寄稿・みんなの作品

【孔雀船・同人詩人】 帰ってきて = 中井ひさ子

 帰ってきて

  夜遅く帰ってきて
  変わったことなかった?
  と 呟く


  ピクリとも動きませんでした
  部屋の壁が返事する


  曖昧な顔をして
  絵や机も息をひそめている


  たまには動いてもかまへんのに
  じっとしているのも疲れるやろ


  電話の赤いランプがこっちを見つめている
  何かあった?


  屋根の葺き替えはどうですかとのことでした


  もうこの家も40年
  雨漏りって切ないもんやしね


  そういえばうちは雨女やった
  遠足や運動会はいつも雨
  たまに晴天のときの
  奇妙なあの寂しさなんやろうな


  台所でぽつんと水の音


  朝早かったしもう寝るわ
  みんな静かにしてや
  とくにマイセンのティカップ
  あんたは無理して買うたんや


  おやすみ


【関連情報】

作品は「孔雀船84号」より転載です。
孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船84号」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

【紀行・写真エッセイ】いざ、モロッコへ≪4.最終章≫ 岩月和子

3重苦だった。まだある?

旅もいよいよ終わりだ。やっと空港へ到着した。何かしら嫌な予感がある。いつもなら、「やっと、帰って
きたぞ」という安堵感もあった。

 今回は、全然違う。このままですみそうにない。「夫が、倒れたり、目がいたくなったり、熱があったりと、いろいろあったからなあ」と合点がいく。「こんな風にいろいろアクシデントのある旅もあるさ」と開き直る。

 写真:大西洋をながめる 

 思い起こせば、飛行機に乗って、すぐ倒れた。風邪をひいていたせいか、旅の間、微熱が続いた。サハラ砂漠では、
「砂が目に入った。目がいたい、いたい」
「なんで、あなただけ、メガネをかけているのに。私やほかの人は、全然平気なのに。運が悪いなあ」
 他にも、2~3人いたことを、後で知る。夫にとって、この旅は3重苦であった。ただ、食事がおいしく食べられたのが、唯一の救いだった。おかげで、なんとか旅を続けることができた。

帰国後

 翌日、近隣の医者へ行く。「すぐ横浜労災病院へ行って,しっかり、見てもらってください」と、神経内科を紹介された。

 神経内科へ行き、MRIを撮った結果、硬膜下血腫が左右にできていることが判明した。「急を要することではないので、しばらく、手術が必要かどうか、様子をみましょう。急ぎの場合は、この面談表を持って、緊急外来へ来てください」と、その旨の書類を持って帰ってきた。
 二人で、「よかった、よかった。たいしたことでなくて」と、ほっとする。

 一か月は何事もなく、無事経過した。その間、夫は労災へ行き、CTを撮ったりと、経過観察していた。ある朝、二人でいつも通りウオーキングへでかけた。
 夫の歩き方がおかしい。右肩が下がり、歩く速度も常に比べると、のろのろと遅い。その日の午後、出かける用事があった。駅の階段を上ったり、下りたりするのに、手すりをもっている。
「まるで別人みたい。普段は階段を一段おきに登っているのに」
 その翌日
「すぐ病院へ行った方がいいよ」
「そうだな。自分でも足が重く、もつれる感じがするんだよ」
 とすぐ労災病院へ、朝早めに出かけた。
「緊急の場合、携帯に電話してね。午後には帰っているから」
 と夫を送りだす。その日、私は仕事だった。

 緊急事態発生

 午後の英語のクラスが終わり、帰宅し、留守電を聞く。何か入っているが、雑音でよく聞き取れない。夫は携帯を持たないので、仕方がないとあきらめた。

 その後、TV番組を見たりして、しばらく所在無げに、夕方まで過ごす。帰宅が遅いのも気になり、念のため、留守電をもう一度聞きなおすと、新しいメッセージが入っていた。
「1時半ごろに、緊急入院されましたので、病院へお越しください」
「えっ、入院だって。たしか病院へは、朝早めに行ってるはずだから、途中で倒れて、運びこまれたりしてないよなあ」
 と急に不安を覚え、急いで病院へかけつける。

 時間はすでに夕方6時ごろである。
 病室へ到着すると、夫は常と変らない様子で、のんびりとベッドに横になっているではないか。ほっとして、
「どうしたのよ」
 と当日の経過を聞く。
 診察を受けると、金曜日当日、すぐ入院となり、31日、月曜日が手術ということになったらしい。
「ここへ来るまで、心配したのよ。状況がわからないから」
「うん、俺もびっくりしたよ」とこともなげに言う。
「急いで、タクシーでかけつけ、気が気じゃあなかったのに」と少し、ほっとした。

