A040-寄稿・みんなの作品

【写真エッセイ・寄稿】人生、思い通りには・・①  = 斉藤永江

作者紹介:斉藤永江さん

 彼女は栄養士で、製菓衛生士です。チョコレート製作を始め、洋菓子作りと和菓子作りに携わっています。傾聴ボランティアとして、葛飾区内の施設、および在宅のお年寄りを訪問する活動をしています。

 朝日カルチャーセンター・新宿『フォトエッセイ』の受講生として、写真と叙述文に力を入れています。
  

作者HP
  


人生、思い通りには・・①  = 斉藤永江

 世の中、自分の思ったようには進まない。
 私は、2人の子どものお産で痛感した。


 1988年7月20日に長女は産まれた。
 妊娠期間の前半は、母子ともに順調に過ごした。7か月目に入ると、逆子の診断を受けた。本来、赤ちゃんは頭を下にして大きくなるべきところを足が下になっていた。
「逆子で破水をしてしまうと、赤ちゃんが産まれ難くなって危険ですから、逆子体操をして治してくださいね」
 と先生から告げられた。


 四つん這いになってお尻をあげる。15分ほど同じ体勢でいると、お腹の中に空間ができるのか、不思議と赤ちゃんが動き出す。狭い中で必死に正しい場所に戻ろうとする様子が、薄いお腹の皮を通して伝わってくる。まだ見ぬ我が子が健気に思え「ガンバレガンバレ」と声をかけながら毎日、逆子矯正体操を繰り返した。


 1か月後の検診では正位に戻っていた。
(良かった、これで心配なく自然分娩に臨めるわ)
 そんな安堵の日もつかの間、ある日、お腹の中で異常な動きをする気配に嫌な予感がした。


 次の検診は半月後だった。
「あ~また逆子にもどっちゃってますね」先生は、エコー検査をしながら残念そうに私に告げた。
「やっぱりですか。なんて子なんでしょう、もう8か月目に入ったというのに。また体操しなくちゃいけませんね」
 落胆する先生の気持ちを和ませようと、私はつとめて明るく話した。


 連日の矯正体操がまた始まった。私の体もきつくなっていた。四つん這いになりながら、
(ちょっとあなた、頭が下なんだってば。体の向き間違ってるってば)
 とお腹をさすり声をかけ続けた。


 妊娠9か月目に突入し、赤ちゃんの体重は2000gを超えた。
「良かったですね。正位に戻ってますよ」
 先生は、前回の落胆ぶりとは対照的に、この時期にこんなことがあるのかと愉快そうな口調だった。
「良かった。全く、やきもきさせる子ですね。いったいどんな子が産まれてくるのかしら」
(このままね、頭が下で正解だからね)
 更に大きくなったお腹をさすり、絶え間なく言い聞かせ続けた。


 臨月に入ると、赤ちゃんは2500gほどに成長し、お腹は一層大きくふくれた。
 私は肩で呼吸をするようになり、胃が突き上げられ、大食の私があまり食べられなくなってきた。
 窮屈になった子宮の中でも、相変わらず元気によく動き、バタバタした手足がお腹の皮の上からでもつかめるのでは?と思うほどだった。
 強く蹴られて痛みを感じることも多かった。


 6月下旬、掃除機をかけた後に、体を休めようとソファに横たわっていた時だった。
 お腹の中で異常な動きが始まる気配を感じ、ぎくりとした。(ちょっとぉ、何ガギガギ動いてるの?)
(頭が下だからね、今のままでいいのよ、動いちゃダメなのよ)
 お腹を強くさすりながら赤ちゃんに言い聞かせた。
 すると、体位移動など到底無理であろう窮屈なお腹の中で、ガガガと少しずつ回転していく様が感じられたのだ。
(ちょっと、だめだって。動いちゃだめだって)
 時間にして、わずか数十秒の出来事だった。
 お腹に目をやると、すでに赤ちゃんの頭がポコンと私の両胸の真下におさまっていた。
 呆然とした。こんなことってあるのかしら?いつ産まれてもおかしくないほどに成長した赤ちゃんが、また逆子に戻ってしまうなんて。
 私は、胸の谷間に鎮座している赤ちゃんの頭をこずいた。(先生に何て言ったら良いのよ)親身に検診してくれる先生の、がっかりする顔が浮かんだ。赤ちゃんや自分のことよりも、先生に申し訳なく思う気持ちが強い自分がおかしかった。
 次の検診日まで必死に矯正体操したが、お腹の中の状態は、うんともすんとも変わることはなかった。
(ふん、体操したって戻ってあげないもんね)
 すまし顔の赤ちゃんの顔が目に浮かんだ。安心して逆さまの体勢に落ち着いているようだった。

