寄稿・みんなの作品

眼下には奥多摩湖の絶景、鹿倉山= 武部 実     

鹿倉山(標高1288m)= 武部 実

登山日:平成27年7月11日(土) 

参加メンバー:L武部実、佐治みろみ、大久保多世子、岩淵美枝子、中野清子、諏訪 (計6人)

コース:奥多摩駅~バス~深山橋~大寺山~大マトイ山~鹿倉山~大丹波峠~丹波村役場~バス~奥多摩駅



 久々の晴れの土曜日とあって、奥多摩駅は登山客で大混雑だった。バス停も長い行列。無事乗れるか心配したが、鴨沢西行の臨時便が出て、我々は定時(8:35発)のバスに乗ることができて一安心。

 9:15、深山橋を出発。橋を渡って、すぐ右側には蕎麦屋の陣屋の屋号が見える。その横が登山口。最初から意外に急登だ。
 30度超えの天気予報であったが、樹林帯の登山は木陰の中を歩くので、少しは楽だ。水分補給をこまめに摂るようにして登る。

 10:40、突然、目の前には真っ白で大きな仏塔が現れる。雲取山や奥多摩の高い山から白い建造物がよく眺められたが、これが噂の大寺山の頂上(982m)だ。なんで、この山の頂上に36mもの高さの仏塔がと思うが、簡単に言うと日本山妙法寺が世界平和を祈って建立したという。初めて見た人はビックリすること間違いなし。

 10:50に出発。途中の標識に、マジックペンで書いたと思われる大マトイ山(1178m)が現れる。地図上では1178mとしか書いいないので、山名が不明だったが、これで納得できた。鹿倉山まで30分の標示。目標がはっきりすると、ガンバローという気になるもんだ。

 途中の斜面からは、さきほど登った大寺山の白い仏塔と、背後のどっしりした御前山、眼下には奥多摩湖の絶景が眺められて満足。しかし、30分たっても頂上は見えず、どうなってるのかと思いながら、ようやく45分かかって12:45に到着した。

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【戦後70年・特別寄稿】東京大空襲を語り継ぐ (下)= 川上千里

日本の大都市から地方都市まで


 ルメイは日本の6大都市を焼き尽くせば、日本は大混乱になり、降伏するはずだと考えていた。ところが予想に反し、日本は徹底抗戦の姿勢をとり続けた。
 米国空軍が発注したB29は次々と生産され1000機にもなり、焼夷弾も量産されてくる。
早急に実績を上げる必要に迫られたルメイは6月17日から全国の都市爆撃を開始した。
 大都市で焼け出され、地方都市へ避難した人が再び被災した。

                         『廃墟と化した大阪市内』

 爆撃を受けた都市は全国で200ヶ所にのぼり、60都市の市街地が灰燼に帰したのである。


無差別爆撃の始末

 無差別爆撃に関しては、ドイツ軍はスペインのゲルニカに対して実行したり、日本軍は重慶を爆撃し、イギリス軍はドイツのドレスデンに行ったことなどが有名である。しかし、国中の都市を焼き尽くす作戦を実施したのはアメリカのみであり、しかも広島、長崎に原爆も投下している。

 ハーグ条約には軍事関連施設以外の爆撃は禁止されている。だが、戦後、無差別爆撃について国際的に議論がなされることはなかった。

 「私は米国の将軍だったから英雄になったが、敗戦国の将軍だったら処刑されていたであろう。」ルメイは言っている。

 戦後の日本は自国の反省も充分行わず、相手の無法さを指摘することもなく、悲惨な事実に真正面から向き合う姿勢が欠如していた。
 その上、占領軍のアメリカの非が追及されることなく、今日に至っている。

                        『ルメイ将軍』

 事もあろうにルメイ将軍には1964年、佐藤栄作総理の時代に「日本の航空自衛隊育成に協力した」と勲1等旭日大授章を贈っている。
 天皇陛下は贈呈の際、直接手渡す親授はしなかったという。この異例な行為は亡くなった国民に対する配慮であろう。

