寄稿・みんなの作品

なんて、ぜいたく、小仏城山・花見ハイク = 岩淵美枝子

日時  :  平成28年4月10日(日)  晴れ

メンバー  :  L上村、三浦、武部、岩渕、市田 (5名)

コース : 高尾山口駅 ~ (6号路) ~ 一丁平 ~ 小仏城山 ~ 小仏城山東尾根 ~ 小仏関跡 ~ 高尾駅
 
 今日は、穂高健一さんチーム欠席となる。「すにいかあ」のメンバーだけでお花見となった。

 高尾山口駅では、人がどんどん増えてくる。今、8時30分だが、あと1時間もすれば、駅はわんさかと、リュック背負った人の待ち合わせで混み合うだろうな。
 お風呂の看板が入口に見えるが、当分の間は入る気しない。芋の子洗いだろう。

 6号路に向かって出発する。今日はのんびり、ゆっくりと歩く。市田さんが一緒なので、むしろ、これがチャンスだ。
 足元のお花に、目がいき、高尾の春を満喫できそう。
「嬉しいな、さっそく、あっ可愛い白い花。二輪草、豆粒ほどの小さな水色の花。山瑠璃草」
 名前がおもしろい、よごれねこのめ、お花も緑色で、形もおもしろい。


(いくつ花の名前を教えてもらったかしら)
 一週間前にも、市田さんと高尾に来た。その時は、今日みたいに、開いていなかった草花さんたちもうこんなの、見るとたまらない。

 落ち葉の下から、けなげにちょこんと芽を出し、いっぱい光を受けたいよーと、小指ぐらいの薄緑の葉っぱちやん、なでなでしたい気分になる。
 こんどは、あでやかな紫ピンクの三つ葉つつじ。そして、城山まじかになると、いよいよ桜の木のオンパレードである。

「満開の桜ちゃんたち、なんて今日は贅沢な一日だろう」
 公園の手入れされた桜も、みごたえあるけれど、自然のままの山の桜のグラデェションは涙がでるほど美しい。また、来年もさいてね。桜ちゃんたち。


 十数年前に、上村さんより、言われた言葉をおもいだす。熊笹がいっぱいある登山道を歩いていたので、この笹で笹団子つくりたいと、4、5枚とっていたら、
「葉っぱ一枚でも、山のものは山に置いておきなさい」
 その言葉を聴いてから、私の山に対する考え方が変ってきた。

 山にある植物の一つひとつが、愛おしくなった。むかしは、山は日本人にとって食料を得るための山であった。日本にウェストンが来て、嘉門次が上高地から案内したことから、山を征服するための登山の始まりでは、ということらしい。


 町には、今の時代は食べ物が溢れている。山は健康志向の時代になり、そのために登山客があふれる。登山道は土からコンクリートになり、植物は芽を出せないほどの硬さになってしまったところもある。
 植生回復のためにロープは張ってあるが、ロープ越えで、休んでいる登山者がいる。

「どうぞ、来年も、お花見が出来ますように」
 そう願うばかりだ。汗を流し、ゼイゼイ言いながらの山登りも、達成感と、してやったりの満足感がある。
 めったに見れない高尾スミレに出会ったりして、心いっぱい感動したりして、心に筋肉をつける山歩きもできて大満足でした。


    ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№201から転載

長州戦争から150年、高田藩戦没者たちの法要=広島・海田町

 ことしは幕末の長州戦争から、ちょうど150年の節目の年です。芸州口の戦いで、越後高田藩は多くの犠牲者を出しました。


 『長州戦争 高田藩戦没者 第150回大遠忌法要』が、平成28(2016)年8月7日、広島県安芸郡海田町の明顕寺で行われました。

「西国街道・海田市ガイドの会」では、明顕寺の境内も史跡案内しています。芸州口の戦いも組み込んで説明しています。

 こうした有志が、同寺のご住職さんに、150年忌の法要をお願いしたところ、快く承諾してくださいました。


 長州戦争の芸州口の戦いは、慶応2(1866)年6月14日に戦火が開かれました。長州藩の西洋式の最新鋭銃、さらに地の利にたいして、幕府軍は重装備で、旧式の兵器で惨敗だった、と一般に言われています。

 
 兵器の差も確かですが、戦争には戦術や兵力とは別の要因もはたらきます。
 

 
 越後高田藩は前年(1865)5月に越後を出発し、しばらく大坂にとどまり、海田市に到着したのが、同年12月です。さらに、芸州口の戦いまで、半年以上も、海田市の陣営で待たされました。

 あげくの果てに、先陣予定だった芸州広島藩が不戦を表明し、後方支援部隊の越後高田藩と彦根藩がとともに、長州藩との境界で戦うはめになったのです。


 最前線の兵士たちは、1年余も遠征疲れしており、戦意が高まらないまま戦いに臨み、長州藩兵に圧倒され、後退ばかり。
 越後高田藩は慶応2(1866)年8月7日に、「宮内の戦い」で、大量30人の戦死者を出しました。


