A040-寄稿・みんなの作品

【寄稿・エッセイ】 遺言状 = 横手 泰子

「10年先にはお母さんは居ない」
 何かにつけて娘たちに言い続けた。気が付いたら十年を遥かに過ぎている。そこで最近では「死ぬまえに」と「最後の」が出てくる。

 60歳の誕生日を迎える時、娘たちから何が欲しいか聞かれた。「かんじき」をリクエストした。おしゃれな「スノウシュウ」が届いた。積雪2メートル、雪が障害物を覆って行動範囲が広くなり、動物の足跡を追ったり、植物の冬芽を観察する好機だ。真冬でも水が湧き続ける沼に、アメマスの産卵も見に行ける。

「樹齢1000年のオンコ(イチイの方言)が最近見つかったから見に行きましょう」
 東大演習林のA教官から声が掛った。

 早速出かける。雪の林内を縫って歩き、汗が滲む頃たどり着いた。
 A氏によると、長年林長を勤めたドロガメさん(本郷キャンパスで一度も講義をしたことのない東大教授)に聞いても山子さん達に聞いても、誰もしらなかった。鳥の研究が専門のA氏が偶然見つけたと言う。

 樹齢300年、400年のエゾ松なら見本林で見られる。200年たつカツラのひこばえが2本見事に立っているのも見た。
 1000年のオンコは大地に何本も根を張り、うねるように盛り上げて、不動の幹から、枝を四方に悠然と広げていた。千年と言う歳月風雨に耐え、雪に押しつぶされることもなく生き続けた、森の精は、どれだけ多くの鳥たちを休ませ、何を見て来たのだろう。言葉もなく立ちつくした。

 2年先に80になる。「終活」という言葉が横行する。ほっといてくれ、と思っている。しかし、遺言状なるもの、書いておかねば、という気持ちは…ある。

 幸か不幸か子ども達が争う様な財産など無い。私の遺骨は、一本の桐の木の根元に置いて欲しい。それが願いだ。願わくはその桐の木が1000年生き続けて欲しい。私はそれを見上げて眠っていたい。

「お前が産まれた時、植えた」
 と言われた桐の木が並んでいた。
 春になると薄紫の花がさいた。筒型のその花で、毎日遊んだ。本来、箪笥になるはずのその樹は、戦後の物不足の時代に下駄に加工されて、消えてしまった。故郷に向かう列車に乗ると、車窓から見える景色の中に桐の木が見える。「私の桐の木」と言う思いが心をよぎる。

 今年の誕生日には、とりあえず「遺言状」の下書きでもしてみよう。本物になったりするかもしれない。
動物歳時記
介護犬アイ

世界・地球一周の船旅・イースタ島で共に遊んだ最期の人=原田公平

 
 ボクにとって夢のまた夢、イースタ島へは、瀧恵子さんと訪れた。
 彼女との縁は、マチュピチュ&ウユニの長いツアーから髪の毛ぼうぼうで帰ったボクに、「こうちゃん、これ」と、ヘアーバンドを頂いた。
 それはカラフルなインカの織物で作られていた。垂れ下がる前髪がいやで、すぐにそのヘアーバンドを着用した。
 すると思わぬ反応が、「こんぺいさん(ボクのニックネーム)、それよく似合う」と行き交う人、みんなが絶賛してくれる。
 えっ、と自分まで驚く。そして下船までずっと愛用していた。

 プレゼントしてくれた方は兵庫から1人で乗船の、瀧恵子さんだ。

 彼女は、ボクと同室の元船長の木村さんと親しかった。木村さんは乗船前に心臓手術をしていて、病み上がりだった。
 寄港地でのツアーは『歩行すくなめコース』を選び、最初の上陸地、中国・アモイで瀧さんと一緒になる。彼女の身体が不自由なので手助けをしてあげた。そして毎回のツアーは『歩行すくなめコース』で、すっかり彼は頼りにされるようになったらしい。 

 木村さんから聞いた。彼女は筋肉が弱っていく難病だという。そこで彼女は思い切って以前に参加したピースボートに、人生最後の旅にと、乗ってきたというのだ。


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【寄稿・写真】これぞ地球。幻想美の極致の写真(中)=宮内幸男