 知っていることを話す
 私は飛騨の山奥育ちで、小学校2年で終戦になったので、真の戦争体験者とは言えない。しかし伯父をはじめ、多くの村人が戦死した事実に遭遇し、戦後の生活を通してかなりの知識はある。
 定年後に戦前・戦後の写真集やDVDを買い集め、パワーポイントで子供達への語り部を始めた。
 子供たちだけでなく親や大学生なども、ほとんどの人達は初めて詳しい戦争の話を聞いたという。これまで学校では近代史を教えていないのである。我々世代が語り継ぐべきと考え、出来る限り今後も続けたい。

                          『写真週刊20世紀 100冊 』

 早乙女さんの言われた言葉が胸の底に響いている。
「知っているなら伝えよう。 知らないならば学ぼう。平和は歩いてきてくれない。」

                             【了】
             資料提供【東京大空襲・戦災資料センター】

【戦後70年・特別寄稿】東京大空襲を語り継ぐ (上) = 川上千里 

 筆者紹介。川上千里(男性)は、岐阜県・高山市上宝町本郷の出身です。東京の薬大・製薬会社から、現在は「子ども平和教育」などに力を注いでいます。川上さんの視点はつねに「犠牲者から見た平和」があります。
 そのルーツは「本郷村善九郎」にあります。
 江戸時代中期、幕府直轄領の飛騨国で、18年間にわたる農民一揆(大原騒動)が起きました。日本最大級の一揆で、幕府の弾圧は凄まじく、刑死など犠牲は計り知れなかった。農民に銃までむけました。
 弱冠18歳リーダーで非業の死を遂げたのが「本郷村善九郎」です。かれは死しても、若者の熱意と魂は受け継がれてました。最後は大逆転で、農民の勝利でした。
 老中筆頭・松平定信が、飛騨高山陣屋の役人の腐敗を見破り、大原郡代、元締、手代、手付など「武士として切腹もさせてもらえない」斬首、遠島など、全役人がことごとく処罰されました。

「貧に苦しむ民のために戦う」善九郎の精神が、川上さんの「犠牲者から見た平和」の視点はつねに重なり合うものがあるのです。

                          写真『戦火の下で』

東京大空襲を語り継ぐ (上)  川上千里

 
 
 戦後70年にあたり、戦争の歴史を風化させるなとの声が多い。そこで、東京大空襲について調べてみることにした。
                      
                 
 以前から行きたいと思っていた江東区にある東京大空襲の資料館を訪ねてみた。


 2002年に被災者の家族や市民など4000名以上の人たちが金を出し合って、江東区北砂に作ったもので、土地は篤志家から無償提供された。
 3階建てビルの1階が受付で、入場料は300円である。

 受付の脇には戦災関連図書などが置いてあり、階段を上がると2階が展示場になっている。2階ホールではビデオ上映や、講演ができ、壁面には沢山の資料写真が掲げてある。
都内の学校ばかりでなく、地方からの修学旅行生も多いという。

                   『講演用の2階ホール』


 この資料館の館長は作家の早乙女勝元氏で、設立以来このセンターの運営に携わってきた。
 運営費、建物の修繕費などの捻出のために講演会を開いて寄付を募り、涙ぐましい努力を続けている。
 昨年、同氏の講演を聞いたが、82才の熱い思いに感動した。
                            
                       『館長の早乙女勝元 氏』

東京大空襲

 東京は昭和19年11月14日以降、米軍の激しい空襲を106回受けたが、とりわけ大規模な空襲は昭和20年3月10日未明であった。

 このため東京大空襲といえば3月10日のことを言う。325機のB29が来襲してきて、一夜にして約100万人が被災し、約10万人の死者が出た。

                        『空襲を受ける東京』     

米軍の方針

 米軍は昭和20年に入ると、日本の都市の無差別爆撃を計画した。丁度、空の要塞と言われる爆撃機・B29が量産体制の入り、と同時に日本用に焼夷弾も開発できた。
 都市住民への爆撃は非人道的だ、と拒否する将軍を更迭し、積極的に爆撃を主張するカーチス・ルメイ将軍を任命した。
 そして、東京を皮切りに日本の200以上の都市が歴史上にない大々的な無差別爆撃にさらされることになってゆく。
                         
