンゴを除く3人にはどことなく尖った感じが漂う。それに比べて温厚な人柄がもたらすのか、彼の気配りは世界で一番人気のグループ内の人間関係において大事な緩衝剤になっていたのだとわたしは思っている。
 個性派揃いのグループの中で、リンゴは己の立ち位置を上手に理解することで全体をより活性化させた。わたしにとっても、確かに一番がポールで、二番目はリンゴになると思う。


3.メリルボーン駅:A Hard Day’s Night

 帰国当日、ビートルズの映画第1作「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」の冒頭シーンに出て来たメリルボーン駅に立ち寄った。撮影された場所は駅正面から見て右なのか左なのかと、駅員数人に尋ね回り漸く右側だと確認が出来てほっとした。

 この映画の東京初公開は1964年8月だが、長崎でわたしが観たのは中学2年の春、1965年5月31日だった。その日まではラジオやレコードからの音声や写真の静止情報だけだった。ビートルズの動画映像を見ることは全く無かった。映画の冒頭、強烈なインパクトのイントロが流れ、ジョンとジョージとリンゴが走って来る。ジョージとリンゴの二人が転ぶ。ファンに追いかけられ三人は笑い走りまくる。ポールも出て来て四人が揃う。
 私は彼らの仕草や表情、さらに一挙手一投足を見逃すまいとスクリーンに釘付けになった。
 突然ひらめいたのは、彼らと同じように歌って笑って走る動画を撮って貰うことだった。そして、転ばないことだった。


4.アビイ・ロード:Here Comes The Sun

 ロンドン到着の翌朝、「まずはアビイ・ロードに行きましょう」と家内が言いだしたので驚いた。嬉しくなってタクシーに飛び乗った。到着したのは9時前だったが、それでもビートルズファンはいた。たまたま大阪から来た夫妻と出会い、思いがけず4ショットまで撮ることが出来た。 
「アビイ・ロードに行けば、もしリバプールに行けなくなっても、ビートルズの何かを感じて帰ることになったと思うわ」と家内は言う。それは後々の日程を文句言わせずこなす為の彼女なりの頭脳的な作戦だった。


5.「彼がいたからビートルズが生まれた」

 リバプールのガイド(右写真)は、別れ際に念を押すように「1957年7月6日にジョンとポールを引き合わせたアイヴァン・ヴォーンをみんな忘れている。彼がジョンとポールを引き合わせて組ませたんだ。
彼がいたからビートルズが生まれた」と熱っぽく語った。
 アイヴァンという名前には覚えがあった。
生年月日がポールと同じ級友で、さらにジョンの家の隣に住んでいてジョンとは幼い頃から親友だった。ポールをジョンに紹介しなければならないと考え対面させた。1993年死去。ポールは彼の死を重く受け止めた。ガイドの言葉は「リバプールの人みんながビートルズを生んだのだ」と伝えているのだと私は思った。

◆ 後記 ◆

 リバプールとロンドンでビートルズに縁のある場所を訪問できたことは忘れらない思い出になった。最後に、ビートルズの曲は好きだが、ビートルズ自体には全く興味が無いと言いつつも協力を惜しまなかった家内に、感謝の気持ちで一杯である。心よりありがとう。

【写真撮影】
アビイ・ロード   2013年6月11日  
リバプール    2013年6月16日
メリルボーン駅 2013年6月20日
リバプール    2013年6月16日
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