寄稿・みんなの作品

【寄稿・エッセイ】 ボケに突入= 遠矢 慶子

 一月半ばと言うのに、今日は暖かい。
 門の横の大きな山茶花が、二か月も咲き続けている。毎朝竹ぼうきで散った花びらを掃除するのは面倒だが、濃緑の葉をバックに可憐な桃色が、冬の殺風景な庭に色を添えている。

「ピーンポーン」ベルが鳴った。
 玄関に出ると、宅配便の配達人が、白いA4サイズの平べったい包を差し出した。ハンコを押して受け取った。
 冷たい外の風が、開けたドアーから足元を吹き抜けた。

 品物を開くと、幾重にも紙や封筒に包まれた中から、やっと名刺サイズのクレジットカードが出て来た。(もう、カードの期限が切れたのか)と思った。
 財布に入れてある古いカードを入れ替えのために出そうとした。
(ない。ない)
 出した覚えはないのに、どこへ消えたのだろう。

 通帳類の入れてある引出を探すがない。玄関の鏡付のクローゼットの引出、思い当るところを探した。いつも財布の奥の定位置に、免許書や銀行のカードと一緒に入れてある。
(どこかに落として使われたら大変だ)
 すぐにカード会社に電話をした。今はどこでも、なんでもセキュリテイが厳しく、古いカードが見つからないことを告げると、誕生日、住所といろいろ身分を証明することを聞かれた。

「実は、レストランのジョナサンから、店で拾ったと言ってこちらに送って来ました」
 と説明があり、やっと事情が分かった。

 一週間前、絵のグループの集まりがあり、終わってから、近くのジョナサンで、八人でランチを食べた。いつものように一枚にまとめたレシートから、それぞれがレジで、自分の食べた金額を払った。その時、私はクレジットカードは使わなかったが、財布から滑り落ちたのだろうか。

 初めて気づいたが、クレジットカードには、名前、番号、有効期限以外、本人の住所も電話も記されていない。拾われても、本人に戻す方法もない。

「バカだな。気をつけなさい」
 と、散々夫に注意された。
 それでも翌日、お礼かたがたジョナサンにランチを食べに付き合ってくれた。

 その翌日、いつものように午後散歩に出た。私は、目的のない散歩は嫌いで、ついでに本屋やお店に寄って、見たり買ったりする。三十分も歩いてから、通りの洋服、雑貨の店「ポーレン」に立ち寄った。店の外の二つのワゴンに、本とCDのリサイクル品が、オール百円でたくさん並んでいた。

 ユーミンのCDを二枚買うことにした。店の中に入り、二百円を払おうとしてコートのポケットを探ると、定期入れがない。どこに落としたのだろう。
「すみません、千円札一枚入れてきたはずなのに、定期入れが見つからないのでまた来ます」
「どうぞ、お取り置きして置きます」
 四十代の小柄な可愛い親切なオーナーが言った。

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富山藩士の富士登山 = 上村信太郎

 江戸時代中期の享和3年(1803)、加賀・大聖寺藩主の命により、富士参詣をした家来である笠間亨が記した日記が残されている。『享和三年癸亥日録』という題名で一般には「笠間日記」の名で知られており、そのなかに富士登山の記録が含まれている。


  大聖寺藩は、現在の石川県加賀市にあった藩で、加賀百万石、前田利家の四男で加賀金沢藩主の利常が隠居に際して三男利治に分封。加賀藩の支藩(7万石)となったという経緯がある。また、大聖寺という地名は『日本百名山』の著者深田久弥の出身地でもある。

 笠間亨は明和5年(1768)に儒学者那古屋一学の次男として生まれ、16歳のときに笠間平馬の養子になる。元服後は小姓、近習、表御用人等を歴任した。享和元年から江戸詰。この間に富士代参を果たす。

 では、徳川家斉将軍(第11代)の頃の富士登山がどんなだったのか「笠間日記」を見てみよう。6月10日に藩主から富士山御代参を命じられる。同行者は藩士の大野文八。出発前に武州小仏の関所を通る通行手形を用意している。
 江戸出発は6月16日(旧暦)。内藤新宿、八王子を経て三日後、吉田村に着いて田辺次郎右衛門の宿に泊る。この人物は富士講の元祖食行身禄入定のときに最後まで付き添った御師田辺十郎右衛門の子孫という。


