寄稿・みんなの作品

【寄稿・写真エッセイ】  3年ぶりの新作 = 黒木 成子

 パッチワークを始めてもう25年になる。子どもの幼稚園グッズを近所の友人たちと一緒に作り始めたのがきっかけだった。皆で集まってわいわいやっているうちに、当時はちょっとしたブームのパッチワークをやってみようと決めたのである。

 そのころ、私は下の子どもが産まれたばかりで、夜もろくに眠れない日が続いていた。こんな状態ではとても無理だと思ったが、友人たちは盛り上がっており、話についていけないのも寂しいと思い、形だけでも参加することにした。
 友人たちも皆子どもが小さかったため、最初は同じマンションの経験者を家に招き、教えてもらうことになった。

 始めた動機はいい加減だったが、いざやってみるとなぜか面白い。型紙を作って一枚一枚生地を切り、縫い合わせていく。そんな地道な作業の連続だが、少しずつ形になっていくのが楽しかった。
 きっと、子育てと家事のみの毎日でイライラしていた時に、1日30分でも自分だけの時間が持てるのが新鮮だったのだろう。

 毎日少しずつ進めて、1か月程してやっと完成したのが、クッションカバー(写真・右)である。
「風車」というパターンで、三角形を組み合わせた簡単なものだ。25年もたつと色あせてしみだらけで、破れているところもあるが、思い出の第一作目なので、どうしても捨てられず、今だに持っている。

 こうしてパッチワークにはまってしまった私は、皆でお茶を飲んでいる時も、1人ちくちくと針を動かす人になっていた。
 2~3年後、子どもたちが成長すると時間の余裕もできたので、学校に通い本格的に勉強を始めた。そのころになると、一緒に始めた6人の仲間たちはもうやめていて、続けているのは私だけだった。


 パッチワークはアメリカがその起源と言われている。17世紀の西部開拓の時代に、貧しさの中で、寒さをしのぐため残った生地をつなぎ合わせてベットカバーを作ったり、古くなった服のきれいな部分だけを切り取ったりして再利用したというのが始まりだった。

 それが、物が豊富になった今とでは、わざわざ新しい生地を切りきざんで装飾的なタペストリーを作る贅沢な手芸となった。

 日本にアメリカのパッチワークが入ってきたのは戦後である。もちろん、それ以前にもハギレを縫い合わせて着物を作るという文化は存在した。

 これは江戸時代の後期に作られた下着だが、アメリカンパッチワークのヘクサゴン(六角形)の形をつなぎ合わせている。日本では亀甲の模様と言うらしい。(写真・左は、『ハギレの日本文化誌』 福島県立美術館 より引用)

 また、日本で古くから行われている「刺し子」もパッチワークにおいて「キルティング」と呼ばれている、表布とキルト芯と裏布とを三層に合わせて縫う方法とよく似ている。

 それぞれの国で同じような手芸が発達したが、国民性からか微妙に形態が異なっている。私が習い始めたころは、日本人の几帳面さからか、パッチワークとは手で縫う物であり、キルティングの針目は1㎝につき3針、などと決められていた。
 角を合わせ、正しくきれいに縫った物がいい作品と呼ばれていた。

 当時、友人がハワイで買ってきたハワイアンキルトのバッグの針目の粗さには驚いた記憶がある。
 本場のアメリカでは早くからミシンを使い、決められたパターンにとらわれず、自由な発想の作品が多かったが、この十年くらいの間に、日本でもミシンを使ったミシンキルトと呼ばれるパッチワークが盛んになってきた。
 私も布と布をつなぎ合わせるピーシングには、徐々にミシンを使うようになった。


 その後、通っていた学校を8年程で卒業し、個人の先生についてデザインの勉強をして、オリジナルデザインの作品を作るようになった。
             
 作品をコンテストに応募して入選したこともある。「曼珠沙華の咲く道」(縦218㎝×横174㎝  2005年制作)  
 これは埼玉県にある巾着田と呼ばれる曼珠沙華の群生する場所へ行き、風景を写し取ってきて、そのイメージで作った作品である。

