寄稿・みんなの作品

北アルプス薬師岳=関本誠一

日時:2015年7月28日(火)~31日(金)  3泊4日・曇り時々晴れ(一日目は一時雨)

メンバー : L佐治ひろみ、武部実、岩淵美枝子、脇野瑞枝、関本誠一  (計5名)

コース

【一日目】室堂~一の越~五色ヶ原山荘(泊)

【二日目】五色ヶ原山荘~越中沢岳~スゴ乗越小屋(泊)

【三日目】スゴ乗越小屋~薬師岳~太郎平小屋(泊)

【四日目】太郎平小屋~折立

 今回行く薬師岳は、日本百名山とともに、花の百名山にも選ばれており、北アを代表する縦走コースに鎮座する山の一つだ。

 薬師岳という山名は各地に多数ある。そのなかでも、最高峰で、人気ある山だ。ちなみに第2位は鳳凰三山の一峰(2730m)。


【一日目】

 今春に開通した北陸新幹線で、富山駅についた。駅前のホテルで前泊する。

 朝6時発の直行バスで、室堂に入る(9:30)。BT前で、水を補給してから出発する。しかし、学校登山の生徒さん達と一緒になって、思うように歩けない。

 一の越でこの渋滞から逃れ、五色ヶ原に向かう。

 天気は予報に反し、徐々に悪化する。鬼岳の雪渓をトラバースする頃は、見通しも悪くなって、雪上ステップを作ってくれた山小屋の尽力に感謝しながら、慎重に進む。


 獅子岳を超え、まもなくザラ峠だ。戦国時代の武将・佐々成政の「さらさら越え」で、有名とか……。昔日伝説に思いを馳せながら、小休止する。ここからゆるやかな登りで、五色ヶ原だ。

 この一帯は最盛期過ぎたと言っても、20種類以上の高山植物の宝庫で、咲きほこっている。


 小雨降るなか、五色ヶ原山荘に到着する(16:00)。雨具などを乾燥室に干し、落ち着いたところで無事到着の乾杯!


【二日目】

 5時起床。6時半に出発する。ここからエ久ケープない領域を進む。天気も回復して、登山道のまわりはお花畑が連続している。

 鳶山を過ぎると、越中沢乗越に下り、次のピークである越中沢岳に到着(9:30)。ここで小休憩した後、急斜面を下ったところで、ランチタイムとなる。

 さらに下ったのち、スゴノ頭の手前をトラバースした後、急な下りになる。鎖や梯子の難所だが、注意して下りきる。スゴ乗越に到着(13:00)。


 休憩中、来年は日本縦断トレランにエントリー(予定?)のアスリートが通りがかる。かれらにコースタイムを聞いてビックリした! 
 剱岳の早月尾根を深夜に出発し、一日でスゴ乗越小屋とは……。その超人ぶりと、レースの厳しさを痛感する。

 ここから緩やかに登ると、小屋に到着(14:10)。


【三日目】

 5時に朝食をとった後、6時に出発。

 今日は薬師岳に登る日だ。間岳、北薬師といくつかピークを越えるが、疲れも溜まって、一番キツイところだ。

 今回の楽しみの一つの雷鳥に、まだ会ってない。遠くの雪渓に鳥らしきものが見え、鳴き声は聞こえるが確認できない。
 標高3000m近いのに晴れると、日差しが強く、雷鳥も悲鳴をあげているような思いがした。

 薬師岳に近づくにつれ、風が冷たく、一時は視界不良になった。山頂に到着した(11:10)ころには、雲が取れ、一瞬の晴天景色を満喫する。

 薬師岳は北アルプス有数の大きな山だ。東側は氷河の痕跡(カール)があり、国の特別天然記念物に指定されている。
 山頂には薬師如来を祀った小さな祠がある。三角点は祠の影に設置されていた。