                      

ルメイ将軍の作戦



 彼はまず、東京の市街地を焼き尽くす作戦を立てた。そして木造家屋の密集した下町に狙いを定めた。B29から、空中戦用の機関砲類や弾薬、爆撃用の照準器などを降ろし、通常の2倍の積載となる6トンの焼夷弾を積みこんだ。
 その上、普段の8000m上空からでなく、高度1600~2200mの低空から夜間爆撃を行った。
                    『焼け野原の東京』 

 東京下町の市街地へ円周状に焼夷弾を落とし、燃え盛る円の中を塗りつぶすように攻撃した。
 爆撃は2時間半にわたり、風の強い日を選んでいたため瞬く間に火が広がって、下町一帯は一夜にして灰燼と帰した。
                         
                       

焼夷弾とは

 センターには焼夷弾の実物が置いてあり、その大きさに驚いた。
 アメリカ軍はユタ州に日本のモデル市街地をつくり、日本の住宅を焼く専用爆弾として開発した。

                    『空中で中から38個が飛び出す』

 飛行機から投下される前のものは長さ1m以上、直径も30cm以上で、重さは220㎏である。中に2.7kgの6角のクラスター爆弾が38個入っており、空中でバラバラになって降りそそぐ。
 この子爆弾は落下すると5秒以内に鋼鉄製の容器が爆発し、ガソリンを含んだゼリーが1300度の高温で燃えながら半径30mに飛び散る。
 東京大空襲ではこのクラスターが40万発投下され、1㎡当たり3発落ちた計算になる。燃焼・爆発力は強力で、近くに落ちると酸素欠乏が生じ、消防車のエンジンが止まり、窒息死する人も出たほどだった。

                      『落下して爆発した残骸』

 日本側のバケツリレーやはたき消火では、高い家の壁などが燃えだすと全く無力だったという。しかも、火事の場合は逃げないで、消火活動をすることが市民の義務とされていたので、焼死者がいっそう増えた。

                           
                            【つづく】

【寄稿 エッセイ】 友人の棚おろし : 月川 力江

 50年来の親しい友人が九州に四人いる。その中の一人がご主人を亡くした時、大阪にいる息子さんが母親の一人暮らしを心配して、警備保障会社セコムの取り付けを頼んだ。
 ひと月が過ぎた頃、彼女が大変なミスをして大騒動になり、それに懲りた彼女は自分でセコムの電源を切ってしまった。しかし未使用のまま銀行口座から毎月、一万一千円引き落とされている。

 以前、この話を聞いたのは40万円くらい支払った頃だったので、セコムの解約を進めて、その後は忘れていた。

 今春、九州へ行った時、友人たちと食事をしながら面白半分で、彼女に、 
「あのセコムの件、どうしたの解約した?」
「息子に怒られるから面倒だからそのままよ」
「えっ! ご主人が亡くなってから八年よ、あの時に取り付けたのだから」
とお金の計算を始めたら
「うん 100万円を超えた」と笑う。
「貴女バカじゃないの、100万円捨てたのよ、息子さんがこれを知ったら、もっと怒られるよ」
と語気荒く私は言った。

 その上、息子さんから昨年母の日のプレゼントに携帯電話を貰った、と言う。
「よかったね。電話番号を教えてよ」
「いや、教えない、息子が2ヶ月に1回くらい、電話をかけてくるから床の間に置いているが、その度に胸がどきどきするのよ、もうこれ以上は嫌よ、頭が痛くなるから使う気はない」という。

 彼女とは、若い時からの友人であり、毎年、旅行をし、食事会をして楽しむ仲間である。性格も優しくて良い人で、普通人? なのに、どうしてこの機械類に関してはこれほどまでに嫌うとは、不思議であり、もう諦めることにした。

