寄稿・みんなの作品

【寄稿 写真エッセイ】いざ、モロッコへ≪サハラ砂漠を行く≫=岩月和子

ふしぎ物体を発見

  旅の6日目は、旅のハイライトである、サハラ砂漠だ。アフリカ大陸北部に位置し、地球上では最も広く、乾燥した大地である。
 東西5600㎞.南北1700㎞、面積は1000万平方㎞である。アメリカ合衆国に匹敵し、アフリカ大陸の1/3を占めている。
 サハラの意味は、“砂漠、不毛,荒野”である。空から見る砂の大地には圧倒された。飛べども、飛べども、なおも砂漠が続く。永遠に続く気がした。機中から、外をながめていた。

 突然、不思議な地形を発見する。地上にCDディスクみたいなものが、いろんな場所に、点々と並んでいるではないか? キャビンアテンダント(CA)に聞く。
「あれは何ですか」
「何でしょうねえ。私もわからないので。聞いてみますね」

 CAが何回か、そばを通るが、私の質問を無視しているかのように、素通りする。早く知りたいとイライラしながらも、待つこと約30分だった。やっと、そばに来て、
「あれは、水をためているそうですよ」
「何だって水溜め?」
 一応お礼を言ったものの、実に不可解だ。
「なんで、あんな同じ円ばん形をしているのよ。砂漠にそんなにも雨がふるかしら」
 となぞは深まるばかりだ。
「何のために、水をためているの?人家はあまりないようだしなあ」
 と疑問が次々とわいてくる。完璧にみんな同じ形なのだ。不思議だ。現在も、なぞのままである。宇宙人が作っているのではないのか、という疑問すらわいてきた。


ラクダでサハラ砂漠へ

 真っ暗な中、4時半ごろから4WDで、砂漠まで60㎞の道を、進む。道は舗装されており、ゆれは少ない。ついに到着だ。同じような車が40-50台は駐車していた。
 こんなにも観光客が多いのかとびっくりした。外はまだ暗い。

 突然、ラクダが目の前に、しずしずと登場する。やっぱりでっかいなあ。一人のラクダ使いの人が、5頭をひっぱっていくらしい。

 大丈夫かなとちょっと心配になる。はじめに、乗り方とその後、何がおこるかという説明を受ける。その場で、ラクダは両足を折りたたんで、行儀よく座っている。

 乗り手は、まず自分の足を鞍にひっかけて乗る。するとラクダが前足から、立ち上がる。その時、乗っている人の体が後ろにのけぞるので、手綱をしっかり持つようにと指示されている。
 次は、後ろ足。今度は、前のめりになる。

「大丈夫か?」と、ちょっと心配になってきた。何とか無事乗れた。思ったよりずっと高い。
「お尻がちょっと痛いなあ。快適なポジションに体を動かすのもむつかしいし」
 まだ、外は真っ暗だ。いよいよ5頭が連なり、砂漠へと出発する。

 “月の砂漠をはるばると、みんな並んで行きました”という歌詞が自然に浮かんでくる光景である。ひとつ実感したのは、そんなにロマンティックな快感などなく、お尻は痛く、体勢は定まらない。
 おっかなびっくりで、キャラバンはスタートした。

 このさき砂漠の日の出とは、素敵だなと胸が期待でふくらむ。
 月明かりの中、別のたくさんのキャラバン隊も行進している。絵になる光景だ。40分ほどで、頂上近くへ到着する。そこから、20メートルほどは自分の足で、砂鉄いろの大地を登らなければならない。
 一歩、踏み出す。ずぼっ、ずぼっと、足が砂の中に入りこむ。