 いよいよ手術日がきた

 当日、わたしは、少し早めに自宅を出る。手術というのは、どんな場合も、医者の失敗もあるし、不慮の事故もある。心配だ。
 これ程、待つのがいやな時間はない。
 2時間ほどで、頭に包帯をまいて、夫が病室に戻ってきた。
 医者の説明を聞き、何ごともなく、よかったなあと安堵する。手術日は、一日動けず、ベットで、寝たままである。「腰が痛い」と、時々看護師さんに、位置を変えてもらう。
「今日は、一日付き添ってください」
 というお達しがあった。昼頃に戻ってきたので、夕方に、「もう帰ります」と伝えると、
「えっ、そんなに早くに帰るんですか」
 という気配を察したので、もうしばらく残ることにした。病院は人手不足なので、術後の世話が大変らしく、家族にできるだけ、長くいてもらいたいらしい。

 翌日、4月1日の午後、病院へ行くと、元気そうで、朝食も食べたとのことである。これで大丈夫と、ほっとする。順調に回復しているようだ。4月8日に退院の運びとなる。12日間の入院だった。

 退院後、しばらくは、なにごとをするのも、ゆっくりと行う。モロッコの話題なども、楽しくなってきた。
 約一か月が経過して、家事も元通りにこなせてきた。私も助かる。待望のゴルフへ出かけた。「ドライバーが飛ばないなあ。パットもうまく入らない」と、夫はがっくりしていた。
「やっぱり、しばらくやらないと、アプローチの感じもでないよ」
 とため息まじりにつぶやく。その一週間後、妹夫婦と、千葉までゴルフにでかけた。ショットもアプローチも、何とか75%くらいまでもどり、互いにほっとする。
 これで2月のモロッコの旅から、やっと、開放された。

                                   

【寄稿・エッセイ】 好き嫌い= 中村 誠

 誰でも自分独特の好みがある。付き合っている人との相性が良ければ、その付き合いは長続きする。人に限らず、動物、例えば飼い犬との関係も同じだ。
 朝食時、家内に、好き嫌いを聞いたら、
「あなたは、犬が好きで、猫が嫌いでしょう」
 と即座に跳ね返ってきた。

 嫌いなのは猫で、馴れ馴しく媚びる猫の性格がどうしても駄目だ。それでわが家では猫の話は滅多にしない。彼女も同じで、犬、特に柴犬にはぞっこん惚れ込んでいる。

 結婚前に彼女の実家に呼ばれ、愛犬との出会いがあった。
 門から入ると、途端に飼い犬に激しく吠えられて、玄関に向かう足がすくんでしまった。庭で盛んに吠えていたが、「ウーちゃん静かに」、と彼女の一言で静かになった。
 洋間の窓に沿った台に座ったウーちゃんとの初対面だった。それを機に、私が「ウーちゃん」と呼びかけると、静かに座っていた。人見知りが激しく、滅多になつくことは無いのに、家族の仲間として認められたのだ。今にして感じるのは、私の態度とか性格などを知るための家庭訪問だったのかも知れない。

 私は、犬と相性が良いことを私自身が認識し、どのような犬に対しても興味を持つ切掛けとなった。
 30年前に今の住まいを構え、落ち着いた頃に待望の柴犬を貰い受けて来た。家内が待ちに待った柴犬のカニーだ。中型犬でおとなしく、賢い。犬嫌いの人には理解が出来ないだろうが、二階の寝室にやってきて、私の寝床に潜り込み、17年も寝食を共にした家族の一員だった。
 そのカニーを見送って十数年が過ぎた。

 最近、飼い犬と散歩の人に出会うと必ず声を掛ける。もちろん犬の話だし、屈みこんで、飼い犬に目線を合わせ、「名前は?」と聞くと飼主がニコニコしながら「ハルナです」と教えてくれる。
 これで飼主の気持ちを知った犬は、私を認め、主人との会話が終わるまでじっとしている。私が受け入れられた瞬間だ。
 犬も相性の善し悪しを本能的に見極めている。 

【紀行・エッセイ】 ブラヴォー = 和田 譲次

 熱のこもった演奏が終わった。
 息つく間もなく大きな拍手、会場のあちこちから「ブラヴォー」の声が響き渡る。大きなコンサートホールで、特に、オーケストラの演奏の後にみられる光景だ。
 60年前、私が音楽会に通い始めた頃、クラシック系では、聴衆は紳士淑女風の方が多く、お行儀が良かった。演奏が終わると,結果のよしあしにかかわらず、儀礼的に静かに拍手が起こった。

 いつの頃からか会場内の様子が変わり始めた。高度成長期に合わせて。東京に音響効果の優れた大、中のホールが出現し音楽会も増え始めた。
 量的には世界一の音楽都市といってよいだろう。海外からの来日公演も多く、聴衆も若手中心に様変わりし、ステージ上との一体感も出てきた。客席にいても周囲の盛り上がりが伝わり、自然に興奮してくることもある。

「ブラヴォー」「アンコール」などの叫び声が、あちこちから飛び始める場に居合わせることが多い。

 名演奏の後であれば良いのだが、どのような場でも声を出すグループがいるのに気がついた。
 業界通からの話だと、彼らはTBS(東京ブラヴォーサービス)よばれ、音楽好きの大学生で構成され、呼び屋(音楽事務所)が 景気づけに活用してきた。
 彼らはギャラをもらっているせいか、存在感を示すために、我先にフライング気味に声を出す。演奏後の一瞬の静寂が素晴らしいのだが、日本の会場では期待するのが無理になってきた。