 宙って、ひろいな。幻想の美に遊ぼう 

 きみも、あなたも、おいでよ
   
 待っているからさ



 
 大自然のなかで、開放感たっぷり

 ごく自然に、連帯感が生まれるよ

 人間って、本当はみんな仲良しなんだ



 水面から飛び立った瞬間、わたしは鳥人になれる

 こんな水鳥もいたわよね


 太陽は僕たちのもの。

 大きく取り込んで、明日に生きよう


 躍動。みんなで、跳ぼう、羽ばたこう、そして翔んでいこう

 1、2、3、さあジャンプ

 いや、着地でした

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斜里岳はスリル満点で北海道随一の景観だ=関本誠一

 2014年、北海道山行、帯広でレンタカーを借りて『トムラウシ~雌阿寒岳~羅臼岳』をまわり、最終目的地・斜里岳の麓に到着した。

 阿寒と知床連山の中間にそびえる斜里岳は知名度低く目立たないが独立峰なので、近づくにつれ徐々に大きくなるその姿に一種の感動を覚える。


 登山ルートはいくつかあるが、最もポピュラーなのが清里町からの「清岳荘(せいがくそう)」ルート。当日は土曜日だったせいか、早朝5時で駐車場はすでに満車だった。


 登山道は林道のつきあたりから始まり、沢沿いに10ヶ所以上徒渉を繰り返すうちに、やがて新道と旧道の分岐である下二股に到着した。登りは沢(旧道)を、下りは尾根(新道)を通るよう推奨されており、ためらわず旧道を行く。

 沢沿いに進むと最初に水蓮の滝が現れる。さらに登って行くと溶岩流の上を流れるナメ滝状の羽衣の滝、そして万丈の滝と続くが、鎖などがあり助かる。
 雨が降ったあとなどは足元をさらわれないよう特に注意したい。

 この先、滝は流れの幅を小さくし、階段状の岩場となる。

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【寄稿・エッセイ】 ボケに突入= 遠矢 慶子

 一月半ばと言うのに、今日は暖かい。
 門の横の大きな山茶花が、二か月も咲き続けている。毎朝竹ぼうきで散った花びらを掃除するのは面倒だが、濃緑の葉をバックに可憐な桃色が、冬の殺風景な庭に色を添えている。

「ピーンポーン」ベルが鳴った。
 玄関に出ると、宅配便の配達人が、白いA4サイズの平べったい包を差し出した。ハンコを押して受け取った。
 冷たい外の風が、開けたドアーから足元を吹き抜けた。

 品物を開くと、幾重にも紙や封筒に包まれた中から、やっと名刺サイズのクレジットカードが出て来た。(もう、カードの期限が切れたのか)と思った。
 財布に入れてある古いカードを入れ替えのために出そうとした。
(ない。ない)
 出した覚えはないのに、どこへ消えたのだろう。

 通帳類の入れてある引出を探すがない。玄関の鏡付のクローゼットの引出、思い当るところを探した。いつも財布の奥の定位置に、免許書や銀行のカードと一緒に入れてある。
(どこかに落として使われたら大変だ)
 すぐにカード会社に電話をした。今はどこでも、なんでもセキュリテイが厳しく、古いカードが見つからないことを告げると、誕生日、住所といろいろ身分を証明することを聞かれた。

「実は、レストランのジョナサンから、店で拾ったと言ってこちらに送って来ました」
 と説明があり、やっと事情が分かった。

 一週間前、絵のグループの集まりがあり、終わってから、近くのジョナサンで、八人でランチを食べた。いつものように一枚にまとめたレシートから、それぞれがレジで、自分の食べた金額を払った。その時、私はクレジットカードは使わなかったが、財布から滑り落ちたのだろうか。

 初めて気づいたが、クレジットカードには、名前、番号、有効期限以外、本人の住所も電話も記されていない。拾われても、本人に戻す方法もない。

「バカだな。気をつけなさい」
 と、散々夫に注意された。
 それでも翌日、お礼かたがたジョナサンにランチを食べに付き合ってくれた。

 その翌日、いつものように午後散歩に出た。私は、目的のない散歩は嫌いで、ついでに本屋やお店に寄って、見たり買ったりする。三十分も歩いてから、通りの洋服、雑貨の店「ポーレン」に立ち寄った。店の外の二つのワゴンに、本とCDのリサイクル品が、オール百円でたくさん並んでいた。

 ユーミンのCDを二枚買うことにした。店の中に入り、二百円を払おうとしてコートのポケットを探ると、定期入れがない。どこに落としたのだろう。
「すみません、千円札一枚入れてきたはずなのに、定期入れが見つからないのでまた来ます」
「どうぞ、お取り置きして置きます」
 四十代の小柄な可愛い親切なオーナーが言った。

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富山藩士の富士登山 = 上村信太郎

 江戸時代中期の享和3年(1803)、加賀・大聖寺藩主の命により、富士参詣をした家来である笠間亨が記した日記が残されている。『享和三年癸亥日録』という題名で一般には「笠間日記」の名で知られており、そのなかに富士登山の記録が含まれている。


  大聖寺藩は、現在の石川県加賀市にあった藩で、加賀百万石、前田利家の四男で加賀金沢藩主の利常が隠居に際して三男利治に分封。加賀藩の支藩(7万石)となったという経緯がある。また、大聖寺という地名は『日本百名山』の著者深田久弥の出身地でもある。