 う~ん、これが砂漠かと実感した瞬間だ。一歩、一歩ふみしめながら、登る。やっと頂上に到着した。ラクダ使いがのせていた敷物を、おろして、砂の上に敷いてくれる。
 その上に座り、みんなで、日の出の方向を向いて待つ。突然、砂がびゅうびゅうと顔にあたりはじめた。これが砂嵐だそうだ。参ったなあと辛坊強く待つこと30分以上である。
  ますます激しくなる。目がいたい、顔がいたい。
「どうなるんじゃ」という気分だった。
ガイドさんが、「反対方向を向いてください」と、指示する。
 この方がずっと楽だ。背中にあたる砂は比較にならないくらい、楽ちんだ。
 ラクダ使いの人たちは、嵐を気にする風もなく、三々五々、のんびりと砂の上でねそべっている。その中の一人が、親切に私の頭にスカーフをまいてくれた。

 ベルベル巻きという。ちょっぴり、現地人になった雰囲気を味わった。しっかりと頭にまきつけた。現地の人々は、みんなベルベル巻きをしている。砂漠では不可欠なものだと実感する。

                 写真:砂嵐の中で、寝そべるラクダ使い      

 あちこちで写真を撮る人もいる。わたしも記念にと2~3枚急いで撮り、すぐにバックにしまう。
 出発前に、ガイドさんから、「砂漠で写真を撮るときは、袋に入れるか、ともかく、砂が入らないように気を付けてください。毎回カメラが動かなくなる人が、2ー3人でます」
 そろそろ、身体が砂に耐えられなくなりそうだった。
「今日は、砂嵐のようです。日の出はあきらめてください」
 と情け容赦のない打ち切りの説明が、とんできた。ガイドさんも初めてのことらしい。日の出は見られなかったが、ここでしか体験できない砂嵐を肌で感じた。

 往路は、真っ暗やみだったが、復路は空が、少ししらみかけていた。

 ラクダの姿もよく見える。風は相変わらず、びゅうびゅうと吹いている。ベルベル巻きが飛びそうになった。あわてて、片手でおさえる。
 これはやばいという感じだ。その上のフードはとっくにはずれている。やっと下まで、もどってきた。すぐにラクダ使いがお金を集めに来る。
 一人、3000円だ。
 集めに来た人に渡す。するとその後、また別の人が集金にきた。
「今、渡したけど」
「わたしが、あなたのラクダ使いだ。自分に払ってくれ」
「えっ、だまされたか」と思い、「どの人に渡したかな」と、あちらこちら探す。 幸いにそれらしき人は、すぐ見つかったので、
「お金を、返して。私のラクダを引っ張てくれた人じゃあないでしょう」
 と抗議すると意外に、あっさりと返してくれた。

 日常茶飯事なんだろう。お金を別グループの人からも、集めると稼ぎが増えるわけだ。客の方もしっかりと、記憶しておくことが大切だ。

  でも<顔を覚えるのは、至難の業だと思う。

 帰途、ベルベル人のテントに寄って、ミントティーを頂く。サハラ砂嵐では、砂まみれになったけれど、充実した、濃密な時間だった。


 写真:ミントティをサービスする人 
                               

【寄稿 写真エッセイ】 ロバート・キャパ = 山本千鶴子

 ここに2冊の文庫本がある。1冊は、ちょっと黄ばんでいて、最後のページに190と鉛筆書きの数字がある。190円。昔、古本屋で買ったもの。
 同じ新品は552円。昨日買った。新品と古本の違いはあるけれど、ロバート・キャパの「ちょっとピンぼけ」で内容は全く同じ。一度、読んだ覚えがあり、本棚にあるはずだった。探してみたけれど、ない。
 再び読みたくて、新しく買ったとたんに、本棚から出てきた。

 2冊を比べると、表紙、ページ数も、掲載写真も全く同じ。


 1つだけ違っていた。第1刷は、同じ1979年5月25日だけれど、古本は1990年4月5日の17刷だった。そして、もう一冊の新品は2013年5月10日の39刷。そのちょうど一年後の2014年5月11日に、キャパの写真を観て、再び「ちょっとピンぼけ」を買った。その偶然に驚く。単なる偶然だけれど、やはりキャパは特別なのだわと、何かを感じる。