 そして又、驚いたことに、市役所から福祉課の人が二人来て、一人暮らしの人の調査に来たと言う。たくさんの書類を渡され、住所、氏名、年齢はもちろんの事、子供さんの住所、氏名、勤務先等々いろいろと書かされた。最後に
「貴女のかかりつけの病院の名前を言ってください」
「ありません」
「えっ! 通院している病院はないのですか?」
「はい、ありません。私は、お産以外は寝たことがありませんから、病院は行きません、行くのは歯医者さんと針治療だけです」
「それでは私達は困ります、どうぞお願いです、どこか内科の病院へ行って、事情を話して血圧、血液検査などを受けて病院を作ってください」
「では夫が亡くなる前に通院していた病院の名前を書いてください」
「そのような事はできません、どうぞお願いします、頼みます」
「でも病気でもないのに病院へ行くのは嫌です」
 役所の人は三拝九拝して頼んだという。

 福祉課の人も困っただろうが、80歳過ぎの老人が病院に全く行かないとは驚いたと思う。
 その後、彼女はしかたなく近くの病院へ行ったとの事。体が丈夫な事は知ってはいたが、これほどまでとは知らなかった。私は、自慢じゃないが、内科、(循環器科、胃腸科、呼吸器科)眼科、歯科、皮膚科、耳鼻科、脳外科、整形外科そして鍼灸院と、たくさんあるのに・・・なんと羨ましい。
「この人は不死身だね、強盗がはいっても大丈夫。セコムの必要はない」と友人三人で笑った。

【寄稿 エッセイ】免許取得 = 奥田 和美

 車の普通免許を取得してから40年近くなる。スピードが好きで、女としては運転がうまい方だと思っている。

 インドネシアに4年間住んでいて、いよいよ帰国する頃、車の免許を取得しようと思った。帰国したら、夫の実家に同居する予定だった。そこは駅から徒歩で三十分、バスを使うと十五分ほどの所だ。その上、坂が多い。車の免許は必需品である。

 40年前のインドネシアでは、外国人は車の免許が取りやすいと聞いていた。好きな車種
が取れるから、日本の男性で大型免許まで取った人がいたそうだ。
 教習所はなく、練習する広場があって、自分の車で運転の練習をするのだ。夜、夫に運転してもらい、その広場に行ってから私が運転する。エンジンのかけ方、アクセルの踏み方、ブレーキのかけ方、ライトの点け方、ハンドル操作などを教えてもらう。坂道発進を特訓した。一週間ほど練習して、試験場に行った。

 夫は仕事中だったので、ディ(運転手)と一緒に出かけた。まずは標識の絵の描いてあるパネルの前に行く。試験官が指し棒で、
「これは何?」と尋ねる。私は片言のインドネシア語と手真似で、
「右折です」
 と応えた。
「これは?」
「一方通行です」
 試験官はあちこちと棒を指す。そのうち、
「これは進入禁止だね」
「はい」
「駐車禁止だね」
「はい」
 次々と質問するが、私はうなずくだけでよかった。

 いよいよ実施試験だ。ディが車を試験場に運ぶ。彼は心配して助手席に座ったが、試験官に車から出るように言われた。私は一人で運転するのだ。ディは窓にしがみついて、
「奥さん、そっとだよ、そおっと」
 とアドバイスしてくれる。

 前に進むのはできた。次にバックをしなさいと言われた。バックの練習はしていなかった。ハンドルをどちらに切ればどう動くかわからなかった。右に切ればバックは反対だから、左に行くだろうとアクセルを踏んだ。試験官がいない方向にと思ったのに、車はグンと動いて彼の方に向かった。
「ワーッ!」
 大きなざわめきが起きた。試験場には大勢の受験者がいた。建物の屋上に鈴なりになって実施試験を見ている。順番を待っている現地の人たちだ。