 その後、援軍にきた幕府歩兵部隊と紀州藩兵が最新銃で応戦し、長州軍を押しもどし、さらに芸州広島藩が廿日市まで押し寄せた長州に怒りを持ち、宣戦布告をしました。

 毛利敬親の命令で、長州軍はたちまち岩国まで退却しました。

 最終的には、長州藩は藩境の拡大にも、さして勝利にもならず、幕府軍は初期の犠牲者だけが目立った戦いになりました。
(同年9月2日には、宮島・大巌寺での停戦協定で終止符を打ちました)。


 それから歳月は150年も流れました。越後高田藩の祥月命日となる8月7日に、海田市ガイドの会では芸州口の戦いで命を落とした人をしのび、法要をさせていただきました。


                       写真・文 土本誠治さん(広島市在住)
                           
                       

【寄稿・写真エッセイ】 警備の仕事で読書 = 原田公平

 警備の仕事で本が読める?
 そう、そういう職種もある。

 今日の仕事はガス会社だ。朝の9時から午後の7時まで、支社の控室で出動を待つ。どこかでガス漏れがあると、現場に飛んでいく。だが、なければ読書だけは許される。

 以前、この仕事で遅くなり、帰り電車がなくなり、二度とやるまいと思っていた。しかし、こんかいは依頼がきたときに、ボクは勘でこの日のガス漏れないなとヨミ、仕事を引き受けた。
 その実、働きながら、読みたい本があったからだ。

 2016年6月21日、梅雨に入り朝から雨だ。しかし、この日は、自宅を出たときからウキウキしている。

  3日前、千葉の朝日カルチャーセンターで穂高健一「写真エッセイ」を受講した。帰りぎわに受付の女性が「穂高先生の本が発売になりました」、とその本が積み上げてあり、1600円(税抜き)を買った。
 
 ボクがエッセイで穂高先生に師事して4年目となる。その間、先生は、東日本大津波を題材にした「小説3.11海は憎まず」、次に先生の郷土の広島、幕末の若者「二十歳の炎」を書き、どちらも読んだ。
 今度は440ページと読み応えありそうだ。
 本の帯がすごい、
「あづみ野の若い娘が徳川将軍を動かし、上高地を拓いた」
 日本山岳会会員で山男の穂高健一さんが本作によって祝日「山の日」と上高地記念大会を祝賀してくれることに感謝する。全国「山の日」協議会会長 衆議院議員 谷垣禎一、と明記してある。


 こんなに読書に適した環境はそうはない。出社すると、今日はガス漏れはないと、すぐさま本に集中する。

 
 この小説の舞台はまず、安曇野平から始まる。
 ボクは50代の夏休みは、家族と安曇野へよくドライブしたものだ。青々とした一面の田圃風景が好きだった。家内は美術館巡り、ボクは道祖神の写真を撮った。そのうえ、上高地にも足を運んでいるので、小説の舞台が身近に感じる。
 最初は「堰(せき)」づくりである。

 ボクの郷土・徳島を思い出した。

 実家は農家で吉野川の北岸地帯にあり、毎年夏は日照りで水田や畑の水が不足し、困っていた。
 中学生のころ、阿波用水の建設が始まり工事はよく見ていた。吉野川の上流から取水し、吉野川の北岸を潤す用水である。しかし、現場は人力が中心で、測量や、段差のあるところの用水路は大変さが実によくわかる。
  
 身近な先生の小説だ。エッセイ教室や飲み会で時折、取材のこととかを話されていたが、断片的でよくわかっていなかった。読むことによって、先生が何故、徳島の秘境の祖谷(いや)や飛騨にいったのかなどがわかった。 

 登場人物の多さには驚いた。先生は実在の人をフィクションで書いたと、まえがきにある。
 主な24人の顔かたち、体つき、そして性格描写、読者がイメージできるように簡潔にきりっと表現している。
 小説とはいままで読む側ばかりであったが、登場人物や女性を描くのは大変だろうと、初めて気が付いた。これが小説家だと思った。


 ボクはいままで多くのエッセイを書いてきているが、自分のことが中心で他人の顔や体形、性格を書いたことがない。これから読み手がわかる、人の描写などの勉強になった。

 また、仕事で交渉事の経験は多々あるが、ビジネスでは対等だった。
 しかしながら、この物語は農民、庄屋、豪商、大地主、郡代、地役人、藩士、勘定奉行に職人、学者と幅広い。その上、身分社会にそれぞれの利害と、メンツがからんでいく。