 キャパが亡くなった1954年、私は9歳だった。もう随分前のことだが、それだけの版が重ねられている。現代でもキャパは忘れられていない。

 当時、小学校3年生で、生のニュースで、キャパの死を知ったとは思えないが、なぜか昔から、キャパには関心があった。
「崩れ落ちる兵士」「ノルマンディ上陸作戦」の有名な写真もあるが、他にも新聞記事、作品展などの機会があると読んだり、見たりしてきた。
 キャパは、1913年生まれ。今年は生誕101年目となる。
「101年目のロバート・キャパ」展が開かれることを知った。

『戦争写真家として知られ、今年生誕101年目を迎えるロバート・キャパは一方で、その持前のユーモアと笑顔で人々を魅了し、戦闘場面ではない暖かな日常生活の風景も数多く切り取りました。本展は、「ボブ」の愛称で親しまれ、40年の生涯を駆け抜けた等身大の写真家キャパを、次の100年に向けて語り継ぐ写真展です。』
 と新聞の案内にあった。
 観たいとその記事をずっと手帳に挟んでいた。3月から開かれていた写真展なのに、日常の日々に追われ、とうとう会期の最終日5月11日になってしまった。


 当日は、欲張って、都内を駆けずり回ることになった。
 朝早くから、北区にアーチェリーの練習に行き、その後は、射場近くの板橋の次男の家に立ち寄り、昼食を共にした。夕方からは、長男一家に誘われていた。板橋から川崎の長男の家に行くまでの、午後の時間は、思い切って、恵比寿の東京都写真美術館まで車を走らせる。


 写真展の会場は、思っていたように多くの観客でいっぱいだった。写真を一枚一枚、眺め、キャプションを読み、また眺める。どういうきっかけであったか、同年輩と思える一人の男性と、写真を前にして話しが始まった。キャパの写真に寄せる関心を話し合い、感じることを聞きあい、一方で時間を気にしながらも、話しこんでしまった。私が特に感じた写真があり、その男性は、その写真をどのように思うか、聞きたいと思った。けれど、閉館までの時間も気になり、話を切り上げた。

 借りた音声ガイドで、一枚一枚の写真説明にも耳を傾けた。なぜ、キャパの写真に魅入るのだろうか、自分でもわからない。撃たれた兵士の死体。撃たれた傷から流れる血だまり。裏切り者として、髪をそられ、あざけそしられている女性。その女性に侮蔑の目を向ける群衆。次の瞬間には死ぬかもしれない兵士たちの一瞬の休息。敵機の空襲から逃れる女性と共に飼い犬も必死に走っている。そして愛する恋人ゲルダ・タローの寝入る姿。

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【写真エッセイ】寸前で命拾い、ステント挿入で生延びる=川上千里

 鍛錬のつもりで苦しさを我慢して歩き、危うく心臓麻痺を起こす寸前でした。
 医師の素早い判断で、心臓発作が起きる前にステントが挿入され、命拾いをしました。


急に入院

 76歳にもなると足が弱って、駅まで急ぎで歩くと、息苦しくなります。冬は冷たい空気を吸い、胸が痛く感ずることがあります。
 足を鍛えるつもりで、苦しさも我慢して、早歩きしていました。
 今年の冬は寒さが厳しかったためか、よけい苦しく感じました。少し心配だったので、知り合いの先生に電話したところ、それは狭心症にほぼ間違いない、入院の支度をして、明日病院に来るようにと指示されました。

 翌週から女房と海外旅行の予定をしていましたが、命と旅行のどちらが大切だと言われ、やむなくキャンセルしました。

                           撮影:榊原記念病院 4月4日の診察日


 この先生は、笑い学会で知り合いになった、心臓外科専門病院・榊原記念クリニックの院長である住吉先生です。大先生なので恐れ多く、逆らうどころではありません。
 大げさな話に驚きましたが、どうせ診察すれば大したことなく、無罪放免になると気軽に考えていました。 