 下りは緩やかな南斜面を行き、途中の山荘で、昼食をとる。やがて、太郎平小屋に到着(15:00)。


【四日目】

 折立へと、薬師岳、剱岳、それら立山連峰を眺めながら、整備された道を快調に下って行く。 折立に下山した(9:35)。最寄りの温泉に立ち寄り、反省会をする。

 北ア山歩を無事に踏破した。名残惜しみながら、帰宅の途へ…お疲れさまです。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№194から転載

作家・北杜夫のヒマラヤ遠征=上村信太郎

「どくとるマンボウ」の作品名で知られる作家の北杜夫は、昭和40年にカラコルムの未踏峰ディラン(7273㍍)遠征に参加し、その体験を描いた小説『白きたおやかな峰』を発表している。

 北杜夫(本名・斎藤宗吉)は昭和2年生まれ。精神科医にして芥川賞作家。父は精神病院長で歌人。兄茂太は精神科医であり、著名なエッセイストでもある。


 作家として脚光を浴びた契機は『どくとるマンボウ航海記』という作品で、これは水産庁漁業調査船の船医として乗船。その航海生活を描写したもの。
 当時は自由に海外旅行が出来ない時代であった。

 航海記で人気を博した北は、次にディラン遠征隊付医師の経験から『白きたおやかな峰』を書いた。医師の著した遠征記としては、P・スチール著『エべレスト南壁1971国際隊の悲劇』時事通信社刊があるが、登山経験のない著者には登山描写に限界が見える。
 その点、作家北杜夫が医師の目線で描くヒマラヤ遠征隊の内側は実におもしろい。


 では、そもそも作家がどうして遠征隊の一員になれたか、また遠征隊の派遣母体はどこか、またディラン峰はどんな山なのか、作家北に登山経験があるのか、それらは一般にあまり知られていないようだ。

 まず、北杜夫は旧制松本高校のOBである。ディラン隊の小谷隆一隊長も松高OBで、北の2年先輩。隊付医師が見つからず、後輩にお鉢が回ってきたようだ。

 遠征隊の派遣母体は京都府山岳連盟、「京都府岳連西部カラコルム遠征隊」は、小谷隊長以下隊員10名。この隊で特徴的なのは、塚本珪一副隊長、高田直樹隊員ら4名もの高校教諭が参加していること。

 山岳連盟隊というのは一般には大学山岳部や社会人山岳会と違って選りすぐりだが、寄せ集め集団でもある。

 ディラン峰はパキスタンのフンザ地方に位置し、別名ミナピン。山容は白く雪に覆われ端正なピラミッド形をしている。京都府岳連隊は惜しくも登頂に失敗。3年後、オーストリアのハンス・シェル隊が初登頂を果たしている。


 北の登山経験は、旧制松本高校時代に上高地や穂高の山を登るために、徳本峠を15回は越え、ディラン峰ではミナピン氷河上4236㍍まで登ったという。

 ところで、この小説には不思議なことに女性が登場しない。このことについて作家の林房雄は書評を次のように書いている。
「女は一人も出てこない。いや、出てくる。巻頭から巻末まで、純白の雪の肌の太古の乙女よりもたおやかな容姿を持つ、海抜七〇〇〇㍍の絶世の美女が…」と。なるほど納得である。


ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№142から転載

            ※北杜夫(本名・斎藤宗吉)さんの写真は、インターネットから引用しています

こんなにも大勢、高校生の登山大会ですって、雲取山=佐治ひろみ

 日時:2015年5月10日(日)、11日(月)