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【寄稿・エッセイ】 針を持たざるは = 森田 多加子

 当時、交際をしていた彼が突然言った。
「お裁縫できる?」
 今の私であれば、(得意じゃない)とはっきり言えるのだが、これから結婚をしようと決めている人に、聞かれると
「できますよ」
 というしかない。

 細かい表情を見抜く人であれば、その時の私の顔を見れば、(?)と、わかったのではないかと思うが……。
「じゃあ悪いけど、このズボンが1センチほど長いので、直してもらえないかなあ」
「いいよ」
 渡されたズボンの裾はダブル仕様だ。出来る筈がない。大体、手でやる仕事が大の苦手である。針などもってのほかだ。

 中学時代の、あの一番嫌な家庭科の時間を思い出した。裁縫の時間に浴衣が教材になったことがあった。先生に教わりながら、少しずつ仕上げて行く。
 その日は背縫いの時間だ。真直ぐに袋縫い(二重に縫う)ということだった。裁縫は苦手でも、ここは単に運針縫い(いちばん基本の縫い方)をすればいいところなので、一生懸命に縫っていた。
「ちょっと、貴女、なにをなさってるの」
 一番苦手な先生は? と聞かれると、迷わずに名前が出る家庭科のおばあさん先生の声だ。

「あらまあ、前身ごろまで閉じたの……、ご丁寧に袋縫いまでやって……、私は長年教師をしていますが、こんな間違いは初めてですよ。この浴衣はどうやって着るのですか? 頭も出ないではないですか。全部ほどきなさい」
 真直ぐに縫うことばかり考えていた。言われてみれば、着物の後ろも前も、縫ったので、袋状になってしまって、着られる筈がない。

 身長より長い布を往復して縫ったこの努力はどうなるのか? 一瞬脱力感に襲われた。また縫い直しなんて出来るわけはない。
 帰って母に全部縫い直してもらった。次の授業では、机の列の間を回って、みんなの作品を見ていた先生が、私の浴衣を見ると嬉しそうに言った。
「あら、私はまだそこまで教えていませんよ」
 ちゃんとここまで、と言った筈なのに、母は裁縫が得意で大好きなので、つい先まで縫ってしまったらしい。中学二年の「家庭科」はもちろん目を覆いたくなるような点数だった。

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【寄稿・詩】 歩くということ = 結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん

日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、
日本詩人クラブの各会員

日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家


歩くということ 縦書き


 写真: USUYA KOHARU


 歩くということ  結城 文 

                             
歩きながら 思う
生まれたての赤ん坊は歩けない
歩くことができるようになるまでの
知らず知らずにした
いくつもの努力

歩く前に 立ち上がる
立つのだって大変
寝返りさえできなかったものが
坐ることを覚える
見守りのなかで―
寝かされてばかりいた姿勢から
初めて座った時 
世界はいかに変ったことか
誰にも 坐れといわれずに
座りたいと
知らずしらずに願った結果だ
立とうとして 何度もくずおれ
やがて立つ 
みずからの意思で

なんでもないことのように歩いている
すてきなことなどと感謝していない―
それはたくさんの試行が
獲得した能力―
初めて立てた時の
初めて歩けた時の 
幼子はなんと誇らしかったろう
私たちは、自分の手で食べることもできる
言葉を使うこともできる

人間のなかにひそむたくさんの力―
生れながら うちにもっている希求
揺り籠にゆられた日からの たゆまぬ試行
私たちは こんなにも多くの
能力を発達させてきた
人間って こんなにすばらしい


