寄稿・みんなの作品

【寄稿・エッセイ】 大名華族・蜂須賀家  = 桑田 冨三子

 1954年、大学に入った私は、寮生活を始めた。
 夏休みが近づくと寮生たちは、皆そわそわし始める。親たちが待つ故郷へ帰るとか、海外旅行に出かけるなど、それぞれに楽しいプランを立てている。
 そんな中、貧乏学生の私に学長のマザー・ブリットがこんな話を持ってきた。
「夏休みの2か月間、『住込みの家庭教師』の仕事が来てます。行ってみたらどうですか」
 行く先は、熱海の蜂須賀・元侯爵邸である。私より4歳年下で、インターナショナルスクールの高校生、正子の「数学」をみる、という話だった。
 英語は不得手だが、数学なら、なんとかなるだろうと引き受けることにした。

 熱海駅について、改札口を出るとそこに、迎えの車がいた。
「山崎冨三子さんですね。どうぞ、お乗りください」
 いわれるままに乗りこむ。車は海辺を抜けて山道にさしかかり、ぐるぐると回り登って行く。やがて、門らしきところで、車は止まった。
 そこには、身なりを整えた白髪の老人が立っていた。
「おひいさまのテユーター(家庭教師)ですね。執事の加藤です。これから貴女が住むコテッジへご案内します」
 かばんをかかえて、庭石づたいについていくと、そこには「ミモザ」と札のある洒落た洋風の離れ屋があった。それが、これから私の住むところであった。

 生徒の正子(マアコ)は、阿波の国・徳島藩主だった蜂須賀家17代目、と聞いている。背丈は、私と同じぐらいである。長い黒髪をむぞうさに後ろで束ね、アーモンド型のぱっちり目で、ブルー・ジーンズの良く似合う姫様だった。
 なるほど、軽井沢で裸馬を乗り回すというはなしは、さもありなん。

 正子は私の事を、気軽にフクチャンとよび、まるで新しい友達が出来たかのように扱った。私としては「先生」とよばれるよりは、ずっとありがたい。
 私達は、とくだんに勉強時間をとり決めもせず、遊びに来た友人みたいに、ともに食事し、ともに音楽を聴き、気が向いたときを見計らって、アルジェブラ(幾何)の本を開いた。

 この屋敷には、沢山の部屋があちこちにあるが、いくつあるのかは、不明だ。正子と私が、よく行ったのは、山に沿って建てられている階下の部屋で、屋根もガラス張りの、巨大な温室である。
 温室といっても、床は大理石でできている大広間であって、真ん中に深い温泉プールがあり、そばに真湯(まゆ)のバス・タブが埋め込まれていた。背の高い緑の植栽があり、その下に古ぼけた籐椅子がふたつ、並んで置いてあった。

 私達はそこで遊びながら、アルジェブラをやった。
 ひと夏の宿題の量は、多くなかった。勉強机の前で、しかめっ面でやる数学とは縁のない、楽しいお遊びの宿題作業だった。これは、きっと勉強嫌いのまあこの戦術だったのだろう。私自身にとっても、楽しい夏休みだった。

 正子の父親は鳥類学者だった。
 その置き土産の、どでかい鳥の剥製が在ったり、執事や召使が登場したり、驚くことは多かった。なかでも心に残ったのは、そこに住んでいた正子の伯母・デザイナーの蜂須賀年子(としこ)女史である。
 蜂須賀年子は、德川慶喜の孫で、德川家や、皇室とのつながりが深い人だ。子ども時代には12人もの家庭教師がついていて、書家や国文学者など、皆、当時、一流の人物だったという。とにかく年子夫人は、教養溢れる、魅力的な人物であった。

 広い屋敷の中、南のどこに住んでいたのか、皆から「南邸様」とよばれていた。私は、その「南邸様」から、日本古来の行儀作法の歴史など、もろもろの興味深い話をたくさん聴くことができた。50年も前のことである。