「ブラヴォー」にアレルギーを感じている私が、それを叫ぶ立場になった。
 私の関係しているオーケストラの指導を頼んでいた若手指揮者、下野さんがブザンソン(フランス)の指揮者コンクールで優勝してしまった。このコンクールは国際的に評価が高く、小澤征爾さんも50年前にここで優勝し、世界的な指揮者への道が拓けた。

 後日、下野さんが帰国してから記念コンサートが開かれた。彼は、一時期日本を離れていたこともあり、まだ名が売れていないので話題づくりが必要であった。

 演奏終了後、会場を盛り上げるために拍手だけではなく派手に声を出すことにいた。まず「ブラヴォー」と誰が発声するか、みんな怖気づいてしまい、仕方なく提案者の私の出番になった。
「あなたの声は良く通る」とか「声をかけるタイミング分るでしょう」などとかいわれて引、き下がれなくなった。

 演奏中は音が耳に入らず、緊張の連続、演奏が終わると落ち着いてきた。指揮者が聴衆の方を向いた瞬間に、自分でも信じられないほどの声が出た。これが呼び水になり周囲から声が出て、2000人近い聴衆を巻き込んだ。
 これで自信がつき。ご縁のある音楽家の小規模のリサイタルでも力演の後には「ブラヴォー」コールをおくっている。内々に聞くと、花束などを貰うより、励みになりうれしいという。

 この私の特技? が株主総会の席で役に立った。友人のSが総務部長のころ
「今度の株主総会にでるのでしょう、議事進行に注意を払っていてください」
 彼は、「出席して下さい」、「進行に協力して下さい」など指示をにおわす発言はしない。
 別れ際に「これは業務ではありませんから、当日は有給休暇を取ってください、言うまでもないでしょうが社章を着けないように」と、ベテランらしく慎重に言葉を選んだ、

 議長(社長)の説明を聞きながら、「異議なし」「了解」、質問などでもめているときには「議事進行」などと叫ぶ。総会の空気は分かっていたから、タイミングよく声がでた。

「あなたの発声の間は素晴らしい、知らない人はプロの総会屋と思うでしょう。こらからもよろしく」後日、総務部長が、からかいながらお礼をいってきた。
 日常生活の中では。腹の底から声を出すような機会はない。ここに取り上げた例に加えて、野球やサッカーの応援でサポーターは思い切り声を出して憂さばらしをしている。

 瞬発力のある声をだすと爽快感が味わえるが、家の中では家人を驚かすだろうし、散歩しながら、こんな声を出していたら気がふれた人間と間違われる。

【紀行・エッセイ】 靴 : 青山貴文

 上野駅構内には、数年前に開店したスコッチグレイン靴店がある。入口左方の壁際の陳列台に沿って、奥に行くに従い高額な靴が整然と並んでいる。
 熊谷から東京に出かける度に、この店内を覗いては、紳士らしく高級感のある革靴を履いてみようかと思う。一方で逡巡してしまう。元来、私は靴は外見よりも歩き易さを優先し、余り高価でないものときめていた。

 今春、この靴店で外観の良い高級の革靴を購入しようと、思い切って店内に踏み入る。最も奥の最上段の棚にある、先端の尖った駱駝色の品格のある革靴を指さして、近くにいた店員に声がけした。
「この靴をためしてみたいのですが」
 30歳代のメガネを掛けた実直そうな店員は、私の茶色の合成皮のウオーキングシューズをちらっとみてから、
「どうぞ、ここに腰かけて履いてみてください」
 という。すこし窮屈だが、なかなか見栄えがよく、短い脚も長く見える。店内を数歩あるいてみると、小指の外側が内革に当たって痛い。さらに、靴の先端半ばの艶のある革が折れそうで歩きにくい。過去にも、購入して間もなく、同じ個所に横しわが入り落胆した記憶がある。

「この類でもう少し足巾が広く、歩きやすい靴ありませんか」
 店員は、笑みを浮かべて、奥の方から箱に入ったいくつかの靴をもってくる。いろいろ試すが、どうもしっくりいかず歩きにくい。
 入口から中ほどの棚にある、先が心もち広い先端半ばにミシン目が入った、がっちりしたタイプを試してみた。今履いている靴とまではいかないが、まあまあ我慢できる。

「お客様には、このタイプの方がお似合いかと存じますが」
 値札を観ると、先ほどのものよりはるかに安い。
 しかし、(今回は、この店の1級品を望んでいるのだ。なにせ生涯最後の買い物になるかもしれないのだから)納得がいかない。
 店員は、靴が変形するのをおそれる態度で、私の足元の1級品をそそくさと箱にしまいはじめる。
(安価な方が、歩きやすいし、自分に合っているな)
 と再度2級品をいろいろ履いて歩いてみる。やはり、1級品よりはるかに歩きやすい。自分の足までが2級なのかと情けなくなったが、所詮は履物である。自分相応の安価な方を購入することにした。

