寄稿・みんなの作品

【寄稿・朗読劇】紫蘭会の『40年の軌跡』(上)=佐藤京子・井上豊子

 ポルトガルの南西方1000㎞の花の島と呼ばれるマディラ島はヨーロッパのリゾート地として有名。おとぎ話に出てくるような、かわいい民家を訪問し歓待を受けた。


 スリル満点のドボガンランも体験した。


 サン=マルチン、デュ・カニーグ修道院で、美しい歌声に魅せられた。


 フランス山岳会の山小屋に泊まったり、ガバルニーの壮大な円形劇場や滝を見た。


 小倉先生役が登場。

 若い頃のお面をかぶり、当時のニッカポッカを穿いて登場。



 タスマニア島はオーストラリアメルボルンの南方海上に位置している。

 ブルーマウンテンズにあるスリーシスターズの前でパチリ。

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【寄稿・写真エッセイ】 海の幸 = 三ツ橋よしみ

 年末に、近所のスーパーマーケットで「身欠きにしん」をみかけた。おせち料理の昆布巻きに使われるのだ。関西方面では甘く煮て食べることも多いと聞く。
 こどものころに「身欠きにしん」を食べたが、とくにおいしいと感じた記憶はない。他の魚とはちがう食感だなとおもったぐらいだ。

 平成のグルメ時代の若者は、たぶんもうほとんど食べないのではないだろうか。そうかそれならば、日本の伝統食なのだから、身欠きにしんが絶滅する前に、わたしが生きている間くらいは、しっかり食べておこうと思った。

 十分に干した身欠きにしんの調理は、たいそう時間がかかる。
柔らかく戻すのに、米のとぎ汁につけて2日か3日。水で柔らかくなったものを、番茶で煮ること2,3時間。 これまでがしたごしらえだ。

 柔らかくなった身欠きにしんを、水で戻した昆布にぐるぐる巻いて、甘辛く煮ること一時間あまり。こうして、やっと昆布巻きが出来上がる。


 左:ニシンづけ  右:昆布巻き

 やれやれなんでこんなに時間がかかるのだろう。それにこんなに時間をかけてまで食べたい代物でもないよなあと、おもう。ほかにもっとおいしいものはいっぱいあるしね。
 でも、かつての日本人はそうは思わなかったようだ。手間をかけ、時間をかけ、いつくしむようにして、干したニシンを食べた。

 北海道の日本海沿岸では、江戸時代からニシンがたくさんとれていた。
 ニシンはあぶらが多いのでゆっくり乾燥させないと腐ってしまう。ニシンの頭と内臓をとり、冷たい空気にさらし、しっかり干して「身欠きにしん」にした。

 北前船で内地に運ばれ、保存に便利なタンパク源として各地に流通した。
 京都の名物料理に、身欠きにしんの、煮ものがある。海のない京都の人々にとって、遠い北の海からきた身欠きにしんは、たいへんなごちそうだった。見たことも、行ったこともない北の蝦夷地からはるばると運ばれてきた身欠きにしんである。
 京都の人は、大事に、大切に海の幸を食したのだ。

 蕎麦屋のメニューに「ニシンそば」がある。
 以前は、東京の蕎麦屋にはなかったと思う。わたしは、高校の修学旅行の京都で、食べたことがあるくらいだ。近年、食も多様化し、東京でもニシンそばが食べられるようになった。

 目黒駅まえのお蕎麦屋さんに立ち寄ってみた。ショーウィンドーの「カモ南蛮そば」の隣に、「ニシンそば」が並んでいた。
 半身の身欠きにしんが、どんと載っている。(写真上)手間とヒマがかかっているのよねえと、思いながら頂いた。

 北海道のニシン漁の全盛期は、1887年から1927年の40年間だった。
 今では、北海道でニシンは少ししかとれない。群れはノルウェイーやアメリカ大陸に移ってしまったのだ。
 正月も半ばを過ぎ、テレビでは大相撲の春場所がはじまっていた。
 おせちの残りものの、昆布巻きを食べながら相撲を観戦した。中の身欠きにしんをぎゅっとかみしめた。アメリカ製の身欠きにしんだ。茶色く甘く煮えていた。

