寄稿・みんなの作品

【新曲発表】 紫蘭会の『山の歌』(四十年の軌跡)

 紫蘭会の設立40年を記念して、平成26(2014)年8月に創作されました。そして、翌27年1月21日に、「紫蘭会40周年記念イベント」で、初披露されました。


                          作詞 小倉董子  (写真)


                          作曲 久新大四郎
                      
                        
『山の歌』、紫蘭会のコーラスがYou Tubeで聴けます。こちらをクリック                        


楽譜をダウンロード(印刷してお使いください)

歌詞をダウンロード(印刷してお使いください)

 

紫蘭会の『山の歌』  (四十年の軌跡)


    憶えていますか  出会った日のこと
    幸い棲むという  あの山に登りたい
    可憐に咲く高嶺の花たちに  出会いたい
    みんなの瞳が   キラキラとまぶしかった


    憶えていますか  山との出会いを
    雨と風に見舞われて  彷徨った不安を
    試練の先には   喜びがきっとある
    枯れ枝にきらめく 満天の星たちよ


    憶えていますか  歩けそう地球の果てまで
    ピレネーで     あなたがつぶやいた
    今度はどの山に  行こうかみんなで
    仲間と自然と    ちょっと冒険 (※リピート )
   ※喜びを分かち合い  支え合えば叶えられる
    絆は強く      笑顔がはじける

    

【寄稿・エッセイ】 腕試し=筒井 隆一

 2週間ぶりに銀座に出たので、ヤマハ銀座店四階の管楽器売り場に、立ち寄ったときのことだ。
カウンターで、『フルートワンポイントレッスン』と印刷されたチラシを見つけた。
「受講の枠に、まだ余裕がありますか?」
「はい、2月15日(日)の経験者向け最後の時間に、2名だけ空きがあります」
 レッスンは一時間刻みに組まれており、講師は武蔵野音大を出た30代の女性だ。初心者と経験者が交互に受講し、日々の演奏の悩みにワンポイントのアドバイスをする、とチラシには書いてあった。3人1組でレッスンを受け、料金は一人1000円と割安なので、あと先を考えず、申込んでみた。


 40数年前にフルートを吹き始めて以来、今も同じ先生から月に一度、個人レッスンを受けている。仕事の忙しい時期に、半年~1年の中断は何回かあったものの、私の習いごとの中では一番長く続いている。師匠にとっても、私が最古参の弟子になってしまった。

 著名な演奏家として高い評価を受け、指導者としても豊富な実績があり、心から尊敬、信頼できるレッスンをしていただける。

「そのような素晴らしい指導者についていながら、何を今さら他でレッスンを受けるの?」
と言われそうだ。私の持って生まれた、浮気こころ、悪戯こころが、頭をもたげたのだろう。

 長年習い続けている師匠と違って、この講師がどのような指導をするのか、知りたい。「武者修行」、「腕試し」という気分だ。他の指導者の教え方、考え方を知り、我が師匠の素晴らしさを、あらためて確認できればよいのだ、と勝手な理由をつけて、当日ヤマハのスタジオに乗り込んだ。


 定刻、楽器売り場横手の小スタジオに、受講生3人が集まった。半年ほど前から、月2回個人レッスンを受けているという40代の女性と、トランペットのケースを抱え、他の管楽器にも興味があるという30代の男性だ。

 その場限りのこととはいえ、彼らはどれだけの経験と、力量があるのか分からない。最初は少々緊張したが、3人で順に音出しし、簡単な旋律を吹いたのを聴いて、私の方が少しばかり年季が入っているな、と思い一安心した。

「筒井さんが、今困っていらっしゃることは何ですか?」
「やはり70代半ばになると腹筋が衰え、肺活量もめっきり減ります。今までのように息が続きません。音量が落ちるのを承知で吐き出す息を減らし、吹き続けるのでしょうか。それとも目立たぬよう、頻繁に息継ぎをするのですか」
「筒井さんの音色には輝きがあるし、音量も豊かなので、今のままで心配することはないと思います。遠慮なく、息継ぎの回数を増やせばいいんですよ」
 私に対してのワンポイントレッスンだ。言ってほしかったことを、そのまま指導され、今の私に対する、的確なアドバイスだと感じた。他の2人も、唇への楽器の当て方、指使いの間違いを、指摘されていた。

 このような単発的なレッスンに参加するのは、昔少し吹いていたことがあり、時間ができたので、また始めてみたい、という人が多いようだ。
 何か新たに始めてみたい、再開したい、と思いながら、そのチャンスに恵まれない人は、結構いる筈だ。その人たちにとって、このワンポイントレッスンは、新たなもの、もう一度やってみたいものと取り組む、腕試しの、とてもよいきっかけになると思う。

