寄稿・みんなの作品

はなじょろ道(花嫁さんの道)を登る、高松山=石村宏昭

高松山(801m)=石村宏昭

日時:2014年7月20日(日)曇り

メンバー:L武部・飯田・岩淵・原田・市田・中野・赤羽(ゲスト)・石村(8名)

集合:小田急・新松田駅に8:55

コース:~(バス)田代向~はなじょろ道登山口~尺里峠~ヒネゴ沢乗越~高松山山頂~ビリ堂~さくらの湯~JR山北駅


 台風の影響もあり、今週はぐずついた空模様が続いた。
 天気予報が思わしくなく、とにかく、早めに下りてくれば雨にはあわないだろう、という判断で、8時55分、小田急線・新松田駅に集合した。9時5分のバスに乗車。田代向で下車する。
 案内板に従って林道を進み、ヒネゴ橋を渡ると、左には手製の鐘と,「はなじょろ道入口」の案内板がある。


 はなじょろ道とは、明治末期まで、沢虫地区と山北町の八丁地区を結んだ生活道である。と同時に、花嫁さんが通った道であることから、こう呼ばれてきたそうです。
 登山の安全を願って、静かに鐘を鳴らし、登山道に入る(9:35)。しばらく、杉林の中をジグザグに登って行く。杉の丸太の階段等で、よく整備された道が続く。尺里峠の分岐を過ぎ、40分程杉林を登りきると、「ヒネゴ沢乗越分岐」に着く。

 ここで、小休止をとる。天気が良ければ、ここから10分程の「富士見台」へでも、という気持になるところだが、360度の遠方は視界無し。休憩もそこそこに出発した。

 途中、鹿除け柵を横に見ながら、緩やかな坂をのぼっていくと、やがて、運動場のように広い、芝地の高松山山頂(801m)に到着する(11:35)。


 残念ながら、富士山は雲の中だった。眼下には大野山の牧場がのぞめるくらいだ。好天だったら、霊峰富士を目の前に臨む、すばらしい山頂なのだろう。ここで、昼食休憩とする。

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【寄稿 エッセイ】 ヘラブナ釣り = 廣川 登志男

「バシャ、バシャバシャ」
 音に反応して振り返ると、川辺で釣りをしているオジサンが居た。
 竿を頭上に持ち上げ片方の手に玉網(タモ)を持って、浮き上がってくる魚を網に入れようと取り組んでいた。結構大きい魚のようだ。なんとなく見たことのある風景に興味をそそられた。四十歳を過ぎて、小学校に通う子供たちとデイキャンプをするため、房総半島の真ん中にある三島湖に来ていた時だ。

 子供たちや家内は昼食の準備にてんやわんやの状況だったが、私は釣りの方に意識が向いてしまった。
 釣りのオジサンが魚を取り込んだ。次の釣りの準備に、エサを針につけているとき、声を掛けさせていただいた。
「すいません、なにを釣っているのですか」
「ヘラだよ。ヘラ」
 忙しいときになんだよ、と邪険な返事だったが、見ると懐かしい孔雀ウキだ。
 孔雀の羽の軸はスリムだが浮力が大きく、ヘラブナ釣りの「ウキ」によく使われる。
「ヘラブナ釣りだ」心の中で叫んでしまった。
 すぐに小学校時代を思い出す。

 小学校は品川区小山台にあった。目黒区と接するところで、近くに清水公園がある。ここは、都内でも五本の指に数えられる「ヘラブナ釣り」の有名な場所だ。当時、孔雀ウキなどは大人が使うもので、我々小学生はセルロイドの細い棒ウキを使っていた。
 エサは小麦粉を練ったものにさなぎ粉を混ぜた。前夜、母に手伝ってもらい準備して、登校2時間ほど前に友人と釣りに行った。

 大人でも難しい釣りに、子供がそんなに釣れるわけはなかったが、小さいときから剣道をやっていたので、ウキの動きに瞬間的に反応して竿を上げるのはうまく、たまに釣れたので結構のめりこんで通っていた。

 中学以降は部活や勉強、更に、社会人では仕事に追われヘラブナ釣りは止めていた。そのため、三島湖での出会い時は一切道具がなかった。さっそく釣具屋に出かけ一式揃えた。
 結構、良い値がしたが、当時、私は企業戦士そのもので、朝は7時頃から夜は深夜くらいまで仕事だった。下手をすると日付が変わってからの帰宅という仕事一辺倒の生活だったので、この趣味位いいだろうと我家の大蔵大臣を拝み倒して購入した。