 そうか、身欠きにしん、あなたって、日本の大相撲を支えているモンゴル人の横綱とおんなじだったのね、とおもった。

【寄稿・エッセイ】 やり直しは出来るかな = 中村 誠 

 体調が良ければ酒は学生時代から日本酒、洋酒、なんでも良かった。もちろんお相手しだいだ。不思議に二日酔いになったことはほとんど無かった。

 社会人になり、好みはまず日本酒が第一番にくる、次がウイスキー、ブランディーの順で、ワインを味わい楽しむ洒落た機会などはぜんぜん無かった。ビールはお腹ばかり膨れるし、ほとんど乾杯時にのどを潤す程度だった。アルコール類の種類が広がり始めたのは30歳に入る年の海外駐在からだ。

 アメリカ駐在の6年は、気候風土が変わったから嗜好も変化した。カナダウィスキー、バーボン、時にはマテイーニを味わった。
 輸入の日本酒は本来の美味さが乏しく敬遠した。また、次の駐在四年のドイツでは、白ワインを中心に、また生ビールとアルコール度数40度の高いシュナップス(ジャガイモから作られる蒸留酒)でドイツ人と付き合った。
 北欧出張では地場のハードリカーを好み、取引先との懇親には役立った。どこの国でも自国の酒を好む客人は歓迎される。不思議と肝臓機能には何の問題も起こらなかった。

 40年の会社生活を終え、自由人になって早くも15年が過ぎた。アルコール類の好みは〝郷に入れば、郷に従え〟の通りで、友人との懇親では日本酒、特に冷酒に戻り、時には地方の芋焼酎、あるいは麦焼酎も愛飲した。家ではワイン中心で家内に付き合った。

 数年前の人間ドックで肺気腫と診断され、大きなショックだった。現医学では肺気腫の完治は望めず、薬の服用が悪化の進行を出来る限り遅らせる唯一の方法と知った。原因は半世紀にわたる悪習慣の喫煙だと猛反省している。

 現在、外出時には携帯酸素ボンベ(6時間限度)の使用は不可欠で、日常生活の行動パターンは制限され、変えざるを得なかった。

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【寄稿・エッセイ】 意地悪 = 筒井 隆一

 私の持って生まれた性格なのか、私たちの育った時代や環境がそうさせたのか、いじめにあったという思い出はない。

 小中学時代には、いろいろないたずらをした。教室に出入りする引き戸に黒板拭きを挟んで、入ってくる教師の頭に落としたり、死んだトカゲを出席簿に挟んで、それを開いた若い女性教師を失神させたり……。他愛のない悪戯はずいぶんやった。しかし、たちの悪いいじめや意地悪は、したこともされたことも、記憶にないのだ。

 文部科学省から、いじめの定義が示され、現場の教師にこれを防ぐ通達、指導が出されるなど、私たちにとって、考えられない時代となったものだ。
 その私が、何と70歳を過ぎて、いじめを体験することになった。私にとっては陰湿ないじめだが、世間から見れば、ただの意地悪かも知れないが……。

「この生姜を、みじん切りにしておきましょうか」
「……」
「火加減はもう少し強い方がいいですね」
「……」
 一卓4人、8卓で32人が、『野菜料理の会』で月に一度、料理教室に通う。その教室でのやりとりだ。
何を聞いても返事がない。対話にならない。

 この教室は、1年間を前期、後期に分けている。5月~10月、11~4月の二期、1年間12回でひと通り学ぶ仕組みだ。
 私を除く三人の女性は、前期の半年間、既にこのクラスで過ごしている。私はその三人のグループに組み入れられ、後期からスタートした。

 前期から一緒にやっていた三人が、組んでいじめに掛かってきたのだろう。申し合わせたように無言を極め込んでいる。三人組を仕切るのは、アラフォー、見るからにボスという感じである。

 考えてみれば、初めて出会った、育ちも環境も違う、見ず知らずの四人の生徒だ。お互い気を遣いながら一つの料理テーブルを囲んで、仲良く楽しくやること自体が難しい。

『お肉料理』『お米料理』『おもてなし料理』など、コースが変わり、都度メンバーが変わっても、今まで十数年、何ごともなくやってこられた方が、不思議なのかも知れない。まして変なおじさんが一人入ってくると、意地悪してみたくなるのも、分かるような気がする。