 メンバー:L武部実、脇野瑞枝、原田一孝、中野清子、佐治ひろみ、

『コース』

 ①西武秩父駅 9:10バス→三峰神社10:30~霧藻ヶ峰12:20/50~白岩山頂15:20~大ダワ16:15~雲取山荘16:45

 ②雲取山荘 5:50~山頂6:25~七ツ石8:45~七ツ石小屋9:00~鴨沢バス停12:45/バス13:53→奥多摩駅 


 西武秩父から、9:10の三峰行きのバスに乗る。休日の晴れとあって、人出が多く、バスは3台出る事になった。

 約1時間、山が近づくと、道路脇には真っ赤な山ツツジの花が咲いている。良い季節に登れて、この先楽しみだ。

 10:30 三峰神社駐車場をスタートし、白い鳥居の登山口で、登山届を出す。あんなにいたバスの乗客たちは、もはや四方に散ってしまい、登山者もまばらだ。ところが、奥宮分岐を過ぎ、霧藻ヶ峰に向かって歩いて行くと、若者のグループが次から次へと下りてくる。

 何ごとかと思い尋ねてみると、

 昨日、今日は埼玉の高校の登山大会だそうで、彼らは朝4時起きで、三峰神社から雲取山日帰りと言うからビックリだ。

 下りてくる高校生は、疲れも見せず、大きな声で挨拶してくれる。こちらも元気をもらう。延べ200人くらいの高校生と所々ですれ違いながら、12:20に霧藻ヶ峰に着く。


 ここで30分の昼食休憩をとる。西側の展望が良く、和名倉山方面が見える。

 霧藻ヶ峰からいったん下ると、すぐにお清平である。ここで昼食を食べている人がいた。これからが本格的な登りとなる。

 狭い尾根の急坂を一歩一歩登ってゆく。周りはツガ、シラビソの原生林で、下にはコケが密生し、いかにも奥秩父の山といった雰囲気が、とても素敵だ。


 前白岩、白岩小屋と過ぎてから、いよいよ白岩山頂が近づいてくる。原生林の中には鹿の姿が! やはり出たか!この辺を縄張りにしているらしく、かならず現れる鹿である。

 白岩山頂で休憩し、疲れた体に糖分を補給する。芋の木ドッケの木道は、すこし危なっかしい所もあるが、イワウチワの花があちこち咲いていて、カメラに収めながら歩く。


 大ダワを過ぎテント場に入ると、また高校生が沢山いた。各校、上級生たちはここでテントの一夜を過ごすそうだ。

 16:45に山荘に到着した。

 私たちは5人で一部屋を使わせてもらった。あまり混んでいないようだ。夕食までの時間ゆっくり一杯やる。夕食を食べ、明日のために早寝する。

 朝食は5時。今日も晴れの天気の中、5:50にスタートした。

 山頂まで30分の登り途中、ウソ鳥を発見。グレーと赤と黒色の綺麗な鳥だった。

 6:30 山頂からは富士山をはじめ周りの山々の景観がとても素晴らしく、感激。そして、みなで記念写真を撮った。
 石尾根を七ツ石まで下りて行く。

 この石尾根のカラマツの芽吹きが美しく、本当に見とれてしまう。七ツ石山頂から小屋まで下り、時間がたっぷりあるので、コーヒーを飲んだり、大休憩した。
 一つ驚いたことは、あのワイルドなトイレが素晴らしく綺麗になっていたことだ。


 50分の休憩後は、下山を開始した。
 12:45に、鴨沢バス停に着いた。13:53に、奥多摩行きのバスに乗る。月曜はどこも温泉が休みなので、駅前のお蕎麦屋さんで反省会をして、東京に戻る。