「先生、悲しいお知らせがあります」
 臨月に入ってからの検診で、私は逆子に戻ってしまったことを告げた。
「まさかこの時期に・・・こんなことがあるんだね」
 先生も半ばあきらめたようだ。
「体操はもうやめましょう、体に負担が掛かるからね。とにかく破水しないように気をつけてね」
 と念をおした。
 私はもはや神頼みしかないと、毎日、近くの帝釈天をお参りしては100円を投じた。
(破水しませんように。どうか無事に出産させて下さい。五体満足な子が産まれますように)
 予定日の7月17日は、何事もなく過ぎていった。
 私は、逆子騒動に疲れ果て、赤ちゃんさえ元気ならと、半ば投げやりになっていた。

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【小説・3回連載】 二十八才の頃 (2) 《夢》 = 外狩雅巳

『作者の略歴より』

 外狩雅巳(とがり まさみ)さん


 15歳から働きました。労働者として六十才まで働きつづけました。その中で労働組合に出会い働く者の幸せを目指して活動に没頭した時期もありました。 読書も好きでした、労働組合に関する書物も読み漁りました。講演も聴きました。

 そして二つの壁に突き当たりました。それは「政治と文学」であり「日本革命の展望」でありました。結果として文芸同人会への道に進みました。 働く者が主人公になる国を創ろう! とのスローガンに共感し学習に励みました。

 19才で定時制高校に入り更に夜間大学に進みました。そこで、政治闘争に出会いました。日本の政治を変えようと実力闘争を行う「マルクス主義学生同盟」に出会ったのです。

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小説・二十八才の頃 (2) 《夢》  外狩雅巳 


 色のない風景。薄暗い一面の荒野に木枯しが吹き抜けてゆく。風に追われた男の後姿が視界に現れて遠のいてゆく。そしてまた一人、さらにまた。後姿だけの男。どれも皆同じ。風に髪は乱れきっている、服の長い裾が大きくなびいている。同じ後姿の男達が次々に木枯しに追われて荒野の彼方に吹き飛ばされてゆく。

 遠くから音がする。何かが聞こえている。人の声なんだろうか。呼んでいるのだろうか。自分も呼ばなくては後姿の男を呼び戻さなくては。見覚えのある後姿。だれだろう、だれだろう思い出せない。
 荒野の果てに吹き流されてしまうその男は誰だろう。声が出ない、呼ぼうとするのに声が出ない。気ばかりあせるのになぜか声が出ない。胸が重苦しくて口が開かない。どうしても呼ばなくては呼び戻さなくてはと、自分の中の何かが思いっきり自分を突き動かしている。物音は続く。絶え間なく続きながらしだいに大きくはっきりとしてくる。

 現実との境でついに本物の声が出た。自分の声で気持が急速に夢から抜け始めていた。手が動いた。
 声に振り向いた後姿の男。その顔が判明するより先にとうとう夢から抜け出ていた。目が覚めていた。
 二枚も重ねている胸の布団を両手で押し上げながら目が覚めた。
 頭の上の窓ガラス、その向こうに青空と陽光が見えている。物干しの板がはがれかかって風にあおられ壁を打つ連続音が今度ははっきりと聞き取れた。

 街の上に広がる冬空にはもう朝の太陽が大分昇り始めている。一瞬のうちに感覚が冴える。
 朝だ。今日で今年最後の仕事がある。そうだ会社だ。跳ね起きる。壁に架けた上着を取ろうとしてよろける。腰に来ている。頭の芯も強烈にいたむ。昨夜の酒が抜けていないのだ。

 連日の残業に次ぐ残業。砂と鉄粉の舞うボロ工場。体にギリギリまで無理をさせての重労働の日々。
 そして時たまの酒樽をひっくり返したような安酒での暴飲。日頃の粗食。体のどこかがイカレ出したのか知れない。ベットリと汗をかいている。胃が痛い。いや気のせいだ。それにしても後味の悪い夢を見たものだ。あの振り向いた男の顔。チラリと見えたような気がする。あれ何となく自分の顔のようだった。そう思いながら明は服を着て部屋を出る。
 コートの裾を長く風に流された後姿がアパートから大通りに向うと追いかけるように砂が舞い立ってゆく。

