寄稿・みんなの作品

鍋焼きうどんは食べられず。紅葉も富士山も最高=市田淳子

 三連休の真ん中の11月23日(日・祝)は、晴天に恵まれました。
 気温も高め、次の日は天気が崩れるという予報のせいか、人、人、人。渋沢駅から時間稼ぎのため予約したタクシーに乗りましたが、登山客が多いため隣の駅(秦野)からの助っ人、アルバイトの運転手さんでした。

 道がわからず迷いに迷って予定より30分ほど遅れて二俣の手前に到着しました。あんなに人が多かったのに、登り始めるとそれほどではなかったのは、一般のコースとは逆回りをしたせいかもしれません。

 登山道で木々の隙間から、富士山が何度も綺麗に見えました。とても眺めのいいコースです。
 都内では紅葉の季節ですが、丹沢も山の下の方は絶好の紅葉の季節でした。赤、黄色、そして常緑樹の緑と青空がとても美しかったです。

 標高は大したことはないと思って登り始めましたが、山道はかなり急登で休ませてくれません。ですから、途中で見える富士山と紅葉はより感動が大きかったです。

 小丸に11時40分頃到着しましたが、小丸から鍋割山までが気分的に遠く感じ、鍋割山に到着したのは、12時半でした。山頂は人だらけ。座る場所もないくらいでした。

 それでも、楽しみにしていた鍋焼きうどんを食べようと、山小屋に入って聞いてみると、なんと! 2時間待ち!! そんなに待ってはいられないと、準備してきたパンやお菓子などの非常食で昼食を済ませ、下山することにしました。

 下山は少し早足で…前を歩くお二人の頭にはビールと鍋焼きうどんがチラついているのか、早い!途中でリンドウの花が咲いていたのですが…。そして、大倉のバス停から15時30分のバスに乗り、渋沢駅に20分ほどで到着し、反省会をしました。

 真っ先に鍋焼きうどんはないかと探しましたが、メニューにはなく、帰ってから(?)鍋焼きうどんを食べることにしました。鍋焼きうどん以外、お天気も紅葉も富士山も最高の山行でした。

                                    記録 : 市田淳子


『関連情報』

鍋割山(標高1,273m)

登山日 : 平成26年11月23日(日・祝)

参加メンバー : L石村、岩渕(美)、原田、市田

コース : 渋沢→二俣→小丸→鍋割山→後沢乗越→ミズヒ沢→二俣→大倉→渋沢


ハイキング・サークル「すにいかあ倶楽部」会報№183から転載

【寄稿・エッセイ】 あきらめの後押し = 吉田 年男

 駐車していたところに車がない。いつも見慣れていた愛車の姿が見当たらない。

 若いときからさんざん車を楽しんできたのだから。後期高齢者の仲間入りをしたのだから。などと考えた末、6回目の車検を前に廃車を決めた。
 処分を決めたことに未練はないはずだったが、空いている駐車場をみるとなんとなく車のことを思い出す。


 売却を決めた日は、正午に業者が車を引き取りに来ることになっていた。「お父さん、この車に乗るのは最後だから、その辺を一回りしてきたら」 と家内にいわれた。すぐにはその気になれずに、老犬レオ君と家の中をうろうろしていた。

「レオは車に乗るのが大好きだから、レオと一緒に哲学堂動物霊園にゆきましょうよ」
 中野区にある動物霊園は、以前飼っていたネコのお墓があるところだ。自分には、到底思いつかないこの誘いにその気になった。

 レオを車の座席に乗せると、いつも寝てばかりいるのに、嬉しいのか立ち上がって窓から首を出そうとしている。シートを汚さないように、バスタオルを後部座席いっぱいに敷いた。

 毎6か月おきの安全点検を受けてきたので、始動するエンジンも調子がいい。家を出るとき、午前十一時を少し回っていた。
 ハンドルさばきも軽やかに中野サンプラザの前を通り、大久保通りの交差点を渡った。ここから哲学堂霊園まで十分くらいだ。


 西武新宿線の踏切まで来た。踏切がなかなか開かない。通勤時間帯は過ぎているのにどうしたのだろう? しばらく待たされているうちに、都内でも有数の開かずの踏切であったことを思い出した。いらいらしてきた。
 やっとのおもいで踏切を通過したが、霊園まで三十分以上かかってしまった。

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大惨事の1か月前だった、御嶽山(3067m)に登頂したのは=武部実 

 平成26(2014)年8月18日(月)に、新宿から高速バス(8時10分発)で、木曽福島に向けて出発した。渋滞も無く順調に、と思っていたら、なんと30分遅れ。
 木曽福島の美味しいお蕎麦屋さんであわただしくそばをかき込むはめになった。赤沢自然休養林で森林浴を楽しみ明日からの登山に備える。(木曽福島泊)