入院と医師の判断

 心電図には全く異常はないのに、先生は私の症状を聞いて、狭心症にほぼ間違無いと言い切りました。
 心臓に栄養を送る冠状動脈が狭くなっていると、息苦しくなったり、胸が痛くなったりする。特に寒い時には血管が痙攣状態になり症状が出やすくなる。これがひどくなると心筋梗塞になり、命取りになると話されました。


翌日の診断とステント留置

 手首の動脈から冠状動脈にカテーテルを入れて、造影剤を注入、診断の結果は3本ある動脈の1本が狭くなっており、血流が25%しかないとのことで、ステント挿入の方針が決定しました。
 
 ステントとは細い網状の金属の管で、狭くなった血管を広げ、そのまま中に残します。

 約1時間で、直径3mm、長さ2cmのステント留置術が終了しました。



     写真:退院の日 1月26日

治療処置後

 1時間ほどで処置が終わり、病室で待っていた女房も、ほっとしたようです。
 処置後3日目には、手首の傷跡も治癒し、退院となりました。ステント部位には血栓が出来やすいので、当分は血液凝固防止剤や血管拡張剤、コレステロール低下剤などを毎日服用することになりました。

 ちなみに、治療費は1,229,580円、自己負担89,000円と差額ベッド三泊75600円。

    処置前 中央の動脈が狭窄     処置後 狭窄部にステント挿入


今後の注意

 血液凝固防止剤の服用とニトロの携行、水分補給、暑さや寒さへの注意、などが指示されました。
 1ヵ月後の診察時、うっかりニトロの携行を忘れ、厳しくお叱りを受けました。
ステントを入れたとはいえ、危険な体質はまだ残っています。
 心臓病は紙一重で生死を分けることがあるのです。ニトロで他人の心臓発作を助けた人が、自分は発作時にニトロに数十センチ手が届かなくて命を落とした話も聞きました。
 いつも携帯するのは勿論のこと、二階にも、居間や寝室にも、手の届くところにはニトロを置くように指示されました。

 せっかく、助けてもらった命を、自分の不注意でなくすのは申し訳ないことです。
重篤な発作が出る寸前で、発作が無いのが不思議だと言われました。事前に処置できて幸運でした。
 住吉先生の的確な判断と多くの人に支えられて、せっかく助かった命です。もうしばらく大切にして、生きたいと思います。   
                             

【寄稿・写真エッセイ】そば打ち体験=黒木 成子

 先日、実家の熊本へ帰り、そば打ち体験をしてきた。

 場所は阿蘇の温泉にある「そば道場」である。電話で予約をして母と行ってみると、年末だったせいか、食事のお客さんは何組かいたものの、体験者は私一人だった。

 指導はベテラン指導員の広田さん(仮名)という女性である。そば打ちをするのは私なので、カメラマンは86歳の母である。

 広田さんは、私や母を「お姉さん」と呼び、
「はいはい、そばを打つ人はこっち、カメラマンのお姉さんはこっちね」
 と、てきぱき指図する。

 まずは手を洗って、渡された真っ赤なエプロンを身につけたら、準備完了だ。

 第一ステップはそば粉に小麦粉を少し混ぜたものをこね鉢(大きな木製のボール)に入れて、水を少しずつ入れていく。それを手の平で混ぜていく。

「指先だけですると、手がベタベタせんけんしやすかよ(ベタベタしないからやりやすいよ)」
 広田さんは熊本弁で気さくに話しかけてくれる。

 私には懐かしい響きである。水を少しずつ足していくと、最初はぽろぽろしていた生地が、次第に固まりになっていく。

「そうそう、その調子」
広田さんは笑顔でほめながら、時には手伝ってくれる。
「はい、ここでここから1枚」
 と、写真を撮る母にも指導する。そのたびに母は何度も構え直して慎重に撮っていく。

