【寄稿・エッセイ】頭の体操いたしましょう=三ツ橋よしみ
混んだ電車で、若い女性に席をゆずられた。気持ちはうれしかったが、少しさみしくもあった。いつまでも若くありたいという思いでいるのに、現実は無残にも、あなたはもう若くないの、年相応に老いさらばえているのよ、と突き付けられたのだから。
つやつやとしわ一つない肌をした二十歳前の娘さんから見たら、そりゃあもう六十過ぎの私は、もう立派なおばあさんなのだろうけれど。
見た目の老化は致し方ないとしても、脳の働きが老化するのは少し困る。迷子になって行方不明になったりしたら、周りにも迷惑をかける。来るべき老いに向かって何か打つ手はないだろうか。
そんな折に、書店で本を見つけた。
「百人一首の音読・暗誦で脳力がグングン伸びる」と表紙にある。ほんとうかな。
著者は元小学校の校長で、富山市の小学校に在職していた時に、全校生徒一丸となって、百人一首の暗誦に取り組む活動を推進した。
結果は目覚ましく、生徒たちの成績が上がり学習意欲の向上がみられた。小学校で百人一首の暗誦に熱心に取り組んだ生徒は、その後、中学、高校でも良い成績を収めた。
昔の人の英才教育は、論語の素読や史書五経の暗誦だった。吉田松陰や福沢諭吉もそのようにして学んだ。
真言宗には求聞持聡明法(ぐもんじそうめいほう)という、繰り返しマントラを唱えることで、脳の深部の回路を開き、難しいお経がすらすら覚えられるようになる秘法がある。
ノーベル賞受賞者の三文の一がユダヤ人であるともいわれる。彼らの教育は、幼いころから膨大なユダヤ経典を暗誦させることでも知られている。
世のため人のため、何よりも自分のため、来るべき脳の劣化に立ち向かおうと、私は思った。百人一首の暗誦に取り組むぞ。
なあんだ、百人一首か、とあなどってはいけない。ただ漫然と百首を憶えるのではなく、加速度をつけて音読するのだ。
最終ゴールの名人級は、「百首を、なにも見ないですらすらと7分以内で詠む」のである。
7分は420秒だから、一首を4.2秒で詠まなければならない。躊躇したり、言い淀んだり、えーっといって、考えこめば、すぐに3秒4秒と時間がかかってしまう。新幹線のごとく、息も切らさず、突っ走らなければ7分以内で詠みきることはできない。
ためしに、上の句5文字を、本を見ながら早口で音読してみた。うろ覚えの歌もあったので、百首に25分以上かかってしまった。これは大変だ、大丈夫かな、できるかなあ。
通勤の電車の中で、地道に暗誦にとりくんだ。高校時代に国語の先生に暗記させられた、ばつざんがいせい、かれんちゅうきゅうなどの四字熟語が思い出された。あの頃は、一夜漬けでもなんとかなった。若かったなあ。
久しぶりに負荷を与えられた、私の脳はとまどっていた。なによこれ、こんなもの出来るわけないじゃないと、弱音をはく。そこをしらんぷりして、今やらなかったら、次は70歳になっちゃうんだから。そんなときに後悔しないように頑張ろうよと言い聞かせる。
普通の記憶と、百首を一気に7分で詠む記憶は、脳の使う部分がことなる実感がした。頭の手前部分に血が通うように思えた。
小さな声で音読するのだが、スタート時は、舌はもつれ、頬の筋肉がくたびれ、目が疲れてと散々だった。一方はじめ抵抗していた私の脳は、久しぶりの自分の出番に目覚めたのか、とても喜んで疲れを知らない。
ともあれ、暗誦練習をするようになって、通勤の行きかえりの退屈な時間が、あっという間にすぎ、快感に満ちたものとなった。
暗誦をはじめて1カ月半たった。
ようやく百首を10分以内に詠める「特級レベル」に到達した。この先、10分を、7分未満にする「名人」への道は、まだまだ大変だ。老化のせいで、覚えたはずのものを翌日は忘れていたりする。それでも回数を重ねればなんとかなるはずだ。希望をもとう。
「特級レベル」達成後、私の脳は気を良くしたのか、もっといろんなことに挑戦しようよと言いだした。
体操嫌いの私には、ぴったりの脳の体操を見つけた気がする。