短歌

いとけなき嬰児のからだに脈々と伝ひぬ希求といふ名の遺伝子

【寄稿・詩】 天頂の虹 = 結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん

日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、
日本詩人クラブの各会員

日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家


天頂の虹  縦書き


 天頂の虹  結城 文 


もうすぐ五月というのに
今朝がたは
白い花びらのように雪がながれた
旭川の針葉樹林
根方の根雪はまだ溶けない
林の切れ目から遠望する大雪山系は
白銀の輝き

ふと見上げた天頂の空は透明に潤い
太陽の周りにリングをなす
あるかなきかの虹――
見上げているうちにふっとかき消え
また現れる

なにも覚えていない旭川での幼児期
まだ若かった父母がようやく歩きはじめた私を連れ
移り住んだ第七師団官舎
とぎれとぎれの大人たちの会話と
戦災をのがれたいくひらかの写真――
  雪に埋もれそうな私
  母の膝にのって雛段の前にいる私

そんな手がかりだけをたよりに
訪れた自衛隊旭川駐屯地――
その奥に当時の佐官級官舎が二、三軒
今なお残っているのも驚き
思わぬ立派さで立つ白亜の偕行社は
かつて父母が生活物資を調達したところ
――ただ今改修中

たよりないというより
ほとんど記憶皆無の地に
何に曳かれて
たどりついたのだろう
また現れる天頂の虹を見ようと
いくたびもいくたびも大空を仰ぐ

【寄稿・詩】 包丁の跡 = 結城 文 

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん

日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、
日本詩人クラブの各会員

日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家


包丁の跡 縦書き


 包丁の跡  結城 文 


流しのわきの白い天板の上に
三筋 四筋黄ばんでついている
包丁の跡
新築間もない頃
母さんが林檎かなにかを切ろうとして
つけた傷
すぐ目の前にまな板があるのに!
なぜ?
直接口に出さなかったけれど
――私は内心腹をたてた
傷が目立ってくると
漂白剤をしみこませては拭いたものだ

いまその傷に目がいって
「まあ いいか」と呟く
睫毛に狭霧のようなものが降る
もう帰らないあのことこのことが
どっと私を浸したかと思うと
互いに目配せしあってたちまち消えた

母さんがそれまでやっていた婦人会の仕事などから
退いて 同居をはじめたのだった
それまで親としてものを言っていた母さんが
自分自身しだいに頼りなくなって
人間としてのかなしみを一番感じていた時なのに
私はその心に添って生きてはいなかった
せかせかと乾いていた
――その心にもっと向き合えばよかった

喉元にわく林檎の酸のようなものを
こくんと飲み下す
「まあ いいか――真っ白にしなくても」
母さんのつけた
包丁の黄ばんだ傷跡を
私はふきんでそっと拭く

【寄稿・詩】 ピアノ = 結城 文

作者紹介=結城 文(ゆうき あや)さん
 
日本ペンクラブ(電子文藝館委員)
日本比較文学会、
埼玉詩人会、
日本詩人クラブの各会員

日本歌人クラブ発行
『タンカジャーナル』編集長

日英翻訳家


ピアノ  縦書き


 ピアノ 結城 文 


トルコマーチのピアノの音色が
明るい木洩れ日のように降りかかった
暖かい潮のように押し寄せた
青く凪ぐ海の果てからのように
遠く過ぎ去った時代からの波のように


かつてリビングで響いていた音
上の子が弾き
下の子が弾いたピアノは
ある時から鍵盤に触れられることもなくなって
マホガニーの光沢も曇り
それでも家族の言葉をききながら
三十年 いや四十年以上ともに在った


そのピアノをとうとう手放した――
家移りをする私には
もう一緒に存在するためのスペースを確保できなくなって


そんな矢先のピアノの発表会
彼方から娘たちのソナティネがよみがえる
練習を強いたかつての私がいた
不意打ちのようにきた潮は
私を包み
きらめきながら引き
また寄せる
忘れていた感覚にとまどう私をよそに
プログラムはよどみなく進行していった

【転載・詩】 記憶を綴る人 = 平岡けいこ

「孔雀船83号」より転載です。

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船83号」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳


〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

 
記憶を綴る人  縦書き

 記憶を綴る人 = 平岡けいこ 


何度目かの台風が行き過ぎた午後
街は徐々に速度を上げ疾走している
滑り込んでくる列車
人ひとヒトの群れ
帰宅ラッシュの大阪駅
生きることは時に残酷でさえある
今日を生きる人たち
学生、会社員、主婦それぞれの役割を担って
子供、成人、男、女さまざまな場所で点在する命の灯
今日を精一杯生きても報われない
何でもない一日が引いてゆく夕刻
沢山の足が同じ場所を目指して群れを成す
その道は光に満ちている
音楽家(ミュージシャン)になりたい
こんなにも多くの人に届く詞を紡げるのなら
ホールを命の灯が埋め尽くす
体温が熱気に変わる
音が身体を抜けてゆく
動き出す無数の灯 輝く無数の命
こんなにも人が息吹いていることの美しさ
こんなにも人が笑っていることの奇跡
どうしようもない毎日の同じ時間同じ場所を共有する
一つの記憶
不穏な世界は問題なく動いてゆく
けれどきみがいなければこの景色は
すこし変わっていただろう
わずかな欠損や欠落でも
この一瞬は訪れない掴めない体感できない
だから音楽家は声を枯らして唄う
この一瞬の輝きを
音楽家は激しく打ち鳴らす
命の鼓動を高らかに響かせ
きみが きみが きみが
きみがいてくれて
良かったと
生きることに纏わるさまざまな憂鬱と歓び
わたしは綴る
音楽家にはなれない
こんなに多くの人がまた元の場所に戻ったあとの
足跡の軌跡 解体される舞台セット
ほんのちいさなため息とふと口ずさむ
幸せな記憶の欠片


            2013年10月17日大阪城ホールにて

【転載・詩】 車内で = 坂多 螢子

「孔雀船83号」より転載です。

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船83号」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳


〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

車内で  縦書き

【坂多螢子さんの作品】

 坂多螢子詩集 『お母さんご飯が』 花神社版  頒価1000+税
   としよりかいるいものよ/明るい声でいう/あしたもどってくるからね     

 東京都千代田区猿楽町1-5-9-302
  

 


 車内で = 坂多 螢子 

人違いです
で終るはずが
嘘をついているだろう なぜ逃げる
顔がすっと近づいてきた
目のなかに豹変したとなりの男が座っている
出ていってようなんて気の弱いわたしはいえない
なぜ逃げるといわれたって
あんたはお尋ね者なのかい
くぐもった声が聞こえてくる
詐欺師だっけ
ひと殺しだっけ
ほら ほら
ひいひい爺さんの大叔母さんの
そのまたひいひい婆さんの
そこまでさかのぼらなくたって
人間ぐらい殺す わたしだって何回も殺された
血がぎゅっと濃くなる
とたんに力がわいてきて
豹変男を真っ正面からにらみつけてやった
それで
一件落着したしたけど
乗客はいつのまにかいなくなって
うすぐらい車内には
わたしそっくりな女がうすく立っている
豹変男はもっとうすくなっている
わたしと間違えられるといけませんから
こちらにきてかけませんか

【転載・詩】 ミセスエリザベスグリーンの庭に=淺山泰美

「孔雀船83号」より転載です。

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船83号」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳


〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

ミセスエリザベスグリーンの庭に  縦書き


淺山泰美さんの作品

 淺山泰美エッセイ集 『京都銀月アパートの桜』 コールサック社 1428円+税
     京都がいきいきと目を覚ます このような才媛に声をかけられ(新川和江)
     東京都板橋区板橋2-63-4-509
  

 ミセスエリザベスグリーンの庭に=淺山泰美 


ミセスエリザベスグリーンの庭に
秋が来て
白いコスモスがたおやかに揺れ
飲む紅茶の種類も変わる
空には いちめんの羊雲

わかっているわ
虫たちは もうじき
枯れた草を分けて
遠い家に帰る
家路の果てを
ひととき 秋の夕陽が染めて
その先にあるのは
ほんとうの静けさだけ

長いあいだ
わたしは学びつづけた
一本の木のように
ただそこにあることを。
忘れられた泉のほとり
啼(な)いていた名も知らぬ小鳥
ふいに
もう 手放しなさいと
声がするまで