 翌19日、今回は黒沢口の登山コースなので、木曽福島からバス(8:40発)で御嶽ロープウェイの山麓駅までいく(約1時間)。
 
 山頂駅の7合目(2150m)に10時00分に着。雨が降っているので、レインウェアを着込んだりと身支度を整えて10時25分に出発した。

 樹林帯のコースだが、雨をさえぎるような大木もなく、ひたすら登り続ける。11時40分には女人堂8合目(2470m)着。ここで昼食タイムとなった。コーヒーやお汁粉を注文して休憩する。 

 12時15分に出発。雨もやんできたので、雨具を脱ぐ。いたるところにある石碑(霊神場)では、先達に先導された講の人達が祈祷する姿を見かける。
 信仰の山だなと改めて思い知らされた。


 14時20分には九合目(2800m)着。中野さんの足取が重く、顔色も悪いようだ。覚明堂という登山指導所と避難小屋をかねているところで休ませてもらう。

 お茶を入れてもらい、血中の酸素濃度を測ったら、中野さんは、79%と低い値。典型的な高山病の症状だ。
 酸素吸入(1000円)をしてもらったら、顔に赤みがさして楽になったようだ。
 ちなみに全員測ってもらう。一人が82%のほかは、ほぼ90%台。ところが私は99%という高い値、管理人にほめられた。

 今夜の宿泊場所である二の池新館小屋まではすぐ近くなので、とりあえず小屋に向けて出発する。15時25分に到着した。夕飯まで間があるので、5人で頂上まで約1時間のピストンをする。


 20日は朝4:30に起床する。この時間から空が赤みを増して、好い天気の予感。5時過ぎには木曽駒の北側にある経ヶ岳(2296m)付近から、ご来光を拝むことができた。

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【寄稿・写真】これぞ地球。幻想美の極致の写真(上)=宮内幸男

  写真家・宮内幸男物語(プロフィル)

 昭和20年、愛媛県勝山市に生まれる(69才) 30歳から独学で写真を始める。33歳で地元渡部章正氏を師として迎える。

 42歳愛媛県美術会会員推挙

 50歳愛媛県美術会役員
  以後常任評議員、隔年審査 、審査委員長

 59歳から病魔と戦う。

 62歳では、脳梗塞 右側完全マヒとなり、写真活動に支障をきたす。
「生きる目的を持たないと戦えない、絶対に妥協はしない」


 その気持で、病気と向かい合ってきた。毛筆による独学リハビリが成功した。


 半年でほぼ回復してから、写真活動を精力的に展開する。

 タイの山岳人族の電気の無い村にも、カナダのイエローナイフにも、一人で行った。
 それらの現地で語学は、日本語で笑顔のみ、「笑顔は世界 の共通語」を実践する。


 68歳から、写真活動のほかに、民生委員、児童委員 厚生省委嘱などで活動する。


撮影地はどこでしょうか。地球の南半球です

【寄稿・朗読劇】紫蘭会の『40年の軌跡』(下)=佐藤京子・井上豊子


異常気象でモンゴルでは乾期にも関わらず大雨、ゲルの雨漏り、泥の中で乗馬トレッキングを体験。


それらを打ち消すように草原のピンク色の月、満天の星空、夢幻の世界を体験して大満足。


 秘境タオの“ちょっと冒険” 禁じられた遊び“。ちょっと冒険のつもりが・・・・大変ないい経験をしました。

 計画の段階で、現地で判断するしかないと思っていた問題の滝。大きい岩の間に、中程度の岩があり、急斜面を水が勢いよく流れている。

 濡れた岩は滑りやすい、しかも岩と岩の間隔は歩幅どうりとはいかない。ポンと跳ね上げるか、飛び降りるしかないのだ。現地ガイドの亀井さんが引っ張りあげ、太田さんがお尻を支えるという連携で登って行った。