 寝乱れた髪が風にいっそう広がって、両手をポケットにいれた前かがみの体を小走りに工場街の方へ運ぶ。

 納豆と刻みネギの強い匂いが通りまでただよっている。漬物の匂いや焼魚の匂い。そして味噌汁の湯気まで戸のすき間から立ち昇っている定食食堂。明は思いっきり勢いよく戸を開ける。
「オッス。飲んだな。ボーナスも出んうちから。見切りをつけてヤケ酒でもあおったのと違うか。マイッタ魚は目でわかる。とっくに死んでるぞ」
 汁掛け飯を流し込んでいた同じ工場の溶接工が声をかけてくる。
「お互いさまさ。宵越しの金など持ったためしがないのが自慢でね。体だけが資本の俺だ」
 その男も大分アルコール臭い。やはり目が死んでいる。定食屋は周辺の町工場へ通う工員達で満席である。立ったままで大急ぎで汁掛け飯をかき込んで工場へ走る。光二は昨夜と打って変わって平気な顔で自分で作った鉄パイプのバーベルを上げ下げしている。

「爪の先までアルコールで染まってるぜ。大分飲んだなゆんべは。さっきは二十五度の小便が出たぜ」
 明を見て手を止める。顔面から汗が流れ落ちている。裸になった上半身に湯気が立っている。
「朝から張り切ってまた昼寝するなよな。職長に見つかると出るものも出なくなるぞ」
 今さらボーナス減らす事もないだろうが、光二はトイレの中や機械の横に隠れて十分十五分と上手に寝たりしてサボっている。いつも明が注意してバレずに済んでいる。バレているかも知れない。
「汗もクソも出るもんは全部出す。ついでにアルコールも出す。こうやって汗と一緒に全部出してしまわねえと、クソがたまんなく臭いからな」

 突き刺すような朝の寒気を破る程の大声を発して再びバーベルに跳んでゆく乱れを見せないリーゼント。若さが違う。多分昨夜は寝ていないのだろうに何という溌剌とした体の動きであろう。明はその盛り上がった桃色の肩の肉に見入りながらなぜか急に昨夜のあの焦燥感が体いっぱいに湧き上がって来るのを感じた。

 機械が泣いている。がっちりとコンクリートの床に埋め込まれた四肢をそれでも精一杯ゆすって、キリキリキリ、キリリリーンと全身で抗議しているような不調和音の尾を長く引いてゆく。ステンレス材だ。その硬さの前にバイトの刃がひるんだように揺れて、そしてもう一度揺れたときにポキリと折れた。
「クソオー。あせるぜ」
 刃先を入れ替えると、前にも増してハンドルを強く回す。他の工員達はすでに作業を終了して正月休みの為の片付けや機械の清掃に入っている。運河の向こうの大工場はもう今日から休みに入っているのだろう。今朝は九時になってもサイレンが鳴らなかった。

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【小説・3回連載】 二十八才の頃 (1) 《砂》 = 外狩雅巳

著者紹介

 外狩雅巳(とがり まさみ)さん

 1942年、旧満州生まれ。仙台で中学卒業後、商店住み込み店員となる。その後、単身上京。工場労働者として労働運動に力を入れる。
 同人雑誌を中心に地域の市民文芸文化振興と小説執筆での作家活動を行う。著書「この路地抜けられます」、「十坪のるつぼ」)、詩人回廊「外狩雅巳の庭」ほか


小説・二十八才の頃 (1) 《砂》 縦書き 印刷して読む場合もこちら


小説・二十八才の頃 (1) 《砂》 = 外狩雅巳

 風に追われた砂粒が、人気の絶えた露地を次々に疾走して行く。
 両側に連なる町工場や倉庫の軒下には煤と鉄錆にくすんだ吹き溜りの層が重なり、その上を風に運ばれた砂粒達がすっぽりと布を被せたように白くしてゆく。
 薄墨色の雲が低くたれ込め、三十メートル程先の信号機の赤い色が夕靄に溶け込もうとしている。
 風が露地を駆け抜けるたびに、次々に新しい砂粒が地を薙いでゆき工場の板壁に音を立てて吹き付けられてゆく。
 工場の天井近くに張り渡された太いシャフト。それがモーターによって高速で回転している。
 そこから十台程の工作機械のすべてにベルトが引かれている。ひとつの動力源で十台の機械が動いている。
 風が強くなってきたようだ。北からの風が。
 板で継ぎ接ぎされた壁にある幾つかの穴のうち、北向きのその小さな穴からは絶え間なく砂粒が吹き込んで来るようになった。