 教わったことなど、とうに記憶の彼方に消え去ったが、あの時、「南邸様」から一冊の本をもらった。それは「大名華族」という題で、阿波の藩主・蜂須賀家に生まれ育った年子が、思い出をつづったものだった。
 大名華族の家では、嫁入りを控えた娘に、どんな性教育を授けるのか。
 お付きの老女が、まくら絵をみせると、
「そんな、みだらなものは、みとうない」
 と、姫は横を向いてしまう。云々・・などと、この本には書いてあった。

 1969(明治2)年から1947年まで存在した貴族階級には、元皇族を皇親華族、公家を公家華族、江戸時代の藩主は大名華族、国家への勲功により新しく華族になった新華族、がある。
 同じ華族でも、蜂須賀家のような大名華族は、行儀作法や家庭のしつけに、侍の気風が色濃く残っているのは、きわめて興味深い。
 神田では、古本屋まつりが開かれる季節になった。
 ちなみに、この古本をアマゾンで検索してみたら、1万2000円の値がついていた。

貸し切りの山だった 奥多摩・大塚山(鉄五郎新道)= 栃金正一

1.期日 : 2015年4月17日(金)晴れ時々曇り

2.参加メンバ : L佐治ひろみ 栃金正一

3.コース : 古里駅~金毘羅神社~広沢山~大塚山~大楢峠~小楢峠~鳩ノ巣・城山~鳩ノ巣駅

 古里駅に8:30に集合。準備をして出発。青梅街道から左に入り、大きな橋を渡り切ってすぐ、右手の登山道を行く。
 更に少し行くと沢があり、小さな橋を渡り立派な滝を眺めながら道を右に分けて登ると大塚山への道標がある。杉の植林された道をどんどん行くと金毘羅神社の鳥居がある。鳥居をくぐり右手の高台に祠があるのでお参りする。

 登山道に戻り尾根伝いの道を行くと、道の脇の枝に「岩団扇保護地」の標識が付けてあった。あたりを見回すと、白い小さな「イワウチワ」が咲いていた。
 この辺りは、自然林になっており芽吹いたばかりのうす緑の若葉もきれいだ。道は傾斜が急になりジグザグの道を登りきると尾根上の広場に出て、ここから平坦な道になり、少し行くと10:50広沢山に到着。木に広沢山の標識が付いている。

 更に尾根上の平坦な道を行くと電波塔があり、少し登ると大塚山に11:15到着。山頂には、人は誰もいなく貸し切り状態でゆっくりと昼食をとった。
 標識の前で記念写真を撮り11:55に出発した。

 ここから道はハイキングコースになっており、途中の富士峰園地では、大きな「カタクリ」の花が咲いていた。
 ワラぶき屋根の宿坊のところを右に曲がり山道に入り、延々と山腹をトラバースして行くと大きな「コナラ」の木がある大楢峠に13:15到着した。

 今にも倒れそうな巨木の脇を通り上坂方面の道に入り、途中から道標に従い鳩ノ巣・城山方面に行く。

 小楢峠までは、急斜面の下りで慎重に足を運ぶ。小楢峠には、すごく小さな標識が付いていた。ここからは前方に鳩ノ巣・城山が大きくそびえているのが見える。
 登りはかなり急だが道がしっかりしているので、思ったより苦労しないで鳩ノ巣・城山に14:00に到着。

 山頂は、広々としていて「ヒノキ」の30m位ある立派な植林に囲まれており三等三角点もある。展望はないが静かで何故か気持ちが落ち着く。

 ここからは、尾根伝いに急な下りが続くが、道はしっかりしているのでゆっくり歩けば問題はない。最後に杉林のジグザグの道を下り14:40道路に出た。大きな橋を渡ると鳩ノ巣駅はすぐそこである。駅の近くのおいしいお蕎麦屋さんで反省会を行った。
 天気も良く花や新緑もきれいで、人のいない静かな山行でした。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№189から転載

なぜ板橋区に? 植村冒険館・見学 = 武部 実

平成27年8月13日(木) 