 それからというもの、出社しないで済む休日は朝四時起きで三島湖に通い、顔や手は日焼けして真っ黒となっていった。

 再開後、しばらくして地域のヘラブナ釣り研究会に入った。月一度の例会で、たまに優勝するほどになったし、年間優勝も頂いた。
 ヘラブナ釣りは、難しいので有名だ。
「釣りは、フナで始まりフナで終わる」と云われるが、最初のフナはミミズなどで簡単に釣れるマブナのことで、最後のフナはヘラブナだ。難しい釣りなので、最後の魚ということになる。
 人工的なヘラブナ釣池が各地にある。1、2メートルしか離れていない隣の釣り師が「入れ食い」で数多く釣り上げているのに、こちらはウキがピクリともしないことがある。それほど腕がものをいう。

 当日の天候や気温、それに気圧なども影響しているようで、ヘラブナはなかなかエサに食いついてこない。食いつかせるためには数えきれないポイントがある。エサでは種類・硬軟・大小、ウキでは大小(浮力の大小)・位置(深さ)、それに糸の太さ、針の大きさ、その他諸々。更には上記をもう一度やり直すことになる竿の長さ。一つの条件で十投ほど試し、食いつきがなければすぐに条件変更だ。
 だから、呑気な人には絶対釣れない。短気な人でなければ釣れないのがヘラブナ釣りだ。
この釣りにのめり込むということは、ヘラブナ釣りを通して「短気」を習得することなのかと思ったりした。

 会社人生では、諸先輩から助言を多くいただく。また、人生論などでも参考になる言葉がある。特に戒めの言葉の多いのが「短気」についてだ。

「短気は未練の初め/短気は身を滅ぼす腹切り刀/・・・」。
 まさに「短気は損気」であって、逆に、良く言う言葉は聞いたことがない。

 しかし、待てよ。ヘラブナを釣るためにいろいろと条件を変える。あきらめずに粘り強くトライして、結果的には目的を果たして釣り上げる。これは仕事でも同じだ。
 私自身、仕事上、数多くの難題に取り組んできた。簡単にはいかなかったが、あきらめずにしつこく取り組んで解決してきた。
「そうだ」
 粘り強く解決しようとする姿勢を身に付けることができたのは、ヘラブナ釣りのお蔭だ。と良い方向に考え直して、明日もまたヘラブナ釣りに行こうと考えていた。

【寄稿・エッセイ】 幻の本 = 森田 多加子

 中学に入ると、七才年上の姉から「おさがり」がまわってきて、硝子戸付きの本箱が、私のものになった。使っている座り机と幅が同じだ。古くて小さい。
 しかし、下に木箱を置いてみると、丁度机の正面の壁全体が本箱になった。嬉しくて、持っている本を並べてみる。いっぱいにならないので、教科書もノートも入れる。しかし隙間は埋まらず、理想の本箱の景色には程遠い。

 その頃は食糧不足でもあり、お腹を満たしてくれない本は、贅沢品であった。本は借りて読むものであり、買えるような裕福な暮らしではなかった。
 近くに同じ齢の郁子が住んでいた。たくさんいる従姉妹のうちで、唯一、本好きなので、本を借りたり、時には読んだ本のことで話が弾むこともあった。
 彼女が遊びにきた。いつものように本を抱えている。
「何を読んでるの?」
「これ」
 郁子が差し出した本は、手に取ってみると、ずしりと重かった。私の本棚にはない重厚なものである。いかにも高級な感じがした。こんな本を読んでいるのかと、少し負けたような気持ちがした。うらやましげに見えたのか、郁子は言った。
「貸してあげるよ」
「ほんと?」
 郁子が帰ってから、しげしげと本を見た。小さな字が二段に分かれて並んでいる。少し読んでみたが、私には難しい。
 しかし、なんと貫禄のある本だろう。本箱に立ててみた。今までにない一冊だ。超然と光り輝いている。背表紙に『森に住む人』と書かれている。著者はトマス・ハーディだが、勿論そのころの私には、まったく縁のない名前だった。

