パンドラの詩匣
名作文学とポエジー
季刊「未来」(2022年10月発行)で野沢啓が宮沢賢治の「無声慟哭」に代表される〈トシ挽歌〉について書いていて、うなずくところが多かった。それに触発されて以前にも触れたことがあるが「青森挽歌」について改めて語ってみたい。
――賢治のすぐ下の妹・トシは、日本女子大で学んでいたが肺炎に襲われる。賢治は上京して看病につとめたあと、トシと共に帰郷。やがてトシは、肺炎を再発。翌年、宮沢家ではトシを別宅に移し、賢治もそこから勤務する農学校に通った。しかし、看病の甲斐なく1922年11月27日、トシはこの世を去る。賢治はその死の直後に「無声慟哭」三部作を書いている。(以下、引用は紙幅の都合で文字下げ部分を詰めている。)
けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ/みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ/(あめゆじゆとてちてけんじや)/うすあかくいつそう陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる/(あめゆじゆとてちてけんじや)
よく知られた「永訣の朝」の出だしである。ほかの「松の針」「無声慟哭」を含めてこれらの詩篇は切々と胸を打つものとなっている。野沢は「賢治の意識が詩を構成したというより、トシのことばが賢治の詩意識を震撼させ、この決定的な作品が生まれたのであって、その逆ではけっしてない。」と書いている。単なる意識ではなく「詩意識」が「表現作品」としてこれらの詩を生み出しているというのである。私もそう思う。
トシの死からおよそ八ヶ月、賢治はほとんど詩作をしておらず、生涯を通じて多作であった賢治にとって、その死の衝撃がいかに大きかったがうかがい知れる。そして、1923年8月、賢治は、青森、北海道、樺太を旅行して幾篇もの挽歌を書く。その冒頭の作品が二百五十四行の長篇詩「青森挽歌」である。野沢はその『移動論』において「認識の地平や人間関係のかかわりのなかで移動することは、ひとつの新しい風景をうみだすことなのである。」と述べている。まさしく賢治はこの北方旅行を通して新しい風景を生み出している。
こんなやみよののはらのなかをゆくときは/客車のまどはみんな水族館の窓になる/(乾いたでんしんばしらの列が/せはしく遷つてゐるらしい/きしやは銀河系の玲瓏レンズ/巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
なんと魅力的な書き出しであろう。わたしなども夜行列車に乗り硝子窓の向うに遠い街灯がにじんだ虹彩を放つのに見とれたものだ。そうした実体験に基づく共感性と「銀河系の玲瓏レンズ」のような暗喩が幻想的な世界へといざなう。そのようにして読者を詩の世界に導きながら、賢治は本題に入る。亡くなったトシの死についての「認識の地平」を言葉にしていく、その作業に。
あいつはこんなさびしい停車場を/たつたひとりで通つていつたらうか/どこへ行くともわからないその方向を/どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを/たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
トシの死から死後の世界へ。賢治にとってトシは唯一のそして最良の理解者であった。対幻想を共有する対象であったかもしれず、その喪失は大きい。彼女を失ってからずっとその存在の大きさとその人の死後について虜囚のようにとらわれて考え続け、ようやく旅を契機として「無声慟哭」三部作とは異なった次元で言語化したのが「青森挽歌」であろう。
とし子はみんなが死ぬとなづける/そのやりかたを通つて行き/それからさきどこへ行つたかわからない/それはおれたちの空間の方向ではかられない/感ぜられない方向を感じようとするときは/たれだつてみんなぐるぐるする
「ぐるぐるする」という表現を私は「胸苦しくなる」というふうに解釈する。最愛の者の死は人を胸苦しくするのだ。詩人は、その生理的感情を言語化しようとして「とし子は......」と言葉を繰り出す。
そしてそのままさびしい林のなかの/いつぴきの鳥になつただらうか/l'estudiantinaを風にききながら/水のながれる暗いはやしのなかを/かなしくうたつて飛んで行つたらうか
死後の世界でトシは鳥になっただろうかと思う賢治。l'estudiantinaはワルトトイフェル作曲の「女学生」(邦題)のことで華やかなワルツだ。女学生として若々しい生命体であったトシに思いを馳せているのだ。それがかえって痛々しい。
野沢が言うように「永訣の朝」においてトシの言葉が賢治の「詩意識」を突き動かしたとすれば、「青森挽歌」においては、トシの死から八か月たってその死を受け入れようとする賢治にとって、死者の魂について思いめぐらす観念の移動と夜行列車での移動が合体してその「詩意識」が揺り動かされたはずである。「無声慟哭」三部作と比較すれば、ここでは前者の切迫性よりもファンタスティックなまでの感性的描写が印象深いのはその「詩意識」のなせるわざであろう。ここで賢治は「創作行為」に没頭している。そうして豊かなイメージ世界を造形しながら死者の魂との、あるいはそのことを抱えた自己との対話を計ってゆく。