 また、指導者は、一言ほめて本人のやる気を引きだそうとしている。それが、本人にとっては再挑戦する動機付けとなり、レッスン教室の発展、拡大にもつながる、と感じた。

 常日頃、私が師匠から指導されているような、長所を伸ばし、短所を改善する、きめ細かくゆとりのある指導は、時間的制約もあり、ワンポイントのレッスンではとても無理だろう。しかし、何を習うにもよいきっかけと、的確な指導者にめぐり合うのが一番大切なのだ、とあらためて分かった。

 私にとって、尊敬する師匠に習い続けられるのは、本当に幸せだ。これからも師匠の下でレッスンを続け、今まで指導されたことを、まとめあげる時期だと再確認した、この日のワンポイントレッスンだった。

                                     【了】

【寄稿・エッセイ】 男のひなまつり = 和田 譲次

 娘が結婚して家を出てから15年余になるが、女の子がいないのに我が家では、なぜか3月3日の前後2週間ほどお雛さまが和室の一角を占めて飾られる。

 初節句の時、祖母が大奮発して七段飾りの豪華な雛飾りを送ってきた。ありがたいが、まだ家を増築前なのでどこに飾り、どのように収納するか夫婦二人は頭を悩ませた。
 雛飾りは、必要がないので、娘に持たせたかったが狭い家では飾りようがないという。そのうち女の子が生まれたら欲しがると思っていたら、男の子二人で子づくりを止めた。いまだに、お雛様は我が家の押し入れの中で眠っている。

 いちまる10年ほど前から、雛祭りの前に娘がお雛様を飾りに来るようになった。
 彼女は自分に贈られたものを観てみたいという気持ちと、外気に触れさせた方がお雛さまも永持ちすると考えたのだろう。
 孫が母親の飾り付け作業を面白がって手伝うようなった。上の子が小学校に入るころ雛まつりは女の子のお祝いと気がつき、
「なんで俺たち男の子のお祝いはないのだよ」
 と、ふてくされた。

 今は端午の節句という呼び名も死語になりつつある。柏餅を食べるのが昔の風習の数少ない名残だろう。ひな壇の前で家内が
「3日にお雛様の食事を作りましょう、男の子もいるでしょう」
 と人形を指さしながら慰めた。

 それ以降雛まつりのお祝いを男の子用ににぎやかに行うようになった、食卓には、チラシ寿司、ハマグリの吸い物、菜の花の和え物など、伝統的な料理が並ぶようになり,色彩が鮮やかで孫たちも喜んで食べるようになった。

「おばあちゃん、お寿司にエビ、いくら、アナゴをいっぱいいれてね」と、数日前ひな壇の準備をしている家内に下の孫が頼んでいた。
 この子は、かたづけるときに、飾ってあった雛あられをもらうのを楽しみにしている。


 ご近所の皆さん方に、和田家にはお雛さまが飾ってあるということが少しずつ知れ渡り、友人知人を連れて観に来る人が増えてきた。
 なかには外国の方もいて、ホテルやお店で観られるのに、わざわざ不便なところまで来るのかなと疑問に感じたこともある。普通の民家で生活に根づいた形で飾られているのが、今の時代としてはめずらしいようだ。

 ふすま,しょうじ、床の間、鴨居などがある和室に置いてあるので、子供たち、とくにマンション住まいの子は異国に来たような印象を持つらしく、お雛様を観る前に部屋を隅々まで珍しげに見て回わる。この家ができて
 45年になるが、われわれ夫婦と同じように老化が進み過去の遺物になりつつある。
 ひな壇のぼんぼりに明かりを点けて静かに眺めると、日本の伝統文化の素晴らしさが感じとれる。次の世代にもこの良さを引き継がせたい。
 人形の着物、手に持つ楽器などの小物まで見事な細工が施されている。

 家は近い将来スクラップされるが、この人形たちをどうするか、娘は勝手に嫁入り先を見つけてきたが、お雛様の嫁ぎ先も考えておこう。
 

【寄稿・エッセイ】 お雛様がいっぱい = 三ツ橋よしみ


  稲取文化会園内の「雛の館」に飾られた、15段飾りのお雛様です。雛段の左右につりさげられているのが、名物の「つるし飾り」です。


 2月のなかば、伊豆の稲取温泉に行きました。「雛のつるし飾りまつり」の開催中でした。雛段の左右には、ふくろう、猿、ほおづき、羽子板、はまぐり、お手玉といった、縁起ものやおもちゃを、ちりめんの布でつくり、紐でつりさげます。