 安価とはいっても、私にとっては、今まで購入したこともない高価な革靴であることは否めない。
 高価な靴といえば、この2級品とほぼ同じ値段の登山靴がある。5~6年前に購入したもので、趣味に使うものは、高くても躊躇はないし、少しももったいないと思わないから不思議だ。

 黒色の革靴は、約10年前に購入したものがある。この2級品の半分の価格で、冠婚葬祭時に使用する以外は履かない。
 愛用の靴は、なんと言っても今履いている1万円弱のウオーキングシューズだ。寿命は、2~3年と短いが、軽くて、凄く歩きやすい。雨天の日でも、東京でも、どこにでも出かけられる。

 数日して、青空の広がった気持ちが良い日に、購入した革靴を箱から取り出した。海老茶色の艶のある皮革の手触りが愛おしい。この革独特のかすかな香りも心地よく鼻をくすぐる。

 家の前の道路を試し歩きした。アスファルト上の小粒の石が、足裏に直に感じ、靴底が傷つくようで心配である。さらに近所の蔦屋(本屋)まで歩を進めてみた。つま先をまっすぐにして、小石の極力少ない個所を選んで、踵から着地して歩く。慣れるにつれ、歩く姿勢も良くなってきた。頭を上げておっとりと歩いていると、前方から自転車に乗った近所の奥さんが、親たし気に
「あら、青山さんどこへいらっしゃるの」
「いや、ちょっと本屋まで行ってきます」
 と言葉少なく答えてから、姿勢を崩さず前を向いて歩く。いつものように、軽口がでない。(どうも、近所で履くような靴でもないな)と思いながら帰路に着いた。

 購入時には、店員から、
「雨の日は革が痛みますから、なるべくなら履かないようにしてくださいね」
 とアドバイスをうけている。天候がはっきりしない日は、履けない。
 また、従来東京に出かけるときは、時間的余裕ができると、いろいろ名所旧跡を歩き回るようにしている。必然的に、安価なウオーキングシュウズか、高価な登山靴を履くようになる。
 やっと手にした革靴は、真っ赤な靴枠を嵌めて、下駄箱で出番を待っている。
 しかしながら、なかなか出番がない。

【寄稿 エッセイ】 かけがえのないもの = 遠矢 慶子

 仕事がオフの日だった。
「注文したワンピースの仮縫いができました」と洋装店から電話を貰った。
「仮縫いにちょっと出かけます」
 と母に伝え外出した。
 戸外は湧き立つような蒸し暑さで、太陽が肌を刺す。

「あら、いらっしゃいませ。お待ちしてました」
 オフホワイトの綿サテンに、ローズ色の大きなバラの花柄のワンピースは、思っていた以上に素敵に仮縫いが出来ていた。ふだんはスチュワーデスの制服を着ているので、これが出来上がったら、銀座を闊歩しようと浮き浮きした。
「よくお似合いですね。急いで仕上げますから」
 ママのほめことばを背に店を出た。

(今日は一日暇だからこのまま帰るのもつまらないし、そうだ、絢子さんに電話をしてみよう)
 途中の電話ボックスに入り、三田に住む会社の同僚に電話をした。
「あら、私も会いたいと思っていたのよ。うちに来ない?」
「ええ、直ぐ行くからね」
 歩いて十五分ほどの絢子さんの家に向かった。伊皿子の坂の上の大きなお寺に住んでいる。

 色白の美人、ストレートの栗毛が外国人のようで、お寺の娘らしくなくモダンなひとだ。お寺のうっそうとした木々に囲まれた家は、夏でもひんやりしている。古い、広い、少し湿ったような座敷でおしゃべりが始まった。小柄で愛想のよいお母さんが、麦茶とおせんべいを運んできてくれた。

 なにを話しても楽しく、笑って、かぎりなく続く会話、長い夏の日が暮れるころやっと腰を上げた。夕暮れに近いが外はまだ暑く、コンクリートの上を吹く風はむっとしていた。
 家に帰るなり、玄関に出て来た母が、
「一体今までどこへ行っていたの? 会社から何度も電話があり、本当に困りましたよ。近くに行っているのですぐ帰りますから、と説明したけれど、いま何時だと思っているの」
 と強く叱られた。

 すぐに会社に電話を入れた。
「名古屋便のスチュワーデスが具合が悪くなったからと言い、フライトをキャンセルしてきたから、代わりを探していました。羽田に一番近いあなたに乗務してもらいたくて、何度も電話をしました」
 代わりのスチュアデスが見つからず困っていたらしい。その時仙台便が着いて、その便で帰って来た南さんが、
「いいです。私、このまま名古屋便に乗ります」
 と快く引き受けて、彼女は飛んだと言う。