 20日、登山準備(300文で案内人を一人雇い、予備のワラジ・食料の餅など用意)をして出発。浅間神社裏口まで田辺次郎右衛門が見送る。中の茶屋を過ぎ、馬返しで馬を乗捨てる。道中、いくつも堂がありそこを通るようになっている。これは「銭ヲ貪ルタメナリ」と感想を記している。二合目で金剛杖を買う。夕立あり蓑を着用。五合目の茶屋で休む。右方に小御岳石尊大権現の鳥居がある。七合目に身禄の堂があった。

 八合目の石室に泊る。室は4軒、「八合目迄吉田領也、是ヨリ上ハ須走領也」と記す。
御師に借りた綿入れなど4枚着るがまだ寒い。宿賃3人分、飯、汁、粥、布団などで2朱。

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鍋焼きうどんは食べられず。紅葉も富士山も最高=市田淳子

 三連休の真ん中の11月23日(日・祝)は、晴天に恵まれました。
 気温も高め、次の日は天気が崩れるという予報のせいか、人、人、人。渋沢駅から時間稼ぎのため予約したタクシーに乗りましたが、登山客が多いため隣の駅(秦野)からの助っ人、アルバイトの運転手さんでした。

 道がわからず迷いに迷って予定より30分ほど遅れて二俣の手前に到着しました。あんなに人が多かったのに、登り始めるとそれほどではなかったのは、一般のコースとは逆回りをしたせいかもしれません。

 登山道で木々の隙間から、富士山が何度も綺麗に見えました。とても眺めのいいコースです。
 都内では紅葉の季節ですが、丹沢も山の下の方は絶好の紅葉の季節でした。赤、黄色、そして常緑樹の緑と青空がとても美しかったです。

 標高は大したことはないと思って登り始めましたが、山道はかなり急登で休ませてくれません。ですから、途中で見える富士山と紅葉はより感動が大きかったです。

 小丸に11時40分頃到着しましたが、小丸から鍋割山までが気分的に遠く感じ、鍋割山に到着したのは、12時半でした。山頂は人だらけ。座る場所もないくらいでした。

 それでも、楽しみにしていた鍋焼きうどんを食べようと、山小屋に入って聞いてみると、なんと! 2時間待ち!! そんなに待ってはいられないと、準備してきたパンやお菓子などの非常食で昼食を済ませ、下山することにしました。

 下山は少し早足で…前を歩くお二人の頭にはビールと鍋焼きうどんがチラついているのか、早い!途中でリンドウの花が咲いていたのですが…。そして、大倉のバス停から15時30分のバスに乗り、渋沢駅に20分ほどで到着し、反省会をしました。

 真っ先に鍋焼きうどんはないかと探しましたが、メニューにはなく、帰ってから(?)鍋焼きうどんを食べることにしました。鍋焼きうどん以外、お天気も紅葉も富士山も最高の山行でした。

                                    記録 : 市田淳子


『関連情報』

鍋割山(標高1,273m)

登山日 : 平成26年11月23日(日・祝)

参加メンバー : L石村、岩渕(美)、原田、市田

コース : 渋沢→二俣→小丸→鍋割山→後沢乗越→ミズヒ沢→二俣→大倉→渋沢


ハイキング・サークル「すにいかあ倶楽部」会報№183から転載

【寄稿・エッセイ】 あきらめの後押し = 吉田 年男

 駐車していたところに車がない。いつも見慣れていた愛車の姿が見当たらない。

 若いときからさんざん車を楽しんできたのだから。後期高齢者の仲間入りをしたのだから。などと考えた末、6回目の車検を前に廃車を決めた。
 処分を決めたことに未練はないはずだったが、空いている駐車場をみるとなんとなく車のことを思い出す。


 売却を決めた日は、正午に業者が車を引き取りに来ることになっていた。「お父さん、この車に乗るのは最後だから、その辺を一回りしてきたら」 と家内にいわれた。すぐにはその気になれずに、老犬レオ君と家の中をうろうろしていた。

「レオは車に乗るのが大好きだから、レオと一緒に哲学堂動物霊園にゆきましょうよ」
 中野区にある動物霊園は、以前飼っていたネコのお墓があるところだ。自分には、到底思いつかないこの誘いにその気になった。

 レオを車の座席に乗せると、いつも寝てばかりいるのに、嬉しいのか立ち上がって窓から首を出そうとしている。シートを汚さないように、バスタオルを後部座席いっぱいに敷いた。