 今まで並んでいるものは、少女小説が主だが、それがいかにも貧弱に見えた。こんな重厚な本を並べたい。父の本棚のようにしたい。私はわくわくした。

 次に郁子に会った時、私は思い切って言った。
「これ欲しいんだけど、もらえない?」
「いいよ」
 あっけないほどさっぱりした言葉に、信じられない顔をしたと思う。
「同じような本は、たくさんあるから一冊くらい大丈夫よ」
 郁子は、明るく言った。

 それから毎日机の前におかれた本棚を、というよりでんとおさまった大きな本を眺めながら、悦にいっていた。読まないで、いつも眺めるだけであった。

 数か月たったころ、郁子が来て困ったように言った。
「前にあげた本ね、返してほしいの。お母さんからひどく怒られてしまった。あれはお父さんの本で、全集の中の一冊だから、無くなると困るんだって」
「……」
「この本を上げるから、返して」
 その日に持ってきた本には目もくれず、私は強く言った。
「だって、あげるって言ったんだから、もう私のものでしょ」
 今度は郁子が沈黙……そして哀願するような必死の顔になった。
「お母さんが、ものすごく怒ってるの。お願い……」
 郁子の母親の厳しい顔が浮かんだ。私もたくさんいる叔母の中で、一番苦手である。その叔母が激しい口調で、郁子を叱っている様子を想像すると、彼女が可哀そうになってきた。ため息をつきながら、本箱から取り出し、郁子の手に渡した。

 存在感のある一冊がなくなってしまった本箱は、何だか一気にステータスが落ちて、素材の木の色が澱んだ。
 その時の悔しい思いが忘れられず、働くようになって一番先に買ったのが『日本文学全集』(新潮社)全六十巻と、『新版世界文学全集』(新潮社)全三十三巻である。毎月届けられる本を、長くかかって集めたが、私の本棚で光っていた「あの本」とは比べ物にならない簡素な装丁だ。
 数少ない嫁入り道具の一つとしたので、それは未だに、私の本棚に並んでいる。

たまには茨城の山もいいですよ、吾国山=関本誠一

 吾国山(わがくにさん)(513m)
 日時:2015年2月28日(土)  晴れ時々曇り
 メンバー:L武部、佐治、関本
 コース:JR羽鳥駅(バス)⇒瓦谷BS~団子石峠~難台山~道祖神峠~吾国山~JR福原駅

 今日行くところは、筑波山の東側にある吾国山。関東百名山のひとつということでリーダーが計画。集合はJR常磐線羽鳥駅(8:40)。上野駅から約1時間半で思ったより近い。

 8:45発のバスに乗り、瓦谷バス停で下車(9:00)。ここから尾根上の団子石峠までは緩やかな舗装された車道を歩くこと約1時間。峠で小休止していると、尾根伝いに来るハイカーがいた。愛宕山から縦走している人たちの最適なコースになって、地元では笠間アルプスといわれているそうな……。
 峠から登山道に入りいきなり急登だ。一登りすると大きな岩が鎮座……。これが団子石とか。峠の名前もここから来ているそうな。さらに登りつめたところが、三角点のある団子山である。

 一旦下ってまた急登。登りつめたところが大福山。『美味しそうな山名が続くね』と言いながら、また急な下りと登りの連続である。登山道脇に高さ10mほどの巨石が……。屏風岩とか。

 登山道はよく整備されており、笠間トレイルの一部となっている。さすが『xxアルプスと言うだけのことはある』と言いながら登りつめた所が、本日の最高峰(553m)で、三角点がある難台山。

 山頂には数人のハイカーが休憩していた。山名表示板も設置されて、近くには筑波山、加波山が見えて、次なる山行に期待が膨らむ。
 難台山からの下りも急だ。急斜面を下り切ると、ようやくなだらかな登山道だ。スズラン群落地に下りる分岐を過ぎ、まもなく道祖神峠に出る。車の往来が結構ある舗装された道路に出る。
 道端には、道祖神の石碑がポツンとあるだけの簡素な峠だ。ここから、いよいよ今回の目的地の吾国山への登り。青少年のための施設・洗心館を過ぎると、息も切れそうなくらいの急登となる。山頂に近付くにつれ、徐々に緩やかになってゆき、石垣の上に祠がある山頂に到着した。(12:30)。