 夕食後、のんびりテレビを観ていた。
『全日空25便、20時30分発名古屋行が、下田沖で行方不明』
 そのニュースが流れてきた。1958年8月12日の事だった。
「まさか!」
 私は驚きと衝撃で声も無かった。
 その夜は、事故の様子を少しでも聞きもらすまいと、一睡もできなかった。あの時、仮縫いを済ませてすぐ家に帰っていたら、確実に私が乗務していたフライトだった。

 南さんには、なんという運命のいたずらだろう。はちきれそうなピチピチした南さん、スチュアデス仲間で一番若く、4月に入社したばかりの18歳だった。いつもにこにこ笑みを絶やさない優しい顔が浮かんだ。
 名古屋便の正規の乗務だった先輩は、ボーイフレンドとデートのためにフライトをキャンセルしたらしいと、いろいろ噂も流れた。先輩は運が強く、南さんが犠牲になってしまったのは事実だった。
 まだ飛行機に乗ることが、一般的でなかった頃の悲しい、世間を騒がせた事故だった。

 花柄のワンピースが、私の運命を救ってくれた。そのかけがえのないものは一度着たきりで、手放すことが出来ずに大事にしていた。結婚をして、長い年月の間に8回も引っ越し、どこで、何時捨ててしまったのか、ワンピースはいつのまにか無くなってしまった。

 時の経過で、かけがえのないものの行方が分からなくなり、そのことさえも意識が出来ずに年月が流れていた。ワンピースへの想いと記憶が消えると、悲しい航空機事故の出来事すら忘れていた。
       
                                                【了】

【寄稿 写真エッセイ】よい立木は切らずに、よけて建てよ=矢島 和憲

 標題は日立製作所中央研究所を建設する際に、創業社長小平浪平の指示した言葉である。1942年(昭和17年)、同社はここ武蔵国分寺の旧地に敷地207,000㎡(東京ドームの約5倍)の研究所と庭園を設立した。
 それ以来は年に2回、春と秋の1回ずつのみに限定して一般公開されている。武蔵野の豊かな自然がここに守られてきている。


 4月6日(日)の春の開園日にはVAC(異業種の交流会)の仲間たちと探訪した。この庭園には約2万7000本の樹木があり、天然のままの成長の姿を見せている。

 樹木約120種、野鳥約40種が手つかずの環境の中で生育しており、時には猛禽類のオオタカの「ケッケッケッ」と甲高い鳴き声も聞けると関係者は話す。「大池」の奥には手を入れていないままの、うっそうとした自然の森が見られた。古来からの武蔵野がこんなところに残っていたのかと嬉しくなり、感激もした。
 世界の日立製作所の創業社長ともなるような人物は、将来を見通し、後世に良いモノを残したと改めて感謝の念をもった。

 庭園には、数か所の湧水を見ることができる。
「国分寺崖線(こくぶんじがいせん、通称:ハケ)」と呼ばれている。この湧水は「大池」に集められ「野川」の源流の一つになっている。更に、ここ国分寺から以前探訪した28㎞先の「等々力渓谷」まで繋がっている。

「関東ローム層」は火山灰の層と「武蔵野礫層」に分かれている。ローム層は雨水をろ過し通すが、その下の礫層のさらに下は粘土層で水を通さないため、武蔵野礫層に蓄えられた水が噴出して湧水になる。
 これを「ハケ」と呼ぶ。2年前、同じ構造の武蔵野の三源水池:三宝寺池、善福寺池、井之頭池の周りを何回もまわっていろいろ調査したことを楽しく思い出した。

 この研究所に入るには、深い崖に架けられた変わった名称のコンクリート橋「へんじんばし」を渡らねばならない。
 仲間の間で、この命名の由来を話し合ったが、正しくは誰も知らない。結局、「この橋を渡って、ここで働く人の自分の研究に熱中する態度が、他の人と比べると「変人」に思えるからだろう」とにまとまった。正解が解らないほうが楽しいと、それ以上の追及はやめにした。

 紅一点の会員の三橋さんが、15年くらい前に当時の勤め先の仲間と来たとき「はなみずきの苗」を植えたと話した。みんなでそれを探そうと彼女の記憶を頼りに、庭園の係員の方にも問い合わせてみたが、結局探せずに残念だった。

 だが、「ほかの木と同じように立派に成長して、おりおりに花を咲かせて楽しませているよ。」と仲間がなぐさめた。本人も「そうね。これからも成長すると思えば夢がもてるわ。」と周りの風景の素晴らしさを改めて見て気落ちせず納得した。

 ここは奈良時代に聖武天皇が全国に建立した国分寺の一つで、当時の壮大な寺院の遺跡は研究所の西南約1㎞に残っていると教わった。

 研究所構内からも、当時の住居跡、さらには縄文、弥生時代の遺跡が発掘され、古代から文化の中心だったことがわかるそうだ。このような由緒ある土地だけに、関係者の手で武蔵野の面影をとどめた環境が保持、整備されてきたのだろう。


