『作者の作風』
外狩雅巳(とがり まさみ)さん
外狩雅巳が重要視し、高い評価をする近代文学のプロレタリア文学(たとえば小林多喜二「蟹工船」)などは、タコ部屋の労働者であり、食事や睡眠も満足に得られない資本家の奴隷であった。
時間拘束が生活全体に及び、労働者の全てが商品として買い取られてしまう。
労働の商品化であり、廃人化により、その商品の再生はできず劣化する。もし、この状態が現在までも続いていたら、プロレタリア革命は起きていたかもしれない。(北一郎・文芸批評家より)
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小説・二十八才の頃 (3) 《火》 外狩雅巳
街が沸き立っている。師走の風に浮かれている。ホームから見渡す東京の夕景色が明の気持とは無関係にざわめき立っている。人の波がいくつも続く大通りの交差点。そこから四方に延びる商店街は祭りの時のように灯があふれ人があふれ出ている。そしてその向うに東京タワーがそびえている。全体を飾るイルミネーションがまばゆい。その灯を見ると急になつかしさがこみ上げて来た。
洋子とあそこに登ったのはいつの頃だったろう。二十歳の日々が突然に胸をつき上げて想い出されてくる。日本海いっぱいまで山並みが迫ったそこにある東北の小さな寒村からの精一杯の脱出。母も父も駅に見送ってくれなかった。少女の暗く感動の少ない生い立ちの記を、それでも胸いっぱいの喜びで聞けたあの日々。短い恋の始まりの頃がやるせなくよみがえって来る。
電車が入って来た時になって急に腹の様子がおかしくなった。日中も大分便意を催してはいたが、その時は仕事に追いまくられていて一分延ばしに耐えているうち、いつの間にかおさまってしまった。
そしてそのまま昼食もせず時をわすれて機械と格闘しているうちに終業になっていた。なぜあの時ゆかなかったのだ。それが今頃になってこの強烈な便意はどうしたというのだ。
ひとつ駅は何とか持ちこたえた。でも二つ目の駅でもう辛抱出来ずに電車を降りてしまった。たまらない便意だ。腹の中がどうにかなっているのだろうか。そうだ、あの店で食べたレバーの刺し身にちがいない、それにあのラーメンも原因かもしれない。昨夜ラーメンを吐いていた光二。あの時いっしょになって吐き戻してしまえば良かったのだ。そうだ、今朝だって光二のよう半裸になってバーベルでも持ち上げて汗と一緒に全部出してしまえばよかったのに…。あの若さが明にはなかったのだ。
秒刻みで便意は激しさを増してくる。尻の穴に全神経を集中して強く閉じる。それでもしゃがみ込んでしまいそうだ。もうどうにも駄目だ。呼吸が早く切なくなって来た。目が見えない、物がかすれて見える。
一歩の為にあらゆる努力をする。ここは何としても駅の便所までたどり着かなければいけない。工場のあのボロボロの便所がこれほどまでになつかしいとは。柔らかなその中味が漏れ出してしまわないように尻を動かさぬようにして注意深く足先だけを小さく開いて一歩、また一歩階段を便所に向かって時
間をかけながら近づく。
そして、そこの清掃中の立て札と入り口を閉じている木の柵の前でもうどうにもたまらず腰を降ろしてしまう。目の前がまっ暗になってしまう、脂汗が額と腋の下にじっとり出ている。
一歩、また一歩ごとに立ち停まり全身をあえがせて荒い息を繰り返す。息を整えると、また次の一歩を慎重に出す。駅前広場の無限にも感じる長さ。パチンコ店まであと十メートル。自転車の老女が前をよろけて横切る。左折しようとして出会い頭にバイクと向き合って急ブレーキをかける。荷台が明の腰をかすめる、思わず出しかけた足をとめる。よろよろと後方へ倒れかけてその場へ腰を落とした。その時漏れた。わずか、わずかだが汁が漏れてしまった。
あと五メートル。三メートル。あと一メートル。ドアを押そうとして中から飛び出して来た男に手をふりほどかれて、またよろけた。そしてまた漏れてしまう。どうしょうもなく漏れてしまう。