 新緑の山道が、とても印象的な2日間でした。

 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№191から転載

【寄稿・写真エッセイ】 雨の柴又を歩く (下) = 阿河 紀子

「ローアングルで撮る写真も面白いよ」

 穂高先生が熱くレクチャーしている。


 私も挑戦してみる。シャッター・チャンスが、なかなか掴めない。

 地べたに這いつくばって、夢中で写真を撮っていると、なんと「寅さん登場」だ。


「え~~~」とびっくりしていると、この界隈では有名な「物まね芸人」だそうで、先生とも顔見知りらしい。

 観光客から「一緒に写真を」とせがまれている。

「お控えなすって」の手と、雨にもかかわらずの「雪駄」と絶やさぬ「笑顔」が彼の心意気なのか。


「雨だれを有効に使って写真を撮る」という課題で撮った1枚がこの写真だ。

 矢切の渡しに乗船予定だったが、雨天運休していた。

代りに、昭和の雰囲気がぎゅっと詰まった喫茶店で、休憩を兼ねて写真撮影のコツのレクチャーがあった。船に乗れなかったのは残念だったが、有意義な技術習得の時間だった。


「何を主役にして、何を脇役にするか」と言う、課題を意識しながら撮った写真がこの1枚だ。主役は写真を撮る「彼女」で脇役はカメラの「画面」だ。


 上手、下手はさておき、今までと違う視点から写真を撮るのは、面白かった。

 雨降りでも、楽しく充実した講座だったが、次回はやはり、晴れた柴又を歩きたいものだ。


                         【了】

【寄稿・写真エッセイ】 雨の柴又を歩く (上) = 阿河 紀子

 ずっと京成沿線に暮らしている。それにもかかわらず、私は金町線に乗るのも初めてなら、柴又を歩くのも初めてだ。だから、「朝日カルチャーセンター千葉」主催の「柴又を歩く、撮る」の講座を楽しみにしていた。

 当日は、あいにくの雨だった。その上、寒い。気分は上々と言うわけには、いかない。
「せっかく来たのだから、楽しまなければ」
 と自分で自分を盛り上げながら、「柴又」の駅で下車する。

 講師は、「写真エッセイ」でお世話になっている「穂高健一先生」である。


 日本ペンクラブに所属する、高名な作家だと言うのに、先生自ら、テンション低めの受講生を盛り上げようと道の真ん中でポーズをとり被写体になる。

 これでは、雨が降っているからと、私がテンションを下げてはいられない。本日のテーマは、「動きのある写真を撮る」「主役と脇役を考えながら撮る」である。


 さぁ、気を取り直して、出発だ。駅前には有名な寅さんの像がある。

 さっそくカメラを構える。ここで私たちが撮りたいのは「記念写真」ではない。

 寅さんの像と撮られる人、撮る人との関係、場所や時間、季節などを説明無しに、どこまで表現できるかに挑戦する。難しい。


 次から次へと、観光客が寅さんと一緒に写真を撮る。どの顔も笑っている。

 寅さんは、今でも変わりなく人気者だ。


 私たちが、カメラを構えているので、通りがかる人すら、カメラを意識する。

 この若いカップル、一旦、寅さんの前から立ち去ったのに、再びカメラの前に登場する。

 どうしたのかなと、様子を見ていると、どうも彼女の方が、カメラマンたちのモデルになろうと彼氏をそそのかしたようだ。

 彼女の堂々としたモデルっぷりに比べて、彼の方は、目が泳いでいる。主導権は彼女にあるようだ。

 心の中で「彼氏、頑張れ」つぶやきながら、小走りに一行を追いかけた。


 帝釈天に続く雨の商店街は、予想以上に人通りが多かった。

 軒先で一杯やっていた3人連れに穂高先生が「撮らしてもらっていいですか?」と声をかける。
快くモデルになってくれた。

 私はこの眼光鋭いおじさんが気になって仕方がない。
「3人のご関係は?」
 と尋ねると、その辺はうまく誤魔化されてしまったが、青年がモンゴル出身の「元力士」だったことを教えてくれた。
 彼は引退後、100キロ以上あった体重を、ランニングでここまで減量したそうだ。