 集合写真を撮ってランチタイム。

 下山はJR水戸線(初めて乗ります!)の福原駅に向けて下り。山頂直下のカタクリ群生地を過ぎ『xx丁目石』を見ながらの快適な下りだ。標識に従って進み、福原駅に到着(14:30)。友部駅で常磐線に乗り換え、一路上野へ。

 時期が早かったので、お花がわずかしかなかったが、シーズンともなるとカタクリ、スズランをはじめたくさんのお花が見られるコースだ。茨城県の山は遠くに感じていたが、電車に乗ってしまえば、奥多摩に行くのと変わらないくらいことがわかった。
 たまには茨城の山もいいですよ。ぜひ出かけてみてはいかがでしょうか……。

                記録・関本誠一(吾国山頂・祠前にて)

ハイキング・サークル「すにいかあ倶楽部」会報№187から転載

島崎藤村と日本山岳会=上村信太郎

 文豪・島崎藤村は、ある時期「日本山岳会」の会員だった、と聞けば意外に思うかもしれない。藤村が登山をしたということは年譜などにも記されていないし、そもそも何のために山岳会の会員になったのか解らないからである。

 藤村は明治5年(1872)、信州木曽の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市)に生まれた。明治学院卒業後、明治女学校、東北学院、小諸義塾で教鞭をとるかたわら、詩人として活躍。その後、不朽の名作『破戒』『夜明け前』などの小説を発表。そのほか、「日本ペン・クラブ」を設立して初代会長を務め、昭和18年(1943)に71歳で亡くなっている。

 明治38年(1905)10月、城数馬、小島烏水、高野鷹蔵、高頭仁兵衛、武田久吉、梅沢親光、山川黙の7人によって「日本山岳会」が結成された。これは、山岳に関する研究・登山の指導奨励・会員の親睦などを標榜する人たちによる我国最初の山岳会誕生であった。初期の会員には多くの著名人が名を連ねた。たとえば、植物学者の牧野富太郎、『日本風景論』の著者志賀重昻、民俗学者の柳田國男、後の外相藤山愛一郎、西本願寺の大谷光尊門主の三男大谷光明、岩倉具視の四男岩倉道俱、与謝野鉄幹、田山花袋、日本画の竹内栖鳳、等々。

 「日本山岳会」設立の翌年に藤村入会。会員番号は84。『破戒』発表直後である。日本山岳会の会報『山岳第二年第一號附録』の会員名簿に、本名の島崎春樹の名前がある。住所は、東京市淺草區新片町一番地(現在の台東区柳橋)となっている。

 山岳会創立会員の小島烏水は、藤村入会の直後に『山水無盡藏』(隆文館刊)を出版。その序文を藤村が書いている。これ以外、藤村が山岳会会員として何かしたという形跡は見られない。ではなんのために藤村は山岳会に入会したのだろうか。また、いったい誰が藤村に入会を勧め推薦人になったのであろうか。名作「千曲川のスケッチ」のなかで、水彩画家B君として登場している小諸義塾時代の僚友、丸山晩霞に入会を誘われたのであろうか。それとも自らすすんで目的をもって入会を希望したのだろうか。

 実をいうと、藤村と烏水は山岳会が結成されるずっと以前から知己の間柄だったのだ。そのことは、藤村没後、烏水が書き残した「藤村覚え書き」(大修館書店刊『小島烏水全集』第十二巻に収録)に記されている。小諸義塾当時、雑誌『文庫』の記者として知られていた烏水に藤村が手紙を書いた。学校の職員で文集を本にするので序文を書いてほしいという内容。烏水は序文を書き、後に『山水無盡藏』出版にあたり、今度は新進気鋭の藤村に序文を依頼したのだった。

 これらのことから、藤村が山岳会に入会した動機は、烏水に自分が推薦人になるからと勧められたから、と考えるのが自然であろう。
 こうしてみると、宣教師ウェストンに影響され、英国の「アルパイン・クラブ」を倣って創立された日本山岳会は、結成当初は文化人たちが集う社交場だったことがうかがえる。

(ハイキング・サークル「すにいかあ倶楽部」会報№186から転載)

 