あいつがなくなつてからのあとのよるひる/わたくしはただの一どたりと/あいつだけがいいとこに行けばいいと/さういのりはしなかつたとおもひます
『宮沢賢治の世界』において吉本隆明は、この詩について「死のあとに他界が存在し、そこの世界へ死者は霊となってたどってゆく」信仰の世界をもたどっていると書く。確かに賢治には大乗仏教の死後の浄福の世界にトシが行ったはずだと信じたいという思いがあっただろう。そうは思いながら様々に死後のトシの様子を空想しながら、一連の詩行の後に「わたくしはどうしてもさう思はない」と、死後の世界に対する懐疑も記される。
「つまり『わたくし』はじっさいはじぶんの信仰と科学的な実証とを一致させることはできない。そして一致させられないところで詩的な豊饒が成り立っている。」と吉本は述べている。信仰と科学ばかりではないだろう。一人の人間としての感情こそ、信仰や科学的実証を上回るものではなかったか。ただ一人の理解者であった人間を失った喪失の感情こそ最大のものであるはずだ。「詩意識」はなんらかの契機に打たれるように巻き起こった感情によって発動する。そのようにして生まれた最愛の者への挽歌はともすれば感傷に流れやすい。けれど感傷そのものは貶められるべきものではない。感傷を「詩意識」によってハンドリングすることが求められている。賢治は踏みとどまりつつ、夜行列車の幻想性と移動性を取り込みつつ詩作品を造形していく。
吉本は次のようにも述べている。「意識の流れとしての人間がここに実在し、その実在性が真理を主張しているのを読むことができる気がする。」
意識を流れさせているのは感情である。そこに身悶える人間がその実在の真理を主張するとき「詩意識」が立ち上がる。
そのようにして賢治はプリミティブな意識ではなく「詩意識」に拘泥した。そういう観点に立てば、よく言われているような科学者としての賢治に信頼を置きすぎるのもあやまりではないだろうか。肝心なことは、生きて悩み悲しむ一人の人間の感情が、表現者としての「詩意識」によって作品世界に描き込まれ、そこから人間の深い部分の真理を感ずることができる、そのことだ。
表題が青森となっていることにも触れておきたい
「青森挽歌 三」(『春と修羅 補遺』)では「一」よりもはっきりと移動の磁場としての青森が意識されている。詩の中に次のよう箇所がある。
あけがた近くの苹果の匂が/透明な紐になって流れて来る。/(中略)/青森へ着いたら/苹果をたべると云ふんですか。/海が藍靛に光ってゐる/いまごろまっかな苹果はありません。/爽やかな苹果青のその苹果なら/それはもうきっとできてるでせう。
先達の検証によれば、賢治は7月31日夜、東北本線に乗って花巻を出発し午前4時過ぎ野辺地を通過。同じ車室に前年亡くなった妹トシとよく似た女性を見たと書いている。
私が夜の車室に立ちあがれば/みんなは大ていねむってゐる。/その右側の中ごろの席/青ざめたあけ方の孔雀のはね/やはらかな草いろの夢をくわらすのは/とし子、おまへのやうに見える。
賢治にとって花巻から北へ北へと向かうことは、最愛の妹トシの魂と対話するためであった。彼にとって「北」とは「われらが上方と呼ぶその不可思議な方角」であり、魂がいきづく領域であった。この北に向かう旅から生まれた詩群と『銀河鉄道の夜』は深く呼応している。車中の女性がやがてカムパネルラに変身していったと私は想像する。
『銀河鉄道の夜』は1924年に初期形が書かれたと推定されている。亡くなったトシは、北への旅をへて、その銀河を走る列車の中で主人公ジョバンニの前の座席に座ってカムパネルラとなって現れるのである。つまり、文芸的解釈の一つとしてカムパネルラは青森から誕生したとも言えるのだ。「青森挽歌」からは詩人の「詩意識」の中で銀河鉄道が動き出した車輪の音が聴こえるのである。
1923年(大正12)8月1日、朝5時20分青森着、7時55分青函連絡船出航。草野心平は「青森挽歌」について「この詩は妹への挽歌のなかで一番長く、そして一番の傑作だと思っている。」と述べている。私も同感だ。ただ、草野が「花巻から青森行の夜汽車に乗つて、その夜中頃から夜明けにかけて書いたものと思われる。」と述べていて、同じようなことをほかの人の文章でも読んだ記憶があるがこれについては首をかしげざるをえない。
私も東北本線を何度も利用したが実によく揺れる。しかも薄暗い夜汽車である。賢治がこれらの詩を車中で書いたとは考えられない。揺れて暗い車中ではなく、賢治はこの二時間半の「青森滞在」で「青森挽歌」を綴ったのだ。賢治が歩いた青森駅の長いプラットフォーム、桟橋待合室から眺めた朝の海......。賢治の「詩意識」は車中から持続され激しく明滅していた。そこには文学と土地の関わりの意味も横たわっている。
(2022年10月)
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