 稲取では、江戸の終わりごろから代々、お雛様の周辺飾りとして受け継がれてきたのです。
 雛の和裁細工のさげ物は、九州柳川地区、山形酒田地区、そして伊豆稲取地区に伝えられ、日本三大つるし飾りと言われているとのこと。

 かわいらしいお雛様を囲んだ、沢山のつるし飾りを間近に見て、その丁寧な手仕事に、感動してしまいました。
 初節句を迎える子供や、孫がすこやかに育つように、幸せになりますようにと、願ったいにしえの母や祖母の思いが伝わってきます。

 呪力があるというふくろうは,福や不苦労の思いをこめ、厄が去るようにとお猿さん、婦人病の薬効があるほおずき、ハマグリは貞節の象徴、俵ネズミは大黒様のお使いで、金運、霊力、子宝に恵まれますようにと願います。
 よだれかけはほうそうよけ、お金に困らないように巾着袋、厄除け延命長寿をもたらす桃、色鮮やかな縮緬の小布をつかい、丁寧に手作りされたぬいぐるみたちが、紐にぬいつけられ、雛段の周囲をいろどるのです。

 良い子に育ってね、幸せになってね、つるし飾りが、ゆらゆら揺れながらささやきます。沢山の飾りの一つ一つに込められた、女性たちの暖かいまなざしに、お雛様のお顔も微笑みます。

 今は何もかもお金で買える時代です。デパートでお雛様を買い、服を買い、おもちゃを買って、はいどうぞで終わりです。でも、ちょっとちがいました。ちゃんと心をこめなくちゃいけなかった。

 ひと針ひと針、小さなつり飾りに思いを込めましょう。女たちの思いが、祈りとなって、子供たちを見
守り育てるのです。

【寄稿・エッセイ】 遺言状 = 横手 泰子

「10年先にはお母さんは居ない」
 何かにつけて娘たちに言い続けた。気が付いたら十年を遥かに過ぎている。そこで最近では「死ぬまえに」と「最後の」が出てくる。

 60歳の誕生日を迎える時、娘たちから何が欲しいか聞かれた。「かんじき」をリクエストした。おしゃれな「スノウシュウ」が届いた。積雪2メートル、雪が障害物を覆って行動範囲が広くなり、動物の足跡を追ったり、植物の冬芽を観察する好機だ。真冬でも水が湧き続ける沼に、アメマスの産卵も見に行ける。

「樹齢1000年のオンコ(イチイの方言)が最近見つかったから見に行きましょう」
 東大演習林のA教官から声が掛った。

 早速出かける。雪の林内を縫って歩き、汗が滲む頃たどり着いた。
 A氏によると、長年林長を勤めたドロガメさん(本郷キャンパスで一度も講義をしたことのない東大教授)に聞いても山子さん達に聞いても、誰もしらなかった。鳥の研究が専門のA氏が偶然見つけたと言う。

 樹齢300年、400年のエゾ松なら見本林で見られる。200年たつカツラのひこばえが2本見事に立っているのも見た。
 1000年のオンコは大地に何本も根を張り、うねるように盛り上げて、不動の幹から、枝を四方に悠然と広げていた。千年と言う歳月風雨に耐え、雪に押しつぶされることもなく生き続けた、森の精は、どれだけ多くの鳥たちを休ませ、何を見て来たのだろう。言葉もなく立ちつくした。

 2年先に80になる。「終活」という言葉が横行する。ほっといてくれ、と思っている。しかし、遺言状なるもの、書いておかねば、という気持ちは…ある。

 幸か不幸か子ども達が争う様な財産など無い。私の遺骨は、一本の桐の木の根元に置いて欲しい。それが願いだ。願わくはその桐の木が1000年生き続けて欲しい。私はそれを見上げて眠っていたい。

「お前が産まれた時、植えた」
 と言われた桐の木が並んでいた。
 春になると薄紫の花がさいた。筒型のその花で、毎日遊んだ。本来、箪笥になるはずのその樹は、戦後の物不足の時代に下駄に加工されて、消えてしまった。故郷に向かう列車に乗ると、車窓から見える景色の中に桐の木が見える。「私の桐の木」と言う思いが心をよぎる。