立ちはだかる月の輪熊を想像させられた、丹沢・檜岳 =岩淵美枝子

 檜岳(ひのきだっか)(1167m)
 平成26年12月10日(水) 曇り時々晴れ
 参加者:L関本、武部、佐治、岩渕(4名)
 コース:寄沢登山口8:30~雨山峠10:30~檜岳11:40(お昼~12:30)~下山口14:00~寄バス停14:45

 今日は、渋沢駅8:00集合だった。目覚まし時計は4:00にセットし、5:00に家出る。渋沢駅から登山口まではタクシー。途中、薄っすらと白く霜の降りた茶畑の中をいく。運転手さんが近道を通ってくれたのだ。有難うございます。

 出だし、幸先いいなぁ。料金も3250円と、リーダーの予想していた金額より安かったし。
 さあ、身支度を整え、登山計画書をポストに入れてから、樹林帯の中へ。看板が、この森の紹介をしてくれる。色鮮やかな木々の写真、鳥、花、観ると、ここは豊かな森のようだ。
「成長の森」と表示された看板だった。なるほど手入れの行き届いた森である。バックには企業の応援あるのだろうか、トヨペット、タカナシ乳業の他、保全林の看板があった。ほんと嬉しくなる。

 森が豊かであれば、水も綺麗なんだろうなぁ。いいな、西丹沢って。以前は何年か前に行った。丹沢の大山三峰では、赤土で石ころを抱いたスギ林があった。思いだすと、あのスギの木たちが可愛そうになった。

 ここのスギ林は葉も緑も黒々として、下草も豊かに生い茂っている。
「いいな!いいな!」
 こんな所を、今日は歩けることに、幸せを感じる。

 先月21日、熊本から帰り、飛行機の中から富士山がみえた。ふわーっと白い衣を纏った日本一の富士山を、スマホでパシャり。何枚も撮りながら、山に行きたいと思う。9月の剱で捻挫して以来、、この頃は山らしき山は行ってなく、帰ったら絶対行こうと思った。
 鍋割山、棒の嶺、そして今日の檜岳、雨山峠コースを行く。

 雨山峠までは4.2キロ、2時間ぐらいかな。川原に出た、ここから渡渉が始まる。水かさは、殆んど無く、渡りやすい。大きな石ころの上を、バランスよく飛んでいく。

 7から8回くらい渡渉があったが、面白い。両岸を見上げると、ブナの落葉樹が、すっかり葉を落とし、我々4人にむけて、ここまで上って、登ってこれるかなぁと、上から見守っている。

 あまりの静寂さに、さっきゲートのところにあった、大きな月の輪熊のイラストの看板を思い出した。目の前に、がオーッと立ちはだかる熊の顔を想像すると、背筋がぞぞぉーとする。皆には教えなかったが、あきらかに熊の糞が墜ちている。
 糞は時間経っており、黒く涸れていた。だが、あの糞は熊にまちがいない。野犬の糞だよ、と自分に言い聞かせたが、怖い……。鹿の糞、ウサギの糞みたいなのも墜ちていた。

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【寄稿 エッセイ】 社宅も良し悪し : 月川 力江

 九州から東京へ転勤の内示があった。社宅が二軒あるので選んで下さい、と物件が提案された。
 一軒は世田谷区の梅ヶ丘に一〇〇坪の土地で、木造二階建ての古い家。もう一軒は東京二三区外のマンションだった。夫は頭から世田谷を希望する。理由は見えみえで広い庭にゴルフ練習用のネットを張るつもりだ。私は広い土地は落ち葉の掃除や、草取りを考えただけでも嫌だった。
 都心から離れていても私はマンションが良いが、やはり夫の希望通りで世田谷を選び、東京へ来た。
 落ち葉の時期を想像すると、頭が痛くなるほどの大きな木がある。家は古いが、立派な建物で、玄関脇の応接間はレトロな感じで電灯のスイッチひとつでも陶器のしゃれたものだった。

 1ヶ月もしない頃、夜遅くお風呂に入った娘が「きゃ~っ」と大きな声を出した。
 戸外で誰か怪しい足音がすると言う。庭の表側はきれいに清掃されていたが、裏庭はたくさんの枯葉が積もっていた。娘はすぐに110番に電話をした。その後は裏庭も掃除をして、お風呂も早い時間に入ることにした。