参加メンバー:L武部、伊東、三浦、蠣崎、中野の5人

 この日は御岳山の山行が予定されていたが、雨天予報で中止になったので急遽計画したのである。
 植村冒険館という名の通り、冒険家植村直己を顕彰するために設立したものであるが、生誕地の兵庫県日高町(現在の豊岡市)には、植村直己冒険館が設立されているのである。

 なぜ板橋区に、と思うが、植村直己が東京にいた15年間を板橋区に住んでいて、ここからエベレストの登頂や北極圏の犬ゾリ単独行が行われたという縁で設立したということだ。

(冒険館の写真パネルより、エベレスト登頂)

 【植村直己の簡単な足跡】冒険館パンフより
1941年 兵庫県日高町生まれ
1966年 モンブラン、キリマンジャロ単独登頂
1968年 アコンカグア単独登頂
1970年 エベレスト日本人として初めて登頂
 
 マッキンリー単独登頂(世界初の五大陸最高峰登頂者)
  注;8月30日マッキンリーを、先住民が読んできたデナリと改称。

1977年 北極点単独犬ゾリ到達(世界初)
1984年 冬季マッキンリー単独登頂(世界初)登頂成功を伝える無線交信を最後に消息を絶つ(43歳)
      
 冒険館に入って1階は図書館だ。冒険、探検、登山、アウトドアに関する本が5000冊もあるそうだ。ちなみに上村代表の書かれた本も、ざっと見つけただけでも4冊はありました。『山と渓谷』『岳人』『新ハイキング』といった雑誌のバックナンバーも揃っているということだ。

 貸出もできるが、遠くの人は返却が大変だ。郵送での返却もOKだが、郵送料と交通費とどっちが安いか考えますよね。
 オリジナルグッズも販売しているので、お求めになるのも記念になっていいかも。

 2階は展示室。1970年に日本人として初めてエベレストに登頂した時の装備品、写真パネルはエベレストのほか北極点犬ゾリ単独到達などが展示してある。国民栄誉賞の楯や賞状も展示されている。
 DVD「植村直己の世界」が1時間10分おきに放映されていて、ゆっくりと鑑賞するのもいいだろう。
 2階建ての小さな記念館だが、いまどき入場料無料は立派。ぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

【植村冒険館の行きかた】

所在地 東京都板橋区蓮根2-21-5
 TEL 03-3969-7421

開館時間 10:00~18:00

交通 都営三田線 蓮根駅 徒歩5分

   ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№193から転載

山岳エッセイ・梅雨空に白 = 市田淳子

 今日7月7日は二十四節気の小暑。昨日6日は朝から雨で次の日が小暑とは思えない気温だった。
 職場では窓を開けっぱなしにしておくと寒くなって、春先に着るパーカーを羽織るほど。蒸し暑いばかりの梅雨だけではないと、ちょっとホッとする。

 少し遡って7月2日は七十二候の半夏生(はんげしょう)。農家ではこの日に天から毒気が降りてくるから、この頃までに農作業を終えなければならないという言い伝えがあるそうだ。ちょうどこの頃咲く花にハンゲショウがある。

 音が同じでも直接の関係はないというのが面倒だ。ハンゲショウが花開く頃、花に近い葉の一部またはほとんどが白くなる。花と言っても花弁も萼もない。

 だから、花粉を運んでくれる昆虫に目立つように、雄花と雌花のめぐり逢いのお膳立ての時期が近づくと白くなるらしい。植物は肉食だ!