 初回に、顔を合わせて挨拶した時はまともだった。ただ、「おじさんどこまでやれるの?」という、上から目線を感じた。

 料理をつくり始めると、こちらが手早く包丁を捌いたり、タイミング良く出汁をとったり、手際良く作業を進めていくのを見てびっくりし、ひとついじめてやれ、ということになったのだろう。

 相手の作戦は、一言も口をきかず、こちらを全く無視することのようだ。
 決められた約2時間の間に、3品を仕上げなければならない。四人で打合せし、役割分担、手順を決めて作業にかかるのだが、ボスは私だけには一言も口をきかず、他の二人に指示し、三人でどんどん作業を進めていく。こちらの問いにも、一切ノーコメントだ。

 一言いって何か返ってくるならよいが、何もない。議論を吹っ掛けるわけでもない。無言の意地悪だ。私の戸惑っている反応を楽しんでいる。

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【寄稿・エッセイ】 新生ボロ辞書 = 吉田 年男

 背表紙が取れてしまった。何とかしなくてはと思いながら、今も酷使している。昭和三十年に発行された、鈴木香雨先生の初版「五体字彙」だ。
 永く使っているので愛着がある。背表紙が取れた時に、これに代わる辞書はないかと、何軒かの書店を探しまわった。

 神田の古書店街を歩いていたとき、同じ先生の「新選 五體字艦」という辞書が目にとまった。目次、索引などの形態が、「五体字彙」とそっくりであった。
(これはいけるぞ)
 希望に胸を躍らせながら、ページをめくった。肝心の書体をみると、
(あれ! 雰囲気が違う)
 「五体字彙」をコンピュータグラフィックで写し取ったものか? それとも別の書き手が書き写したのか? 字形は似ているが、毛筆特有の線のキレ、線質、脈絡、動きなどが違ってみえる。

 この時、初版本と同じものを手に入れるのは不可能か? と悟った。

 手元にある「五体字彙」をみると、ページがとれはじめている。取れてしまったページの角が少しずつまるまってきている。これ以上酷使していると、五体書の部分も擦り切れて見えなくなってしまう。

 ボロ辞書であるが、私にとって愛着があるだけでなく、今ではなくてならない大切な辞書になっている。修復できるものなら直して使いたい。修理してもらえそうな製本所を、ネットで必死に探した。
「背表紙が取れてしまった辞書ですが、修理していただけませんか?」
 小林製本というホームページをみつけて、懇願のおもいをこめて電話をかけた。

 電話に出た女性が、小林という男性に取り次いでくれた。
「私どもでは、修理はやっていないので、知り合いの製本所を探してみましょう」
 と温かく対応してくれた。

 数日後、論文などを専門にしている早稲田鶴巻町の製本所を紹介してもらえた。大切にしている辞書のことを、電話での短い会話の中で、理解してもらえたことがことのほかうれしかった。

 背表紙が付いていた部分のカサカサになった糊、製本用の白い糸がむき出しの無残な姿になった辞書を、ページに抜けないかなど、念を入れて点検をした。
 バラバラにならないように揃えて表紙の上から太めの輪ゴムでしっかりと押さえた。新しい茶封筒に辞書を入れて、紹介してもらった製本所へ逸る気持ちを抑えながら出かけた。
 
 製本所は、早稲田通り鶴巻町西交差点の近くにあった。この辺りは同じような製本所が沢山ある。間違えないように看板を確認して紹介された製本所へ入った。室内は暖かかった。
 暮れも押しせまっていたせいか、四~五人の作業着を着た人たちがせわしなく動き回っていた。

 社長に挨拶をして、持参した辞書を見せた。
「小林さんから話は聞いています。お持ちになった辞書を作業台の上に置いてください」
 穏やかで温かみのある声であった。
 辞書を出がけに用意した新しい茶封筒から丁寧に取り出して、少しでも印象がよくなるように、辞書の向きを考えながら作業台の上に慎重に置いた。

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【寄稿・エッセイ】 オペラの夜 = 山口 規子

 ある早春の夜、急にメトロポリタン・オペラの切符が手に入った。
 NY暮らしの我が家から歩いて15分のこのオペラハウスのあるリンカン・センターは、日頃から慣れ親しんだ場所だ。オペラの殿堂(通称メトと呼ぶ)を正面に、左にはNYシテイオペラ劇場、右にコンサート・ホール、やや後ろに芝居を上映する劇場、演劇のための図書館などが広場を取り囲む。