 その後しばらくたって、朝起きてすぐに外玄関の郵便受けに、新聞を取りに行ったら白い物が落ちている。何だろうと近づくと、それは私の下着だった。
(あ~っ、しまった)と思った。前の日は家族で外食して帰りが遅くなり、洗濯物を取り入れるのを忘れていた。すぐに裏庭の干し場に行くと、夫と息子の物だけがある。朝食の時、
「昨夜、下着泥棒に入られて女性用の下着だけを盗まれたのよ。多分急いだのでしょうね、私の下着を落として行ったのよ」と言ったら息子が、
「落としていったのじゃないよ、お母さんのは捨てていったんだよ」
「え~っ どうして? 女性二人の下着やブラジャーなどをしっかり胸に抱えて逃げる時、慌てて落としたのよ」
「そうではない、『こんなババ用はいらない』と捨てたんだよ」
「ババ用じゃない、私のだって薄いピンクと淡い藤色よ」
「彼等は女の子の可愛いい花柄や、ビキニが欲しいんだよ」
 側にいる夫はニヤニヤしているので、助けを求める気持ちで、
「貴方はどう思いますか?」
「俺はお母さんを傷つけるような事は答えない」
「それは答えたも同じじゃないですか」
 家族四人で爆笑した日曜日の朝だった。

 その後、数日たって私は家族には内緒で、夫と私の下着を干したままにして試してみた。
あ~ 下着泥棒は我が家には見向きもしないで素通りした。


              エッセイ教室 2015年5月

【寄稿 エッセイ】 野島の浜のゴミ拾い = 林 荘八郎

 わたしは海が大好きだ。大きな空、広い海原を眺めていると童心に返り、心が大らかになる。磯や砂浜も更に好きだ。訪れたことのある砂浜の中では石垣島、九州の唐津、西伊豆の松崎の砂浜が好きだ。松と砂とのコントラストが映えて美しい。

 ところで横浜市にも昔ながらの砂浜が唯一残っている所がある。わずか100メーター程のものだが正面に八景島シーパラダイスを眺める金沢区の野島公園の浜だ。潮干狩りの名所でもある。というと風光明媚な浜と思われるが現実はそうでもない。


 その浜は北に面しているため、北風が吹く日は東京湾のゴミが流れ着き、無残な景色と変わる。台風が近くを通過したあとは大変だ。そのときの量は特別に多い。

 10年ほど前、台風の過ぎ去ったあと浜に出たら雑木、芝、竹などが山のように流れ着いていた。手を付けようがない状態だった。その光景を目の当たりにして町内の人たちと途方にくれた。それらは日が経つと水分が蒸発し乾燥した。軽くなり、また汚いものではないので自分が片付けてみようと思い、暇を利用し少しずつ道端に引き上げ、一緒に流れ着いたロープを活用して束ねた。

 一週間余り要して全部引き上げ、横浜市の清掃局(今の環境事業局)へ回収を依頼した。1トントラック三台分くらいの量になっていた。浜の姿を元に戻した達成感を抱いたが、これが初めてのゴミ拾いだった。


 その後、西伊豆の松崎へ旅したとき、綺麗な砂浜に出会った。夕方、二人の老人が熊手を手にして談笑していた。浜の掃除をした後だったのだろう。その姿は清々しかった。村の大事な美しい砂浜を守っている喜びと誇りにあふれた表情だった。それがわたしの手本になった。それ以来、野島のゴミを拾い始めた。

 昨今のゴミはいろいろな種類がある。その中では化学製品が圧倒的に多い。発泡スチロール、ペットボトル、各種のプラスティック製品、レジ袋、菓子袋。そして缶製品。時々、テレビ、冷蔵庫も流れ着く。いちどゴミとなった化学製品は厄介だ。いつまでも残り朽ちていかない。化学品メーカーはせっせとゴミの材料を作っていると言われても仕方がない。

 わたしは雨さえ降らなければ毎朝、野島を一周する散歩に出かける。そのとき浜でゴミに気が付くと放っておけない。そして少しずつ袋詰めして片付けている。

 ところがその袋をどこへ運ぶかが問題になった時期がある。家庭ゴミではないので町内の集積場へ運ぶわけには行かない。そこでひと先ず浜の近くに置き、まとまった量になったら環境事業局へ回収を依頼していた。ところが潮干狩りに来た人たちの格好のゴミ捨て場として利用されてしまい、未公認の集積場になった。