 第二ステップは、まとまった生地を平らな円形にし、大きなめん棒を使ってのし板の上で延ばしていく作業に入る。
 棒を斜めにして生地ごと正面にまわし、棒を向こうへ押しやることでまんべ
んなく延ばしていく。
 最初は丸く、次第に四角い形へと変形させる。ここは難しいので、広田さんが時々修正しながら形を整えていった。

 この、角出し(つのだし)と呼ばれる作業を経て、最終的にはこんなにきれいな長方形になった。(写真)

 かなり手伝ってもらったが、
「上手ね~。こがんきれいか形になったとは珍しか」
 と、広田さんは満足そうだった。

 私も、こんなきれいな形になってとても嬉しかった。

 それを折りたたんで、いよいよ包丁で生地を切っていく。
 左手は丸く包丁に添わせて2ミリくらいの幅にする。まず広田さんが手本を示してくれて、そのあと私が真似をしてやってみた。
 細くなりすぎると茹でるときに切れてしまうと言われ、思わず包丁を持つ手に力が入る。
 思ったより包丁は重く、幅を揃えるのはなかなか難しい。

「不揃いだなぁ」
 と思いつつも、勢いでどんどん切っていった。そして、全部切り終わった。
 ここまでで30分ほどだ。

 さっそくお店の人に茹でてもらい、食べてみた。少し太めで不揃いだが、自分で打ったそばだからか、こしがあってとても美味しい。

 カメラマンの母も、満足そうに食べていた。
 私が「なるべく顔は撮らないで、手元だけにしてね」
 などと、あれこれ注文をつけていたので、母は緊張していたのか、やっと終わってほっとした表情だった。


【関連情報】

作者紹介:黒木成子さんは熊本県出身。
      パッチワーク、ピアノと多彩な領域を持っている
朝日カルチャー千葉『写真エッセイ教室』の2年目になる受講生

作者の書籍案内『180日家族 大森美雪・17歳』=越善夏楓

『家族とは何か? 人と人との繋がりとは何か?』
 それをテーマにした小説です。
 よく言われる話なのですが、『人間裸一貫で生まれ、裸一貫で死んでいく。しかも一人ぼっちで』というのがあります。
 あまりにも寂しい話なので、私を含めて、ほとんどの人は、普段それを意識しないで過ごしているのではないでしょうか? ちょっとだけ、それを見詰めてみませんか? という思いを込めて、この本を書かせて頂きました。

 帯の後面には、
『人間である限り、共に人生を歩んできた友人や知人とは、いずれ別れなければならない運命にある。いやが応でも、ある一定の時期が来れば、それぞれ違う人生を歩み始めなければならない。そもそも、共に人生を歩んでいると思っていること自体が間違いで、もともと人間とは、一人ぼっちで自分だけの人生を歩まねばならぬ寂しい生きものなのかも知れない――出会いと別れを繰り返しながら――』
 とあるのですが、そんな感じの小説です。


 いきなり冒頭でこんなことを書くと、人生論をとつとつと語った、重苦しい内容だと思われてしまうかもしれませんが、さにあらず。全体的に、ユーモア溢れる小説にさせて頂きました。
 特に、主人公の大森美雪と父の春雄とのトークバトルは、思わず笑って頂けるように、工夫を凝らしています。更には、主人公の母との葛藤や卓球部での活躍、幼馴染の男の子とのチョッピリせつない恋物語……、など内容も盛りだくさんです。


 作品の『あらすじ』を紹介させて頂きます。

 5月のある日。高校2年生の大森美雪が部活を終えて帰宅すると、10年前に家を出て行った母が、突然家に戻って来ていた。
 父親の春雄が、娘の美雪に何の相談もなく勝手に家に連れてきたのだ。美雪にとって、それは絶対に許せない行為だった。
 母の美恵子は自分と父を捨て、別の男と暮らすために、家を出て行ったのだ。そんな母親を、なぜ父が許したのか、美雪には理解できなかった。