 露地を隔てた斜め向かいの産業道路を、鉄材を満載した大型トラックが次々に駆け抜ける。運河の橋を渡る音と震動が微かに伝わって来るとペンチーレスの据え付けの悪い足は又小さく震え出した。
 高速で回転する鉄の表面にバイトの先端が近づく。削がれてゆこうとするその薄い鉄の皮にノズルから流れるスピンドル油がたっぷりと注がれてゆく。赤熱した鉄片はその瞬間に白煙を撒き散らして螺旋状に丸まって足元に落ちていった。

「チッ」と舌打ちして明は顔を上げる。また砂が飛んで来たのだ。こうやって大型トラックが左折して通り過ぎる度毎に露地いっぱいに砂粒を舞い上らせる。東京湾を渡って来た強い木枯しがその産業道路に湧き立った砂埃をここまで連れて来た。
「クソォー。また駄目だ。あせるなあ、三つ目だぜ」
 思わず呟いて安全靴の先で機械を蹴り付ける。
 作業の手を止めて睨み付けるその小さな穴から次々に吹き込んで来る砂粒。
 カバーから漏れる作業灯の一筋の光の中を通る時、彼等は一瞬ひとつぶずつが生命を持ったかのように白く耀いてくねりながら進む。その後で工場の隅の吹き溜りの小山をまた少し太らせて降り積もってゆく。

 鉄粉と砂粒と機械油とで固まっている吹き溜まりの高さほどの歴史が、明の日々が、この工場の隅に残っている。
「よせよせあせるなよお、損だってば、明チャンよお、無理なもんは無理。バイトが泣いてらあな、使い方が荒くて困るとさ。どうせ今日も楽しい深夜残業が待ってる事だし、のんびりゆこうよ日本は、そんなにあせってどこへ行く」
 とっくに自分のプレスを止めて煙草を吸っていた光二が間伸びした声でからかって来る。

 赤熱した切削面に砂粒が付着してしまうので寸法測定時にわずかな誤差が出る。それが精密度の高い作業には大きな障碍となる。この木枯しが砂粒を運ぶ季節になるといつも苛立ちがつのって来る明だった。
 風に押されて小さな穴から乱暴に小屋の中に雪崩れ込んで来て、そこでふいに勢いを失う。機械までにたどりつく直前に進みを止めてゆっくり舞い落ちてゆく。
 きらりきらりと白く光を反射させて砂粒ひとつずつがその短い光の中で生を終えてゆくように身をくねらせ、そして消えてゆく。次々と瞬時に多様の生と死を見せて通過してゆく無数の砂粒。

「ミクロの技師だ。砂粒ひとつの誤差も許さないとは本当に頭が下がる思いだ。納品に行ってよお、職長がほめられてよお言うぜ言うぜ。旋盤ひと筋に四十年、私にはこんな事しか取り柄がないもんでだとよ。テメーなんざ事務所でふんぞり返って他人の削った物を納めに行くところだから。よく言うぜ大した口の技師だ」
 はばかりのない大声が機械の音を突き抜けて背中に振りかかって来る。若い声だ。

 その声を見るような仕草で素早く壁の時計を見る。もう十分で終業時間になってしまう。終らない。
 予定の三分の一近くも残っている。光二に向けた薄笑いをバイトの刃先にもどした時には前にも増して焦りが体全部を包んでいた。
「近ごろとんと見かけねえよなあ、口の技師が機械の前に立つ処をよお。それでもって客先で抜かしたわな、イマイチ若い者の腕が上がらんから現役降りるにおりられないとさ。世も末だね」
 昔、光二が不良品を大量に出した時。職長に作業者の名を客先で呼び捨てにされている。
「泣くな光二。今の俺はこの仕事終らす事しか眼中には無いからな。お前のグチにつき合ってらんないよ。悪いけど」
 今日もこの進み具合では四時間残業はたっぷりある。
「その技師の件ですがね。まだ専務の処らしいぜ。朝っからずうっとだからなあ。て事はボーナスは又々渋いんじゃないのかな。こわいですね。本当に恐ろしい事ですね。三年続けてこれじゃあよお、真面目に働いてらんないと思うけどなあ。五分前になっても機械廻してるモンの気が知れんなあ」

 工具箱にのせた光二の足。破れたズボンのその穴からは脛毛が数えられそうだ。ガタガタとその足を貧乏ゆすりさせて光二はなおも話し掛けて来る。
「日曜出て、残業も八十時間やって。技師の名前は勝手に使われるし、バイト駄目にしてばかりいるからと文句言われ、其の上光二の仕事も面倒見てあげなさいね、か。本当にエライッ。明チャンはエライ。俺、勝手に表彰しちゃうもんね」