 野島公園の管理事務所は「不法投棄をするな!」という立て看板を取り付けた。私のすることは管理事務所にとって迷惑な行為のようだった。

 ある日、浜にいたら所長が近づいて話しかけてきた。
「海のゴミの管轄は港湾局です。船で回収しています」
「浜に打ち上げられたゴミはどこの管轄ですか」
「さぁー。私たちの役割は公園の管理です。浜は管轄外ですが、一応毎月第三土曜日には業者を入れて清掃しています」
「月に一回ですか。わたしはゴミが多い時に見かねて拾っているのです」
まるで余計なことをしてくれるなと言いたげだった。しかし話し合った結果、それ以降は袋を公園内の遊歩道まで運べば回収することで落着した。


 残念なことに横浜市には海を清掃する部署はあっても浜を清掃する部署がないことが分かってしまった。市内に砂浜は僅かしかないのだから尤もなことだ。確かに海の浮遊物を回収している船を時々見かける。だが浜が今のままでは
「横浜市の野島には昔ながらの自然の砂浜が残っている」
 という謳い文句が泣く。浜に流れ着くゴミは、浜に捨てられた物か、海へ捨てられた物か、風に吹かれ海へ落ちた物だろうが、海は自ら綺麗になりたくてそれらを浜に排泄しているのだろう。

 野島にも近ごろゴミ仲間がいるらしい。町内の人が教えてくれた。まだ顔を合わせたことはないが、通じ合うものがあって楽しい。お互いに静かにゴミ拾いをしたい。今のままで行こう。それでいいのだと思う。

 朝の散歩とゴミ拾いは私の健康法だ。拾うときの姿勢はまさにスクワット体操そのもの。私の腰痛予防には打ってつけだ。
 まあいいか、これからもこれは続けよう。相手は大好きな海の排泄物だから。

【寄稿 エッセイ】ブリヂストン美術館 = 筒井 隆一

 京橋駅でメトロを降りた。地上に出て、通い慣れた中央通りを日本橋に向かう。交差点を挟んで、大きなビルが新たに二棟建ち上がり、周辺の再開発も、あちこちで進んでいる。建て替え時期を迎えたビルが多いのだろうか。ここ数年で、あたりの景色がすっかり変わってしまった。

 私が、この地に本社を持つ企業に入社したのは、丁度五十年前だった。今年は入社五十年の記念の年である。街も五十年経てば、変わるのが当たり前、とあらためて思った。

 私の入社と前後して、京橋に開設されたブリヂストン美術館も、入居している本社ビル建て替えのために、数年間閉鎖されることになった。京橋に勤務していた頃、会社と美術館が近接していたので、仕事の合間に気軽に立ち寄っていた。5月17日の閉館前に、お気に入りの絵画作品を、ゆっくり楽しんでおこうと、今日は京橋まで出てきた。

 ブリヂストンタイヤの創業者、石橋正二郎は、西洋絵画に造詣が深く、特にモネ、ルノワール、セザンヌなど、私の大好きな印象派の作品を重点的に集めていた。京橋にブリヂストンの本社ビルを建設した際、その二階を美術館とし、石橋が所有していたコレクションを寄贈して、ブリヂストン美術館がオープンしたのだ。

 現在も二千数百点の絵画が所蔵されており、今回はそのうち厳選された百六十点が展示され、「ベスト・オブ・ザ・ベスト」展として公開されている。

 絵画展の楽しみ方には、いろいろある。海外の美術館で保有する有名な絵画、例えば『ミロのヴィーナス』『モナリザ』などを、日本に持ち込んで公開する、特別展の場合だ。海外に出掛けなくてもよいし、話のタネにもなる。

 しかし、入館前に長い列をつくって順番を待たねばならない。入場してからは、決められたスピードで歩くことを要求される。目玉作品の前では、警備係員の「立ち止まらないで下さい」の声に誘導され、評判の絵は一瞥できるものの、ゆっくり楽しく鑑賞できた、という気分には程遠い。

 これに対し、美術館の常設展を見る分には、好きな時間だけ自分好みの絵の前に立ち止まり、絵画から適度な距離を置いてゆっくり鑑賞することができる。


 家内と二人で海外に出掛ける時には、必ずその地の美術館に立ち寄ることにしている。お互い見たい絵が違うし、それぞれの絵に対する鑑賞時間にも差がある。美術館に入ったところで、何時集合と決めて別れる。約束の時間に再び集合するまでは、お互いに違った世界を楽しむのだ。