 初めのうち、美雪は母親が作った食事も取らず、話さえも拒否をした。精神状態はボロボロになり、勉強も部活も手に付かなくなってしまう。しかし、親友の岩永小百合や、卓球部の先輩の小早川玲子や野上瞳、さらには生徒会長の磯辺貴文等の数々の助言により、美雪は少しずつではあるが落ち着きを取り戻していく。


 やがて季節は夏になり、東部予選の日がやってきた。

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【寄稿・写真エッセイ】 姫君の結婚 = 三ツ橋よしみ

 三ツ橋よしみさん:薬剤師です。目黒学園カルチャースクール「小説の書き方」、「フォト・エッセイ」の受講生です。
 

                 姫組の結婚 PDF


姫君の結婚  三ツ橋よしみ

    
                           
  
 桜の頃に、千葉の「いすみ鉄道」に乗りに行った。
「いすみ鉄道」は上総中野駅から大原駅まで、全14駅、全長26.8kmの、第三セクター運営の鉄道である。ワンマン運転で一両編成、カーブが多くせいか、車両が古いためなのか、車体は大きく揺れながら走る。

 沿線は、桜、桃、菜の花、新緑にみちていた。水ぬるむ田には青空が映り、雲が次々と走り過ぎた。ふだんは目にもとめない踏切の点滅する赤い警報ランプや、黄色と黒色の遮断機までもが、満開の春の色どりに見えた。


 パラパラと家々が現れると、小さな駅に着く。舞い散る桜と、ゆれる菜の花の黄色い群れのうしろに、色あせたホームの看板や、サビた鉄のフェンスがつつましく控えていた。心地よい光景だ。

 いすみ鉄道には「大多喜」という駅がある。
 その駅を出て15分ほど坂をのぼると「大多喜城」に出る。昭和50年に復元された鉄筋コンクリート、3層4階の城で、いまは千葉県中央博物館の大多喜分室になっている。
 大多喜には近世、里見氏の城があったが、徳川家康が関東を治めるようになった、1590(天正18)年に、家臣の本多忠勝が初代大多喜藩10万石の藩主に封じられた。
 城内の博物館には、古地図や古文書、鎧かぶとなどの歴史資料の展示があった。大多喜城初代城主、本多忠勝の系図が掲げられてあった。その中で目を引くのが、本多忠勝の孫の忠刻(ただとき)が、千姫と結婚していることであった。千姫様の名を千葉の大多喜で目にするとは、思いもかけないことだった。

 後日、調べると次のようなことだった。
 2代将軍徳川秀忠の長女千姫は、7歳の時に11歳の豊臣秀頼に嫁ぎ大坂城に入った。1601(慶長6)年、大坂夏の陣で夫秀頼が自刃した際、家康の命で救い出された。千姫はまだ18歳だった。

 こんどは幸せになってほしいと選ばれたのが、家康の重臣であった本多忠勝の孫、眉目秀麗で評判の忠刻22歳であった。そのとき本多家は大多喜藩から転封され、伊勢桑名にあった。
 20歳になった千姫は桑名城に再嫁したのだ。本多家は翌年、姫路藩に移封されたため、姫路城に移り住んだ千姫は、播磨姫君とよばれるようになった。

 千姫は不運だった。忠刻との間に長女の勝姫、長男幸千代をもうけたが、長男は3歳でなくなり、夫の忠刻は31歳で病死してしまったのだ。
 29歳になった千姫は勝姫を連れて江戸にもどり、落飾して天樹院となった。
 一人娘の成長を楽しみに過ごし、70歳で亡くなった。