 さらに行くと香ばしい美味しそうな臭いが鼻をくすぐる。焼き鳥やさんだ。通りがかる人が、思わず笑顔になっている。

 焼いている彼の真剣な眼差しや、綺麗な手、繊細な指先に、私は、しばし見とれる。  


 先生は「煙を撮れ」と言う。

 動きを煙で表現するのだ。


「くし刺し3年、焼き4年」などと言われている。

 彼に「焼きになってから何年?」

 と尋ねると、にっこり笑って「4年」と答えてくれた。

もうすぐ店を任してもらえるのかもしれない。

「頑張ってね」
 と声をかけると、恥ずかしそうに頷いた。

                                【つづく】

【寄稿・エッセイ】 身障者手帳 = 和田 譲次

 家内は二年前に膝に人工関節を取り付けた。手術後も元気で、腰が悪い私より速く歩く。それなのに病院の指示で身障者手帳の申請をし、交付された。

 本人は何も不自由を感じていないように見えるが、いろいろな恩典が受けられる。
 自動車関係はフルに利用したら利用者のメリットは大きい。税金も安くなるし、歩行困難者使用中のカードを付ければ自由に駐車ができる。地域が限られるが、無料バスカード、タクシー割引券、JRも割引が適用になる。

 家内が積極的に利用しているのが公共の美術館、博物館への入場が無料になる権利である。本人だけではなく付添一名も適用になる。今年の秋は素晴らしい企画展が多く、上野や六本木などへたびたび出かけていた。毎回、近所の奥様が一緒である。

「今日は上野で三カ所回ったの、窪田さんが疲れたと言うのでアメ横にはよれなかった」
「付き添いが疲れたと言ったのではついてきた意味がないな」
 と私が言って二人で笑った、
「ご主人に悪いわね、私ばかり素晴らしい絵を観させていただいて」
 モネ展の会場で絵を見ながら窪田さんが話したという。
「いいのよ、主人は美術館には、いつも一人で行っているわ、自分のペースで静かに観たいのよ」と、家内が応じたらしい。

 家内の行動を観ていると無意識で、無料バスやタクシーを利用している。歩こうと思えば歩けるのだが、恩典があるとつい、利用してしまう。付き添いの制度も当初は車椅子利用者のために用意されたのだろうが、家内に限らず、今では自分の足で歩ける人が遊びのために友達を誘っている。 夫婦で川崎市内から川崎ナンバーのタクシーを利用すると、かなり長距離のりようが可能である。一度だけ違法すれすれのタクシーの利用をしたことがある。

 身障者の方への恩典は、必要がある人が、必要な時に利用すべきものだと思う。申し訳ないことをしてしまった。

 私の友人が心臓ペースメーカーを付けている。今の機械は改善が進み電波障害もなく安定している。私は心臓に障害があり、不整脈がよく出る。脈が遅くなるタイプなので本来ならばペースメーカー使用の対象になる。
 循環器担当の主治医と具体的に話し合ったことがある。
「ペースメーカーを付ければ脈が落ち着いて安心できると思うのですが、それに身障者の扱いを受けるといろいろな恩典があると聞いていますが」
「体に異物が入るということは本来の体のリズムが狂うということですよ、心臓に良くても他の器官に影響が出ます。貴方は未だ自力で活動できます。わざわざ体をいためることはありません、自然体でいきましょう」とたしなめられた。

 家内は、膝の前に、脊柱管狭窄症の手術を受け、こちらの方も後遺症がある。既定では手帳が支給されない。人前では明るくふるまっているが、寒くなると膝の患部が痛くなり側に暖房機を置く、寝付けなくて夜中に痛み止めを飲むこともあるようだ。
 人工関節も性能が向上しているのだが、体本来のものとは違う。疲れたり、温度、湿度の変化で痛みが出る。口には出さないが、夫婦を永く続けていると家内のつらさが感じとれるときもある。

【寄稿・エッセイ】 上首尾 = 金田絢子

 10月2日(平成27年)に、クラス会があった。
 私の母校は、幼稚園から大学まで続く一貫校だが、この日ひらかれたのは、初等科のクラス会であった。男女合わせて40人が参加した。

 予め幹事が「エッセイのお話をしていただきたいと思っています」と往復ハガキに書いて寄越した。
 眠れない夜が続いた。というと、ちょっと大袈裟だけれど、少なくともハガキを受けとった日は、夜通し挨拶の文句を練った。