 賄賂政治や、弱い農民を追い込むと暴発して一揆になる様子は、搾取する側と、される側の実態に、農家の出身だからよく理解できる。

 小説に色を添えているのが、3人の女性だ。先生の好みが色濃くでているかな。

 共感できる本で、読む方はスラスラだ。片や書く人、先生の苦労を身近に思い浮かべながら、読んだ「燃える山脈」だった。


               「エッセイ教室の後のおしゃべり会、先生右から2人目」
 
 ボクは穂高先生に、是非、書いてほしいテーマと人物がいる。
 「四国八十八か所巡礼」と、現在の原型をつくった江戸時代の僧、真念である。
 「四国八十八か所」も、真念もよくわかっていないけれど、先生得意の取材と想像力で書いてほしい。
 定年退職者の多くは、一生に一度は四国巡礼をしたいし、若者は自分試しにと遍路者は増えている。一方、「四国八十八か所」は海外でも話題になり、多くの外国人も歩いている。
 先生は八十八か所の1番札所・霊山寺にも、既に訪れている。
 先生の「四国遍路」が読める日を、楽しみにしています。


【作者紹介】

 徳島県出身、アパレル業界に携わる。リタイアした後、旅行資金稼ぎで、ガードマンをしながら、アメリカ一人旅、世界一周の旅になんども挑戦している。意欲的な性格で、英語落語、民謡、諸々にチャレンジしている。
 リタイア後の人生は、「ひとの3倍生きる」が信条である。


 現在は、朝日カルチャーセンター「写真エッセイ教室」受講生。
 

熊本・被災地で、母と娘の二人展 = 黒木 成子

 母の米寿の記念に、二人の展示会を思いついたのは、一年も前のことだった。展示会の会場に決めた熊本伝統工芸館は、翌年一年分の施設利用の申し込みを4月に行う。

 開催日は母と相談し、季節のいい5月に決めた。

 これが、後になってとても大事な決断になるとは、その時は夢にも思わなかった。

 母は、65歳で水墨画を始めた。昔から絵が好きだったわけではない。私は幼い頃から、母が絵を描いたり、美術館に行ったりする姿など見たことがない。
 子育てが一段落し、親の介護もなくなり、時間に余裕が出てきたので、母は気まぐれにカルチャーセンターに習いに行ったそうだ。
 始めてみると楽しくなり、どんどん大きい作品を描くようになった。

 母は自由な性格で、決まり事に縛られるのは好きではない。そんな母をカルチャーの先生は優しく大らかに指導してくれたらしく、のびのびとした絵を描くようになった。そして、10年もすると、地元のアマチュア展で入選する力量にまで達した。

 20年以上も描き続けた作品はずいぶんたまったし、米寿の記念に個展をしようと持ち掛けた。
 しかし、一人ではとても無理だと母は腰を上げなかった。そこで、私と一緒の二人展ならどうかと提案したら、「それならいいよ」と承知してくれた。
 私も長年パッチワークをやっているので、たくさんの作品がある。
 水墨画とパッチワークという異色の組み合わせだが、母と娘で開催することに意義があると思った。

 会場(熊本伝統工芸館・写真:右)を下見して、広さを確認し、母のどの絵を出品するかを決めていった。額がない物は額装を依頼しなくてはいけない。
 私はふだん千葉に住んでいるので、たまに帰省した時に打合せするしかなく、一年の準備期間があるといっても、展示会の日はあっと言う間に近づいてきた。

 展示会を半年後に控えた昨年12月、母が転んで右肩を骨折した。高齢で骨がもろくなっているので、完治には3か月ほどかかると言われた。

 それでも、「5月の展示会には間に合うから」と母はリハビリに励み、3月初めには退院した。まだ右手は完全に治ってはいないが、以前のような生活ができる。展示会の時は、母は何もしなくても、ただ会場にいてくれればいい。

 ところが、3月末に母が脳梗塞を起こし、再び入院したのだ。幸い、意識ははっきりしているし、特に後遺症もない。順調に回復すれば、車椅子でも会場に来られると、私はまだ望みを捨ててはいなかった。

 そんな4月14日、あの熊本地震が起こった。入院中の母は、医者や看護師さんたちがそばにいてくれたので、さして恐怖は感じなかったようだ。

 しかし、4月末に、母は二度目の脳梗塞を起こした。兄から連絡を受けて、私はあわてて熊本に帰った。
 母は今回、右目があまり見えなくなり、右手も少し不自由になった。私のかすかな望みを打ち砕くかのように、最近の記憶がなくなり、入院した頃のことをすっかり忘れてしまっていた。
 朝食を食べたかどうかも思い出せない。時々つじつまの合わない、おかしな事まで言い出した。
このまま何もわからなくなってしまうのでは、と不安になった。片や、以前の記憶はしっかりしていて、展示会のこともちゃんと覚えていた。

 ただ、もう一人で起き上がることはできず、長く座っているのも苦痛な様子だった。

 熊本では、まだ余震も続いていて危険な状態だ。母も会場に来ることは出来ない。こんな状態で展示会をしてもいいものかと迷った。

 会場の伝統工芸館はあまり被害を受けなかったが、他の催し物はほとんどキャンセルされていた。
 母との展示会は、今やらなければあと1年後にできる見通しなどない。母が展示会のことを理解できるうちにやった方がいいと思った。