 千葉の桜を見に行き、思いもかけず、千姫様の運命を知ることとなった。大多喜城は復元された城で、歴史を感じさせる建物ではないが、4階の天守に登ると、周囲の集落、田畑や川が見下ろせる。この眺めは江戸の頃からも変わらないだろうと思う。

 戦国の世を駆け抜けた徳川家康、本多忠勝、運命に翻弄された千姫様、いまは歴史となってしまった人々だったが、彼らの息遣いが、千葉の大多喜城から垣間見えた。

 お城を後にして、坂を下る。道路わきの桜が散り始めていた。
                                                       『了』


【関連情報】

目黒学園カルチャースクール 「フォトエッセイ教室」  03-6471-0031

【寄稿・エッセイ】 コツを明かす = 筒井 隆一

 行きつけの居酒屋で、突き出しに『筍の木の芽焼き』が出てきた。新鮮な山椒の香りと筍の歯ごたえが、本格的な春を感じさせる。私の好物で、今宵も酒が進みそうだ。

 20年ほど前、家を建て替える前のわが家には、庭の片隅に孟宗竹の竹林があった。私の母は、関東大震災の被災体験から、大の地震嫌いだった。家の設計・計画をまとめる前に、まず庭に数株の竹を植え、竹林をつくった。根の張った竹林は地震に強い、という言い伝えを信じてか、地震が来れば真っ先にそこへ逃げ込もう、と竹を植えたらしい。

 その竹が立派に育ち、毎年見事な筍が、にょきにょき出るようになった。

 春先、会社の仲間がゴルフ帰りにわが家に立ち寄り、丁度食べ頃の筍を掘り上げ、持ち帰っていってもらうことになった。
 その手伝いをするのが家内である。
「ちょっと顔を出しているのがあるわ、これがいいんじゃないかしら」
「そうですね、私は掘ったことないんですが、コツを教えて下さい」
 仲間に頼まれると、家内は気軽にスコップを持ち、筍を傷つけず、慣れた手つきで掘り上げていった。やる気満々だ。力仕事には定評がある。
 仲間は新鮮な筍を土産に貰った以上に、家内の器用で力強いスコップ捌きに、感心したのだろう。
 
 いまもゴルフを共にする度に言う。
「筒井さんの奥様、筍を掘る時のどっしりした腰の入れ方、素晴らしかったですね」
「美味しい筍の味より、女房の仕事ぶりが忘れられないようだな。懐かしいね」
 あのとき仲間が、家内に筍堀りのコツを聞いていた。
「このタイミングで足を踏ん張り、腰をグッと入れ、スコップを45度の角度で根元に差し込み……」
 そう説明されても、言われたとおりにできない。

 コツというのは技術とはひと味違い、文字や言葉で説明しにくい何かがある。家内も身体で覚えているが、仲間に説明はできない。技術のマニュアルでは書けない、それがコツなのだ。

 先日小保方晴子さんが、
「細胞作製はコツがものを言う、全てのコツをクリアーできれば……」
 と記者会見で答えていた。
 筍堀りとは次元が違いレベルの高い生物化学の世界だが、煎じつめれば同じこと、コツを説明しろと言われてもできないし、分かって貰えないという話だろう。

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【寄稿・エッセイ】 絶滅危惧 = 横手 泰子

 毎年桜の開花は心待ちになる。町中を埋め尽くす櫻を見ると、「日本に生まれてよかった」としみじみ思う。
 やがて、不安定な天候が櫻を散らし、近所の公園や多摩川土手の満開の桜が葉桜になっていく。文字どおり『三日見ぬ間の櫻』だ。それでも八重桜は、長く残って、濃いピンクが目立っている。

