【寄稿・エッセイ】 茗荷に勲章 = 遠矢 慶子
朝、新聞を取りに玄関を出た。
玄関脇の垣根に、紺碧の朝顔が、大きな緑の葉の間から、競争するかのようにあちこちから顔を出し、15、6個も咲いている。友人にもらった5株で、めずらしい色と形で、花弁の外側が普通の朝顔のように白くぼやけていない。暑い夏の雰囲気を清々しく彩っている。
庭は好きだが、庭仕事は苦手だ。特に夏の庭の手入れは頭痛のタネだ。藪蚊がひどい。七月初めに刈った草が、1か月でまた伸び放題になり、ヤブガラシ、カラスウリのつるが生垣を覆っている。レンガとレンガの隙間からさえも雑草がしつこく出てくる。
私は「自然が好きだ」と都合のよいことを言っているが、実は自然派というよりほったらかし派と言うべきかもしれない。
庭の奥の日の当たらないところに、茗荷の葉が群生している。
まだ朝露でぬれているが、左右にのびた元気な葉をかき分け、茗荷を探す。
「あった。あった」
湿った枯葉の間から、透き通るようなクリーム色の蘭に似た小さな花が、えび茶の苞からひょいととび出し、ぶら下がっている。掘り出すように抜くと、白い茎というか根が伸び、茗荷そのものは、中が少しふぬけになっていた。
子供の頃は茗荷が大嫌いだった。
家の北側の汲み取り便所の横の暗い所に葉が茂っていた。そんな陰気な汚い場所に生えている茗荷なんて食べなかった。
その上、茗荷を食べるとバカになると言われていた。
「昔、欲張りな宿屋のおやじがいた。金持ちそうな旅人が泊まると、沢山の茗荷を食べさせ、何か良い忘れ物をしてくれないかと思っていた。ところが大勢の客は、宿の勘定を忘れて帰ってしまった」
欲張りは、こんな天罰があるという落語の落ちだと記憶する。
本当に茗荷には、バカになる成分があるのだろうか?最近は言わなくなって、むしろ高級食材として大事に扱われている。
生涯パリで過ごした巨匠、藤田嗣治画伯が、日本の食べ物で一番欲しい物は、紫蘇と茗荷と三つ葉だと言っていた。確かに外国にはない。日本人の繊細な神経を刺激し、香りと味がいっそう食欲を増す食物だ。
世間ではバカになるとか、アホになるとかの噂の中で、自己をガンコに守り通して、黙って日当たりの悪い所で、滋味を一身に引き受けている。
夏の野菜として勲章をあげたいような存在だ。
お昼に、夫のゆでたソーメンに、私はたっぷりと茗荷と紫蘇を刻んで添えた。
夕方、庭の水やりを、夫がめずらしくしてくれた。
ホースで庭木の上から、草花の花の上から、何もかも上から水をかけまくっている。その上、焼石に水というべきレンガ敷きのところに、水をまき散らし、水はレンガにどんどん吸い込まれるばかりだ。
「そんな水のやりかたでは何にもなりませんよ。根元の土と、植木鉢に水をあげて下さいな」と注意する。
「分かっている! バカ! 」
と夫はのたもうた。
(バカと言った人がバカな人)
と子供のけんかの時言ったことを思い出した。
昼食に食べたたっぷりの茗荷で、夫はバカになったのか。恐ろしい。