 最終的にやろうと決めたのは、展示会開催予定日の2週間程前だった。

 それから、母の知り合いや私の友人たちにも連絡した。皆、地震や母の入院で、展示会は中止だと思い込んでいたようだ。
 母の水墨画の教室の人からは「今回の展示会は、開催できずに残念でした。どうかお体お大事にしてください」という葉書きまで届き、あわてて電話番号を調べて、予定通り開催しますと伝えた。

 母の作品の展示は、額装を頼んだ業者に依頼してあった。電話をしてみると、幸い店の被害は少なかったので、大丈夫だった。私の作品は、搬入日に直接会場に送る予定である。しかし、いつも頼んでいる業者は、現在熊本に関しては、期日指定配達はできないと言われた。

 作品を会場に前もって送り、保管してもらうのは無理だ。別の業者に問い合わせたら、幸いにも熊本でも日にち指定ができるというので、そこに依頼した。


 こうして地震の影響をかなり受けたが、何とか予定通り5月17日に無事に展示会を始めることができた。熊本地震の発生から約一か月後のことである。

 展示会には、思いがけずたくさんの人たちが来てくれた。連絡をした知り合いだけでなく、新聞広告を見てとか、伝統工芸館に来て、ポスターを見て立ち寄ってくれた人もいた。
 会場の人たちは、高齢の母が描いた力強い作品に、驚いていた。


             「かに」(130㎝×110㎝)    

「地震で気が沈んでいたけれど、元気をもらいました」
「年をとってからでも、何かをはじめることができるんですね。私もこれからでも何かやってみようかしら・・・」
 そんな声をたくさん聞くことができた。多くが地震で被害を受け、生活が変わってしまった人たちだ。こんな大変な時に展示会に足を運んでくれたことが、実に嬉しかった。被災者の気持ちが少しでも明るくなれば、と願うばかりだった。

 私の学生時代の同級生もたくさん駆けつけてくれた。さながら小さな同窓会のように、近況を語り合った。

 毎日、展示会を終えると、夕方には母の病院へ行き、今日は誰が見に来てくれて、こんなことがあったと報告した。母は、「それはよかった」と微笑んでいた。
 少しずつ母の記憶が薄くなる中で、この展示会だけはしっかり覚えていてほしいと思った。


            友人宅のリビングに飾られた母の絵「明けゆく我が街」

 5日間の展示会が無事終了し、母の絵は従姉や知人の元へ何枚か引き取られた。今入院している病院にも一枚飾ってもらえた。
 母の病状はなかなか回復しないが、母の絵が、こうして皆の心に残っていくことが何よりの喜びである。
                                       
                                             「了」   


【関連情報】

 作者の黒木成子さんは、朝日カルチャー・千葉の『写真エッセイ教室』の受講生です。

ふるさと・熊本が復興する日まで = 黒木 成子

 私が熊本空港を飛び立った約5時間後、2016年4月14日21時26分、熊本地震の前震と呼ばれる震度7の地震が起こった。

 夜には、千葉の自宅に戻り、テレビの被害状況を見て言葉を失った。

 すぐに熊本にいる兄に電話をしたが、通じない。何度かかけるうちに、やっと連絡が取れた。
兄は、自宅から車で40分ほど離れた実家のマンションにおり、
「食器棚から皿などが落ちてきて散乱しているが、何とか大丈夫」
 と気の安まる言葉をむけてきた。
 母は入院していたので、実家にはいなかった。


 しかし、ほっとしたのもつかの間、その28時間後の16日午前1時25分、のちに本震と呼ばれる、さらに大きな地震が襲って来た。
 兄と一人娘の姪は、その時も実家のマンションにいた。揺れで飛び起きた兄が急いで寝室からリビングに行ってみると、片づけたはずの食器が再び激しく落ちてきたと話す。

 リビングのソファーでうたた寝をしていた姪は、ソファーから転がり落ち、前にあったローテーブルに顔を突っ込んでしまった。それがかえって幸いし、近くの棚から落ちてきた花瓶や置物で怪我をせずに済んだという。
 揺れがおさまると、二人ともすぐ前にある大型スーパーの駐車場に避難した。そこには、近所の人たちが大勢集まっていたそうだ。


 市役所に勤務する姪は、すぐに職場から呼び出され、歩いて20分程の熊本市役所に向かった。それから何日も、避難所で避難してきた人たちの世話をすることになる。

 兄はとっさに物がなくなるかもしれないと判断し、近くの24時間営業のコンビニに走った。コンビニの店内では、商品が落ちて床に散乱していたが、驚いたことに、落下物でも普通に売ってくれたそうだ。
 一方、義姉は一人で自宅にいた。自宅は熊本市の東部、震源地の益城町に近い。
「きのう(14日)の地震で夜ほとんど寝ていないので、今夜こそはゆっくり眠りたい」
 とメールが来たばかりだった。