 誰もが知っている同じ仲間のドクダミも、よく似た特徴がある。

 花弁のように見える4枚の白い部分は総苞片といい花弁ではない。ハンゲショウ同様、昆虫を誘惑するためのものらしい。この二つ、私は匂いも結構似ていると思う。

 ドクダミの白い部分は花が終わるころには枯れて茶色くなるが、ハンゲショウの白い部分は、再び緑色になるのは凄いと思う。
 白いままだと光合成できないから、確かに枯れてしまっては不経済だが、そんな戦略を進化の過程で選択したのだろう。

 ハンゲショウと同様、マタタビも花が咲く時期になると、花が咲く枝の先端の葉の一部かほとんどが白くなる。(左の写真は葉、右は花)。

 山に行っても目の前で見られることは少なく遠くの山肌に白く見えるだけ。花は下向きなので、遠くから見ると白く変わった葉だけが目立つのだ。

 動物たちは動き回ってパートナーを見つけられるが、植物は自力でパートナーを見つけることが難しい。動物よりはるかに下等な植物がこうして長い年月をかけて進化してきたことを知れば知るほど、植物が愛おしくなる。

 そんな健気に生きる植物満載の山に登り、山頂で写真を撮るだけではもったいない。彼らの生き方に目も心も向けたい。心惹かれたら、下界に下りてから誰かに話して、山の素晴らしさをたくさんの人に伝えられたらと思う。
                           (森林インストラクター)

         ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№191から転載

「寄稿・エッセイ」 ほっとする = 中村誠

 じりじりした日照りの酷暑がなくなった。金木犀の香りが漂い始めやっと落ち着いた秋になった。誰しもほっとするだろう。
 晩の食事を済ませテレビを観ていた。居間の天井隅に五センチほどの灰色のヤモリを見つけた。妻に「ほら」と天井を指さした。
「先日のヤモリ、元気に生きているのね」。
 時たま夕刻になると何処からともなく現れ、我々を見守っているようだ。時には玄関の三和土でジッとしている。あたかも見られているのを避けて擬態に成っているのだ。翌朝、玄関の外の壁に張り付いているのを見つけた。

 油虫を見つけると「やだ!早く」と妻は目をそらし、殺虫剤の缶を持ってくる。私は直ちに、たたんだ新聞紙で叩き殺し、片手でさーっと紙で摘み、外に捨てる。私の得意とする仕事だ。その間彼女は顔を背けている。滅多にないが家具の隙間に逃げ込んだ時は、殺虫剤のスプレーを充分に振りかける。

 庭に出る時、足元にちょろちょろと姿を隠そうとするトカゲに気がついた。相手もこちらの突然の姿を目にして、慌てて床下に姿を隠した。天候不順の今年は百足の姿が全然見られない。これはトカゲのお蔭かもしれない。

 四、五年前、特に夏に現れていた蛇や蛙が今年は全然見かけない。原因は異常気候か、あるいは植木屋の撒く殺虫剤か除草剤の影響と思っている。
 気になる生き物が現れないと何となく寂しくなる。縁起をかつぐわけでは無いが、蛇には親しみがある。巳年の妻も好きではないが、けっして嫌いでもない。他人には想定出来ない親しみを持っている。以前、隣家との垣根の上を音も無く移動する蛇を見つけた。妻は視線を投げて、じい―と観察していた。パチンと手を叩くと、一旦止まりこちらを見た様で、音も無く移動して消えた。薄気味悪さよりも可愛げな動作に見とれていた。

 歓迎するのは雀たちの朝と夕刻の飛来で、わが家の二度の餌まきが日課だ。
 だが、からすはどうしても歓迎できない。今年の夏は絶好の陽気だったので、真向い家の柿は鈴なりで日増しに黄色くなる。それを四,五羽の親子からすが狙っている。洋間の真正面で気になってしょうがない。喧しい彼らが一瞬静かになった、柿にありついたのだ。「こらー」と手をたたき追い立てた。しばらくすると周りはもとの静けさが戻った。
 金木犀の香りが辺りに漂って本格的な秋になった。

【寄稿・エッセイ】 うらめしや~ 和田 譲次

 お盆のころ,(冥途のみやげ うらめしや展)という奇妙な名称の展覧会が東京芸術大学美術館で開催されていた。

 明治期に、落語の世界で怪談話を立ち上げた三遊亭円朝のコレクションを中心に、お化けと幽霊を題材にした作品を集めていた。
 私は子供のころから、お化け、幽霊の類は怖いと思わなかったし、興味もなかった。大人になり落語の怪談話はよく聴いた。こわいというより面白かった。今回のような企画は美術の世界では珍しい、見過ごすわけにはいかない。

