寄稿・みんなの作品

【孔雀船100号 詩】  千人針 苅田 日出美

七度目の年女になってしまった
寅年うまれの女の子は
武運長久
縁起がいいからお願いね

千人針.jpeg真夜中に起こされて
白い晒し木綿に赤い糸で結び目を作らされた
母さんに手を取って教わった
結び目の作り方も知らなかった
五歳の私

『虎は千里行って千里帰る』と縁起良し
千人針の腹巻をしていたら
鉄砲玉にあたらない

赤い結び目ぎっしりの
白い晒しを真っ赤に染めて
ニューギニアで戦死した叔父

結婚して一週間で出征して
骨さえ無かった叔父の
引出しに残されていた
タガログ語の字引が空しい

真夜中に起こされて
時間がないから
あと五枚ほどお願いね
寅年うまれの女の子だった私の
結んで作った赤い糸結びの赤い玉
千人針に心を込めるしかなかったのね
母さんたち

PDF・縦書き 千人針(苅田.pdf

【関連情報】

 孔雀船は100号の記念号となりました。1971年に創刊されて40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
  発行所 孔雀船詩社編集室
  発行責任者:望月苑巳

 〒185-0031
  東京都国分寺市富士本1-11-40
  TEL&FAX 042(577)0738

イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船100号 詩】 青へ翔ぶ 高島清子

野鳥 1.jpg郭公や鶯や名も知らぬ鳥の声が満ちている朝

私は窓の奥に逃げてジャマイカのコーヒーを淹れ

ひと時の安らぎを飲みながら

危険な隣人となったコロナのことを思った


テレビにはIQ240だという

台湾のオードリー・タンの大顔が映り

私は心は女性なのよと言っている
 
救世主となった今はそのどちらでも差し支えは無いだろう

あの時いち早く世界中のマスクを買い集め国民を救った

超天才の次の言葉を待ちながらテレビは消せない


私は香しいカフェインのせいで詩的脳になる

地球が首に巻いている青い紗のスカーフは

バンアレン帯でありそのまた奥は漆黒の宇宙で

正体不明の暗黒物質だと知ったのだが

そこまでで夢は終りなのだ


私の夢の先のそのまた遠くで

静かにサイコロを振っている者がいる

ひとまず神とすればイメージしやすいので神とすると

台湾の天才も釈迦もキリストも私たちも

神の手が振るサイコロの目で

この世界は神の遊びの庭であると思えば

なんだか嬉しくはないか

君の運命も私の今日も設計図の点に過ぎないとすれば


北半球に六月の匂いが満ちているのに

この頃は人たちの心の枠が少しづれて

無いものをかき集めて無理やり(幸福)と言ったり

当たり前のことにやたら(ありがとう)と言うのには

うんざりである


今朝私の窓を掠めて飛び去った一羽の鳥が

澄んだ声で歌いながら

碧の中へと落ちて行くのを見た

PDF・縦書き 青に翔ぶ(高島.pdf

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【孔雀船100号 詩】  砥ぐ  中井ひさ子

川沿いのアパートの窓は

冬でも簾をかけたままだ

日暮れがまっすぐ

入り込んでくると

俺は流し台の前に立ち

いつものように
砥石と包丁.jpg包丁と砥石をとりだした


職を転々とした俺の腕に

残ったのは

包丁を砥ぐことだった


左手で押さえる包丁のはらに

女の姿が浮かぶ

何があったわけじゃない

忘れた物を

思い出したように出ていった

砥ぐ手に

隙間からの川風が

やたら冷たい

夕まぐれに

橋一つを違えて渡って行ってしまったか

橋を渡ったらもう帰ってこないだろう


鋭くなる刃先が少しずつ
鈍い怒りに変わっていく

包丁を研ぐたび女を思い出すのか
女を思い出すたび包丁を研ぐのか
今はもうわからない


227−1 砥ぐ(中井.pdf


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【孔雀船100号 詩】 ロクの来る日 (「詩篇たどりつけない」のためのエスキス) 脇川郁也

