【寄稿・エッセイ】 幻の本 = 森田 多加子
中学に入ると、七才年上の姉から「おさがり」がまわってきて、硝子戸付きの本箱が、私のものになった。使っている座り机と幅が同じだ。古くて小さい。
しかし、下に木箱を置いてみると、丁度机の正面の壁全体が本箱になった。嬉しくて、持っている本を並べてみる。いっぱいにならないので、教科書もノートも入れる。しかし隙間は埋まらず、理想の本箱の景色には程遠い。
その頃は食糧不足でもあり、お腹を満たしてくれない本は、贅沢品であった。本は借りて読むものであり、買えるような裕福な暮らしではなかった。
近くに同じ齢の郁子が住んでいた。たくさんいる従姉妹のうちで、唯一、本好きなので、本を借りたり、時には読んだ本のことで話が弾むこともあった。
彼女が遊びにきた。いつものように本を抱えている。
「何を読んでるの?」
「これ」
郁子が差し出した本は、手に取ってみると、ずしりと重かった。私の本棚にはない重厚なものである。いかにも高級な感じがした。こんな本を読んでいるのかと、少し負けたような気持ちがした。うらやましげに見えたのか、郁子は言った。
「貸してあげるよ」
「ほんと?」
郁子が帰ってから、しげしげと本を見た。小さな字が二段に分かれて並んでいる。少し読んでみたが、私には難しい。
しかし、なんと貫禄のある本だろう。本箱に立ててみた。今までにない一冊だ。超然と光り輝いている。背表紙に『森に住む人』と書かれている。著者はトマス・ハーディだが、勿論そのころの私には、まったく縁のない名前だった。
今まで並んでいるものは、少女小説が主だが、それがいかにも貧弱に見えた。こんな重厚な本を並べたい。父の本棚のようにしたい。私はわくわくした。
次に郁子に会った時、私は思い切って言った。
「これ欲しいんだけど、もらえない?」
「いいよ」
あっけないほどさっぱりした言葉に、信じられない顔をしたと思う。
「同じような本は、たくさんあるから一冊くらい大丈夫よ」
郁子は、明るく言った。
それから毎日机の前におかれた本棚を、というよりでんとおさまった大きな本を眺めながら、悦にいっていた。読まないで、いつも眺めるだけであった。
数か月たったころ、郁子が来て困ったように言った。
「前にあげた本ね、返してほしいの。お母さんからひどく怒られてしまった。あれはお父さんの本で、全集の中の一冊だから、無くなると困るんだって」
「……」
「この本を上げるから、返して」
その日に持ってきた本には目もくれず、私は強く言った。
「だって、あげるって言ったんだから、もう私のものでしょ」
今度は郁子が沈黙……そして哀願するような必死の顔になった。
「お母さんが、ものすごく怒ってるの。お願い……」
郁子の母親の厳しい顔が浮かんだ。私もたくさんいる叔母の中で、一番苦手である。その叔母が激しい口調で、郁子を叱っている様子を想像すると、彼女が可哀そうになってきた。ため息をつきながら、本箱から取り出し、郁子の手に渡した。
存在感のある一冊がなくなってしまった本箱は、何だか一気にステータスが落ちて、素材の木の色が澱んだ。
その時の悔しい思いが忘れられず、働くようになって一番先に買ったのが『日本文学全集』(新潮社)全六十巻と、『新版世界文学全集』(新潮社)全三十三巻である。毎月届けられる本を、長くかかって集めたが、私の本棚で光っていた「あの本」とは比べ物にならない簡素な装丁だ。
数少ない嫁入り道具の一つとしたので、それは未だに、私の本棚に並んでいる。