 九月中旬終了二日前に上野の杜へ出かけた。
 展示会場に入った。予想に反して多くの見学者であふれている。妖怪ブームの影響からか、若い男女のペアが多い。若い女性はオーバーに[キャーキャー]と、いいながら怖さを楽しんでいるようだ。私は、通常、観たい絵を決めておいてそこへ直行しているが、今回は知識もなく、事前の情報も不十分なので、人の流れに沿って観て回った。江戸後期から、明治期にかけての作品が多い。

 歌川広重。円山応挙の作品の前で、私は脚を止めた。
「なんて美しい女性なのだ」と思わず心の中でつぶやいた。髪を後ろに長く垂らした物憂げな表情にひきつけられた。幽霊だから脚は描かれていないが,楚楚とした風情からは色っぽさも匂う。

 この世界の有名人、四谷怪談のお岩さん、番町皿屋敷のお菊さんからは美女というイメージは感じていなかった。そのためお化け、幽霊がこれほどの美女とは想定していなかった。
人物画を描く場合、画家はモデルを使うことが多い。錦絵の作者たちは、各人の好みの女性像を幽霊におきかえてモデルを選んだのだろう。日本では肺結核を病んだ人が多かったから、画家は自分の想定した薄命の女性を探すのに苦労はしていない。

 今回の展示品の中で、話題になり関心を集めたのが上村松園作の「焔(ほのを)」である。源氏物語から題材をとり平安朝期の女性を描いた。私はこの作品に接して体が強張った。こわい、薄気味悪いという段階ではなく、思わずぞーっとした。眉毛をそり、墨を入れた顔は、現代人から観たら、きみがわるい。光源氏に裏切られて命を絶った女性の悲しみと、恨み、それでも光源氏へのはかない愛情が入り混じった複雑な表情である。作者は源氏物語を読み込んだのだろう。この作品は今回の展示品の中では新しいもので昭和の時代に描かれた。それだけに現代に生きる我々には、特別に感じとれるものがある。

 全体を観て気がついた。男を描いた作品が少ない。歌舞伎の題材になった作品が数点取り上げられている。演技をしている役者がモデルのせいか芝居の衣装をつけたお化け幽霊は、恨めしげに見えず、今一つピンとこない。男の方がうらみへの執念がうすいのだと思う。私は美術館には一人で行き、静かに物思いにふけるのだが、今回に限っては仲間と一緒に絵を観て、女性をどうみたらよいか、男女の恨みへの執念の差を多いに議論してみたかった。

 女性を描いた多くの作品ではどの作者も、女性の被った恨みや、悲しみを見事に描いている。あの世に行ってまで、うらめしや~と化けて出る執念を蓄えた雰囲気が感じとれる。この展覧会で、女性の恨みをかったら、いかに怖いかをおもい知らされた。

 仕事では男の恨みを買うようなことを人事評価やリストラなどで多く手掛けてきた。女性に関しては公私両面で問題になることはないと信じているのだが、家内はいろいろと我慢してきているから、言いたいことは山ほどあるだろう。
 あの世まで持っていかれたら怖い。

【寄稿・エッセイ】故郷への墓参、文化文明日本の見事さ=二上薆

「お盆の休日、お墓参りをしましょう。車を出しますよ」
 三男の温かい言葉にのって天候定まらぬも何とか晴れ間のある日、没落した生家のあった埼玉県岩槻の墓地を訪ねた。 

 車は出発点逗子市のガソリンスタンドに立ち寄る。ガソリンスタンドはほとんど立派な自動操作機で操作人員は一人か二人に過ぎない。それから横須賀羽田の湾岸高速道路を走る。道路は海岸を埋め立ててつくられたと思われる幅広い立派な道で横浜近辺の工場の煙突が海岸に立ち並び、いくつかの立派な鉄筋コンクリートの建物がならぶ。