 ニューヨーク・フィルもリハーサルの場とし、それを公開する。貧乏学生の私が、あまたの世界的指揮者、奏者、歌手にここで接することができた。本番の何分の一の料金であった。彼らの本番とは異なる素顔が見られるのも魅力の一つである。
 メトのチケット・ボックスの前で、学生仲間とどの演し物にするか迷ったりしていると、オペラファンのご老人に声をかけられる。

「このワーグナーにしなさい。彼の作品は壮大な建築みたいなもの。聴くには4時間以上かかるけれど、それに耐えられるのは今のうちだと」とウインクされたりする。

 私の好きな場所が地下にある。全盛期の美貌の名歌手マリア・カラスの等身大の肖像画が展示されている。だれもめったに来ない場所で、その華やかなコスチューム姿を見ていると、彼女のソプラノが響いてくるような気がする。

 今夜の開演に間に合うように急ぎ着替えに帰り、ぎりぎりにボックス席に座った。オーケストラの音合わせを聞きながら、オペラグラスの度を合わせつつ、客席のあちこちを眺める。
 私はこの時間が好きだ。 
 さあ始まるぞ、と身構えるあの高揚感。ブラックタイの紳士たちが立ち上がって顔見知りに挨拶したり、ロングドレスの夫人たちがちょっと身じまいを直したりする。この頃はジーンズの若者も多いが、優雅な手すりの大階段を降りて来るにはムードに欠ける。劇場そのものが舞台みたいなものなのだ。

 と、思っていたら開幕寸前、同じボックス席の椅子のひとつ目掛けて、息せき切って冴えない風体の太り気味の中年男が滑り込んだ。
 この劇場では顔見知りとも出会うから、こんな人物が相客ではと、自尊心と虚栄心が疼く。

 この劇場では幕開き寸前、場内に吊り下げられた幾つものシャンデリアがきらめきながらするすると上がる。すると、この男はその様をみて「ワァオ!」と声を上げる。初めてここに足を踏み入れたな。私も最初の時、これを眺めて「ワァオ!」と思ったものだが、と、軽く舌打ちする気分で序曲を聴く。
 
 一幕が終わり。同じボックス席に居るのも嫌だと思って、腰を浮かしかけると、声をかけられた。最悪である。
「自分はこのオペラハウスに入ったのも、オペラを観るのも初めてなんです。いつもは劇場の前で切符を売っているんです。もう何年も何年も」ーーああ、この人はダフ屋なんだわーーと、私は心の中でつぶやく。

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【転載「詩集・夢の鎌」】  夢の鎌  結城 文

「あとがき」より

 歳月という流れに身をゆだねながら、水面に浮かぶ光や影を、吐息のような泡沫を

 --瞬間ごとに過ぎ去ってゆく生の折々の去来する想いを、文字化することによって定着させ、ある手ざわりをもって手渡したい


作者:結城 文さん  日本ペンクラブ会員 電子文藝館・委員 

縦書き・夢の鎌


夢の鎌  結城 文


 夢を重ねながら
 日々は雲のように消える
 果てしもなくひろがってゆく夢の先端を
 誰か見知らぬものの手が握っている
 絶えず滅びてゆくものに取り巻かれながら
 ひと日ひと日を生きて
 雨上がりの野の
 遠い虹を見上げながら歩く
 内部のどうしても動かない部分は魂と呼ぼう


 すべては永遠なるもののひと刻み
 空が静かに傾いて
 夜がふくらむ
 ただ一樹
 野にたつ榛の木の上
 鎌のような三日月がしだいに鋭さを増してゆく


 いつになったら季節はめぐってくるのだろう
 生の花はどこかでひらいていたのだろうか
 私自身のどうしようもなさの鎌で
 夢を刈る
 夢の化石の日々を刈る
 三日月の鎌で

【転載・詩集『夢の鎌』より】 時の翼 = 結城 文

 詩集『夢の鎌』(本の帯より)