 以前レポートしたことが2か所関係しており「宿題のエッセイ」にしようと思いついたが、今回は準備不足で説明中心の作品になってしまった。秋の開園予定日は.11月16日(日)になっている。かなり興味をひくところ、知らない知識などもう少し事前調べをして必ず再訪問しよう。再チャレンジを期す。

                 

【寄稿 写真エッセイ】誰が何と言おうと、ここが一番=川上千里

 日本中から最も日本らしいおすすめの観光地を1か所選べと言われたら、私は文句なしに浅草を選ぶ。
 昭和35年上京して以来、田舎から来る家族や親戚を、まず浅草へ案内してきた。
 最近は都会らしいビル街や、繁華な商店街は地方都市でも、あちこちに似たものがあるが、雰囲気は似たようなものである。
 しかし、浅草に似た雰囲気の町はどこにもない。


外人にも人気

 外国人の観光客にとっても、日本の訪問地の筆頭にあがるのは浅草であろう。

 浅草寺の二天門の外にはバス駐車場があり、そこから中国人らしい団体客が観音様の境内へ出かけているのによく出会う。欧米人は個人観光が多いのか、仲見世ではよく見かけるが、二天文の団体バスの近くではあまり見かけない。

 二天門そばには浅草神社があり、その祭りは、三祭として有名である。


 44か町内から100基以上の神輿と、この神社からも大きな神輿が担ぎ出され、町をねりまわる。
 雷門から仲見世の本通りは整ったにぎやかな店が続く。宝蔵門、五重塔、本堂の大きさと風格などは、外国人にどうだと言ってやりたいほど見事である。

 ある日、日本に滞在して2年ほどのアメリカ人と浅草寺に出かけた。本堂の前で日本人と同じように手を合わせてお参りをしたのは、何かを感じたからに違いない。
 後で私に聞いてきた。日本人はみなさん本当に信じてお参りをするのか、そしてご利益はあるのかと。もちろん信じてお祈りする、ご利益もあると言ったら、どんなご利益があるかと、また聞いてきた。君たちがアメリカの教会で献金してお祈りする、イエス様と同じくらい大きな恵みを与えて下さるのだ、わかるかい、と言ってやったら、にやり笑ってよくわかったと言ってくれた。

 仲見世以外の街並みや裏手に当たる花やしき、芝居小屋や寄席など見るところや、おいしい食べ物屋さんも沢山ある。
 おまけに、新しい観光名所のスカイツリーの眺めも、そばよりも、浅草の吾妻橋あたりからの方がずっといい。

年の暮れがおすすめ

 5~6年まえ、初詣に浅草寺へ出かけたことがあった。混雑を避けるため、元日でなく、3日に出かけた。ところが参拝客が押すな押すなで、大勢の警官が整理をしていたが、仲見世にも近づけない。1000メートル近い参拝行列の最後尾は、吾妻橋の袂だったので、お参りせずに帰ってきた。

 正月の雰囲気を味わうためならば、年の暮れが迫ってからの方が良い。各通りの飾り付けはすべて完了しており、店のショウインドウを見て歩けば、一足早く正月気分を味わえる。

震災の被害

 東日本大震災の時、私は京王線・明大前駅の近くで夜を過ごし、翌朝早く地下鉄で上野までたどり着いた。
 しかし、上野駅は改札止めで、近所の飲食店も満員で入れず、やむ無く浅草に出た。

 朝8時、開いている喫茶店で食事をしながら、お客さんと雑談をした。客の一人の奥さんは、観音様の境内で地震に遭遇したという。

 すごい揺れでしゃがみこんだ所が、五重の塔のそばだった。塔は揺れ、先端の宝珠は釣り竿みたいにしなった。そのうちすごい音がして塔が折れて、先端の2個の宝珠の1つが瓦屋根の上を転げ落ちてきた。生きた心地がしなかった。

 私は浅草寺にお参りした。宝珠は一つであった。帰りに寺の事務所の人が、
「本堂は前の年までに数年がかりで、耐震のため軽いチタン瓦に変更したので全く被害が無く、助かった」
 と説明してくれた。

 古い写真を見ると宝珠が2個ついているが、震災後の宝珠は最近も1個のままである。
 あれを修理するには足場を組み、宝珠を根元から外すなど大変な工事であろう。

 日本笑い学会の研究会があるので、毎月1回は浅草に出かけるが、昔懐かしい風情を残し、見物、買い物、食べ物などいろいろ楽しめて、飽きることがない。

 この浅草の情緒がいつまでも残っていてほしいものである。
   

【寄稿 写真エッセイ】いざ、モロッコへ≪サハラ砂漠を行く≫=岩月和子

ふしぎ物体を発見

  旅の6日目は、旅のハイライトである、サハラ砂漠だ。アフリカ大陸北部に位置し、地球上では最も広く、乾燥した大地である。
 東西5600㎞.南北1700㎞、面積は1000万平方㎞である。アメリカ合衆国に匹敵し、アフリカ大陸の1/3を占めている。
 サハラの意味は、“砂漠、不毛,荒野”である。空から見る砂の大地には圧倒された。飛べども、飛べども、なおも砂漠が続く。永遠に続く気がした。機中から、外をながめていた。