 横浜港付近の鉄橋はキチンとした溶接鉄板が施され、やがて羽田空港近くのトンネルを通過して道は埼玉方面に向かう隅田川沿いの見事な道路に入る。 川縁は緑の絨毯のようなあざやかさ、その先には鉄筋コンクリートのビルが連なる。やがて東北高速道路沿いの道に入り岩槻方面への静かな道に入る。

 江戸から日光東照宮へ至る、第一の拠点埼玉県岩槻町は太田道灌が岩槻城を築き明治時代県庁所在地として活躍した。さらに東北線列車の要駅と目されたが断り雛人形の製造町となりその後、海外との連絡の拠点である無線電信の立派な建物は残したまま,さいたま市岩槻区となった。

 見事な土蔵を従え、敷石と緑の芝生に飼かご部屋から出てきた見事な孔雀が戯れていたわが旧家は、没落し跡形もなくなり子女の学校入学とともに東京に移転する。幼少の子供時代。年末小作人が大勢集まっての宴会の、賑やかさ、中庭に横たう庭池の掃除のさわがしさ、幼児の想い出は尽きない。
 菩提寺芳林寺は、祖父の建設した立派な墓石と永代供養の大きな石碑が残る。幼くして失われた姉たちへの別れを悲しんで東北線列車で墓参りした母親のお供の思い出が忘れられない。息子和尚がシベリアに抑留されてなかなか戻れないなどと前代和尚様の奥様と親しいわが母との語りも。

 座敷に上げられ、町の名店の最中をいただき,寺の花畑からご供花頂き、御線香も差し出され大きな本堂にあるわがご先祖様の仏壇をまず拝んでから、大きな先祖の墓碑に参ったこと。墓碑のすぐそばは大きな森林であったが戦多くの新墓が建設され、本堂も⒋年前の東北大震災で倒され、寺は有料現金をバックアップする融資会社とつながって先祖慰安の仏事もそれぞれの費用をそのたびに請求され、永久扶養の石碑は形骸と化しており仏事は指定会社の指定する店で行われ費用も現実に参加者各人に、直に要望されるようなしきたりとなってしまった。

 文化文明の豊かなビジネス国家日本、敷島の大和心は?
 この考え方は朝河貫一の日本の禍記にも強く怖れられた考え方と強い共通認識がある。太平洋戦争の悲しみとともに、高年者、長期入院とともに筆の遅れ、いとしむ畏友の温情に改めて深い感謝の謝意を表したい。

【寄稿・エッセイ】 池とザリガニ =  吉田 年男

 石の間に身を潜めていて、姿を見せようとしない。タコ糸にスルメイカを結び付け、隠れていそうなところに揺らしながら静かに持ってゆく。しばらくすると、用心深そうにスルメイカを挟む赤茶色のはみがみえてくる。

 子供たちは、今日も公園の池でザリガニとりに夢中だ。魚釣りは禁止されているが、ザリガニ取りは、生物観察のため認められている。


 池の中には、ザリガニの他に鯉と金魚、亀の親子などがいる。亀はペットとして飼っていた子亀が、大きくなりすぎて家庭では飼えなくなり、無責任にも無断で池に放していったものだ。居心地がよいのか繁殖してしまって、今ではかなりの数になっている。


 池の中では、壮絶な戦いがくりかえされている。亀につかまったザリガニが無残にも胴を食いちぎられているところを見た。それも食いついているのは小さい亀だ。
 身体が小さい亀は一見かわいらしく見えるが、動きがすばしっこくて、ザリガニを食べているところをみていると、貪欲で凶暴で憎らしい。

 夏の間、亀は石と石の隙間を物色しながら活発に泳ぎ回る。ザリガニの気配を感じると、首を思い切り伸ばしてグイグイと石の隙間に入り込んでゆく。
 ザリガニたちは、必死に逃げまわる。可哀そうだが、池の中ではひたすら逃げて石の隙間の、狭くて亀の口が届かないところを探して、身を隠すより彼らに生きる道はない。