 今年の誕生日には、とりあえず「遺言状」の下書きでもしてみよう。本物になったりするかもしれない。
動物歳時記
介護犬アイ

世界・地球一周の船旅・イースタ島で共に遊んだ最期の人=原田公平

 
 ボクにとって夢のまた夢、イースタ島へは、瀧恵子さんと訪れた。
 彼女との縁は、マチュピチュ&ウユニの長いツアーから髪の毛ぼうぼうで帰ったボクに、「こうちゃん、これ」と、ヘアーバンドを頂いた。
 それはカラフルなインカの織物で作られていた。垂れ下がる前髪がいやで、すぐにそのヘアーバンドを着用した。
 すると思わぬ反応が、「こんぺいさん(ボクのニックネーム)、それよく似合う」と行き交う人、みんなが絶賛してくれる。
 えっ、と自分まで驚く。そして下船までずっと愛用していた。

 プレゼントしてくれた方は兵庫から1人で乗船の、瀧恵子さんだ。

 彼女は、ボクと同室の元船長の木村さんと親しかった。木村さんは乗船前に心臓手術をしていて、病み上がりだった。
 寄港地でのツアーは『歩行すくなめコース』を選び、最初の上陸地、中国・アモイで瀧さんと一緒になる。彼女の身体が不自由なので手助けをしてあげた。そして毎回のツアーは『歩行すくなめコース』で、すっかり彼は頼りにされるようになったらしい。 

 木村さんから聞いた。彼女は筋肉が弱っていく難病だという。そこで彼女は思い切って以前に参加したピースボートに、人生最後の旅にと、乗ってきたというのだ。


悲しいドラマは、PDFでお読みください・こちらをクリック

【寄稿・写真】これぞ地球。幻想美の極致の写真(中)=宮内幸男


 宙って、ひろいな。幻想の美に遊ぼう 

 きみも、あなたも、おいでよ
   
 待っているからさ



 
 大自然のなかで、開放感たっぷり

 ごく自然に、連帯感が生まれるよ

 人間って、本当はみんな仲良しなんだ



 水面から飛び立った瞬間、わたしは鳥人になれる

 こんな水鳥もいたわよね


 太陽は僕たちのもの。

 大きく取り込んで、明日に生きよう


 躍動。みんなで、跳ぼう、羽ばたこう、そして翔んでいこう

 1、2、3、さあジャンプ

 いや、着地でした

続きを読む...

斜里岳はスリル満点で北海道随一の景観だ=関本誠一

 2014年、北海道山行、帯広でレンタカーを借りて『トムラウシ~雌阿寒岳~羅臼岳』をまわり、最終目的地・斜里岳の麓に到着した。

 阿寒と知床連山の中間にそびえる斜里岳は知名度低く目立たないが独立峰なので、近づくにつれ徐々に大きくなるその姿に一種の感動を覚える。


 登山ルートはいくつかあるが、最もポピュラーなのが清里町からの「清岳荘(せいがくそう)」ルート。当日は土曜日だったせいか、早朝5時で駐車場はすでに満車だった。


 登山道は林道のつきあたりから始まり、沢沿いに10ヶ所以上徒渉を繰り返すうちに、やがて新道と旧道の分岐である下二股に到着した。登りは沢(旧道)を、下りは尾根(新道)を通るよう推奨されており、ためらわず旧道を行く。

 沢沿いに進むと最初に水蓮の滝が現れる。さらに登って行くと溶岩流の上を流れるナメ滝状の羽衣の滝、そして万丈の滝と続くが、鎖などがあり助かる。
 雨が降ったあとなどは足元をさらわれないよう特に注意したい。

 この先、滝は流れの幅を小さくし、階段状の岩場となる。

続きを読む...

【寄稿・エッセイ】 ボケに突入= 遠矢 慶子

 一月半ばと言うのに、今日は暖かい。
 門の横の大きな山茶花が、二か月も咲き続けている。毎朝竹ぼうきで散った花びらを掃除するのは面倒だが、濃緑の葉をバックに可憐な桃色が、冬の殺風景な庭に色を添えている。

「ピーンポーン」ベルが鳴った。
 玄関に出ると、宅配便の配達人が、白いA4サイズの平べったい包を差し出した。ハンコを押して受け取った。
 冷たい外の風が、開けたドアーから足元を吹き抜けた。

 品物を開くと、幾重にも紙や封筒に包まれた中から、やっと名刺サイズのクレジットカードが出て来た。(もう、カードの期限が切れたのか)と思った。
 財布に入れてある古いカードを入れ替えのために出そうとした。
(ない。ない)
 出した覚えはないのに、どこへ消えたのだろう。