 義姉は激しい揺れで目を覚まし、しばらくはトイレにいたが、あまりの揺れに家にいるのが怖くなり、やっとの思いで外に出て、車の中で朝になるのを待ったそうだ。

 私は、そんなことになっているとは夢にも思わず、15日の夜に義姉に『ゆっくり休んでください』とメールしてから、安心して寝てしまった。

 16日の朝になり、
「また激しい揺れが来たけど、私は大丈夫です」
 という義姉のメールを見て驚いた。
 テレビをつけてみると、どの局も熊本地震のニュースばかりだった。この地震こそが本震だと訂正されたと聞いた。

 私が熟睡している間に、兄の家族はさらに悲惨な目にあっていたのだ。特に義姉は、一人でどんなにか心細い思いをしただろう。
 それでも、自分から「大丈夫」と連絡してくるとは、すごい精神力だ。普段からしっかりした人だが、こんな時に本当の人間力が試されるのだろう。

 入院中の母は、それほどの揺れも感じなかったようで、家に一人でいて、心細い思いをせずに済んだのは幸いだったと思う。
 この本震で、築浅の実家マンションは無事だったが、築20年の一戸建ての兄の家は傾き、出窓のガラスが割れて、住めなくなった。


 熊本の誇りである熊本城も、石垣や重要文化財である櫓が崩れてしまった。
 
 私は、ふるさとの一大事に、すぐにでも帰りたいと思ったが、飛行場が被害を受けて閉鎖され、ライフラインもストップしていたので、それは叶わなかった。


 約2週間後、母は二度目の脳梗塞を起こし、病状は悪化していた。

 兄の一家は、実家マンションで寝泊まりしていたが、被災した自宅の片づけと母の看病で、悲鳴を上げていた。私は東京での仕事を休み、しばらく手伝いに帰ることに決めた。
 ふるさとがどんな姿になっているか、見るのは正直怖かった。しかし、いつかは直視しなければいけない。


 4月30日、飛行機で熊本空港に着き、迎えに来てくれた兄の車で市内に向かった。途中にはブルーシートで覆われた屋根が目についた。道路も所々盛り上がっている。

 翌日、熊本城の近くを通ったら、見慣れた長塀(写真・右)が大きく崩れている。ぐるりと回って熊本城を外から眺めてみると、石垣や櫓までもが崩れている。

 テレビでは何度も見ている光景だが、実際に接すると、かなり痛々しい。

 城が悲鳴を上げているようにも思えた。しかし、よく見ると、残っている部分はしっかりとそびえ立ち、「負けるものか」と頑張っているようだった。

 街のあちこちに「がんばろう熊本」、「負けんばい熊本」などのポスターが目立つ。

 まだ余震は続いているが、繁華街の商店はほとんど営業を再開していた。しかし、熊本で唯一の大手デパートの鶴屋は、上の階に被害が出たため、地下と1階のみの営業となっている。

 それでも、「くまもとがんばるモン」という大きなポスターを掲げている。(写真:左)

 繁華街を足早に通り過ぎる人々は、そのポスターに背中を押され、笑顔で日常を取り戻そうとしているように見えた。


1週間ほどして母の病状が少し落ち着いてきたので、私はいったん千葉に戻ることにした。

 帰りの空港で、職員たちが「ありがとう頑張るけん熊本」という張り紙を持ち、飛び立つ飛行機に手を振っている。
 これまでの様々な支援に感謝し、これから復興に向けて頑張ろうという、熊本の人々の決意を感じた。
 私も熊本が以前のように緑豊かな美しい街に戻るまで、自分に出来る支援をして、ふるさとの復興を見守り続けていきたいと思う。 
                                 「了」

【関連情報】

 作者の黒木成子さんは、朝日カルチャー・千葉の『写真エッセイ教室』の受講生です。

秀麗富嶽十二景の富士山が絶景なり、百蔵山(1003m)=武部実

平成28年1月16日(土) 

参加メンバー : L武部、中野、+武部妻の計3人

コース : 猿橋駅 ~バス~ 福泉寺 ~ 大同山 ~ 下和田分岐 ~ 百蔵山 ~ 下和田分岐 ~ 百蔵山登山口入口 ~ 猿橋 ~ 猿橋駅 

 猿橋駅9時発のハイキングバスで百蔵山登山口入口まで行く予定だったが、9時になってもバスが来ない!
 後で気づいたのだが、バスは4月~11月の期間限定であった。

 急きょコースを変更し、9:13発の小菅の湯行きに飛び乗る。福泉寺までは十数分、ほとんどの登山者がここで下車した。
 9:30に出発する。20分ほど舗装路を登ると、道が左右に分岐する。山道らしい雰囲気の左の道に入ったはいいが、道は荒れていて、登山路は倒木だらけで歩きづらい。
 最初の頃は踏み跡もしっかりしてマーカーテープもところどころ見かけた。だが、だんだん踏み跡も怪しくなり、マーカーテープも見かけなくなった。そして、意外と急登で大変だ。