街を歩く若い女達の胸に腰に視線が走る。充血した目が何かを求めている。完全に頭に来ている。
服の中で張り出した胸の先に浮き上がっている乳首が見えるほど視線が狂暴になって来る。顔、胸、腰、足と一人一人をなめつくすように品定めする。今の明には見る事しか出来ないのだ。一文無しの上にズボンの下にはブリーフまでなくなっているのだ。
『月々に月見る月は多けれど、便所の窓から見る月は、これぞまことの運の月』
便所の落書きのとおりにその小窓からは寒々とした白くて丸い冬の月が良く見えた。まるで今の明の身のさだめを笑っているかのように見下ろしている。
「クソウ、月まで俺をバカにしくさって」
汚物の滲んだ下着をそのまま便所の落書きにゴシゴシとなすり付けて捨てた。本当なら窓から月に向けて投げ付けてやりたい気持である。不幸な男の心をもて遊ぶようなこの落書きと月の出。なんで便所にも行かずメシも食わずに働き続けた俺をこんな風にからかうんだ。掘立小屋のようなボロボロ工場の工員だからといってバカにするな、俺は、俺はミクロの技師だ。
そのパチンコ屋のトイレに落として来たのだろうか。それともあの自転車の婆さんに轢かれそうになった時よろけてしゃがみ込んだのがいけなかったのか。まさか電車の中で尻の穴ばかり気を配っていてスラれてしまったのだろうか。確か三十二万と六千円入っていたはずだ、あの茶封筒の中には。
十二月分の給料とボーナスのほとんどすべてだ。八十なん時間も残業した俺の汗と涙のあれがすべてだというのに。
ズボンのポケットに入れたままにしておいたのがいけなかった。普通は数千円しか持っていない。
だから裸の札と硬貨をそのままポケットに入れて生活していた。しかし三十万円は大金である。おのれの不注意としか言いようがない。ハイライト買った時の釣銭の小銭しかポケットにない。気がついたのはもう大分飲んでしまっていた後だった。
パチンコ店のトイレを出て気分直しに隣の大衆酒場で一杯引っかけようと入った。煮込みとか湯豆腐とかを何品かをたいらげてひと息入れようとライターをさぐった時に気がついた。右になければと左ポケットも探し、上着のポケットも内ポケットもとせわしなく手を入れて見た。そうしてもう一度全部のポケットの中身をテーブルの上に並べた。スーッと気が遠くなるような絶望感。今度は立ち上がってさらに何度でも同じポケットをひっくり返して体中をさぐり廻して駆け出しそうな表情になっていた。
洗いざらい小銭をはたいて、それでもまだ二十円ほど足りなかった。レジで三名の店員に囲まれながら必死になって言い訳を繰り返し一人一人に米搗きバッタのように頭を下げて回ったあの時のみじめな
気分。殴られて外に放り出されていた方がまだましだ。ドジな自分につくづくあいそがつきた。
多分無駄だろうとは思っていたが、二度、三度、四度も足取りを思い出しながら夜更けまで駅前をさまよった。揚句にいくらかあきらめがついた。そう言えば三年程前も給料日にこんな事があった。
一本電車を待てば良いのにそれが出来ず駅の中を走って、それでも乗り損なった上に十万円の入った紙袋と部屋の鍵を落としてしまった。あの時は、会社で次の月の給料の一部を前借りする事が出来たが、今度は年末年始の休みに入ってしまっている。光二の処にまで借りにゆくしかない。
駅へ向かう人の波に背を向けて歩いて帰る。皆浮かれている、歌など合唱しているグループすらある。どいつもこいつもきっと俺の倍以上のボーナスを取っているのだろう。行き交う女達の胸の盛り上り。尻の丸み。そればかりが目につく。俺は金ばかりか洋子すら失ってしまったというのに、クソオ、いっそ抱きすくめて押し倒してしまおうか。
捨て鉢な気分に浸りながら通りを抜ける。河が見えて来た。あの向う岸に明のねぐらがあるのだ。
暗い中にせんべい布団がひとつ。十二月に入って一度もたたまず床の掃除すらしていない。それでも唯一明のねぐらがあるのだ。