 そうやってもう十分間もサボっている光二。いつもの事だ。仕事は早い。いや要領がいいのだ。手筋がいいのだ。しかしそうやって早く終ればその分どこかで油を売る光二。けっして給料以上の働きをしようとはしない。
「ヨセヨー。おまえ終ったんなら先に晩メシ喰ってろよ。明日六時までに納品だぞ、この百個」
 毎年、暮れになるとこの忙しさだ。ベンダー。ボール盤。シャーリング。そしてプレス加工。溶接。
 旋盤にミーリング。十人そこそこの工員と機械。朝の八時三十分からぶっ続けで十時間も十二時間も悲鳴を上げ続ける。

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【孔雀船・同人詩人】 アンバさまの夏 = 高島清子

      アンバさまの夏


    今日は盆様送りの訪う十八日だから
    午後の日盛りの内に出かけなければならない
    ハスの葉には西瓜に団子と煮〆天ぷらまでもが巻き込んであるから
    片腕に重くしっかりと抱えた
    送る人の後ろからは何故だか鰹節を転がして送り出す風習があり
    台所の鰹節が唯一存在を示す時だ


    焦げる八月の中にもひと吹きの秋風が通った
    すると遠く地の底からのよう響いてくるのはあの響きだった

  
    ドンドン カッカ ドンカッカ
    ドドメカ ドドメカ ドンカッカ

   
    秋葉大権現の祭りの一団が千年の祭りを担いでくるのだ
    秋葉神社の「防火」「夢結び大明神」が
    なぜか漁網の浮子を意味するあんばにおんぶして
    アンバ阿波様となったのかは判らない


    村人は白装束に袴 太鼓を担ぎ手には大弓
    ドンドメ カッカと鳴りながら灼熱の村道を来た


    アンバ様は村のあちこちで立ち止まっては
    ひとりが弓をギィーッと絞ると
    弓の間を若者がひらりと飛び抜けてみせる
    一子相伝の弓矢を潜ったのは田の草取りに精出している若者だ


    秋葉神社は暗い杉の木の暗い中に沈んでいて
    鈍色の屋根だけが見えたが見えたが誰も訪れることはない
    それにしても何という哀愁に満ちた太鼓の響きであるのか
    盆様は十万億土へと安らかについたか
    

    夜が来た  赤い月の夜だ
    村はいつまで内臓するのか
    あの不思議に心揺さぶる重い響きを
    わたしはいつまで内蔵するのか
    次の夏を待ちながらドンカッカと 

【関連情報】

作品は「孔雀船84号」より転載です。
孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船84号」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

【孔雀船・同人詩人】 私の髪に眠った波 = 金經株(キム ギョンジュ)

  私の髪に眠った波


   一度は撫で
   一度は流される
   黒い砂浜に打ち寄せられた白い鯨


   私の持つ最も美しい財布には鯨の香油が流れ、私の持つ最も
   古い表情は誰もいない海辺の錆びた鉄棒に逆さまにぶら下が
   って食べたリンゴの味


   部屋の中で横になり、あなたが私の髪の毛を撫でると、指の
   間から波の音がする 私はあなたの手の平に沈む鯨の表情、
   息のつき方を初めて学ぶ私の髪、海辺に寝れば私の持つ最も
   寂しい財布から柔らかな二頭の鯨が流れ出る 閉じた目が閉
   じた目に近付き、互いの目を擦り付けた 互いの海辺を開け
   て、中に入り、水泡を立てる


   とある寂寥は
   誰かの陰毛さえも愛したい
   その深い陰毛にも私の唇は触れて
   今生は髪の毛を財布に分けて持っているが
   迎えに行く事で
   窒息しないように


   海辺に流された水色の星座が曲がっている
   
 
     


【関連情報】

作品は「孔雀船84号」より転載です。
孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

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【孔雀船・同人詩人】 囲炉裏の引力 = 望月苑巳

  囲炉裏の引力


   光源氏は快楽に先立つ

      *

   人間は生まれ、存在し、自らの行動で決定する
   行動には責任がある
   と、サルトル先生は教えてくれた


   囲炉裏で色づきはじめた男と女
   いけません
   そんな引力を使っては
   いけません
   女の芯をはずしてしまったら
   夕顔の肌はとろけて
   元のホダ火には戻せないのです