 突然、不思議な地形を発見する。地上にCDディスクみたいなものが、いろんな場所に、点々と並んでいるではないか? キャビンアテンダント(CA)に聞く。
「あれは何ですか」
「何でしょうねえ。私もわからないので。聞いてみますね」

 CAが何回か、そばを通るが、私の質問を無視しているかのように、素通りする。早く知りたいとイライラしながらも、待つこと約30分だった。やっと、そばに来て、
「あれは、水をためているそうですよ」
「何だって水溜め?」
 一応お礼を言ったものの、実に不可解だ。
「なんで、あんな同じ円ばん形をしているのよ。砂漠にそんなにも雨がふるかしら」
 となぞは深まるばかりだ。
「何のために、水をためているの?人家はあまりないようだしなあ」
 と疑問が次々とわいてくる。完璧にみんな同じ形なのだ。不思議だ。現在も、なぞのままである。宇宙人が作っているのではないのか、という疑問すらわいてきた。


ラクダでサハラ砂漠へ

 真っ暗な中、4時半ごろから4WDで、砂漠まで60㎞の道を、進む。道は舗装されており、ゆれは少ない。ついに到着だ。同じような車が40-50台は駐車していた。
 こんなにも観光客が多いのかとびっくりした。外はまだ暗い。

 突然、ラクダが目の前に、しずしずと登場する。やっぱりでっかいなあ。一人のラクダ使いの人が、5頭をひっぱっていくらしい。

 大丈夫かなとちょっと心配になる。はじめに、乗り方とその後、何がおこるかという説明を受ける。その場で、ラクダは両足を折りたたんで、行儀よく座っている。

 乗り手は、まず自分の足を鞍にひっかけて乗る。するとラクダが前足から、立ち上がる。その時、乗っている人の体が後ろにのけぞるので、手綱をしっかり持つようにと指示されている。
 次は、後ろ足。今度は、前のめりになる。

「大丈夫か?」と、ちょっと心配になってきた。何とか無事乗れた。思ったよりずっと高い。
「お尻がちょっと痛いなあ。快適なポジションに体を動かすのもむつかしいし」
 まだ、外は真っ暗だ。いよいよ5頭が連なり、砂漠へと出発する。

 “月の砂漠をはるばると、みんな並んで行きました”という歌詞が自然に浮かんでくる光景である。ひとつ実感したのは、そんなにロマンティックな快感などなく、お尻は痛く、体勢は定まらない。
 おっかなびっくりで、キャラバンはスタートした。

 このさき砂漠の日の出とは、素敵だなと胸が期待でふくらむ。
 月明かりの中、別のたくさんのキャラバン隊も行進している。絵になる光景だ。40分ほどで、頂上近くへ到着する。そこから、20メートルほどは自分の足で、砂鉄いろの大地を登らなければならない。
 一歩、踏み出す。ずぼっ、ずぼっと、足が砂の中に入りこむ。

 う~ん、これが砂漠かと実感した瞬間だ。一歩、一歩ふみしめながら、登る。やっと頂上に到着した。ラクダ使いがのせていた敷物を、おろして、砂の上に敷いてくれる。
 その上に座り、みんなで、日の出の方向を向いて待つ。突然、砂がびゅうびゅうと顔にあたりはじめた。これが砂嵐だそうだ。参ったなあと辛坊強く待つこと30分以上である。
  ますます激しくなる。目がいたい、顔がいたい。
「どうなるんじゃ」という気分だった。
ガイドさんが、「反対方向を向いてください」と、指示する。
 この方がずっと楽だ。背中にあたる砂は比較にならないくらい、楽ちんだ。
 ラクダ使いの人たちは、嵐を気にする風もなく、三々五々、のんびりと砂の上でねそべっている。その中の一人が、親切に私の頭にスカーフをまいてくれた。

 ベルベル巻きという。ちょっぴり、現地人になった雰囲気を味わった。しっかりと頭にまきつけた。現地の人々は、みんなベルベル巻きをしている。砂漠では不可欠なものだと実感する。

                 写真:砂嵐の中で、寝そべるラクダ使い      

 あちこちで写真を撮る人もいる。わたしも記念にと2~3枚急いで撮り、すぐにバックにしまう。
 出発前に、ガイドさんから、「砂漠で写真を撮るときは、袋に入れるか、ともかく、砂が入らないように気を付けてください。毎回カメラが動かなくなる人が、2ー3人でます」
 そろそろ、身体が砂に耐えられなくなりそうだった。
「今日は、砂嵐のようです。日の出はあきらめてください」
 と情け容赦のない打ち切りの説明が、とんできた。ガイドさんも初めてのことらしい。日の出は見られなかったが、ここでしか体験できない砂嵐を肌で感じた。