 楽しかった、美味しかった、生きていて良かった。


 香港「馬鞍山(マーオン)」ハイキング、マカオ・コロアン地区石面盆古道ハイキング。


 ハイキング、グルメ、 満喫の旅


 紫蘭会の元気の秘訣は「食」にあり、を実感。



 日本から1番近い韓国、済州島へ。桜満開の済州島、ソメイヨシノ、「ハルラ山」。慶州南山トレッキングは岩のぼりもあり、ちょっと冒険だった。


 韓国ののりまきキンパッ、アワビがゆ、マッコリの美味しいこと!!花いっぱいの旅。さくら、レンギョウ、モクレン、こぶし、菜の花に囲まれての春の旅。花ありすぎ。


 標高3,000~3,500mのトレッキング。高山病の薬と酸素ボンベを用意。標高3,500mの九寨溝、黄龍空港では体が重く感じた。


 チベット仏教のダルシンがひらめく風景は印象的、毛沢東の銅像も健在、瞬時に顔のお面が変わる変面のお芝居を見ることが出来ラッキー。九寨溝は中国人の大観光地で、休日に重なっていたようで、溢れ出る観光客の多さにはびっくり。人の波が川の流れのようだった。いやその騒がしいことにびっくり。


 峨眉山の山頂の巨大な観音様にもびっくり。あんな山の上に作れるとは・・・。
楽山大仏もすごい。


 峨眉山に居た時に高速列車事故のニュースを見る。その対応に びっくり。


 お金がないと山に登れない? そう多少のお金がないと、交通費も食費も出ない。

 まして海外のトレッキングとなると、渡航費稼ぎは? そうへそくりです。



 紫蘭会の実技山行といえば、夜の「魔の芸能大会」がありました。この「魔の芸能大会の仕掛け人・小倉先生です。


  平成27年 紫蘭会は40周年を迎えました。ご一緒に「紫蘭会40年の軌跡」ふりかえってみましたが、いかがでしたでしょうか?
 

 写真 : 佐藤京子 (会員)

 脚本 : 井上豊子 (会員)

【寄稿・朗読劇】紫蘭会の『40年の軌跡』(上)=佐藤京子・井上豊子

 ポルトガルの南西方1000㎞の花の島と呼ばれるマディラ島はヨーロッパのリゾート地として有名。おとぎ話に出てくるような、かわいい民家を訪問し歓待を受けた。


 スリル満点のドボガンランも体験した。


 サン=マルチン、デュ・カニーグ修道院で、美しい歌声に魅せられた。


 フランス山岳会の山小屋に泊まったり、ガバルニーの壮大な円形劇場や滝を見た。


 小倉先生役が登場。

 若い頃のお面をかぶり、当時のニッカポッカを穿いて登場。



 タスマニア島はオーストラリアメルボルンの南方海上に位置している。

 ブルーマウンテンズにあるスリーシスターズの前でパチリ。

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【寄稿・写真エッセイ】 海の幸 = 三ツ橋よしみ

 年末に、近所のスーパーマーケットで「身欠きにしん」をみかけた。おせち料理の昆布巻きに使われるのだ。関西方面では甘く煮て食べることも多いと聞く。
 こどものころに「身欠きにしん」を食べたが、とくにおいしいと感じた記憶はない。他の魚とはちがう食感だなとおもったぐらいだ。

 平成のグルメ時代の若者は、たぶんもうほとんど食べないのではないだろうか。そうかそれならば、日本の伝統食なのだから、身欠きにしんが絶滅する前に、わたしが生きている間くらいは、しっかり食べておこうと思った。

 十分に干した身欠きにしんの調理は、たいそう時間がかかる。
柔らかく戻すのに、米のとぎ汁につけて2日か3日。水で柔らかくなったものを、番茶で煮ること2,3時間。 これまでがしたごしらえだ。

 柔らかくなった身欠きにしんを、水で戻した昆布にぐるぐる巻いて、甘辛く煮ること一時間あまり。こうして、やっと昆布巻きが出来上がる。


 左:ニシンづけ  右:昆布巻き

 やれやれなんでこんなに時間がかかるのだろう。それにこんなに時間をかけてまで食べたい代物でもないよなあと、おもう。ほかにもっとおいしいものはいっぱいあるしね。
 でも、かつての日本人はそうは思わなかったようだ。手間をかけ、時間をかけ、いつくしむようにして、干したニシンを食べた。

 北海道の日本海沿岸では、江戸時代からニシンがたくさんとれていた。
 ニシンはあぶらが多いのでゆっくり乾燥させないと腐ってしまう。ニシンの頭と内臓をとり、冷たい空気にさらし、しっかり干して「身欠きにしん」にした。

 北前船で内地に運ばれ、保存に便利なタンパク源として各地に流通した。
 京都の名物料理に、身欠きにしんの、煮ものがある。海のない京都の人々にとって、遠い北の海からきた身欠きにしんは、たいへんなごちそうだった。見たことも、行ったこともない北の蝦夷地からはるばると運ばれてきた身欠きにしんである。
 京都の人は、大事に、大切に海の幸を食したのだ。