日だまりで毛繕いするロク

黒くまるまると太った野良だ

見慣れた景色の中にあるきれいな空が

クロネコの背にも乗っている

黒犬.jpegロクの匂いを嗅ぎつけてか

お向かいに住むビーグル犬のソラちゃんが

けたたましく大きな声で仕事をする

夏みたいな日差しと回る風がさわやかな日


鼻先の白い毛が漱石の髭に似ていて

妻はロクを白ひげと呼んでいる

隣家でおやつに呼ばれるときは

ホワイトソックスの名で通っている

ロクの名とてぼくが勝手に付けたものだから

だれもほんとうのロクに出会うことはない


風が回っている

うっすらと汗ばむ肌を撫で

立ち尽くす木々のあいだをめぐり

消滅への道をただまっすぐに

ためらいながら進んでいく


もう一匹

つきの悪い黒い野良猫がいて

ときどきうちの庭を横切っていく

髭もないし白い靴下もはいていないから

そいつを

ろくでもない猫

と呼ぶ

口からもれる頼りないことばが

かよわい手ざわりだけを残している


ロクが来た日は

何かいいことがありそうな気がして

中空を見上げてみるけれど

彼岸に吹きわたる風が

気配を消してただ回っているだけ

いつまでたってもぼくの声は届かず

どこまで行ってもたどりつけない


そこらじゅうにいる黒い猫は

帰る家を忘れてしまったロクとぼくだ

むかしに見送った小さないのちも

初夏の緑の中でころころとはしゃいでいる


PDF・縦書き ロクの来る日(脇川.pdf


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【孔雀船100号 詩】 駅 および 短詩三篇    日原 正彦