橋の中間から見える二つの大都会の夜景。その上をサーチライトが長い光を照射しながら回転してゆく。まるで燃えているかのように無数の灯をきらめかせている。眠らない夜の都会。町並とまばゆい光の夜景がどこまでも広がって続いている。
対照的にまっ黒な河口から続く海。見渡しても何も見えない黒い海の向こうから次々と吹き付けて来る寒い木枯し。
川口の砂洲に乗りあげたままのあの船が強くあおられてゆれている。支えのない船が砂の上で右に左に大きくゆれている。その上の岸のその向こうに密集する家々の窓にともる明るい灯。
どの家庭にもあと二日でまちがいなく正月がやって来るのだ。そうだ俺にだって来年がくるのだ。しかしその来年に俺はどんな希望があるというのだ。いや今の俺には人並みの正月すらないのだ。
吹き付ける風をまともに受けた時ジャリッと砂を噛んだ。こみ上げて来る不快感。グルルっと下腹が泣いている。今日はどうも駄目だ。消化しきれなかった豚の内臓とか昆布の切れ端とか野菜の繊維質の部分だけだとかが胃液と酒とゴタゴタに混ざり合って胸から口に逆流してくる。口の中に吐き戻された不快な液体に大きくむせ返る。
たまらず口からあふれるそのにがみかかった咀嚼物入りの液体を海に向かってぶちまける。次々と腹の底からわき上がってくるアルコール混じりの未消化なドロドロの流動物体がたちまち口の中に広がる。吐いても吐いても限りなく出てくる。いや、気分だけが続いている。目まいのするような吐き気がまだまだ続く。
身を乗り出して河の上にしゃがみ込んでいる。丸く白い月の姿が流れに浮いていた。吸い込まれゆくような水の流れ。かすんでゆく意識の底をリズムが流れている。どこからかテレビの歌謡曲でも風に乗って来たのだろうか。途切れ途切れにかすかに続いている。そうだあれは森進一の『新宿港町』だ。なぜかそんな事だけが妙に気になってしまう。秋の工場の旅行で光二が歌ったのはあの曲だ。ところで俺は何を歌ったっけ。
手すりを伝いながらようやくまた歩き出す。もう曲は終っている。静まった海の闇からの風がまた砂を吹き付けて来た。岸辺の家々の灯がひとつずつ消えてゆく。もう足元の川の流れも見えない。闇に沈んでゆく大都会。見上げると冬の星達の耀きが、丸い月の白い明るさが、いっそうはっきりと夜空を飾っていた。
ようやく渡り終えた橋のたもとに腰を下ろして一息入れる。飲み食いした物は全部吐き出してしまった
ので大分体がスッキリして来た。だがその分一気に眠気が襲って来た。ねむい、ねむい。たまらない眠さだ。胃も頭の中も空っぽになって、体ごと浮き上がって行ってしまいたいような気分だ。何も考えたくない。張りつめていた一ヶ月間の気力が完全に抜けてしまっている。
働き続けてほとんどまともに寝ないでがんばって来たこの一ヶ月間。特にここ数日はろくろく昼飯も食っていない。立ち通しで機械と格闘していたのだ。
そうやってまでして手にいれた三十万円も落とした。パンツも捨てた。運がつきた。体中のすべてを吐き捨てた、もう俺には何も残っていない。
金もない、夢もない、残ったのは疲労と失望だけ。このままここで眠り込んでしまいたい明だった。
あと少しでアパートの部屋に帰り着ける。眠気を振り払おうとハイライトを一本出してライターを点火する。そのボウッと明るくなった空気の向こう、街並のはるか先のアパートの二階。ライターの炎の中で浮かび上がったその部屋のあかり。思わず瞳をこらす。確かにそれは明の部屋だ。俺は今起きているんだろうな。夢を見てるんじゃないだろうな。
あの頃はそうやって明の帰りを待っていてくれた洋子。再会のあと洋子の態度は積極的だった。二十四才といえばもう何もかもわかっている年齢なのだろう。やがて当り前のように明のアパートへ来るようになった。
「会社に電話してもいいかしら。先に部屋に入ってる夜は…。そうしたらゆっくり残業してこれるでしょ」
来れば部屋を片付けて気のきいた夜食等を並べてくれる。そして小さな乾杯と二人だけで持つとりとめもない話。ひとつしかない明の夜具に身を寄せ合って朝を迎える幸福。そんな時の会話だった。