「この奥さんは、本当は運転ができないんだ」
 ディが告白した。
 その後、誰がどのように手続きしたのかわからないが、免許証は十日ほどして私の手元に届いた。
 帰国して、日本の普通免許に切り替えてもらう。パスポートや住民票を持って試験場に行った。筆記も実施試験もないはずだが、不安でいっぱいだった。
 やっと日本の免許証をいただいた。ほっとした。試験場を出るとき、誰かに呼び止められるのではないかと、後ろ髪を捕まれた思いだった。

【寄稿・写真エッセイ】梅雨の白日夢 = 黒木 成子

『アジサイが見ごろですよ』 友人と二人で千葉県勝浦市をドライブ中に、こんな看板を見かけた。

 もう夕暮れどきだったが、「見ごろ」という言葉に惹かれて、看板に書かれた矢印の方へ車を走らせた。
 しかし、行けども行けども何もない。アジサイはもちろん、看板さえ見当たらない。

 10 分ほど走って、もう引き返そうと思った矢先、前方にちらりと青い花が見えた。 近づいてみると、小高い山の斜面にアジサイが群生している。すごい!思わず写真を撮り始めた。

 すると、犬の散歩をしていた女性が、「もっと山の上に行くと、道の両側にたくさん咲いていますよ」 と、教えてくれた。

 ここのアジサイは、町の人たちが少しずつ植えてこんなに増えたそうだ。それでもっと知ってもらおうと、市の職員が県道に看板を立てたと女性は話していた。
 それが、私が見た看板だったのだ。

 実はその日は昼間、勝浦市内を散策しようと、あちこち歩き回ったのでかなり疲れていた。

 勝浦港で陸揚げされたマグロを見たり、入り組んだ海岸線の先端、八幡岬まで行き、その後勝浦燈台まで足を延ばしたのだ。

 蒸し暑い中、かなり長い時間歩き、足も疲れたので車で帰りを急いでいた。その途中で看板を見て、ついここまで来てしまったのだ。しかし、 「途中までは車で行けるから、上まで行ってみるといいですよ」 と、にこやかに笑う女性の勧めもあって、足を進めてみることにした。

 車で急な坂を少し昇ったら、その先は人しか入れない細い山道となった。女性の言った通り、そこには、両側にアジサイが咲いており、まるでアジサイの道のようだった。

 このアジサイの道はどこまで続くのだろう? そんな素朴な疑問が湧いてきた。
「もっと先まで行ってみよう!」
 一緒に来ていた友人を誘ったが、もう足が疲れたから歩きたくないと言う。

 しかし、私はどうしても確かめたくて、すい寄せられるように、一人で歩き始めた。 行けども行けども曲がりくねったアジサイの山道が続く。

 次第にあたりは薄暗くなり始めた。よく見ると、熊でも出てきそうな山奥だ。 それでもアジサイに手招きされるように、小走りで進んだ。 登り坂で、息切れがする。

 どのくらい登っただろうか。まだまだ山道は続き、アジサイも続く。 やがて登り坂が終わり、緩やかに下り始めたとき、やっとアジサイがまばらになってきた。

 ふと後ろを振り返ると誰もいない … もちろん先に行く人もいない。 普段は恐がりの私なのに、アジサイの魔法にでもかかってしまったのか、気づいたらずいぶん遠くまで来てしまった。

 この道には終わりがないのではないか … 。このまま進むと帰れなくなってしまうのでは … そんな不安な気持ちになった。
 一本道だから迷うはずはないが、急に怖くなり、振り返って逃げるように元来た道を走り始めた。 誰かが後ろから呼んでいるような気がする …。 アジサイが、もっと見に来てと呼んでいるのか … 。いやそんなはずはない。