 ある時期、わたしは毎年2度ずつ花見をしていた。東京で欄漫の櫻を見た後、北海道に帰ると、北上した桜前線と廻り合う。
 しかし、北海道の桜はエゾヤマザクラなので、花が寂しい。淡紅色の満開の枝先が垂れるようなソメイヨシノを見た後では、物足りない。
 北海道の春を告げる花は、白い花を梢一杯につけるコブシなのだ。冬枯れの山肌に、白い固まりが現れると、春を感じる。おなじ頃、身近にフクジュソウが咲き始める。
 フクジュソウは雪が解ける際から姿を現し道端に帯になってさく。そのフクジュソウは環境省の絶滅危惧種のリストに上がっていて、毎年、私は「嘘だろう」と思いながら過ごした。

 わたしが毎年雪解けを待ちかねて、でかけるのが二線の沢だ。雑木林の間を流れる沢に沿って細い農道があり、めったに人は通らない。南斜面に陽が当たり、葉を落した立ち木の根元にはフクジュソウが黄金色に輝く。その間にはエゾエンゴサクのヴルゥが微かに風にゆれて、沢の中にはミズバショウが咲いている。わたしはそこを密かに天国と決めていた。  

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【避難者の詩】 故郷慕情 = 板倉正雄(富岡町仮設住宅)

安積永盛貨物の駅に

 添うて連なる仮設の宿で、

夜ごと見る夢ふるさとの

 桜並木か つづじの駅か

子安観音お堂の浜に

 寄せる波音子守唄

重い響きにふと目を覚まし、

 耳をすませば夜行の電車

思えばここは仮の宿

 枕ぬらして夜明けを待つ


遥か東に横たう峰は

 故郷隔れる阿武隈山地

あの日追われて夢中で越えて

 帰るあてなくはや三年

ままになるまらあの峰越えて

 せめて先祖のお墓を清めて

花を添えてお香をたいて
 
 あれもこれもとととめどなく

思いばかりが空まわり

 愚痴で仮設の日が暮れる

【寄稿・エッセイ】 上野駅 = 横手 泰子

 昭和21年4月1日、私は両親、妹二人の家族5人、台湾からの引き揚げ船で鹿児島に上陸した。そこから祖父母の住む青森まで、日本列島の列車移動が始まる。鹿児島の街は焼け野原だった。広島は黒焦げの立木だけが目についた。列車は買い出しの人でギュウギュウ詰めだった。

 上野駅に着いたとき、2日間休息した。待合室のコンクリ床に敷物を敷いた上で躯を休めた。そこには各方面から引き揚げ途中の数家族が入っていた。その中のある一家は、家族全員、豪華な毛皮のコートを着ていて、熱帯で育った私は眼を見張った。

 植民地で育った私は、日常、『内地』という言葉を聞き続けた。『内地に帰る』ということに大きく夢をふくらませた。しかし、現実の夢は次々と破られた。
 食事時になると、私たちにはきちんと食べ物が手渡された。すると、待合室の入り口にポツリポツリと子どもが立ち始める。アッという間に半円型の人垣が入り口をふさぐ。どの子どもも髪はボサボサ、やせ細った手足はアカまみれ、着ているものも大きすぎたり、破れていたりで汚れ放題なのだ。

 私と同年代と思われるのに、子どもらしさなどまったく感じることはできない。その人垣を、私たち引き揚げ者の世話をしてくれる青年が「コラーッ」と追い払う。一瞬散り散りに立ち去るが、一日数回はイタチごっこが繰り返される。

 浮浪児と呼ばれた彼らは、空襲で親を失った子どもたちなのだ。全員が空き缶を手に持ち、タバコの吸い殻を拾い歩く。食料はおそらく目につくと、掠め取るしかなかったのだろう。そのせいで世間から忌み嫌われたに違いない。

 気がつくと、父が見知らぬ男性と話をしていた。そのうち、その男性が風呂敷をほどいて弁当箱を取り出した。ふたを開けると、パチンパチンと弁当箱を分解した。その中から現れたのは、久しぶりに見る真っ白いご飯だった。私はその白いご飯より小さくまとめられた弁当箱にびっくりしていた。

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