 笠間亨は明和5年(1768)に儒学者那古屋一学の次男として生まれ、16歳のときに笠間平馬の養子になる。元服後は小姓、近習、表御用人等を歴任した。享和元年から江戸詰。この間に富士代参を果たす。

 では、徳川家斉将軍(第11代)の頃の富士登山がどんなだったのか「笠間日記」を見てみよう。6月10日に藩主から富士山御代参を命じられる。同行者は藩士の大野文八。出発前に武州小仏の関所を通る通行手形を用意している。
 江戸出発は6月16日(旧暦)。内藤新宿、八王子を経て三日後、吉田村に着いて田辺次郎右衛門の宿に泊る。この人物は富士講の元祖食行身禄入定のときに最後まで付き添った御師田辺十郎右衛門の子孫という。


 20日、登山準備(300文で案内人を一人雇い、予備のワラジ・食料の餅など用意)をして出発。浅間神社裏口まで田辺次郎右衛門が見送る。中の茶屋を過ぎ、馬返しで馬を乗捨てる。道中、いくつも堂がありそこを通るようになっている。これは「銭ヲ貪ルタメナリ」と感想を記している。二合目で金剛杖を買う。夕立あり蓑を着用。五合目の茶屋で休む。右方に小御岳石尊大権現の鳥居がある。七合目に身禄の堂があった。

 八合目の石室に泊る。室は4軒、「八合目迄吉田領也、是ヨリ上ハ須走領也」と記す。
御師に借りた綿入れなど4枚着るがまだ寒い。宿賃3人分、飯、汁、粥、布団などで2朱。

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鍋焼きうどんは食べられず。紅葉も富士山も最高=市田淳子

 三連休の真ん中の11月23日(日・祝)は、晴天に恵まれました。
 気温も高め、次の日は天気が崩れるという予報のせいか、人、人、人。渋沢駅から時間稼ぎのため予約したタクシーに乗りましたが、登山客が多いため隣の駅(秦野)からの助っ人、アルバイトの運転手さんでした。

 道がわからず迷いに迷って予定より30分ほど遅れて二俣の手前に到着しました。あんなに人が多かったのに、登り始めるとそれほどではなかったのは、一般のコースとは逆回りをしたせいかもしれません。

 登山道で木々の隙間から、富士山が何度も綺麗に見えました。とても眺めのいいコースです。
 都内では紅葉の季節ですが、丹沢も山の下の方は絶好の紅葉の季節でした。赤、黄色、そして常緑樹の緑と青空がとても美しかったです。

 標高は大したことはないと思って登り始めましたが、山道はかなり急登で休ませてくれません。ですから、途中で見える富士山と紅葉はより感動が大きかったです。

 小丸に11時40分頃到着しましたが、小丸から鍋割山までが気分的に遠く感じ、鍋割山に到着したのは、12時半でした。山頂は人だらけ。座る場所もないくらいでした。

 それでも、楽しみにしていた鍋焼きうどんを食べようと、山小屋に入って聞いてみると、なんと! 2時間待ち!! そんなに待ってはいられないと、準備してきたパンやお菓子などの非常食で昼食を済ませ、下山することにしました。

 下山は少し早足で…前を歩くお二人の頭にはビールと鍋焼きうどんがチラついているのか、早い!途中でリンドウの花が咲いていたのですが…。そして、大倉のバス停から15時30分のバスに乗り、渋沢駅に20分ほどで到着し、反省会をしました。

 真っ先に鍋焼きうどんはないかと探しましたが、メニューにはなく、帰ってから(?)鍋焼きうどんを食べることにしました。鍋焼きうどん以外、お天気も紅葉も富士山も最高の山行でした。

                                    記録 : 市田淳子


『関連情報』

鍋割山(標高1,273m)

登山日 : 平成26年11月23日(日・祝)

参加メンバー : L石村、岩渕(美)、原田、市田

コース : 渋沢→二俣→小丸→鍋割山→後沢乗越→ミズヒ沢→二俣→大倉→渋沢


ハイキング・サークル「すにいかあ倶楽部」会報№183から転載

【寄稿・エッセイ】 あきらめの後押し = 吉田 年男

 駐車していたところに車がない。いつも見慣れていた愛車の姿が見当たらない。

 若いときからさんざん車を楽しんできたのだから。後期高齢者の仲間入りをしたのだから。などと考えた末、6回目の車検を前に廃車を決めた。
 処分を決めたことに未練はないはずだったが、空いている駐車場をみるとなんとなく車のことを思い出す。