 草案は、前のエッセイ教室をやめた理由に始まり、延々と”私”を語るものだった。何度も推敲(?)を重ね、余分なものをカットしていった。

 クラス会はレストランで行われ、丸いテーブルを6、7人が囲むスタイルである。
 レディ・ファーストということで、女性3人が先きに話をした。私は2番目に呼ばれた。自分の椅子から立って、そのまま話し出せばよかったので、緊張しないですんだ。

 まず、学校時代まさに落ちこぼれだったと自己紹介をしてから、先日エッセイに書いた、「私がメチャクチャにした、球技会の日のバレー・ボール」の話をした。
 この文章はエッセイ教室で、拍手喝采だったと嘘までついた。

 試合ののっけから、ヘマをくりかえす私を怒鳴って泣かせたTも、別のテーブルにいた。面白そうに笑顔で聞いている姿が、私の席からよく見えた。
 彼女は私に「君ってホント、怖いもんな」と男子連にからかわれたと話した。

 クラス会が跳ねてから、幹事に、「Tさんを散々さかなにして悪かったかしら」と言ったら、「そんなことないわよ。喜んでらっしゃるわよ」と請け合ってくれた。

 私のスピーチは、殊のほか評判がよかった。

 つまるところ、文章を時間をかけて練り、書いて書いてかきまくり、声に出して読め、とエッセイ教室で教えられたことが、役に立った。
 もう一つ、次期幹事に指名されなかった幸運が加わり、るんるん気分で二次会にものぞんだのであった。

【寄稿・エッセイ】 ドロボウ?  = 奥田 和美

 私の母は4人の子供を産んだ。男3人と女1人。長男が7歳、次男が5歳、三男が3歳の時、私は母のお腹の中にいた。戦後の昭和24年のことである。

 母はその地に引っ越してきたばかりで、大きなお腹を抱えながら、荷物の整理で大忙しだった。3人の男の子達は一緒に遊んでいると思っていた。ところが三男の行方が分からなくなった。あちこち探したあげく、小川に浮いている子供が見つかった。

 三男は川にはまって死んだのだ。遊び盛りの2人の兄たちを責めるわけにはいかない。母は悲しんでいる暇はなかった。間もなく私が生まれたからだ。

 私が3歳になったころ、夜中におしっこがしたくて目が覚めた。畳の部屋が一部屋と台所と便所だけの狭い一軒家だ。1人で便所に行こうとすると、押し入れの前に白い着物に黒い袴を着た男の子が立っていた。同じくらいの背丈だった。
「だれだ?おまえ」
 私が指でつつくと、その子は黙って小さな刃物を突き付けてきた。
「こわいよう、おかあちゃん」
 寝ていた母にすがりついた。振り向くとその子は消えていた。

 3歳の時の記憶だが、繰り返し話しているうちに、私は幽霊を見たことがあると思うようになった。きっと死んだ兄が、幸せそうな私を見て、うらやましくなって出てきたのではないかと。
 挫折した時、私はこう思うようにした。
『私は兄と2人分を生きている。だから苦しむ時は人の2倍苦しむんだ。幸せだって2倍。いや、自分の努力で3倍の幸せにしてやる』
 高校受験の失敗や就職がなかなか決まらなかった時、子育てで悩んだ時、離婚した時、株で大損した時、交通事故に遭った時など、落ち込みはひどかったが、それを跳ね返してきた。

 母が晩年私に、
「ねえ、あんたが幽霊を見たっていう話。あれ、本当は泥棒だったんじゃない? あの頃は泥棒が多かったからねえ」
「ドロボウ?」
 冗談じゃない。あんな小さな泥棒がいるはずがない。刃物を出したのは幽霊らしくないけど、あれは兄だ。
 兄に違いない。そう思わなければ、私の努力は何だったのだろう。