 蕎麦屋のメニューに「ニシンそば」がある。
 以前は、東京の蕎麦屋にはなかったと思う。わたしは、高校の修学旅行の京都で、食べたことがあるくらいだ。近年、食も多様化し、東京でもニシンそばが食べられるようになった。

 目黒駅まえのお蕎麦屋さんに立ち寄ってみた。ショーウィンドーの「カモ南蛮そば」の隣に、「ニシンそば」が並んでいた。
 半身の身欠きにしんが、どんと載っている。(写真上)手間とヒマがかかっているのよねえと、思いながら頂いた。

 北海道のニシン漁の全盛期は、1887年から1927年の40年間だった。
 今では、北海道でニシンは少ししかとれない。群れはノルウェイーやアメリカ大陸に移ってしまったのだ。
 正月も半ばを過ぎ、テレビでは大相撲の春場所がはじまっていた。
 おせちの残りものの、昆布巻きを食べながら相撲を観戦した。中の身欠きにしんをぎゅっとかみしめた。アメリカ製の身欠きにしんだ。茶色く甘く煮えていた。

 そうか、身欠きにしん、あなたって、日本の大相撲を支えているモンゴル人の横綱とおんなじだったのね、とおもった。

【寄稿・エッセイ】 やり直しは出来るかな = 中村 誠 

 体調が良ければ酒は学生時代から日本酒、洋酒、なんでも良かった。もちろんお相手しだいだ。不思議に二日酔いになったことはほとんど無かった。

 社会人になり、好みはまず日本酒が第一番にくる、次がウイスキー、ブランディーの順で、ワインを味わい楽しむ洒落た機会などはぜんぜん無かった。ビールはお腹ばかり膨れるし、ほとんど乾杯時にのどを潤す程度だった。アルコール類の種類が広がり始めたのは30歳に入る年の海外駐在からだ。

 アメリカ駐在の6年は、気候風土が変わったから嗜好も変化した。カナダウィスキー、バーボン、時にはマテイーニを味わった。
 輸入の日本酒は本来の美味さが乏しく敬遠した。また、次の駐在四年のドイツでは、白ワインを中心に、また生ビールとアルコール度数40度の高いシュナップス(ジャガイモから作られる蒸留酒)でドイツ人と付き合った。
 北欧出張では地場のハードリカーを好み、取引先との懇親には役立った。どこの国でも自国の酒を好む客人は歓迎される。不思議と肝臓機能には何の問題も起こらなかった。

 40年の会社生活を終え、自由人になって早くも15年が過ぎた。アルコール類の好みは〝郷に入れば、郷に従え〟の通りで、友人との懇親では日本酒、特に冷酒に戻り、時には地方の芋焼酎、あるいは麦焼酎も愛飲した。家ではワイン中心で家内に付き合った。

 数年前の人間ドックで肺気腫と診断され、大きなショックだった。現医学では肺気腫の完治は望めず、薬の服用が悪化の進行を出来る限り遅らせる唯一の方法と知った。原因は半世紀にわたる悪習慣の喫煙だと猛反省している。

 現在、外出時には携帯酸素ボンベ(6時間限度)の使用は不可欠で、日常生活の行動パターンは制限され、変えざるを得なかった。

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【寄稿・エッセイ】 意地悪 = 筒井 隆一

 私の持って生まれた性格なのか、私たちの育った時代や環境がそうさせたのか、いじめにあったという思い出はない。

 小中学時代には、いろいろないたずらをした。教室に出入りする引き戸に黒板拭きを挟んで、入ってくる教師の頭に落としたり、死んだトカゲを出席簿に挟んで、それを開いた若い女性教師を失神させたり……。他愛のない悪戯はずいぶんやった。しかし、たちの悪いいじめや意地悪は、したこともされたことも、記憶にないのだ。

 文部科学省から、いじめの定義が示され、現場の教師にこれを防ぐ通達、指導が出されるなど、私たちにとって、考えられない時代となったものだ。
 その私が、何と70歳を過ぎて、いじめを体験することになった。私にとっては陰湿ないじめだが、世間から見れば、ただの意地悪かも知れないが……。

「この生姜を、みじん切りにしておきましょうか」
「……」
「火加減はもう少し強い方がいいですね」
「……」
 一卓4人、8卓で32人が、『野菜料理の会』で月に一度、料理教室に通う。その教室でのやりとりだ。
何を聞いても返事がない。対話にならない。

 この教室は、1年間を前期、後期に分けている。5月~10月、11~4月の二期、1年間12回でひと通り学ぶ仕組みだ。
 私を除く三人の女性は、前期の半年間、既にこのクラスで過ごしている。私はその三人のグループに組み入れられ、後期からスタートした。