   トマトをかじりながら
   アクション映画を見て勃起する
   不謹慎なテロリストのように
   実存主義を体得するには
   そう時間はかかりませんが
   あなたは裂かれたのですか
   それとも囚われたのですか


   いけません
   みだらな行為は
   囲炉裏の熱で雪の肌まで溶かしてしまうのです
   十二単は
   抱きしめられるためにあるのですから
   いけません
   自らはがれるまで
   無理やりはがしてはいけないのです


   快楽の囲炉裏に
   ホトホトと
   ホダ火の明かりが肌を刺し
   水になった夕顔のかたわらで
   引力に逆らって実存を叫ぶ
   光源氏は快楽に先立つ


    *J.P.サルトルの有名なテーゼ「実存は行為に先立つ」による
   

【関連情報】

作品は「孔雀船84号」より転載です。
孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

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【孔雀船・同人詩人】 帰ってきて = 中井ひさ子

 帰ってきて

  夜遅く帰ってきて
  変わったことなかった?
  と 呟く


  ピクリとも動きませんでした
  部屋の壁が返事する


  曖昧な顔をして
  絵や机も息をひそめている


  たまには動いてもかまへんのに
  じっとしているのも疲れるやろ


  電話の赤いランプがこっちを見つめている
  何かあった?


  屋根の葺き替えはどうですかとのことでした


  もうこの家も40年
  雨漏りって切ないもんやしね


  そういえばうちは雨女やった
  遠足や運動会はいつも雨
  たまに晴天のときの
  奇妙なあの寂しさなんやろうな


  台所でぽつんと水の音


  朝早かったしもう寝るわ
  みんな静かにしてや
  とくにマイセンのティカップ
  あんたは無理して買うたんや


  おやすみ


【関連情報】

作品は「孔雀船84号」より転載です。
孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船84号」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

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【紀行・写真エッセイ】いざ、モロッコへ≪4.最終章≫ 岩月和子

3重苦だった。まだある?

旅もいよいよ終わりだ。やっと空港へ到着した。何かしら嫌な予感がある。いつもなら、「やっと、帰って
きたぞ」という安堵感もあった。

 今回は、全然違う。このままですみそうにない。「夫が、倒れたり、目がいたくなったり、熱があったりと、いろいろあったからなあ」と合点がいく。「こんな風にいろいろアクシデントのある旅もあるさ」と開き直る。

 写真:大西洋をながめる 

 思い起こせば、飛行機に乗って、すぐ倒れた。風邪をひいていたせいか、旅の間、微熱が続いた。サハラ砂漠では、
「砂が目に入った。目がいたい、いたい」
「なんで、あなただけ、メガネをかけているのに。私やほかの人は、全然平気なのに。運が悪いなあ」
 他にも、2~3人いたことを、後で知る。夫にとって、この旅は3重苦であった。ただ、食事がおいしく食べられたのが、唯一の救いだった。おかげで、なんとか旅を続けることができた。

帰国後

 翌日、近隣の医者へ行く。「すぐ横浜労災病院へ行って,しっかり、見てもらってください」と、神経内科を紹介された。

 神経内科へ行き、MRIを撮った結果、硬膜下血腫が左右にできていることが判明した。「急を要することではないので、しばらく、手術が必要かどうか、様子をみましょう。急ぎの場合は、この面談表を持って、緊急外来へ来てください」と、その旨の書類を持って帰ってきた。
 二人で、「よかった、よかった。たいしたことでなくて」と、ほっとする。

 一か月は何事もなく、無事経過した。その間、夫は労災へ行き、CTを撮ったりと、経過観察していた。ある朝、二人でいつも通りウオーキングへでかけた。
 夫の歩き方がおかしい。右肩が下がり、歩く速度も常に比べると、のろのろと遅い。その日の午後、出かける用事があった。駅の階段を上ったり、下りたりするのに、手すりをもっている。
「まるで別人みたい。普段は階段を一段おきに登っているのに」
 その翌日
「すぐ病院へ行った方がいいよ」
「そうだな。自分でも足が重く、もつれる感じがするんだよ」
 とすぐ労災病院へ、朝早めに出かけた。
「緊急の場合、携帯に電話してね。午後には帰っているから」
 と夫を送りだす。その日、私は仕事だった。

 緊急事態発生

 午後の英語のクラスが終わり、帰宅し、留守電を聞く。何か入っているが、雑音でよく聞き取れない。夫は携帯を持たないので、仕方がないとあきらめた。

 その後、TV番組を見たりして、しばらく所在無げに、夕方まで過ごす。帰宅が遅いのも気になり、念のため、留守電をもう一度聞きなおすと、新しいメッセージが入っていた。
「1時半ごろに、緊急入院されましたので、病院へお越しください」
「えっ、入院だって。たしか病院へは、朝早めに行ってるはずだから、途中で倒れて、運びこまれたりしてないよなあ」
 と急に不安を覚え、急いで病院へかけつける。