 両手で耳をふさぎ、下を向いてひたすら走った。

 しばらく走って顔を上げてみると、いつまでも帰って来ない私を心配して、様子を見に来た友人の姿を見つけた。 その顔を見た時は、本当にほっとした。

 どこまでも続くアジサイの道 … 偶然見かけた看板によって迷い込んだ、梅雨の合間の白日夢だったのかもしれない。

優しい風景と荒々しさの谷川岳に挑戦する=大久保多世子

谷川岳(1,977m)=大久保多世子

登山日:2013年9月28日(土)晴れ

参加メンバー:L佐治ひろみ、後藤美代子、栃金正一、武部実、関本誠一、大久保
 
コース:上毛高原駅―天神平―オキノ耳―1の倉岳―茂倉岳―駐車場―湯沢駅 

 JR東京駅に6:20に集合した。6:32発のたにがわ401号に乗り、7:53上毛高原駅に到着。バスは8:00発。ロープウェイで天神平に着いたのは9:10だった。

 身支度をして9:15出発。ナナカマドの真っ赤な実が美しい。10:00、熊穴沢避難小屋の前で水分補給。[土曜日+紅葉の季節]なので登山者も多い。
 
 ここからの登りはかなりハードで、大きな石や大きな段差の連続する。「よいしょ!」と声に出しながら、コンパスの短さを実感しながら登っていく。高度が増すにつれて、登山者の数も増え、ほとんど行列に近い。
 足場の悪い所では、下山する人とのすれ違いにも神経を使う。それでも予定より早く、10:30なオキノ耳に到着した。

 隣のピークまで進んで11:50~12:20は昼食。尾瀬方面の山々や動いて行く雲を見ながらの食事は最高だった。
 一の倉岳に向かって間もなく、ものすごく急な登りが目の前にドーンと現れ、弱音をはいたら、関本さんが、
「こんなの15分もあれば登れる、登れる」
 と励ましてくれた。


 半信半疑で登ったら、20分かからなかったので、人間の足の力を見直した気分になれた。オキノ耳を過ぎたら、出会う人もまばらで歩きやすい。
 好天に恵まれ、快適な空中散歩が続く。
 山頂は紅葉の最盛期だったが、霜でも降りたのか、あまり綺麗ではない。13:00「ノゾキ」という看板があり、恐々下を覗いた。断崖絶壁のものすごい岩場があり、残雪も見られた。
「上村さんや飯田さんは、あの岩場を登ったんだよ、すごいな」
 などと、しばらく岩登りの話で盛り上がる。


 13:30、一の倉岳に到着した。13:55、茂倉岳に到着。大きなドラム缶を置いたのかと思える避難小屋があったので、覗かせてもらった。
 座った状態なら、数人は入れそう。雷や雨の日は、助かるだろう。

 振り返れば、今日歩いてきた道がくっきり見渡せる。肩の小屋が豆粒のように見え、
「こんなに遠くまで歩いて来たんだ!」
 と口々に感嘆の声をあげる。

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神社はお参りしておくべきだった、大岳山=針谷孝司

大岳山(1267m)=針谷孝司

期日…2015年3月11日(火)  曇り時々晴れ

メンバー…(L)佐治ひろみ、武部実、中野清子、針谷孝司

コース…御岳駅8:58→御岳山駅9:30→御岳山→大岳山11:55→鋸山13:40→奥多摩駅16:30

 昨日の荒天も今日はまずまずの天気となった。
 青梅線の車中で全員がおち合い、御嶽駅からバスとケーブルカーで御岳山駅に到着した。身支度もそこそこに出発。
 御岳山神社までは蝋梅(ろうばい)が見ごろに咲き誇り、かすかな香りがただよう。東に開けるパノラマの中には新宿の高層ビル、更には横浜のランドマークタワーをはるか遠くに眺めながら、なだらかな舗装道に足を進める。


 町場通りでは、中野さんがみやげ物やの女将に声がけなどしながら、御岳山神社入り口に到着した。今日はスルーし、先に進む。ここで参拝しなかったのが災いとなったのか、後ほどハプニングが起きるとは、誰も予想できず、目指すは大岳山へ。

 芥場峠を過ぎると、ハイキング姿はいなくなり、登山道らしくなる。我々の口数は少なくなり、ひたすら大岳山を目指す。露岩にはクサリがついていて、片側が切れ落ちている場所もあるが、リーダーの佐治さん、武部さんはすいすい先にいく。中野女史は慎重に足を進める。