 往路は、真っ暗やみだったが、復路は空が、少ししらみかけていた。

 ラクダの姿もよく見える。風は相変わらず、びゅうびゅうと吹いている。ベルベル巻きが飛びそうになった。あわてて、片手でおさえる。
 これはやばいという感じだ。その上のフードはとっくにはずれている。やっと下まで、もどってきた。すぐにラクダ使いがお金を集めに来る。
 一人、3000円だ。
 集めに来た人に渡す。するとその後、また別の人が集金にきた。
「今、渡したけど」
「わたしが、あなたのラクダ使いだ。自分に払ってくれ」
「えっ、だまされたか」と思い、「どの人に渡したかな」と、あちらこちら探す。 幸いにそれらしき人は、すぐ見つかったので、
「お金を、返して。私のラクダを引っ張てくれた人じゃあないでしょう」
 と抗議すると意外に、あっさりと返してくれた。

 日常茶飯事なんだろう。お金を別グループの人からも、集めると稼ぎが増えるわけだ。客の方もしっかりと、記憶しておくことが大切だ。

  でも<顔を覚えるのは、至難の業だと思う。

 帰途、ベルベル人のテントに寄って、ミントティーを頂く。サハラ砂嵐では、砂まみれになったけれど、充実した、濃密な時間だった。


 写真:ミントティをサービスする人 
                               

【寄稿 写真エッセイ】 ロバート・キャパ = 山本千鶴子

 ここに2冊の文庫本がある。1冊は、ちょっと黄ばんでいて、最後のページに190と鉛筆書きの数字がある。190円。昔、古本屋で買ったもの。
 同じ新品は552円。昨日買った。新品と古本の違いはあるけれど、ロバート・キャパの「ちょっとピンぼけ」で内容は全く同じ。一度、読んだ覚えがあり、本棚にあるはずだった。探してみたけれど、ない。
 再び読みたくて、新しく買ったとたんに、本棚から出てきた。

 2冊を比べると、表紙、ページ数も、掲載写真も全く同じ。


 1つだけ違っていた。第1刷は、同じ1979年5月25日だけれど、古本は1990年4月5日の17刷だった。そして、もう一冊の新品は2013年5月10日の39刷。そのちょうど一年後の2014年5月11日に、キャパの写真を観て、再び「ちょっとピンぼけ」を買った。その偶然に驚く。単なる偶然だけれど、やはりキャパは特別なのだわと、何かを感じる。

 キャパが亡くなった1954年、私は9歳だった。もう随分前のことだが、それだけの版が重ねられている。現代でもキャパは忘れられていない。

 当時、小学校3年生で、生のニュースで、キャパの死を知ったとは思えないが、なぜか昔から、キャパには関心があった。
「崩れ落ちる兵士」「ノルマンディ上陸作戦」の有名な写真もあるが、他にも新聞記事、作品展などの機会があると読んだり、見たりしてきた。
 キャパは、1913年生まれ。今年は生誕101年目となる。
「101年目のロバート・キャパ」展が開かれることを知った。

『戦争写真家として知られ、今年生誕101年目を迎えるロバート・キャパは一方で、その持前のユーモアと笑顔で人々を魅了し、戦闘場面ではない暖かな日常生活の風景も数多く切り取りました。本展は、「ボブ」の愛称で親しまれ、40年の生涯を駆け抜けた等身大の写真家キャパを、次の100年に向けて語り継ぐ写真展です。』
 と新聞の案内にあった。
 観たいとその記事をずっと手帳に挟んでいた。3月から開かれていた写真展なのに、日常の日々に追われ、とうとう会期の最終日5月11日になってしまった。


 当日は、欲張って、都内を駆けずり回ることになった。
 朝早くから、北区にアーチェリーの練習に行き、その後は、射場近くの板橋の次男の家に立ち寄り、昼食を共にした。夕方からは、長男一家に誘われていた。板橋から川崎の長男の家に行くまでの、午後の時間は、思い切って、恵比寿の東京都写真美術館まで車を走らせる。


 写真展の会場は、思っていたように多くの観客でいっぱいだった。写真を一枚一枚、眺め、キャプションを読み、また眺める。どういうきっかけであったか、同年輩と思える一人の男性と、写真を前にして話しが始まった。キャパの写真に寄せる関心を話し合い、感じることを聞きあい、一方で時間を気にしながらも、話しこんでしまった。私が特に感じた写真があり、その男性は、その写真をどのように思うか、聞きたいと思った。けれど、閉館までの時間も気になり、話を切り上げた。

 借りた音声ガイドで、一枚一枚の写真説明にも耳を傾けた。なぜ、キャパの写真に魅入るのだろうか、自分でもわからない。撃たれた兵士の死体。撃たれた傷から流れる血だまり。裏切り者として、髪をそられ、あざけそしられている女性。その女性に侮蔑の目を向ける群衆。次の瞬間には死ぬかもしれない兵士たちの一瞬の休息。敵機の空襲から逃れる女性と共に飼い犬も必死に走っている。そして愛する恋人ゲルダ・タローの寝入る姿。

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