 生きるとは人や自然にふれながら、存在の一つ一つに共感し、経験を自分のものにしてゆくこと。

 自分という重荷とともに、坂道を一歩一歩、遠く静かに歩いてゆくこと。

 作者:日本ペンクラブ会員


縦書き・時の翼

  時の翼 = 結城 文

 時の翼は白と黒
 光と闇との縞模様
 斜めにさす冬の陽射しに半身を照らされて
 ゆりの木の街路樹に沿って歩いてゆく
 私の生の照り翳り


 天頂まで一気に駆け上がる飛行機雲
 吹く風は冷たいけれど
 空には滴るような春立つ光


 けれど西には険しい表情の
 灰色の雪雲もみだれ飛んで
 記憶の川のように
 あいまいに
 飛行機雲はにじみはじめる

 
 きさらぎの日を反しつつ歩く私は
 光度計
 錫の箔
 回転する世界の静止点
 一生(ひとよ)はそこから拡がってゆく円
 日常の外に時折り遊び
 想像力の時の翼に酔っては経す
 円の縁(ふち)


 不透明な先行きよ 
 蒼穹に吸われていった飛行機雲
 経験は
 力を与えてくれたろうか?
 白と黒との時間の翼
 だんだら模様の同心円 

【転載・ヒナタ文学 9】 心のツバサ 作詞・日向裕一  作曲・桜井稔


【関連情報】

 ヒナタ文学 9  平成26年12月発行

 主宰 日向裕一(ひゅうがゆういち)

(編集後記より)

 フェリーニ乗って郷土・大崎上島に帰って来るとホットします。離島であるからこそ、魅力ある島だと私は感じています。
 私は大崎上島を文学の島にしたいです。

 〒725-0231
 広島県豊田郡大崎上島町東野2684-1
 
 電話・FAX 0846-65-3001

 HP : 日向裕一
 


縦書き・心のツバサ


心のツバサ 作詞・日向裕一  作曲・桜井稔


1僕たちは 大人になって
 忘れて しまったのだろうか
 幼(おさ)なき日 温(あたた)かな日々を


 夏祭り 父さんの肩車(かたぐるま)
 夜空の花火に 届(とど)きそう
 帰り道 母さんの 腕(うで)の中
 感じた安(やす)らぎ

 今は 遠く 遠い 時の中
 ただ僕たちは 愛されていた
 守られていた


2 僕たちは 乗り越(こ)えられるさ
  たくさん 愛があるのだから
  大丈夫 きっと できるはずだ


  目の前に 立ちはだかる 高い壁(かべ)
  怖(こわ)がらないで 逃(に)げないで
  目を閉じて 思い出してごらんよ
  心のツバサを 広げよう


  今は遠く 遠い 夢の先
  ただ僕たちは 歩き続ける
  勇気をもって

【寄稿・書簡】 エッセイがとりもった友情(下) 宮内幸男&原田公平

 旅とは様々な発見や出会いがある。今年のピースボートの船旅でボクの生涯に最高の想い出を作ってくれたのが、宮内幸男さんである。ボクはエッセイの会に入っていて、この方をエッセイに書いた。これを宮内さんに渡そうかどうか、悩んだ、そして渡すことにした。

左 : 宮内幸男さん    右 : 原田公平さん


宮内幸男さま

 この度はウユニ塩湖の素晴らしい写真と動画、ありがとうございました。

 私は自主企画・星野昭江さん主催するエッセイ教室に参加、毎週2本のエッセイを書いて、仲間同士で発表しています。本日のテーマは「水平線・地平線」です。そこでウユニのことを書きましたので、宮内さまにご一読いただければと思い、お届けしました。

 あの感動、ボクの筆力では表現に及びません。最後にエッセイの会のメンバーに宮内さんの写真をおみせしようと思っています。本当に、最高の思い出、ありがとうございました。


原田公平さんへ

 しばらく経って、宮内さんから毛筆、達筆な文字の手紙を頂いた。読んでびっくり。宮内さんは62歳の時、脳梗塞をわずらい、そのビハビリに書道がいいと聞き、必死に取り組み書道をモノにし、回復したのである。帰国後もながい1㍍30㌢にもなる巻紙に毛筆の手紙を頂いた。

 こんな手紙、ボクの72年の生涯で初めてである。

 愛媛・松山市の宮内さんのウユニの夕焼けの写真が全国公募第「18回総合写真展」に入賞、しかも準大賞である。そのお祝いの会を仲間と銀座でやった。 

 翌日、12月7日、仲間と上野の都立美術館へ写真展に行く。自分が写っている、何と光栄なことか、あのシーン、宮内さんが写真と撮ってくれ、そして多くの仲間と共有でき、また友達にも自慢できる、「私の最高の写真」となった。