 大岳神社からはきつい急坂がはじまり、露岩にクサリのついた道を登る。
 先を行く武部さんが、なにやらきれいな小屋が見えているが、あれは大岳山荘なのか? 建替えたのかと、久しぶりに見る山荘の姿に懐かしさを感じているようだった。

 しかし、山荘に着くと、そこは廃屋のままで、洋館風の別館が幻かのような姿で、我々を迎えてくれた。 
 簡素な鳥居の大岳神社を過ぎると、きつい急坂がはじまり、雪が残るクサリのついた道を登ること20分。肌に汗を感じる頃、上に続く樹林には空の色が混じる。程なく大岳山頂上が現れた。

 あいにく快晴とは言えないが、1266mの山頂からは、丹沢山塊、富士山がはるかにそびえ、そしてすぐ隣には御前山がどっしりとある。
 いくつもの尾根が重なって全く素晴らしい展望だ。しばしパノラマを眺めて楽しみ、静かな山頂で昼食をとる。

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はなじょろ道(花嫁さんの道)を登る、高松山=石村宏昭

高松山(801m)=石村宏昭

日時:2014年7月20日(日)曇り

メンバー:L武部・飯田・岩淵・原田・市田・中野・赤羽(ゲスト)・石村(8名)

集合:小田急・新松田駅に8:55

コース:~(バス)田代向~はなじょろ道登山口~尺里峠~ヒネゴ沢乗越~高松山山頂~ビリ堂~さくらの湯~JR山北駅


 台風の影響もあり、今週はぐずついた空模様が続いた。
 天気予報が思わしくなく、とにかく、早めに下りてくれば雨にはあわないだろう、という判断で、8時55分、小田急線・新松田駅に集合した。9時5分のバスに乗車。田代向で下車する。
 案内板に従って林道を進み、ヒネゴ橋を渡ると、左には手製の鐘と,「はなじょろ道入口」の案内板がある。


 はなじょろ道とは、明治末期まで、沢虫地区と山北町の八丁地区を結んだ生活道である。と同時に、花嫁さんが通った道であることから、こう呼ばれてきたそうです。
 登山の安全を願って、静かに鐘を鳴らし、登山道に入る(9:35)。しばらく、杉林の中をジグザグに登って行く。杉の丸太の階段等で、よく整備された道が続く。尺里峠の分岐を過ぎ、40分程杉林を登りきると、「ヒネゴ沢乗越分岐」に着く。

 ここで、小休止をとる。天気が良ければ、ここから10分程の「富士見台」へでも、という気持になるところだが、360度の遠方は視界無し。休憩もそこそこに出発した。

 途中、鹿除け柵を横に見ながら、緩やかな坂をのぼっていくと、やがて、運動場のように広い、芝地の高松山山頂(801m)に到着する(11:35)。


 残念ながら、富士山は雲の中だった。眼下には大野山の牧場がのぞめるくらいだ。好天だったら、霊峰富士を目の前に臨む、すばらしい山頂なのだろう。ここで、昼食休憩とする。

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【寄稿 エッセイ】 ヘラブナ釣り = 廣川 登志男

「バシャ、バシャバシャ」
 音に反応して振り返ると、川辺で釣りをしているオジサンが居た。
 竿を頭上に持ち上げ片方の手に玉網(タモ)を持って、浮き上がってくる魚を網に入れようと取り組んでいた。結構大きい魚のようだ。なんとなく見たことのある風景に興味をそそられた。四十歳を過ぎて、小学校に通う子供たちとデイキャンプをするため、房総半島の真ん中にある三島湖に来ていた時だ。