「いやいいよ。仕事中に電話は困るよ。こちらから掛けるから。鍵貸してあるんだから勝手に入ってろよ」
やはり言えなかった。あの掘立小屋と洋子に知らせている額よりも大分少ない本当の収入を正直には云えることが出来なかった。
機会を見て大工場の会社に転職してしまおうか。それとも今の工場を知らせるべきなのだろか。日が過ぎる中で明は自分の胸の中とだけ同じ質問を繰り返していた。「母さん。俺、結婚するからね」
郷里の母への電話の中でついつい気持ちを打ち明けてしまった。洋子との日々で大分散財してしまった。それは母からの送金で埋めるしかない。口実ではなく本気に明は洋子との未来を考えていた。
ただただ夢見心地で過ぎてしまったその後の数ヶ月。不意に思い立って夜訪ねて来ると、万年床を上げて部屋を片付け、湯を沸かし手料理を並べて、何時間でも明の帰りを待っていてくれた。
駅を出て、疲れ切った身体を引きずるように帰る夜、角を曲がって突然に自分の部屋の電灯がついているのを見つけた時の喜び。この数ヶ月に何度あったろうか。それ程にわずかの短い二人だけの期間。
冬になる直前、前ぶれもなく洋子が消えた。
いや考えれば思い当たる事が次々に出てくる。今まで一度もなかった明への工場への外からの電話。
それはしかし明が受話器を握った時は切れていた。取り次いだ事務所の男は、相手は名乗らなかったが若い女の声だといってニヤニヤしていた。秋の頃のことだと思う。
そうだ二万円借りたままだった。あの月末、またまた金欠病になってしまった明は思い余って洋子をだました。職場の後輩の急病に五万円程貸してやる必要がある、いま急な事で一万円程足りないのだが、と話を持ちかけた時、洋子は二万円を渡してくれた。あの時の目の暗さを今にして思う。でもその時の明にはそれが読めなかった。
そして最後になってしまったあの夜。洋子は何かを決心して来たのだろう。明のアパートに来る事をかたくなに拒んでいた。あの夜洋子は何を話そうとしていたのだろう。酒の中にすべてを沈めて二人で飲み回った夜の街角。行き着いた先の安宿のベッド。驚くほど乱れたあの夜の洋子の声と姿態。今でもはっきりと明の中に残っている。
洋子から何を打ち明けられるのが怖かったのだろう。薄々感づいていた明のごまかし。それを洋子はどの程度の事として考えていたのだろう。
そして結局、何ひとつ話さず洋子は消えた。職場に電話を入れても退職した者の行方など知らないと取り付く島もない。郷里に帰ってしまったのだろうか。寮を出て職場を去ったその先はどうしてもわからない。
何もなくなってしまった明の心の中は涙で一杯になっていた。オモチャを取り上げられた明。無力感をどうする事も出来ないまま、連日の深夜残業の中で狂暴さだけを大きく、大きくつのらせて来ていたのだ。光二の若さにすら抑えようのない怒りが沸き起ることがあった。機械を回しているその時だけが何もかもわすれられる時なのに、そこにすら職長の言葉が追い討ちをかけて来るのだった。
本当に洋子が来ているのだ。いやそうだ。絶対にそうだ。それしかない。それ以外考えてはいけない。こんな夜だからこそ、行く着く処まで落ち込んだこんな夜だからこそ絶対に最後の逆転があるはずだ。
俺はミクロの技師だ。俺の削った鉄は砂粒ひとつ分の狂いもないはずだ。工作機械一筋、この十年間、誰よりも良く働いたじゃあないか。掘立小屋で夜中まで太陽の光すら見ずに油と汗にまみれて俺は、俺はひたすら一心に鉄を削って来たのだ。
気がつけば、もう三十路が手に届く処に来ている。働き始めた十五歳の日から苦学を重ねて来たのだ。かならず俺の青春は今こそ最期の最期で耀く事になっている。そうにちがいない。あれだけ仕事も出来て真面目な俺が報われるのは当たり前ではないか。
中天から少し斜め下にある満月に照らされた明の体がピョコンと跳ね上がった。そして思いっきり駆け出した後姿が月の光の中で遠ざかってゆく。
砂の舞う産業道路へ曲がった時ふっと消えた。
その一瞬。月光の下で二十八才の男の全身が火のように燃えて輝いた。
(了)