 毎6か月おきの安全点検を受けてきたので、始動するエンジンも調子がいい。家を出るとき、午前十一時を少し回っていた。
 ハンドルさばきも軽やかに中野サンプラザの前を通り、大久保通りの交差点を渡った。ここから哲学堂霊園まで十分くらいだ。


 西武新宿線の踏切まで来た。踏切がなかなか開かない。通勤時間帯は過ぎているのにどうしたのだろう? しばらく待たされているうちに、都内でも有数の開かずの踏切であったことを思い出した。いらいらしてきた。
 やっとのおもいで踏切を通過したが、霊園まで三十分以上かかってしまった。

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大惨事の1か月前だった、御嶽山(3067m)に登頂したのは=武部実 

 平成26(2014)年8月18日(月)に、新宿から高速バス(8時10分発)で、木曽福島に向けて出発した。渋滞も無く順調に、と思っていたら、なんと30分遅れ。
 木曽福島の美味しいお蕎麦屋さんであわただしくそばをかき込むはめになった。赤沢自然休養林で森林浴を楽しみ明日からの登山に備える。(木曽福島泊)


 翌19日、今回は黒沢口の登山コースなので、木曽福島からバス(8:40発)で御嶽ロープウェイの山麓駅までいく(約1時間)。
 
 山頂駅の7合目(2150m)に10時00分に着。雨が降っているので、レインウェアを着込んだりと身支度を整えて10時25分に出発した。

 樹林帯のコースだが、雨をさえぎるような大木もなく、ひたすら登り続ける。11時40分には女人堂8合目(2470m)着。ここで昼食タイムとなった。コーヒーやお汁粉を注文して休憩する。 

 12時15分に出発。雨もやんできたので、雨具を脱ぐ。いたるところにある石碑(霊神場)では、先達に先導された講の人達が祈祷する姿を見かける。
 信仰の山だなと改めて思い知らされた。


 14時20分には九合目(2800m)着。中野さんの足取が重く、顔色も悪いようだ。覚明堂という登山指導所と避難小屋をかねているところで休ませてもらう。

 お茶を入れてもらい、血中の酸素濃度を測ったら、中野さんは、79%と低い値。典型的な高山病の症状だ。
 酸素吸入(1000円)をしてもらったら、顔に赤みがさして楽になったようだ。
 ちなみに全員測ってもらう。一人が82%のほかは、ほぼ90%台。ところが私は99%という高い値、管理人にほめられた。

 今夜の宿泊場所である二の池新館小屋まではすぐ近くなので、とりあえず小屋に向けて出発する。15時25分に到着した。夕飯まで間があるので、5人で頂上まで約1時間のピストンをする。


 20日は朝4:30に起床する。この時間から空が赤みを増して、好い天気の予感。5時過ぎには木曽駒の北側にある経ヶ岳(2296m)付近から、ご来光を拝むことができた。

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【寄稿・写真】これぞ地球。幻想美の極致の写真(上)=宮内幸男

  写真家・宮内幸男物語(プロフィル)

 昭和20年、愛媛県勝山市に生まれる(69才) 30歳から独学で写真を始める。33歳で地元渡部章正氏を師として迎える。

 42歳愛媛県美術会会員推挙

 50歳愛媛県美術会役員
  以後常任評議員、隔年審査 、審査委員長

 59歳から病魔と戦う。

 62歳では、脳梗塞 右側完全マヒとなり、写真活動に支障をきたす。
「生きる目的を持たないと戦えない、絶対に妥協はしない」


 その気持で、病気と向かい合ってきた。毛筆による独学リハビリが成功した。


 半年でほぼ回復してから、写真活動を精力的に展開する。

 タイの山岳人族の電気の無い村にも、カナダのイエローナイフにも、一人で行った。
 それらの現地で語学は、日本語で笑顔のみ、「笑顔は世界 の共通語」を実践する。


 68歳から、写真活動のほかに、民生委員、児童委員 厚生省委嘱などで活動する。


撮影地はどこでしょうか。地球の南半球です

【寄稿・朗読劇】紫蘭会の『40年の軌跡』(下)=佐藤京子・井上豊子


異常気象でモンゴルでは乾期にも関わらず大雨、ゲルの雨漏り、泥の中で乗馬トレッキングを体験。


それらを打ち消すように草原のピンク色の月、満天の星空、夢幻の世界を体験して大満足。


 秘境タオの“ちょっと冒険” 禁じられた遊び“。ちょっと冒険のつもりが・・・・大変ないい経験をしました。

 計画の段階で、現地で判断するしかないと思っていた問題の滝。大きい岩の間に、中程度の岩があり、急斜面を水が勢いよく流れている。

 濡れた岩は滑りやすい、しかも岩と岩の間隔は歩幅どうりとはいかない。ポンと跳ね上げるか、飛び降りるしかないのだ。現地ガイドの亀井さんが引っ張りあげ、太田さんがお尻を支えるという連携で登って行った。