 子供たちや家内は昼食の準備にてんやわんやの状況だったが、私は釣りの方に意識が向いてしまった。
 釣りのオジサンが魚を取り込んだ。次の釣りの準備に、エサを針につけているとき、声を掛けさせていただいた。
「すいません、なにを釣っているのですか」
「ヘラだよ。ヘラ」
 忙しいときになんだよ、と邪険な返事だったが、見ると懐かしい孔雀ウキだ。
 孔雀の羽の軸はスリムだが浮力が大きく、ヘラブナ釣りの「ウキ」によく使われる。
「ヘラブナ釣りだ」心の中で叫んでしまった。
 すぐに小学校時代を思い出す。

 小学校は品川区小山台にあった。目黒区と接するところで、近くに清水公園がある。ここは、都内でも五本の指に数えられる「ヘラブナ釣り」の有名な場所だ。当時、孔雀ウキなどは大人が使うもので、我々小学生はセルロイドの細い棒ウキを使っていた。
 エサは小麦粉を練ったものにさなぎ粉を混ぜた。前夜、母に手伝ってもらい準備して、登校2時間ほど前に友人と釣りに行った。

 大人でも難しい釣りに、子供がそんなに釣れるわけはなかったが、小さいときから剣道をやっていたので、ウキの動きに瞬間的に反応して竿を上げるのはうまく、たまに釣れたので結構のめりこんで通っていた。

 中学以降は部活や勉強、更に、社会人では仕事に追われヘラブナ釣りは止めていた。そのため、三島湖での出会い時は一切道具がなかった。さっそく釣具屋に出かけ一式揃えた。
 結構、良い値がしたが、当時、私は企業戦士そのもので、朝は7時頃から夜は深夜くらいまで仕事だった。下手をすると日付が変わってからの帰宅という仕事一辺倒の生活だったので、この趣味位いいだろうと我家の大蔵大臣を拝み倒して購入した。

 それからというもの、出社しないで済む休日は朝四時起きで三島湖に通い、顔や手は日焼けして真っ黒となっていった。

 再開後、しばらくして地域のヘラブナ釣り研究会に入った。月一度の例会で、たまに優勝するほどになったし、年間優勝も頂いた。
 ヘラブナ釣りは、難しいので有名だ。
「釣りは、フナで始まりフナで終わる」と云われるが、最初のフナはミミズなどで簡単に釣れるマブナのことで、最後のフナはヘラブナだ。難しい釣りなので、最後の魚ということになる。
 人工的なヘラブナ釣池が各地にある。1、2メートルしか離れていない隣の釣り師が「入れ食い」で数多く釣り上げているのに、こちらはウキがピクリともしないことがある。それほど腕がものをいう。

 当日の天候や気温、それに気圧なども影響しているようで、ヘラブナはなかなかエサに食いついてこない。食いつかせるためには数えきれないポイントがある。エサでは種類・硬軟・大小、ウキでは大小(浮力の大小)・位置(深さ)、それに糸の太さ、針の大きさ、その他諸々。更には上記をもう一度やり直すことになる竿の長さ。一つの条件で十投ほど試し、食いつきがなければすぐに条件変更だ。
 だから、呑気な人には絶対釣れない。短気な人でなければ釣れないのがヘラブナ釣りだ。
この釣りにのめり込むということは、ヘラブナ釣りを通して「短気」を習得することなのかと思ったりした。

 会社人生では、諸先輩から助言を多くいただく。また、人生論などでも参考になる言葉がある。特に戒めの言葉の多いのが「短気」についてだ。

「短気は未練の初め/短気は身を滅ぼす腹切り刀/・・・」。
 まさに「短気は損気」であって、逆に、良く言う言葉は聞いたことがない。

 しかし、待てよ。ヘラブナを釣るためにいろいろと条件を変える。あきらめずに粘り強くトライして、結果的には目的を果たして釣り上げる。これは仕事でも同じだ。
 私自身、仕事上、数多くの難題に取り組んできた。簡単にはいかなかったが、あきらめずにしつこく取り組んで解決してきた。
「そうだ」
 粘り強く解決しようとする姿勢を身に付けることができたのは、ヘラブナ釣りのお蔭だ。と良い方向に考え直して、明日もまたヘラブナ釣りに行こうと考えていた。

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