 通帳類の入れてある引出を探すがない。玄関の鏡付のクローゼットの引出、思い当るところを探した。いつも財布の奥の定位置に、免許書や銀行のカードと一緒に入れてある。
(どこかに落として使われたら大変だ)
 すぐにカード会社に電話をした。今はどこでも、なんでもセキュリテイが厳しく、古いカードが見つからないことを告げると、誕生日、住所といろいろ身分を証明することを聞かれた。

「実は、レストランのジョナサンから、店で拾ったと言ってこちらに送って来ました」
 と説明があり、やっと事情が分かった。

 一週間前、絵のグループの集まりがあり、終わってから、近くのジョナサンで、八人でランチを食べた。いつものように一枚にまとめたレシートから、それぞれがレジで、自分の食べた金額を払った。その時、私はクレジットカードは使わなかったが、財布から滑り落ちたのだろうか。

 初めて気づいたが、クレジットカードには、名前、番号、有効期限以外、本人の住所も電話も記されていない。拾われても、本人に戻す方法もない。

「バカだな。気をつけなさい」
 と、散々夫に注意された。
 それでも翌日、お礼かたがたジョナサンにランチを食べに付き合ってくれた。

 その翌日、いつものように午後散歩に出た。私は、目的のない散歩は嫌いで、ついでに本屋やお店に寄って、見たり買ったりする。三十分も歩いてから、通りの洋服、雑貨の店「ポーレン」に立ち寄った。店の外の二つのワゴンに、本とCDのリサイクル品が、オール百円でたくさん並んでいた。

 ユーミンのCDを二枚買うことにした。店の中に入り、二百円を払おうとしてコートのポケットを探ると、定期入れがない。どこに落としたのだろう。
「すみません、千円札一枚入れてきたはずなのに、定期入れが見つからないのでまた来ます」
「どうぞ、お取り置きして置きます」
 四十代の小柄な可愛い親切なオーナーが言った。

続きを読む...

富山藩士の富士登山 = 上村信太郎

 江戸時代中期の享和3年(1803)、加賀・大聖寺藩主の命により、富士参詣をした家来である笠間亨が記した日記が残されている。『享和三年癸亥日録』という題名で一般には「笠間日記」の名で知られており、そのなかに富士登山の記録が含まれている。


  大聖寺藩は、現在の石川県加賀市にあった藩で、加賀百万石、前田利家の四男で加賀金沢藩主の利常が隠居に際して三男利治に分封。加賀藩の支藩(7万石)となったという経緯がある。また、大聖寺という地名は『日本百名山』の著者深田久弥の出身地でもある。

 笠間亨は明和5年(1768)に儒学者那古屋一学の次男として生まれ、16歳のときに笠間平馬の養子になる。元服後は小姓、近習、表御用人等を歴任した。享和元年から江戸詰。この間に富士代参を果たす。

 では、徳川家斉将軍(第11代)の頃の富士登山がどんなだったのか「笠間日記」を見てみよう。6月10日に藩主から富士山御代参を命じられる。同行者は藩士の大野文八。出発前に武州小仏の関所を通る通行手形を用意している。
 江戸出発は6月16日(旧暦)。内藤新宿、八王子を経て三日後、吉田村に着いて田辺次郎右衛門の宿に泊る。この人物は富士講の元祖食行身禄入定のときに最後まで付き添った御師田辺十郎右衛門の子孫という。


 20日、登山準備(300文で案内人を一人雇い、予備のワラジ・食料の餅など用意)をして出発。浅間神社裏口まで田辺次郎右衛門が見送る。中の茶屋を過ぎ、馬返しで馬を乗捨てる。道中、いくつも堂がありそこを通るようになっている。これは「銭ヲ貪ルタメナリ」と感想を記している。二合目で金剛杖を買う。夕立あり蓑を着用。五合目の茶屋で休む。右方に小御岳石尊大権現の鳥居がある。七合目に身禄の堂があった。

 八合目の石室に泊る。室は4軒、「八合目迄吉田領也、是ヨリ上ハ須走領也」と記す。
御師に借りた綿入れなど4枚着るがまだ寒い。宿賃3人分、飯、汁、粥、布団などで2朱。

続きを読む...

ジャーナリスト
小説家
カメラマン
登山家
わたしの歴史観 世界観、オピニオン(短評 道すじ、人生観)
「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより
歴史の旅・真実とロマンをもとめて
元気100教室 エッセイ・オピニオン
寄稿・みんなの作品
かつしかPPクラブ
インフォメーション
フクシマ(小説)・浜通り取材ノート
3.11(小説)取材ノート
東京下町の情緒100景
TOKYO美人と、東京100ストーリー
ランナー
リンク集