【寄稿・エッセイ】 大名華族・蜂須賀家  = 桑田 冨三子

 1954年、大学に入った私は、寮生活を始めた。
 夏休みが近づくと寮生たちは、皆そわそわし始める。親たちが待つ故郷へ帰るとか、海外旅行に出かけるなど、それぞれに楽しいプランを立てている。
 そんな中、貧乏学生の私に学長のマザー・ブリットがこんな話を持ってきた。
「夏休みの2か月間、『住込みの家庭教師』の仕事が来てます。行ってみたらどうですか」
 行く先は、熱海の蜂須賀・元侯爵邸である。私より4歳年下で、インターナショナルスクールの高校生、正子の「数学」をみる、という話だった。
 英語は不得手だが、数学なら、なんとかなるだろうと引き受けることにした。

 熱海駅について、改札口を出るとそこに、迎えの車がいた。
「山崎冨三子さんですね。どうぞ、お乗りください」
 いわれるままに乗りこむ。車は海辺を抜けて山道にさしかかり、ぐるぐると回り登って行く。やがて、門らしきところで、車は止まった。
 そこには、身なりを整えた白髪の老人が立っていた。
「おひいさまのテユーター(家庭教師)ですね。執事の加藤です。これから貴女が住むコテッジへご案内します」
 かばんをかかえて、庭石づたいについていくと、そこには「ミモザ」と札のある洒落た洋風の離れ屋があった。それが、これから私の住むところであった。

 生徒の正子(マアコ)は、阿波の国・徳島藩主だった蜂須賀家17代目、と聞いている。背丈は、私と同じぐらいである。長い黒髪をむぞうさに後ろで束ね、アーモンド型のぱっちり目で、ブルー・ジーンズの良く似合う姫様だった。
 なるほど、軽井沢で裸馬を乗り回すというはなしは、さもありなん。

 正子は私の事を、気軽にフクチャンとよび、まるで新しい友達が出来たかのように扱った。私としては「先生」とよばれるよりは、ずっとありがたい。
 私達は、とくだんに勉強時間をとり決めもせず、遊びに来た友人みたいに、ともに食事し、ともに音楽を聴き、気が向いたときを見計らって、アルジェブラ(幾何)の本を開いた。

 この屋敷には、沢山の部屋があちこちにあるが、いくつあるのかは、不明だ。正子と私が、よく行ったのは、山に沿って建てられている階下の部屋で、屋根もガラス張りの、巨大な温室である。
 温室といっても、床は大理石でできている大広間であって、真ん中に深い温泉プールがあり、そばに真湯(まゆ)のバス・タブが埋め込まれていた。背の高い緑の植栽があり、その下に古ぼけた籐椅子がふたつ、並んで置いてあった。

 私達はそこで遊びながら、アルジェブラをやった。
 ひと夏の宿題の量は、多くなかった。勉強机の前で、しかめっ面でやる数学とは縁のない、楽しいお遊びの宿題作業だった。これは、きっと勉強嫌いのまあこの戦術だったのだろう。私自身にとっても、楽しい夏休みだった。

 正子の父親は鳥類学者だった。
 その置き土産の、どでかい鳥の剥製が在ったり、執事や召使が登場したり、驚くことは多かった。なかでも心に残ったのは、そこに住んでいた正子の伯母・デザイナーの蜂須賀年子(としこ)女史である。
 蜂須賀年子は、德川慶喜の孫で、德川家や、皇室とのつながりが深い人だ。子ども時代には12人もの家庭教師がついていて、書家や国文学者など、皆、当時、一流の人物だったという。とにかく年子夫人は、教養溢れる、魅力的な人物であった。

 広い屋敷の中、南のどこに住んでいたのか、皆から「南邸様」とよばれていた。私は、その「南邸様」から、日本古来の行儀作法の歴史など、もろもろの興味深い話をたくさん聴くことができた。50年も前のことである。

