筆者紹介。川上千里(男性)は、岐阜県・高山市上宝町本郷の出身です。東京の薬大・製薬会社から、現在は「子ども平和教育」などに力を注いでいます。川上さんの視点はつねに「犠牲者から見た平和」があります。
そのルーツは「本郷村善九郎」にあります。
江戸時代中期、幕府直轄領の飛騨国で、18年間にわたる農民一揆(大原騒動)が起きました。日本最大級の一揆で、幕府の弾圧は凄まじく、刑死など犠牲は計り知れなかった。農民に銃までむけました。
弱冠18歳リーダーで非業の死を遂げたのが「本郷村善九郎」です。かれは死しても、若者の熱意と魂は受け継がれてました。最後は大逆転で、農民の勝利でした。
老中筆頭・松平定信が、飛騨高山陣屋の役人の腐敗を見破り、大原郡代、元締、手代、手付など「武士として切腹もさせてもらえない」斬首、遠島など、全役人がことごとく処罰されました。
「貧に苦しむ民のために戦う」善九郎の精神が、川上さんの「犠牲者から見た平和」の視点はつねに重なり合うものがあるのです。
写真『戦火の下で』
東京大空襲を語り継ぐ (上) 川上千里
戦後70年にあたり、戦争の歴史を風化させるなとの声が多い。そこで、東京大空襲について調べてみることにした。
以前から行きたいと思っていた江東区にある東京大空襲の資料館を訪ねてみた。
2002年に被災者の家族や市民など4000名以上の人たちが金を出し合って、江東区北砂に作ったもので、土地は篤志家から無償提供された。
3階建てビルの1階が受付で、入場料は300円である。
受付の脇には戦災関連図書などが置いてあり、階段を上がると2階が展示場になっている。2階ホールではビデオ上映や、講演ができ、壁面には沢山の資料写真が掲げてある。
都内の学校ばかりでなく、地方からの修学旅行生も多いという。
『講演用の2階ホール』
この資料館の館長は作家の早乙女勝元氏で、設立以来このセンターの運営に携わってきた。
運営費、建物の修繕費などの捻出のために講演会を開いて寄付を募り、涙ぐましい努力を続けている。
昨年、同氏の講演を聞いたが、82才の熱い思いに感動した。
『館長の早乙女勝元 氏』
東京大空襲
東京は昭和19年11月14日以降、米軍の激しい空襲を106回受けたが、とりわけ大規模な空襲は昭和20年3月10日未明であった。
このため東京大空襲といえば3月10日のことを言う。325機のB29が来襲してきて、一夜にして約100万人が被災し、約10万人の死者が出た。
『空襲を受ける東京』
米軍の方針
米軍は昭和20年に入ると、日本の都市の無差別爆撃を計画した。丁度、空の要塞と言われる爆撃機・B29が量産体制の入り、と同時に日本用に焼夷弾も開発できた。
都市住民への爆撃は非人道的だ、と拒否する将軍を更迭し、積極的に爆撃を主張するカーチス・ルメイ将軍を任命した。
そして、東京を皮切りに日本の200以上の都市が歴史上にない大々的な無差別爆撃にさらされることになってゆく。
ルメイ将軍の作戦
彼はまず、東京の市街地を焼き尽くす作戦を立てた。そして木造家屋の密集した下町に狙いを定めた。B29から、空中戦用の機関砲類や弾薬、爆撃用の照準器などを降ろし、通常の2倍の積載となる6トンの焼夷弾を積みこんだ。
その上、普段の8000m上空からでなく、高度1600~2200mの低空から夜間爆撃を行った。
『焼け野原の東京』
東京下町の市街地へ円周状に焼夷弾を落とし、燃え盛る円の中を塗りつぶすように攻撃した。
爆撃は2時間半にわたり、風の強い日を選んでいたため瞬く間に火が広がって、下町一帯は一夜にして灰燼と帰した。
焼夷弾とは
センターには焼夷弾の実物が置いてあり、その大きさに驚いた。
アメリカ軍はユタ州に日本のモデル市街地をつくり、日本の住宅を焼く専用爆弾として開発した。
『空中で中から38個が飛び出す』
飛行機から投下される前のものは長さ1m以上、直径も30cm以上で、重さは220㎏である。中に2.7kgの6角のクラスター爆弾が38個入っており、空中でバラバラになって降りそそぐ。
この子爆弾は落下すると5秒以内に鋼鉄製の容器が爆発し、ガソリンを含んだゼリーが1300度の高温で燃えながら半径30mに飛び散る。
東京大空襲ではこのクラスターが40万発投下され、1㎡当たり3発落ちた計算になる。燃焼・爆発力は強力で、近くに落ちると酸素欠乏が生じ、消防車のエンジンが止まり、窒息死する人も出たほどだった。
『落下して爆発した残骸』
日本側のバケツリレーやはたき消火では、高い家の壁などが燃えだすと全く無力だったという。しかも、火事の場合は逃げないで、消火活動をすることが市民の義務とされていたので、焼死者がいっそう増えた。
【つづく】