 この道で間違いないのか、と少し心配になった。とにかく稜線にでれば何とかなると、一生懸命登ること約一時間。ようやく上部に登山者の姿が見えるようになってきた。
 どうやら、私たちより後から出発したパーティのようだ。左右ルートの合流地点には祠があり、一休み。ここからは普通の歩きやすい登山道となった。杉林を歩き、大同山を過ぎて、下和田の分岐を過ぎれば、松林の先は百蔵山の山頂だ。

 12:00ピッタシに、百蔵山の山頂に到着した。

 天気が良くて、ぽかぽか陽気のハイキング日和だ。頂上はざっと数えて60~70人もの登山客で大賑わい。秀麗富嶽十二景の富士山がバッチリと眺めることができた。

 12:45に出発。いま登ってきた道を下り、下和田分岐から猿橋方面に下山していく。他の登山者もこの時間から行動を開始している。続々と、私たちを追い抜いて行く。

 14:00に、百蔵山登山口入口のバス停留所に到着した。名勝の猿橋は、ここから約30分。猿橋には、いつもなら無料の説明してくれるボランティアさんがいると聞いていたが、当日はたまたまお休みだった。上から桂川を眺めたら、ゴムボートを漕いでいるのが見えた。将来、桂川で遊覧船が就航できるかどうかの調査をしているとのこと。
 登山帰りに舟に乗るのもいいかも……。

 今回の山行は、バスの運行時期を間違えたが、たまたま他のルートがあったので、そちらを行くことが出来たので助かった。もっと慎重に調べなくてはいけないですね。反省。

 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№199から転載

バリエーションは多彩、ぜいたくな孫山・嵐山 = 栃金正一

1.期日 : 2015年12月26日(土)晴れ
2.参加メンバ : L栃金 上村 飯田 野上 武部 佐治 原田 
3.コース : 相模湖駅 ~ 貝沢登山口 ~ 大平小屋跡 ~ 孫山 ~ 小原の郷 ~ 小原本陣 ~弁天橋 ~ 嵐山 ~ 相模湖駅

 JR相模湖駅に8:30に集合した。今日のコース・スケジュール等を皆で確認し、準備をして8:40に出発する。
 線路沿いの細い道路を、藤野方面にむかってすすむ。中央高速道路を潜り抜け、貝沢コース登山口に8:50到着。ここからは貝沢沿いの林道をしばらく歩く。橋を渡った所が林道終点になる。

 ここから登山道に入り、小さな沢を渡ったりすると、やがて道は沢からはずれ、山腹を登る感じになる。緩やかな九十九折りになっていて、思ったより簡単に、稜線の大平小屋跡に9:45到着。ここで少し休憩をしてから出発する。

 途中、コースをはずし大明神山に行ってみたが、ピークと思われる所には何もなく、朽ちた柱みたいなものが横たわっていた。
 コースに戻り、少し先の孫山への踏み跡をたどり斜面を登って行く。やがて平坦な植林地帯となり、木に『孫山548m』と書かれた小さな標識が付いていた。孫山には10:05に到着する。


 ここからは、バリエーションルートである「東尾根下降コース」を小原の郷まで下る。コースの入口はわかり憎い。薄い踏み跡をたどり下って行くと、小原方面への道標があった。
 登山道は相変わらず踏み跡は薄く、緩い下りの傾斜になっている。落ち葉でフカフカしており、足にやさしく良い感じで歩ける。
 バリエーションコースなので、他にだれもいなく静かな山行が楽しめる。
 ところどころに標識があるので、迷う心配はなく、日が当って明るい尾根道をどんどん下って行
く。やがて尾根は終わり、急斜面の下降となる。
 崩れやすい道を慎重に下る。下り切った所の小さな沢を渡り、道路に出て少し行くと、小原の郷に11:35到着した。

 日当たりの良い芝生の上で、待ち遠しかった昼食をとる。


 (写真は小原本陣)

 昼食後は、近くにある「小原本陣」に行き、昔の生活様式等を見学する。12:30、次の目的地である嵐山に向けて出発する。
 途中、相模川に架けられた弁天橋を渡る。この辺りは川幅が広く、入り江などもあり、景色が良いところである。

 13:05。嵐山登山口に到着する。登山道は、しっかりしており傾斜もあまり無いが、登り一辺倒なのでゆっくり登る。13:45嵐山の山頂に到着した。

 山頂は広々として神社がある。展望は良く、眼下には相模湖や奥高尾の山々、および先ほど下ってきた孫山東尾根などを見ることができる。
 日当たりの良い山頂で、ゆっくり休憩をした後、下山。登山口には14:35に着いた。ここからは、最近改修された大きな相模ダムの上を通り、15:00には相模湖駅に全員無事に到着する。

 天気に恵まれ、内容が盛り沢山の充実した山行となりました。

ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№199から転載

23,528歩なる長距離ハイク・影信山(727m) = 横溝憲雄

 平成28年3月13日(日) 曇、

 参加者:L横溝、松本、(藤田)源氏より4人(7名)       