 売却を決めた日は、正午に業者が車を引き取りに来ることになっていた。「お父さん、この車に乗るのは最後だから、その辺を一回りしてきたら」 と家内にいわれた。すぐにはその気になれずに、老犬レオ君と家の中をうろうろしていた。

「レオは車に乗るのが大好きだから、レオと一緒に哲学堂動物霊園にゆきましょうよ」
 中野区にある動物霊園は、以前飼っていたネコのお墓があるところだ。自分には、到底思いつかないこの誘いにその気になった。

 レオを車の座席に乗せると、いつも寝てばかりいるのに、嬉しいのか立ち上がって窓から首を出そうとしている。シートを汚さないように、バスタオルを後部座席いっぱいに敷いた。

 毎6か月おきの安全点検を受けてきたので、始動するエンジンも調子がいい。家を出るとき、午前十一時を少し回っていた。
 ハンドルさばきも軽やかに中野サンプラザの前を通り、大久保通りの交差点を渡った。ここから哲学堂霊園まで十分くらいだ。


 西武新宿線の踏切まで来た。踏切がなかなか開かない。通勤時間帯は過ぎているのにどうしたのだろう? しばらく待たされているうちに、都内でも有数の開かずの踏切であったことを思い出した。いらいらしてきた。
 やっとのおもいで踏切を通過したが、霊園まで三十分以上かかってしまった。

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大惨事の1か月前だった、御嶽山(3067m)に登頂したのは=武部実 

 平成26(2014)年8月18日(月)に、新宿から高速バス(8時10分発)で、木曽福島に向けて出発した。渋滞も無く順調に、と思っていたら、なんと30分遅れ。
 木曽福島の美味しいお蕎麦屋さんであわただしくそばをかき込むはめになった。赤沢自然休養林で森林浴を楽しみ明日からの登山に備える。(木曽福島泊)


 翌19日、今回は黒沢口の登山コースなので、木曽福島からバス(8:40発)で御嶽ロープウェイの山麓駅までいく(約1時間)。
 
 山頂駅の7合目(2150m)に10時00分に着。雨が降っているので、レインウェアを着込んだりと身支度を整えて10時25分に出発した。

 樹林帯のコースだが、雨をさえぎるような大木もなく、ひたすら登り続ける。11時40分には女人堂8合目(2470m)着。ここで昼食タイムとなった。コーヒーやお汁粉を注文して休憩する。 

 12時15分に出発。雨もやんできたので、雨具を脱ぐ。いたるところにある石碑(霊神場)では、先達に先導された講の人達が祈祷する姿を見かける。
 信仰の山だなと改めて思い知らされた。


 14時20分には九合目(2800m)着。中野さんの足取が重く、顔色も悪いようだ。覚明堂という登山指導所と避難小屋をかねているところで休ませてもらう。

 お茶を入れてもらい、血中の酸素濃度を測ったら、中野さんは、79%と低い値。典型的な高山病の症状だ。
 酸素吸入(1000円)をしてもらったら、顔に赤みがさして楽になったようだ。
 ちなみに全員測ってもらう。一人が82%のほかは、ほぼ90%台。ところが私は99%という高い値、管理人にほめられた。

 今夜の宿泊場所である二の池新館小屋まではすぐ近くなので、とりあえず小屋に向けて出発する。15時25分に到着した。夕飯まで間があるので、5人で頂上まで約1時間のピストンをする。


 20日は朝4:30に起床する。この時間から空が赤みを増して、好い天気の予感。5時過ぎには木曽駒の北側にある経ヶ岳(2296m)付近から、ご来光を拝むことができた。

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【寄稿・写真】これぞ地球。幻想美の極致の写真(上)=宮内幸男

  写真家・宮内幸男物語(プロフィル)

 昭和20年、愛媛県勝山市に生まれる(69才) 30歳から独学で写真を始める。33歳で地元渡部章正氏を師として迎える。

 42歳愛媛県美術会会員推挙

 50歳愛媛県美術会役員
  以後常任評議員、隔年審査 、審査委員長

 59歳から病魔と戦う。

 62歳では、脳梗塞 右側完全マヒとなり、写真活動に支障をきたす。
「生きる目的を持たないと戦えない、絶対に妥協はしない」


 その気持で、病気と向かい合ってきた。毛筆による独学リハビリが成功した。


 半年でほぼ回復してから、写真活動を精力的に展開する。

 タイの山岳人族の電気の無い村にも、カナダのイエローナイフにも、一人で行った。
 それらの現地で語学は、日本語で笑顔のみ、「笑顔は世界 の共通語」を実践する。


 68歳から、写真活動のほかに、民生委員、児童委員 厚生省委嘱などで活動する。


撮影地はどこでしょうか。地球の南半球です

ジャーナリスト
小説家
カメラマン
登山家
わたしの歴史観 世界観、オピニオン(短評 道すじ、人生観)
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