豊かな実りは いつも
何もないところへ還ってゆくの
答えなどはない ただ
人生に
何も求めない者だけが
幸せでいられる

蜻蛉が低く飛ぶ夕べ
エリザベスは 庭でひとり
虫の音を聴いている
虫たちは
枯れた草を分けて
生まれた家に帰る
どうぞ その扉に
鍵はかけないで。
無へと通じている
ふかみどりのドアに

 

【寄稿・写真エッセイ】 ピアノ = 久保田雅子

【作者紹介】

 久保田雅子さん:インテリア・デザイナー。長期にフランス滞在の経験があります。(作者のHPでは海外と日本のさまざまな対比を紹介)。
 周辺の社会問題にも目を向けた、幅広いエッセイを書いています。


「週末には葉山の夕日と富士山を狙っています」。その写真は毎月、ブログの巻頭・巻末で紹介されています。心の憩いになります。

作者のHP:歳時記 季節と暦の光と風・湘南の海から

作品『ピアノ』 PDFはこちらです


   ピアノ   久保田雅子    

          
 テレビで「ピアノ買います…」とコマーシャルしているのを見た。ふと、自分のピアノの事を思い出した。
小学5年生のとき、私の誕生日に突然、家にピアノが届いた。
 両親は私への誕生日プレゼントだというが、欲しかった覚えもないし、興味もなかった。もちろん弾けない。うれしそうなふりをして「ありがとう…」と言った。
 さっそく妹とふたりで、母の知り合いのピアノ教師の家へ通うことが決まった。
<バイエル>というつまらない教本で、個人レッスンがはじまった。
 妹は楽しそうに自宅へ戻ってからも練習を重ねていた。私はなにも練習をしないで、次のレッスン日に行く。先生は不機嫌で、私には苦痛な時間だった。2~3か月するとピアノ教師から母に、
「妹さんは良くできますが、お姉さんはお断りです」と連絡があった。
 母は不満そうだったが、私はほっとした。
 そのころ小学校では<スぺリオパイプ>という楽器(プラスチックの縦笛?)を、全員が買わされて音楽の時間に練習させられた。これも私はみんなと同じようには出来なかった。どうしてもちゃんと音がでない、指が動かない。
 私は指先が不器用で、音楽は苦手だと、子供心にしっかりと自覚した。
(ずっと後になって、私は左利きだったのを、母が小学校入学までに直した事が、右手が不器用の原因だとわかり少し納得した…)
 ピアノは妹のものになり練習に励んでいたが、妹が海外留学して家からいなくなると、誰も弾かないピアノが残った。

 やがて私が結婚するときに、
「あなたにあげたプレゼントよ」と母はピアノを持っていくように言った。
 狭い新婚の部屋を、ピアノがさらに狭くした。ピアノの上は物置になって、雑誌や洗濯物などが積み重なっておかれていた。
 それでも娘が生まれてちょうどよい年齢になると、早速ピアノを習わせた。
幸いなことに娘はいやがらずに練習に通った。発表会にはおしゃれなドレスで出演をかさね、家族を楽しませてくれた。

 だが、彼女が結婚するときに、
「ピアノは?」とたずねると、
「いらない」と言われた。
 実は娘もそれほど好きな事ではなかったのだと気付いた。
 また、だれも弾かないピアノが家に残った。
 ついに私はピアノを専門業者に頼んで処分した。

 いま思うにピアノは高度成長時、庶民の夢の象徴だった気がする。
 ピアノは女子のお稽古事では一番の人気だった。家にピアノがあることは、とてもすてきなことだったのだ。(私には大迷惑だったが…)
 いまの子供たちはピアノのお稽古をするのだろうか?
 現在ではもっと進んだ新しい楽器が人気なのかもしれない…。

 長い間一緒に過ごした私のピアノは、すでに外国に売られて、いまごろ誰かが弾いているのだと思うと少しほっとする。

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