 コース : 高尾駅 ~(バス)~ 大下(おおしも)バス停 ~ 小下沢林道 ~ 登山口 ~ 影信山(昼食) ~ 小仏峠 ~ 小仏バス停 ~(バス)~ 高尾駅       

 高尾駅に9:00集合だ、私は一足先に着いたが、小仏行バス乗り場は人の群れ、群れである。
 「皆さーん早く来てください……」
 全員が集合した。バスは2台(増便を含めて)用意されたおり、登山予定どうりの9:12発のバスに乗車できた。
 最初の1台を追いやって、増便だったので、全員が座れた。これはラッキー。


 車窓からは、道中の梅祭りの賑わいがみれた。このまま「梅祭り宴会」に切り替えてしまいたいほどの気持ちになる。20分程の乗車で、大下(おおしも)バス停に着いた(9:35)。

  バス停から少し戻り、中央本線のガードをくぐり、小下沢(こげさわ)林道へとむかう。入口は高尾梅林で、梅が満開で、綺麗である。
 しかし、園内は解放されておらず、外部から写真を撮るなどして、しばし鑑賞する。林道はせせらぎの音を耳にしながらの、快適な道だった。

 45分程、森林浴をしながら歩くと、北高尾山稜方面の道と交叉する登山口へ(10:20)でた。
 
 
 山登りの身支度して、いざ出発。以前にも歩いた路だが、表から登るよりも距離がかなり長い。だが、斜度はきつくない。それでも、混成パーテイーで、各人の歩く速さが異なり、速足の人にはゆっくりリズムだとストレスもたまると思い、中腹からは先行してもらい、頂上で落ち合うことに決めた。


 途中の岐路で、間違いのないよう指示する。頂上に近くなると、寒さが増し、何と雪が木々の枝に凍り付いているでは。それは実に綺麗な景色だった。
 何やら、パラッ、パラッという音が聞こえてくる。
 なんと木の枝に凍り付いていた氷が落ちていた。初めての経験で、すごく神秘的だった。


 やがて、頂上へ(12:00)に到着した。
 大勢のハイカーで、にぎわっていた。鍋を囲んでいるグループもいた。われら先行隊が東屋の下を確保してくれていて、「さー、ランチ宴会」となる。

 恒例のワインで乾杯、ビールも。しばしランチタイム。しかし、寒さが身にしみる。ランチ宴会もそこそこに下山することになった(12:55)。当初の計画は小仏城山までであったが、こんかいは景信止まりにした。

 帰路は、直下はせず、小仏峠へまわり込み、小仏バス停へと下る。14:30着。予想通り、やはり、たくさんのひとたちだ。バスは2台待機している。14:40発のバスで、高尾駅へ(15:00)。

 同駅前のソバ屋で、焼き鳥・源氏の煮込みと、味がどう違うかなどと、吟味しながら反省会をおこなう。
 自宅に戻ると、計5H(歩4H) 帰宅時まで23,528歩という、長距離ハイクだった。お疲れさま。
 

     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№200から転載

【寄稿・写真エッセイ】 お義母さん(おかあさん) =  阿河 紀子

 愛犬の朝の散歩を終え、家に帰り着いた丁度その時に、電話が鳴った。
 今年で13歳になる大和(やまと、秋田犬)は、機敏に動けない。尻を押すようにして家に入れて、慌てて受話器を取る。予想通り義母(はは)からだった。

「紀子さん、さくらんぼ 着いたよ。ありがとうね。」
「開けてみた?」
「あ~ 開けたよ。さくらんぼとカーネーションが綺麗な箱に入ってたわ。」
「美味しいうちに食べてね。」
「大きくて、美味しそうな さくらんぼ。高かったやろ。気ぃ遣わせて、悪かったなぁ」
「さくらんぼなら食べられると思って」
「ああ、大丈夫や、頂くわ。ありがとうね。」

 それは5月8日「母の日」の会話だった。
 実母は2年前に亡くなったから、私にとって「はは」と呼べるのは「姑」だけになった。7月には、数えで91歳になる。義母は足が悪い。それ以外は、元気そうに見える。
 しかし本当は、「糖尿病」で週に3回「透析」を受けていて食事制限もある。毎年の事だから、「母の日」は、何をプレゼントしたらよいか、頭を悩ませる。
「さくらんぼ」なら食べられるかなと思い、贈った。
 もしかしたら、さくらんぼも「糖尿病患者の食べられない食品」かもしれない。

 しかし、電話口の姑は、とても喜んでくれている。

 私と義母は、割と「いい関係」を築いてきた。結婚してから30有余年、何もなかったわけでは無いけれど、「上手くやってきた」と、思っている。
 結婚前、義母が私に言ったことがある。
「紀子さん、あのな、相性を見てもらったのよ。そうしたら、私とあんたとの相性、すごくいいんだって」
私は、少し返答に困った。
「よかったぁ。その占い師に礼を言わないとあかんね。」
 義母は、私の答えが気に入ったようだった。
「ほんま、あの占い師、よう当たるわ。」
 実の母の子育ての方針が「獅子が子供を崖から蹴り落とす」ようなものなら、義母は「雌鶏(めんどり)が、羽の下に子供を隠して外敵から守る」ように接し育てた。
 まさしく正反対だ。
 結婚して娘になった私も、義母は、羽の下に入れてくれた。お義母さんの羽の下は、居心地が良かった。