 楽しかった、美味しかった、生きていて良かった。


 香港「馬鞍山(マーオン)」ハイキング、マカオ・コロアン地区石面盆古道ハイキング。


 ハイキング、グルメ、 満喫の旅


 紫蘭会の元気の秘訣は「食」にあり、を実感。



 日本から1番近い韓国、済州島へ。桜満開の済州島、ソメイヨシノ、「ハルラ山」。慶州南山トレッキングは岩のぼりもあり、ちょっと冒険だった。


 韓国ののりまきキンパッ、アワビがゆ、マッコリの美味しいこと!!花いっぱいの旅。さくら、レンギョウ、モクレン、こぶし、菜の花に囲まれての春の旅。花ありすぎ。


 標高3,000~3,500mのトレッキング。高山病の薬と酸素ボンベを用意。標高3,500mの九寨溝、黄龍空港では体が重く感じた。


 チベット仏教のダルシンがひらめく風景は印象的、毛沢東の銅像も健在、瞬時に顔のお面が変わる変面のお芝居を見ることが出来ラッキー。九寨溝は中国人の大観光地で、休日に重なっていたようで、溢れ出る観光客の多さにはびっくり。人の波が川の流れのようだった。いやその騒がしいことにびっくり。


 峨眉山の山頂の巨大な観音様にもびっくり。あんな山の上に作れるとは・・・。
楽山大仏もすごい。


 峨眉山に居た時に高速列車事故のニュースを見る。その対応に びっくり。


 お金がないと山に登れない? そう多少のお金がないと、交通費も食費も出ない。

 まして海外のトレッキングとなると、渡航費稼ぎは? そうへそくりです。



 紫蘭会の実技山行といえば、夜の「魔の芸能大会」がありました。この「魔の芸能大会の仕掛け人・小倉先生です。


  平成27年 紫蘭会は40周年を迎えました。ご一緒に「紫蘭会40年の軌跡」ふりかえってみましたが、いかがでしたでしょうか?
 

 写真 : 佐藤京子 (会員)

 脚本 : 井上豊子 (会員)

【寄稿・朗読劇】紫蘭会の『40年の軌跡』(上)=佐藤京子・井上豊子

 ポルトガルの南西方1000㎞の花の島と呼ばれるマディラ島はヨーロッパのリゾート地として有名。おとぎ話に出てくるような、かわいい民家を訪問し歓待を受けた。


 スリル満点のドボガンランも体験した。


 サン=マルチン、デュ・カニーグ修道院で、美しい歌声に魅せられた。


 フランス山岳会の山小屋に泊まったり、ガバルニーの壮大な円形劇場や滝を見た。


 小倉先生役が登場。

 若い頃のお面をかぶり、当時のニッカポッカを穿いて登場。



 タスマニア島はオーストラリアメルボルンの南方海上に位置している。

 ブルーマウンテンズにあるスリーシスターズの前でパチリ。

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【寄稿・写真エッセイ】 海の幸 = 三ツ橋よしみ

 年末に、近所のスーパーマーケットで「身欠きにしん」をみかけた。おせち料理の昆布巻きに使われるのだ。関西方面では甘く煮て食べることも多いと聞く。
 こどものころに「身欠きにしん」を食べたが、とくにおいしいと感じた記憶はない。他の魚とはちがう食感だなとおもったぐらいだ。

 平成のグルメ時代の若者は、たぶんもうほとんど食べないのではないだろうか。そうかそれならば、日本の伝統食なのだから、身欠きにしんが絶滅する前に、わたしが生きている間くらいは、しっかり食べておこうと思った。

 十分に干した身欠きにしんの調理は、たいそう時間がかかる。
柔らかく戻すのに、米のとぎ汁につけて2日か3日。水で柔らかくなったものを、番茶で煮ること2,3時間。 これまでがしたごしらえだ。