 鑑賞とは、これと思った絵画をじっくり見ることで味わい、理解し、作者がどんな環境、思いで描いたのか想像しながら、楽しむことだと思う。ぞろぞろつながって歩き、横目で見ながら通り過ぎるのは、鑑賞ではなく、ただ「見た」というだけになってしまう。

 ブリヂストン美術館は私にとって、展示作品の規模、内容ともピッタリだ。ここでゆっくり鑑賞している時間は、美と歴史について共感の世界が拡がり、心が豊かになる。
 5年後の美術館再開と、大好きな印象派の絵画との再会が待たれる。

【寄稿 エッセイ】欲しいもの、必要なもの = 森田 多加子

 朝、部屋に入るとルンバが駆け寄ってくる。丁度以前飼っていた猫のように、車椅子の足元にまとわりつく感じだ。私は思わず「ルンバちゃんおはよう」と言ってしまう。
 自動掃除機の(ルンバ)は、毎朝シャーシャーと音をたてながら、リビングで働いている。命令を出しているのは私より早起きの夫である。
「おーい、そこはもう何度もやっただろう」
「キッチンには入るな」
「テーブルの下は、スポット(集中清掃)でやってもらうぞ」
 骨折をして車椅子の生活を与儀なくさせられているので、床の掃除くらいは自動掃除機でと、子どもたちからプレゼントされた。

 最初はどれほどのことがあろうかと高をくくっていたが、どうしてどうしてなかなかたいした働き手である。

 カーペットを敷いていたが、つまずいて転ぶ事故も多いと聞くので、足腰の弱くなった最近は取ってしまった。床をフローリングにしていたのも幸いした。ルンバは快適に動き回っている。


 最新式の器具のもう一つは、キッチンのガスレンジだ。火を使用するので、一番怖いのが消し忘れだ。高齢者が起こしやすい事故なども、想定範囲に入れて選んだ。今までも不便ではなく、それなりに機能的なものだったが、今回は、一つのコンロを使い終わると、3分でメインスイッチが切れるという。感震停止機能もついている。わが家の家計簿からは、ちょっと贅沢かと思えるが、この際安全のための必需品だと思った。
 しかし……、である。
 テーブルの下に、何やらわけのわからないスイッチがいっぱいだ。

 コンロの上に鍋を置かないと、火はつかない。大きすぎる炎などは調節してくれるが、私のしたいことは無視して勝手にやる。
(左コンロ、温度が高くなっております。火力自動調節に切り替わりました)
 少々じっくりと煮込む料理には、途中で
(右コンロ使用中です)と何度かいうので、  
「知ってるよ、もう、うるさいなあ」と、怒鳴ってしまう。

 ココットや、グリルプレートなどたくさん便利なものが付いているし、全ての料理が自動で出来るらしいが、使いこなせない。

 こんなに複雑なものは、取扱い説明書を見なければ、わからない……。これがまたネット上にしかないのだ。印刷しようと思うと、なんとA4で28ページもある。仕方がないので、ざっと見て必要なページだけ印刷した。

 読んでみると、自分の使い易いように、設定変更が可能という。音声ガイドはオフになる。ガスの消し忘れ時間、出来上がりお知らせ時間などの変更は勿論、ご飯のおこげを五段階に設定できるというのを見ると、笑うより笑われているような気がした。

 どう考えても、私の理想のガスコンロは、もっとシンプルなものだ。火力は思うとおりに調節ができなければならない。今までのガステーブルでよかったのだ。我が家にとっては大金をはたき、何のために買い替えたのだろう。

 後悔の中、先日、ガスを止めるのを忘れたのか、スイッチが出たままになっているのを見つけた。しかし、メインスイッチは切れている。
 不満が高じて、買い直した動機を忘れていたことに気づいた。

 これが一番大事なことだったのだ。器具に注意されたら、文句を言わずに感謝しなければいけないのだろう。

 天ぷらも焼魚もきれいにできる。こんがりきれいに焼けた魚、なんと美しい姿だろう。だけど綺麗すぎないか? 
 ああ、焼魚は、油をボトボトおとしながら、少々焦げ過ぎたか、と思うくらいのものがいいのだ。

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