 子供のころ田圃へ水を運ぶ小川で、伊勢海老にそっくりな大きくて強そうなザリガニを見た。あの堂々としたザリガニの勇姿はどこへ行ってしまったのか。

 池の中は、危険がいっぱいで、めったなことでは石の隙間から外に出ることができない。彼らにとって、いつも死と隣り合わせの厳しい環境が、姿まで小さくてひ弱な格好にしてしまったのか。


 そんな彼らも、スルメイカの匂いにつられて、時折、用心深そうにはさみを動かしながら姿を見せて子供たちを喜ばせる。その時の仕草は、何ともせつない。
 人工池で生きる彼らには、もう一つ厳しい試練がある。それは池の掃除のときだ。水を抜き、底の部分はもちろん、置かれているおおきなまるい石、敷きつめられた玉砂利石のひとつひとつに至るまで、高圧洗浄機できれいに洗われる。

 歳月をかけてやっとできた水垢や、そこに住み着いた彼らにとって餌となる微生物まで、すべてきれいに取り除かれてしまう。やっと探し求めた安全なねぐらも、一瞬にして奪われてしまう。
 掃除している間、鯉や金魚たちは、別の場所に移されて、生命が確保されているが、その中にザリガニの姿をみたことがない。
 彼らはどこへ身を隠しているのか? どこえ行っているのであろうか? なにを食べて生きているのだろう。
 小さくて、ひ弱な姿になったザリガニたちは、掃除のときそれを素早く察知して、給水管や、給水管につながる給水槽のどこかに、そっと身を隠しているにちがいない。
 池の掃除があるたびに、心配になりこころが痛む。

【寄稿・エッセイ】 ご先祖さま = 廣川 登志男

 亡き母が、美しい絵柄の入った回り灯篭を飾ったり、おがらを焚いていたことを思い出す。「お盆には、先祖の霊が戻ってくるのよ。だから、迎え火、送り火をする習わしになっているのよ」と母から教えられてきた。
 しかし、ご先祖さまが住む「死後の世界」というのは本当にあるのだろうか。


 死後の世界の存在を裏付けているのは「臨死体験」だ。
 例えば、病院で人が死ぬと、波打っていた脳波が「ピー」という音とともにゼロ点に戻り動かなくなってしまう。画面は時間軸なので直線がいつまでも続く。そうするとお医者様が「ご臨終です」と言って死亡が確認される。
 臨死体験とは、死亡と断定された人がのちに息を吹き返し、
「○○は、私にしがみつき大泣きしてくれたね」とか、
「△△は私の臨終に間に合わなかったね」とか、
 まるで見ていたかのように話しをする。他にも、桃源郷をさまよっていたとか、三途の川を渉り損ねたとか、いろいろあり、「死後の世界」を信ずる人は多い。


 NHKで立花隆の番組があった。番組の中で、面白い事実が紹介されていた。ピーとなった脳波(直線状で波が見えない状態)を、縦軸を大きく引き伸ばすと微かだが波が現れる。
 微小な波だったために直線状に見えていただけで、実は微かだが脳波が出ている。この微かな脳波が、死を宣告されたあとの映像を記憶にとどめ臨死体験と云われる死後の世界の体験を語らせているらしい。
 その微かな脳波が消えてしまえば本当の「死」となるのではないだろうか。


 私はもともと死後の世界なぞないと信奉する一人だ。だからこの番組で紹介された脳波の紹介が妙に頭に残り、いっそう信奉の念を強くした。
 しかし、実生活のなかでは、科学で言い表せない体験がしばしば起こる。


 3か月ほど前になるが、交差点で信号待ちをしていた時だ。一番前で停車していた。交差点は視界が悪く、交差点内に入らないと左右が見えない。信号が青に変わった。普段ならすぐに車を走らせるのに、そのときは違った。なぜかわからないが、青になったとき一瞬躊躇したのだ。
 ほんの1、2秒後、「さあ出よう」とブレーキから足を離しアクセルを踏もうとした瞬間、右から車が猛スピードで駆け抜けていった。いつものように出ていたら大変な事故になっていたかと思うと、恐ろしさで膝ががくがくした。そんなことがこれまでにも何回かあった。お陰様で、いまだに交通事故は起こしていない。


