【寄稿・エッセイ】 気の利いた幹事さん = 中村 誠
年1度の「高校のクラス会」に24名が集まった。体調不順での欠席が多かったのは、七十七歳を考えればうなずける。それに台風来襲で沖縄の仲間が残念ながら欠席した。乾杯で始まり、献杯無しのスタートは誰もが良い気分だ。
幹事の一人で進行を引き受けた田渡君が、提案した慣例の「参加者のひと言」は次のような内容だった。
「お互い近況報告はどうしても病気とか、孫自慢になってしまうが、今日は、70年前の終戦日をどのように迎えたかを思い出して語って下さい。2分程度でお願いします。どうしても難病体験を話したい方は3分以内でお願いします」
参加者は意外な提案に笑顔で応えた。
高校時代は弓道仲間で、同じ大学を卒業し、職場が一緒だった山岸君は、個人的にも土地や金銭面の問題には弁護士を紹介してもらい世話になった。
「記憶はハッキリしないが、あの時は、今の中国大連に住んでいた。ジイジー鳴る玉音放送は聴いたが内容は全然わからなかった。後日、親から聞いた程度だ。当時の思い出は、隣家の娘を見初め、成人してワイフになった訳だ」
話し好きであり、他人の話を良く聞く好人物だ。2、3分で話が終わればよいがと、いつもハラハラする。今回はさすがに、おのろけを交え上手に締めた。
次に指名された角田君。
「当時、伊豆熱海に母と姉妹一緒に疎開していた。連合軍が上陸するとの話、噂だったかな、聞いて熱海から伊東線の先の網代に移った。玉音を聴いたお袋が泣いていたのを覚えている」
彼の話は初耳で、当時のわが家の生活がハッキリと思い出された。
伊東線網代の先の終点、伊東にある祖父母の住まいに疎開していた。母、兄と、私の3人が同居していた。父は昭和17年5月、真珠湾奇襲から半年後に、軍属として移動中の船で命を奪われた。当時はマル秘の惨事だった。
角田君と同じように、伊東海岸に連合軍が上陸するとの噂があった。わが家の3人は山中湖畔の旭ヶ丘に移転した。玉音放送の当日、瞼に浮かぶのは、じりじり照りつける広場に集まった大人たち。ラジオからはジイジーの雑音しか覚えていない。
その夕刻、食堂、居間のつり下げた灯りが漏れないようにしていた布を取り払い、一気に家中が明るくなった。湖畔の対岸にある家々に灯りがハッキリと望めた。その後、伊豆伊東に戻り国民学校、後の小学校に通った。
懐かしい70年前の話題を引き出してくれた幹事に感謝一杯だった。