《  》

おだやかな螺鈿の腹を見せて

雲たちがゆく


闇に汚れた地下列車があかるいホームへすべりこんでくる


地下鉄.jpegその 真上の昼の空と都会の

通奏低音のように


ドアが あき

昨日からのいろいろな顔が降りてくる

明日へのさまざまな後頭部が乗りこんでゆく


吐いて そして吸って

人も 列車も

次の駅へ


終着駅はあるのだろうか


それはあるだろう

でも 地上に這い出た列車は そこで

闇をぶるぶると払い

最後の乗客を降ろしてから


さらに遠く

殻を脱ぎ捨てるようにして 青い空の

さらに 遠く遠くの


見えない終着駅をめざすのだろう

そこで 人びとの

拭い難い 最後の 夢を

降ろすため


《 短詩三篇 》                 

一花

むこうを向いている桔梗ばかりだ

じっと見ていると

顔を静かにたたまれてしまう


それが ある日

こちらを向いている一花があったのだ


目が抱きつかれて
 
涙が出た
  

握手

ひょいとかたむいてきた 一本の

芒と 握手する


何か大いなる音楽が終わったばかりのような

午後の 風のなかで


空に 鍵盤の まぼろし

この 芒の 十一二本くらいある細い指が 秋の

ひかりと かげを

たたいていたんだな


捨てる

飛ぶときは 捨てる

何かを 捨てる

人は その 何かを知らない


鳥たちは とっくの昔に

捨て去っている

「孔雀船」作品(日原.pdf


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【孔雀船100号 詩】 ストリートピアノ 藤井 雅人

雑踏に かすかな響きが裂け目をつくる

地下センターの片隅に降りた

黒い鳥の影が見える

ピアノ.jpeg
(水流は どこから響くのか

(源は どこに在るのか


たどっていた直線の道は

空に浮かびあがり

青の谷間におぼめく


(泉は どこに在るのか

(耳で浸るために 唇で聴くために


分岐する音の繁み

葉ずれの形に波打つ指

ひらかれる森の暗がり


(誰が 水を導いているのか

(分散和音のみなわを湧きあげ


宙に組みあがったフーガの歩み

雲のアルペッジョが空を縁取り

響きを乾いた喉の湾がむかえ


(水は どの心から湧くのか

(響きは いつから地底に在ったのか

PDF・縦書き ストリートピアノ(藤井.pdf


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【孔雀船100号 詩】 壁 田中圭介

こころに続く帰りの空は寒い

ぺたぺたと四角い箱のなかに駆け込むと

壁が行く手を遮った


スリッパ.png
スリッパは立ち止まる

壁面から呼吸音が聞こえる

今日はここで終わる

ここから先の明日にはまだ誰も行けないのだ

と壁が呟いた

するとスーツの胸元に零れていた言葉が

ざらざらと零れ

意味が剥げ落ちて男は透明になった

そこで腋の臭いシャツは椅子に腰掛ける
今日はどこへ何をしに出かけたのかと

スリッパが魚の目に訊いている

靴のなかが痛かったとだけ応えている

壁は黙ってこちらを見ている

静寂が一人部屋の暗さと共鳴していたらしく

時間が横に広がっている

電気のスイッチがはいると

ひかりは瞬時に壁と直角に交わった

ぼんやりと物語の入り口が浮かんでいて

壁の向こうには言葉のない物語の続きがあって

人の姿の見えないところで

季節は鮮やかに色づいているはずだと

スリッパはぼんやり

蒸れた足の先で揺れている 


身の丈の大きさだけぴったしと

空間を刳り貫いて納まっている縦と横の

暗喩のスクリーン

森が騒めいている見えない風景

答えが返ってこない問うだけの無言の言葉が

映像を探しながら浮遊している

物語のなかで行方不明にならなければ

こちら側に明日の物語もないのだからと

スリッパは足の先から飛び降りて

壁のなかにぺたぺたと歩いて行った

PDF・縦書き壁(田中.pdf

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【孔雀船100号 詩】 白雲 紫 圭子

真夜中

窓をあけてベランダにでる

頭上に白い雲が大きく楕円にひろがっていた

空は群青に冴え渡って

白雲.jpg白い雲は

かたちをくずしながら呼吸している


(宇宙からきた巨大雪玉が大気に触れて白雲に変化し雨をふらせる

と言った科学者がいた


真夜中の白雲

眺める眼の淵で量感を増し

雲の縁はきらきらとゆれて

なにかが吹雪いた

はなびら

雲に宿るいのち

水分だった


真昼

境内で満開の桜を見上げたとき

鈴の音がひびいてきた

鈴のなかの桜の昼が呼ばれて

わたくしの鳩尾をゆすった


そっと

足裏のはなびらを踏みしめて

真夜中

あの白雲を追っていた

PDF・縦書き 白雲 (紫.pdf

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『いたましい海難事故』 1955(昭和30)年5月11日は? 土岡健太

 土岡健太です。広島県・呉市在住です。

 広島県大崎上島がご出身の穂高健一先生の著作「神峰山(かみのみねやま)」を再度ご紹介させてください。

 この本は5作の短編で構成されています。先夜、その中の「女郎っ子」をまた読んで、また泣きました。
1img536 (1).jpg

 1955(昭和30)年5月11日、大崎町木江南小学校6年生の修学旅行で、主人公の乗船していた"宇高連絡船"「紫雲丸」が高松沖で沈没。多くの方が犠牲になりました。

 犠牲者は168名に上り、うち修学旅行中の四校の児童生徒、先生は100名を数え、木江南小学校は児童22人、先生3人が犠牲になったとあります。大惨事でした。
 主人公も亡くなりました。

 じつは父の実家が香川県にあるので、幼いころこの宇高連絡船には何度か乗って、四国に渡ったことがあります。

 連絡船は岡山県の宇野港から高松港まで貨車も積む大きな船で、出航を知らせるドラの音も懐かしく思い出されました。

 その記憶と小説の描写が重なります。また、私(土岡健太)の修学旅行も「金毘羅さん、屋島」、とよく似たコースでしたので、尚更共感しました。

 3.jpg
   栗林公園で昼弁当 1962(昭和37)年


4aimg525.jpg
   丸亀城 1962(昭和37)年

  1957(昭和32)年4月12日、広島県生口島瀬戸田港近くで起きた、忘れてならない身近な大海難事故に「北川丸沈没事故」があります。

 あらためて、ご冥福をお祈りしたいと思います。

                        【了】   

【特別・寄稿】 津田正生と『天保鎗ヶ嶽日記』=上村信太郎

 槍ヶ岳は登山者なら登ってみたくなる日本を代表する名山である。記録に残る槍ヶ岳開山は意外に新しく、江戸時代の文政11年7月、念仏行者「播隆(ばんりゅう)」と安曇野の村人たちによって成し遂げられた。