 時間はすでに夕方6時ごろである。
 病室へ到着すると、夫は常と変らない様子で、のんびりとベッドに横になっているではないか。ほっとして、
「どうしたのよ」
 と当日の経過を聞く。
 診察を受けると、金曜日当日、すぐ入院となり、31日、月曜日が手術ということになったらしい。
「ここへ来るまで、心配したのよ。状況がわからないから」
「うん、俺もびっくりしたよ」とこともなげに言う。
「急いで、タクシーでかけつけ、気が気じゃあなかったのに」と少し、ほっとした。

 いよいよ手術日がきた

 当日、わたしは、少し早めに自宅を出る。手術というのは、どんな場合も、医者の失敗もあるし、不慮の事故もある。心配だ。
 これ程、待つのがいやな時間はない。
 2時間ほどで、頭に包帯をまいて、夫が病室に戻ってきた。
 医者の説明を聞き、何ごともなく、よかったなあと安堵する。手術日は、一日動けず、ベットで、寝たままである。「腰が痛い」と、時々看護師さんに、位置を変えてもらう。
「今日は、一日付き添ってください」
 というお達しがあった。昼頃に戻ってきたので、夕方に、「もう帰ります」と伝えると、
「えっ、そんなに早くに帰るんですか」
 という気配を察したので、もうしばらく残ることにした。病院は人手不足なので、術後の世話が大変らしく、家族にできるだけ、長くいてもらいたいらしい。

 翌日、4月1日の午後、病院へ行くと、元気そうで、朝食も食べたとのことである。これで大丈夫と、ほっとする。順調に回復しているようだ。4月8日に退院の運びとなる。12日間の入院だった。

 退院後、しばらくは、なにごとをするのも、ゆっくりと行う。モロッコの話題なども、楽しくなってきた。
 約一か月が経過して、家事も元通りにこなせてきた。私も助かる。待望のゴルフへ出かけた。「ドライバーが飛ばないなあ。パットもうまく入らない」と、夫はがっくりしていた。
「やっぱり、しばらくやらないと、アプローチの感じもでないよ」
 とため息まじりにつぶやく。その一週間後、妹夫婦と、千葉までゴルフにでかけた。ショットもアプローチも、何とか75%くらいまでもどり、互いにほっとする。
 これで2月のモロッコの旅から、やっと、開放された。

                                   

【寄稿・エッセイ】 好き嫌い= 中村 誠

 誰でも自分独特の好みがある。付き合っている人との相性が良ければ、その付き合いは長続きする。人に限らず、動物、例えば飼い犬との関係も同じだ。
 朝食時、家内に、好き嫌いを聞いたら、
「あなたは、犬が好きで、猫が嫌いでしょう」
 と即座に跳ね返ってきた。

 嫌いなのは猫で、馴れ馴しく媚びる猫の性格がどうしても駄目だ。それでわが家では猫の話は滅多にしない。彼女も同じで、犬、特に柴犬にはぞっこん惚れ込んでいる。

 結婚前に彼女の実家に呼ばれ、愛犬との出会いがあった。
 門から入ると、途端に飼い犬に激しく吠えられて、玄関に向かう足がすくんでしまった。庭で盛んに吠えていたが、「ウーちゃん静かに」、と彼女の一言で静かになった。
 洋間の窓に沿った台に座ったウーちゃんとの初対面だった。それを機に、私が「ウーちゃん」と呼びかけると、静かに座っていた。人見知りが激しく、滅多になつくことは無いのに、家族の仲間として認められたのだ。今にして感じるのは、私の態度とか性格などを知るための家庭訪問だったのかも知れない。

 私は、犬と相性が良いことを私自身が認識し、どのような犬に対しても興味を持つ切掛けとなった。
 30年前に今の住まいを構え、落ち着いた頃に待望の柴犬を貰い受けて来た。家内が待ちに待った柴犬のカニーだ。中型犬でおとなしく、賢い。犬嫌いの人には理解が出来ないだろうが、二階の寝室にやってきて、私の寝床に潜り込み、17年も寝食を共にした家族の一員だった。
 そのカニーを見送って十数年が過ぎた。