 教わったことなど、とうに記憶の彼方に消え去ったが、あの時、「南邸様」から一冊の本をもらった。それは「大名華族」という題で、阿波の藩主・蜂須賀家に生まれ育った年子が、思い出をつづったものだった。
 大名華族の家では、嫁入りを控えた娘に、どんな性教育を授けるのか。
 お付きの老女が、まくら絵をみせると、
「そんな、みだらなものは、みとうない」
 と、姫は横を向いてしまう。云々・・などと、この本には書いてあった。

 1969(明治2)年から1947年まで存在した貴族階級には、元皇族を皇親華族、公家を公家華族、江戸時代の藩主は大名華族、国家への勲功により新しく華族になった新華族、がある。
 同じ華族でも、蜂須賀家のような大名華族は、行儀作法や家庭のしつけに、侍の気風が色濃く残っているのは、きわめて興味深い。
 神田では、古本屋まつりが開かれる季節になった。
 ちなみに、この古本をアマゾンで検索してみたら、1万2000円の値がついていた。

貸し切りの山だった 奥多摩・大塚山(鉄五郎新道)= 栃金正一

1.期日 : 2015年4月17日(金)晴れ時々曇り

2.参加メンバ : L佐治ひろみ 栃金正一

3.コース : 古里駅~金毘羅神社~広沢山~大塚山~大楢峠~小楢峠~鳩ノ巣・城山~鳩ノ巣駅

 古里駅に8:30に集合。準備をして出発。青梅街道から左に入り、大きな橋を渡り切ってすぐ、右手の登山道を行く。
 更に少し行くと沢があり、小さな橋を渡り立派な滝を眺めながら道を右に分けて登ると大塚山への道標がある。杉の植林された道をどんどん行くと金毘羅神社の鳥居がある。鳥居をくぐり右手の高台に祠があるのでお参りする。

 登山道に戻り尾根伝いの道を行くと、道の脇の枝に「岩団扇保護地」の標識が付けてあった。あたりを見回すと、白い小さな「イワウチワ」が咲いていた。
 この辺りは、自然林になっており芽吹いたばかりのうす緑の若葉もきれいだ。道は傾斜が急になりジグザグの道を登りきると尾根上の広場に出て、ここから平坦な道になり、少し行くと10:50広沢山に到着。木に広沢山の標識が付いている。

 更に尾根上の平坦な道を行くと電波塔があり、少し登ると大塚山に11:15到着。山頂には、人は誰もいなく貸し切り状態でゆっくりと昼食をとった。
 標識の前で記念写真を撮り11:55に出発した。

 ここから道はハイキングコースになっており、途中の富士峰園地では、大きな「カタクリ」の花が咲いていた。
 ワラぶき屋根の宿坊のところを右に曲がり山道に入り、延々と山腹をトラバースして行くと大きな「コナラ」の木がある大楢峠に13:15到着した。

 今にも倒れそうな巨木の脇を通り上坂方面の道に入り、途中から道標に従い鳩ノ巣・城山方面に行く。

 小楢峠までは、急斜面の下りで慎重に足を運ぶ。小楢峠には、すごく小さな標識が付いていた。ここからは前方に鳩ノ巣・城山が大きくそびえているのが見える。
 登りはかなり急だが道がしっかりしているので、思ったより苦労しないで鳩ノ巣・城山に14:00に到着。

 山頂は、広々としていて「ヒノキ」の30m位ある立派な植林に囲まれており三等三角点もある。展望はないが静かで何故か気持ちが落ち着く。

 ここからは、尾根伝いに急な下りが続くが、道はしっかりしているのでゆっくり歩けば問題はない。最後に杉林のジグザグの道を下り14:40道路に出た。大きな橋を渡ると鳩ノ巣駅はすぐそこである。駅の近くのおいしいお蕎麦屋さんで反省会を行った。
 天気も良く花や新緑もきれいで、人のいない静かな山行でした。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№189から転載

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