 だが、義母は私を時々困らせる。
 義母さんのお姑さん、つまり、義父の母親は、それはそれは気の強い人だったそうだ。
「黒いものでも白と言われたら、絶対逆らえなかった。」
「嫁いでから姑が亡くなるまで、朝早くから、夜遅くまで、言われるがままに働きづめで、自分の自由な時間なんか、無かった」
 そんな話を、何かあると、私に聞かせた。
 そのたびに、私は相槌に困る。
 何故なら、私は気ままに自分の好きなようにさせてもらっているからだ。
 一緒に笑っていいものやら、嫁としての未熟さを謝ればよいのか、悩む。結局、妙な笑顔で、
「私はお義母さんがお姑(しゅうとめ)さんでよかった。」
 と、言うしかない。

 正月もそうだ。
 友人たちの話を聞くと、大晦日から婚家に行き、お姑さんから命じられるままに、台所の掃除や、おせちの準備を手伝うと言う。
 ところが私ときたら、義母の作ったおせちを食べ、お酒が入れば、後片付けも手伝わず、ソファーでうたた寝をしてしまう。そんな私に、そっと毛布を掛けてくれるのが、お義母さんなのだ。
 こんなに、甘やかされていいのだろうか。


 もうずいぶん前の事だが、ある夜の事、疲れて寝込んでいる義母を起こさないように、そっと、夕飯の後片付けをしたことがあった。目を覚ました義母は、
「もう、こんなことせんといてや」
 と何度も繰り返し、
「もう、しない」と約束させられた。
 お義母さんの言葉に裏は無く、ましてや嫁の私を困らせる気も無い。30年以上の付き合いで分かったことだ。

「お義母さん、この頃、体の方はどう?変わりない?」
「最近なぁ、ますます足が弱ってしもて、家の中でも歩行器使っているんやでぇ」
「それでも、自分の足で、歩けるならいいやないの。」
「あんたは、犬の散歩、毎日してるから、足腰が丈夫でええなぁ」
「お義母さん、このごろあかんのよ。大和(愛犬)も年とってしもてなぁ、さっさと歩かれへんの。運動になれへんわ。」
「そうなんかい。大和も、そんな年になるんかねぇ」
「今年で13歳やから、人間で言うたら、80歳くらいかな。お義母さんよりは、まだ若いけどね。」

 義母との会話は続く。

俳句、狂歌、四つ目の石碑が建立 = 大久保昇さん

 狂歌読む心のゆとりあるかぎり

    争い事の芽は育たない

                          大久保昇

  東京都文京区在住の大久保さんが、平成27年度「なめかた狂歌」の茨城県知事賞を受賞した。主催は行方市教育委員会・生涯学習課である。

  同狂歌の石碑が、茨城県・行方市の霞ヶ浦ふれあいらんどに建立された。(写真提供・大久保さん)
 

 平成27年度「なめかた狂歌」の応募総数は、北海道から九州まで、全国各地より2083首だった。年齢層は9歳の小学生から97歳の最高齢の方までと幅広い。入選総数は170首で、そのなかから、大久保昇さんが茨城県知事賞にはかがやいたものだ。

 大久保さんは、同年にも、「平成27年 いいやま俳句大賞」においても、大賞を受賞し、長野県飯山市の明昌寺に建立されている。(写真提供(上):信州いいやま観光局)

 主催は飯山市飯山観光局である。信濃毎日新聞社・北信濃新聞・(株)テレビ飯山などが後援。


 北竜湖水の底まで蝉時雨
                           大久保昇

 
 (右・写真提供:大久保さん)


 主催者によると、「飯山は、豊かな自然と原風景が残されており、寺町や歴史的な文化遺産が多くあります。また、素朴で雪国の温かい人々の心があります」という。

 飯山の四季折々の美しさ、人々とのふれあい、生活の情景など、それらの感動を俳句で詠み投句したもの。

 投句箱は、投句は、10(とう)9(く)であることから、10月9日(とうく)の日に、投句箱に投句された句を集めもの。

 「いいやま俳句大賞」受賞句については、市内の明昌寺参道に句碑として建立される。供養塔ならぬ「句養塔」で丁重に供養されている。

 大久保さんは過去においても、石碑の建立がある。

 平成22年「さらしな・おばすて全国俳句大会」において、「さらしな・おばすて」大賞を受賞している。

 帰省して牛の匂ひの中にをり

                         大久保 昇
 


 さらにさかのぼること、平成17年には「はるな梅祭全国俳句大会」において榛名町長賞を受賞している。

 厩舎より馬の貌出る梅日和

                     大久保 昇


 群馬県・榛名町の上里見公園内に建立されている。
  
 

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