 他にもある。小学校5年の時で、遊び場だった目黒不動の縁日でのことだ。
 当時は東京の武蔵小山に住んでいた。夕暮れ時に、境内の小さな丘から駆け降りるときに怪我をした。駆け降りる先に有刺鉄線が1本、ちょうど顔のあたりに張られていた。
 薄暗がりのなかで鉄線など見えるわけもなく、一気に駆け降りて、額に引っ掛け背中から落ちた。

 近くの屋台のオバサンがキズを見てくれて一応の処置をしてくれた。不思議にあまり血は出ていなかったが、眉の間に有刺鉄線の尖った部分が刺さり肉をえぐっていた。左右にはそれぞれ10センチほど離れて小さな傷があった。
「坊や、ラッキーだったね。少しずれていたら両眼をなくしていたよ。お不動さんか、坊やのご先祖さんか、どちらかわからないけど助けてもらったんだね。このくらいで済んで良かったよ」
 死後の世界はないという信念に似た気持ちに揺らぎはないものの、
「私を守ってくれているご先祖さまがいる」
 という思いも、心の奥深くで生き続けている。

【寄稿・エッセイ】 気の利いた幹事さん = 中村 誠

 年1度の「高校のクラス会」に24名が集まった。体調不順での欠席が多かったのは、七十七歳を考えればうなずける。それに台風来襲で沖縄の仲間が残念ながら欠席した。乾杯で始まり、献杯無しのスタートは誰もが良い気分だ。

 幹事の一人で進行を引き受けた田渡君が、提案した慣例の「参加者のひと言」は次のような内容だった。
「お互い近況報告はどうしても病気とか、孫自慢になってしまうが、今日は、70年前の終戦日をどのように迎えたかを思い出して語って下さい。2分程度でお願いします。どうしても難病体験を話したい方は3分以内でお願いします」
 参加者は意外な提案に笑顔で応えた。


 高校時代は弓道仲間で、同じ大学を卒業し、職場が一緒だった山岸君は、個人的にも土地や金銭面の問題には弁護士を紹介してもらい世話になった。
「記憶はハッキリしないが、あの時は、今の中国大連に住んでいた。ジイジー鳴る玉音放送は聴いたが内容は全然わからなかった。後日、親から聞いた程度だ。当時の思い出は、隣家の娘を見初め、成人してワイフになった訳だ」
 話し好きであり、他人の話を良く聞く好人物だ。2、3分で話が終わればよいがと、いつもハラハラする。今回はさすがに、おのろけを交え上手に締めた。


 次に指名された角田君。
「当時、伊豆熱海に母と姉妹一緒に疎開していた。連合軍が上陸するとの話、噂だったかな、聞いて熱海から伊東線の先の網代に移った。玉音を聴いたお袋が泣いていたのを覚えている」
 彼の話は初耳で、当時のわが家の生活がハッキリと思い出された。


 伊東線網代の先の終点、伊東にある祖父母の住まいに疎開していた。母、兄と、私の3人が同居していた。父は昭和17年5月、真珠湾奇襲から半年後に、軍属として移動中の船で命を奪われた。当時はマル秘の惨事だった。


 角田君と同じように、伊東海岸に連合軍が上陸するとの噂があった。わが家の3人は山中湖畔の旭ヶ丘に移転した。玉音放送の当日、瞼に浮かぶのは、じりじり照りつける広場に集まった大人たち。ラジオからはジイジーの雑音しか覚えていない。

 その夕刻、食堂、居間のつり下げた灯りが漏れないようにしていた布を取り払い、一気に家中が明るくなった。湖畔の対岸にある家々に灯りがハッキリと望めた。その後、伊豆伊東に戻り国民学校、後の小学校に通った。


 懐かしい70年前の話題を引き出してくれた幹事に感謝一杯だった。

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