 柔らかくなった身欠きにしんを、水で戻した昆布にぐるぐる巻いて、甘辛く煮ること一時間あまり。こうして、やっと昆布巻きが出来上がる。


 左:ニシンづけ  右:昆布巻き

 やれやれなんでこんなに時間がかかるのだろう。それにこんなに時間をかけてまで食べたい代物でもないよなあと、おもう。ほかにもっとおいしいものはいっぱいあるしね。
 でも、かつての日本人はそうは思わなかったようだ。手間をかけ、時間をかけ、いつくしむようにして、干したニシンを食べた。

 北海道の日本海沿岸では、江戸時代からニシンがたくさんとれていた。
 ニシンはあぶらが多いのでゆっくり乾燥させないと腐ってしまう。ニシンの頭と内臓をとり、冷たい空気にさらし、しっかり干して「身欠きにしん」にした。

 北前船で内地に運ばれ、保存に便利なタンパク源として各地に流通した。
 京都の名物料理に、身欠きにしんの、煮ものがある。海のない京都の人々にとって、遠い北の海からきた身欠きにしんは、たいへんなごちそうだった。見たことも、行ったこともない北の蝦夷地からはるばると運ばれてきた身欠きにしんである。
 京都の人は、大事に、大切に海の幸を食したのだ。

 蕎麦屋のメニューに「ニシンそば」がある。
 以前は、東京の蕎麦屋にはなかったと思う。わたしは、高校の修学旅行の京都で、食べたことがあるくらいだ。近年、食も多様化し、東京でもニシンそばが食べられるようになった。

 目黒駅まえのお蕎麦屋さんに立ち寄ってみた。ショーウィンドーの「カモ南蛮そば」の隣に、「ニシンそば」が並んでいた。
 半身の身欠きにしんが、どんと載っている。(写真上)手間とヒマがかかっているのよねえと、思いながら頂いた。

 北海道のニシン漁の全盛期は、1887年から1927年の40年間だった。
 今では、北海道でニシンは少ししかとれない。群れはノルウェイーやアメリカ大陸に移ってしまったのだ。
 正月も半ばを過ぎ、テレビでは大相撲の春場所がはじまっていた。
 おせちの残りものの、昆布巻きを食べながら相撲を観戦した。中の身欠きにしんをぎゅっとかみしめた。アメリカ製の身欠きにしんだ。茶色く甘く煮えていた。

 そうか、身欠きにしん、あなたって、日本の大相撲を支えているモンゴル人の横綱とおんなじだったのね、とおもった。

【寄稿・エッセイ】 やり直しは出来るかな = 中村 誠 

 体調が良ければ酒は学生時代から日本酒、洋酒、なんでも良かった。もちろんお相手しだいだ。不思議に二日酔いになったことはほとんど無かった。

 社会人になり、好みはまず日本酒が第一番にくる、次がウイスキー、ブランディーの順で、ワインを味わい楽しむ洒落た機会などはぜんぜん無かった。ビールはお腹ばかり膨れるし、ほとんど乾杯時にのどを潤す程度だった。アルコール類の種類が広がり始めたのは30歳に入る年の海外駐在からだ。

 アメリカ駐在の6年は、気候風土が変わったから嗜好も変化した。カナダウィスキー、バーボン、時にはマテイーニを味わった。
 輸入の日本酒は本来の美味さが乏しく敬遠した。また、次の駐在四年のドイツでは、白ワインを中心に、また生ビールとアルコール度数40度の高いシュナップス(ジャガイモから作られる蒸留酒)でドイツ人と付き合った。
 北欧出張では地場のハードリカーを好み、取引先との懇親には役立った。どこの国でも自国の酒を好む客人は歓迎される。不思議と肝臓機能には何の問題も起こらなかった。

 40年の会社生活を終え、自由人になって早くも15年が過ぎた。アルコール類の好みは〝郷に入れば、郷に従え〟の通りで、友人との懇親では日本酒、特に冷酒に戻り、時には地方の芋焼酎、あるいは麦焼酎も愛飲した。家ではワイン中心で家内に付き合った。

 数年前の人間ドックで肺気腫と診断され、大きなショックだった。現医学では肺気腫の完治は望めず、薬の服用が悪化の進行を出来る限り遅らせる唯一の方法と知った。原因は半世紀にわたる悪習慣の喫煙だと猛反省している。

 現在、外出時には携帯酸素ボンベ(6時間限度)の使用は不可欠で、日常生活の行動パターンは制限され、変えざるを得なかった。

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