 播隆が3度目の槍ヶ岳登山をした天保4年に、尾張の地理学者、津田正生(つだまさなり)が槍ヶ岳に登頂してその記録を『天保鎗ヶ嶽日記』として1冊の書物に纏めたとされている。
 だが、新田次郎の小説に津田は登場しない。また、平成17年発行の『日本登山史年表』(山と溪谷社)にも津田の名前は出てこない。

 なぜかといえば、登山史研究者の間では津田の日記は「幻の登山日記」とも呼ばれていて長い間存在は知られているのに、原本を見た者が殆んどいなかったからだ。

槍ヶ岳.jpg
 ところが昭和57年に進展があった。『天保鎗ヶ嶽日記』の草稿が発見されたのだ。発見の経緯は『岳人』(419号)に杉本誠氏が《幻の書ー世に出る》の見出しで写真入り4ページにわたって紹介している。

 ただし、愛知県下の旧家(服部家)から発見されたのはあくまで草稿で、和紙2枚の表裏に墨書して綴じた4ページ分と別紙1枚である。


 文章の冒頭に、槍ヶ岳登山の動機が述べられている。

 それによれば、39歳のとき加賀白山を登った折りに、ひときわ高い飛騨の乗鞍岳と信濃の槍ヶ岳を望見して、その時からずっと登りたいと思っていた。そして58歳になった天保4年7月、いよいよ友人と尾張を出立した......。と書き始めている。だが、中山道の妻籠に入ったところまでのわずか3日分で終わっている。

 草稿発見のスクープを中日新聞社の杉本氏に知らせたのは、杉本氏の友人である民俗学研究者の津田豊彦氏(津田正生から6代目子孫)だった。

 一方、『天保鎗ヶ嶽日記』の写本を実際に目にしたという人物がいるのだが、結局みつかっておらず今でも「幻の書」なのである。

         *

 ところで津田正生とはいったいどんな人物なのだろう。安永5年に尾張国(現愛知県愛西市)の津田與治兵衛盛政の子として生まれる。

 生家は酒造りを営み、地元では近村に並びなき豪農と言われていたという。幼い頃より様々な習い事を体得し、20歳頃から学問に励み、旅行や史跡を訪ね、高山にも登った。

 やがて寛政12年頃から号を「六合庵」と名乗り、多数の書物を著す。なかでも文化年間から長い期間を費やし天保7年に完成したのが『尾張地名考』全12巻。尾張藩に納められた。今では尾張地方の歴史研究には必需書とされているという。

 平成9年、槍ヶ岳山荘の穂刈三寿雄氏、長男の貞雄氏共著による『槍ヶ岳開山 播隆〔増訂版〕』(大修館書店)が刊行され、この本で初めて津田の登山について初めて簡単に紹介された。

           *
 
 国民の祝日「山の日」が平成28年に新設された。これを記念して『燃える山脈』というタイトルの安曇野と上高地を舞台にした時代小説が執筆された。
 作品は前年~翌年にわたり地方新聞『市民タイムス』(本社・松本市)に連載され、連載終了後に山と溪谷社から単行本として出版された。


 著者は穂高健一氏。小説では槍ヶ岳を登攀した津田正生が出てくる。

 穂高氏は、執筆前に津田の故郷、愛知県愛西市を訪れて取材を重ね、津田の槍ヶ岳登山を裏付ける有力な史料を確認している。それは《尾張路を立て日々を重ねて信州鑓ヶ嶽とほ登りしに1番にあらず2番と代わりしも口惜候也...》と記された短冊だという。

 また、津田の2年後には安曇野の庄屋・務台景邦が信仰心からでなく槍ヶ岳に登った記録が松本の玄向寺に残されているという。当時の槍ヶ岳には津田のような知識人が他にも登っていたかもしれない...。(白山書房刊『山の本』119号記事を縮小)


    ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報268から転載

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