 最近、飼い犬と散歩の人に出会うと必ず声を掛ける。もちろん犬の話だし、屈みこんで、飼い犬に目線を合わせ、「名前は?」と聞くと飼主がニコニコしながら「ハルナです」と教えてくれる。
 これで飼主の気持ちを知った犬は、私を認め、主人との会話が終わるまでじっとしている。私が受け入れられた瞬間だ。
 犬も相性の善し悪しを本能的に見極めている。 

【紀行・エッセイ】 ブラヴォー = 和田 譲次

 熱のこもった演奏が終わった。
 息つく間もなく大きな拍手、会場のあちこちから「ブラヴォー」の声が響き渡る。大きなコンサートホールで、特に、オーケストラの演奏の後にみられる光景だ。
 60年前、私が音楽会に通い始めた頃、クラシック系では、聴衆は紳士淑女風の方が多く、お行儀が良かった。演奏が終わると,結果のよしあしにかかわらず、儀礼的に静かに拍手が起こった。

 いつの頃からか会場内の様子が変わり始めた。高度成長期に合わせて。東京に音響効果の優れた大、中のホールが出現し音楽会も増え始めた。
 量的には世界一の音楽都市といってよいだろう。海外からの来日公演も多く、聴衆も若手中心に様変わりし、ステージ上との一体感も出てきた。客席にいても周囲の盛り上がりが伝わり、自然に興奮してくることもある。

「ブラヴォー」「アンコール」などの叫び声が、あちこちから飛び始める場に居合わせることが多い。

 名演奏の後であれば良いのだが、どのような場でも声を出すグループがいるのに気がついた。
 業界通からの話だと、彼らはTBS(東京ブラヴォーサービス)よばれ、音楽好きの大学生で構成され、呼び屋(音楽事務所)が 景気づけに活用してきた。
 彼らはギャラをもらっているせいか、存在感を示すために、我先にフライング気味に声を出す。演奏後の一瞬の静寂が素晴らしいのだが、日本の会場では期待するのが無理になってきた。

「ブラヴォー」にアレルギーを感じている私が、それを叫ぶ立場になった。
 私の関係しているオーケストラの指導を頼んでいた若手指揮者、下野さんがブザンソン(フランス)の指揮者コンクールで優勝してしまった。このコンクールは国際的に評価が高く、小澤征爾さんも50年前にここで優勝し、世界的な指揮者への道が拓けた。

 後日、下野さんが帰国してから記念コンサートが開かれた。彼は、一時期日本を離れていたこともあり、まだ名が売れていないので話題づくりが必要であった。

 演奏終了後、会場を盛り上げるために拍手だけではなく派手に声を出すことにいた。まず「ブラヴォー」と誰が発声するか、みんな怖気づいてしまい、仕方なく提案者の私の出番になった。
「あなたの声は良く通る」とか「声をかけるタイミング分るでしょう」などとかいわれて引、き下がれなくなった。

 演奏中は音が耳に入らず、緊張の連続、演奏が終わると落ち着いてきた。指揮者が聴衆の方を向いた瞬間に、自分でも信じられないほどの声が出た。これが呼び水になり周囲から声が出て、2000人近い聴衆を巻き込んだ。
 これで自信がつき。ご縁のある音楽家の小規模のリサイタルでも力演の後には「ブラヴォー」コールをおくっている。内々に聞くと、花束などを貰うより、励みになりうれしいという。

 この私の特技? が株主総会の席で役に立った。友人のSが総務部長のころ
「今度の株主総会にでるのでしょう、議事進行に注意を払っていてください」
 彼は、「出席して下さい」、「進行に協力して下さい」など指示をにおわす発言はしない。
 別れ際に「これは業務ではありませんから、当日は有給休暇を取ってください、言うまでもないでしょうが社章を着けないように」と、ベテランらしく慎重に言葉を選んだ、

 議長(社長)の説明を聞きながら、「異議なし」「了解」、質問などでもめているときには「議事進行」などと叫ぶ。総会の空気は分かっていたから、タイミングよく声がでた。

「あなたの発声の間は素晴らしい、知らない人はプロの総会屋と思うでしょう。こらからもよろしく」後日、総務部長が、からかいながらお礼をいってきた。
 日常生活の中では。腹の底から声を出すような機会はない。ここに取り上げた例に加えて、野球やサッカーの応援でサポーターは思い切り声を出して憂さばらしをしている。

 瞬発力のある声をだすと爽快感が味わえるが、家の中では家人を驚かすだろうし、散歩しながら、こんな声を出していたら気がふれた人間と間違われる。

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