 前期から一緒にやっていた三人が、組んでいじめに掛かってきたのだろう。申し合わせたように無言を極め込んでいる。三人組を仕切るのは、アラフォー、見るからにボスという感じである。

 考えてみれば、初めて出会った、育ちも環境も違う、見ず知らずの四人の生徒だ。お互い気を遣いながら一つの料理テーブルを囲んで、仲良く楽しくやること自体が難しい。

『お肉料理』『お米料理』『おもてなし料理』など、コースが変わり、都度メンバーが変わっても、今まで十数年、何ごともなくやってこられた方が、不思議なのかも知れない。まして変なおじさんが一人入ってくると、意地悪してみたくなるのも、分かるような気がする。

 初回に、顔を合わせて挨拶した時はまともだった。ただ、「おじさんどこまでやれるの?」という、上から目線を感じた。

 料理をつくり始めると、こちらが手早く包丁を捌いたり、タイミング良く出汁をとったり、手際良く作業を進めていくのを見てびっくりし、ひとついじめてやれ、ということになったのだろう。

 相手の作戦は、一言も口をきかず、こちらを全く無視することのようだ。
 決められた約2時間の間に、3品を仕上げなければならない。四人で打合せし、役割分担、手順を決めて作業にかかるのだが、ボスは私だけには一言も口をきかず、他の二人に指示し、三人でどんどん作業を進めていく。こちらの問いにも、一切ノーコメントだ。

 一言いって何か返ってくるならよいが、何もない。議論を吹っ掛けるわけでもない。無言の意地悪だ。私の戸惑っている反応を楽しんでいる。

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【寄稿・エッセイ】 新生ボロ辞書 = 吉田 年男

 背表紙が取れてしまった。何とかしなくてはと思いながら、今も酷使している。昭和三十年に発行された、鈴木香雨先生の初版「五体字彙」だ。
 永く使っているので愛着がある。背表紙が取れた時に、これに代わる辞書はないかと、何軒かの書店を探しまわった。

 神田の古書店街を歩いていたとき、同じ先生の「新選 五體字艦」という辞書が目にとまった。目次、索引などの形態が、「五体字彙」とそっくりであった。
(これはいけるぞ)
 希望に胸を躍らせながら、ページをめくった。肝心の書体をみると、
(あれ! 雰囲気が違う)
 「五体字彙」をコンピュータグラフィックで写し取ったものか? それとも別の書き手が書き写したのか? 字形は似ているが、毛筆特有の線のキレ、線質、脈絡、動きなどが違ってみえる。

 この時、初版本と同じものを手に入れるのは不可能か? と悟った。

 手元にある「五体字彙」をみると、ページがとれはじめている。取れてしまったページの角が少しずつまるまってきている。これ以上酷使していると、五体書の部分も擦り切れて見えなくなってしまう。

 ボロ辞書であるが、私にとって愛着があるだけでなく、今ではなくてならない大切な辞書になっている。修復できるものなら直して使いたい。修理してもらえそうな製本所を、ネットで必死に探した。
「背表紙が取れてしまった辞書ですが、修理していただけませんか?」
 小林製本というホームページをみつけて、懇願のおもいをこめて電話をかけた。

 電話に出た女性が、小林という男性に取り次いでくれた。
「私どもでは、修理はやっていないので、知り合いの製本所を探してみましょう」
 と温かく対応してくれた。

 数日後、論文などを専門にしている早稲田鶴巻町の製本所を紹介してもらえた。大切にしている辞書のことを、電話での短い会話の中で、理解してもらえたことがことのほかうれしかった。

 背表紙が付いていた部分のカサカサになった糊、製本用の白い糸がむき出しの無残な姿になった辞書を、ページに抜けないかなど、念を入れて点検をした。
 バラバラにならないように揃えて表紙の上から太めの輪ゴムでしっかりと押さえた。新しい茶封筒に辞書を入れて、紹介してもらった製本所へ逸る気持ちを抑えながら出かけた。
 
 製本所は、早稲田通り鶴巻町西交差点の近くにあった。この辺りは同じような製本所が沢山ある。間違えないように看板を確認して紹介された製本所へ入った。室内は暖かかった。
 暮れも押しせまっていたせいか、四~五人の作業着を着た人たちがせわしなく動き回っていた。

 社長に挨拶をして、持参した辞書を見せた。
「小林さんから話は聞いています。お持ちになった辞書を作業台の上に置いてください」
 穏やかで温かみのある声であった。
 辞書を出がけに用意した新しい茶封筒から丁寧に取り出して、少しでも印象がよくなるように、辞書の向きを考えながら作業台の上に慎重に置いた。

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