寄稿・みんなの作品

【寄稿・写真エッセイ】 アメリカ旅行 ~亡き母とともに~ = 黒木 成子

 私が初めてのアメリカ旅行に出発したのは、母が亡くなり、初七日を済ませた2日後だった。

 生前の母は、昨年春ごろから体調を崩していた。脳梗塞で、だんだんと身体の自由がきかなくなり、記憶も曖昧になり、ついさっきのことさえも忘れてしまう状態に陥った。


 私は、千葉の自宅と熊本の実家を何度も往復した。
 帰省する度に弱っていく母の様子を見て、これでは近いうちに母を見送るかもしれないと、ある程度は覚悟していた。

 夏になり、母の病状は少しずつ悪くなっていたが、私は、11月に予定している1週間のアメリカ旅行が気になっていた。長年習っているパッチワークの先生が、アメリカのキルトミュージアムで個展を開くので、それを生徒たちで見に行くツアーが企画されていたのだ。

 パッチワークの本場であるアメリカで、日本人が個展を開くのは珍しい。先生や同じ教室のメンバーと一緒に海外旅行ができるのも、とても貴重な体験になるだろう。

 今度のアメリカ旅行は、どうしても行きたい旅だった。母の病状を考えると、容体が急変する可能性も十分にあるし、こんな時に旅行などしていいものかと、かなり迷った。

 直前のキャンセルや、旅行中に知らせを受けて急きょ帰国する可能性も覚悟したうえで、締め切り間近の8月末に、参加を申し込んだ。

 10月初めに熊本に帰省した時、兄にはアメリカ旅行のことを話し、旅行中でも何かあればすぐに連絡をもらうことにした。次に帰省するのは、外国旅行が終わったあと、12月の予定だった。いくら弱っていても、年は越せるだろうと漠然と思っていたのだ。


 ところが、10月30日の夕方6時近く、義姉から突然電話がかかってきた。
「今日、お母さんの容体が急変して、さきほど亡くなりました」
 義姉の声は、涙で震えていた。私は予想外の早さで、言葉を失った。

 翌朝、私が熊本に帰った時、母はすでに斎場に運ばれていた。母に会っても、不思議に涙は出なかった。突然の死で実感がなかったのである。次に熊本に帰ったら、また会えると信じていたので「また来るからね」と軽い挨拶で別れたのが悔やまれた。


 葬儀会場には、母の描いた水墨画が飾られ、母の友人たちが大勢参列してくれた。

 葬儀や納骨、初七日などの他に、様々な手続きや母の荷物の整理などをあわただしく済ませた。1週間後に、私は自宅の千葉に戻った。

 その翌々日には、アメリカへの出発が控えていた。母の死後は、できるだけのことをやってきたので、旅行には予定通り参加しようと決めた。
 それから大急ぎで準備をして、成田空港から旅立った。


 成田空港から12時間ほどかけて着いたのは、ニューヨークである。海外旅行に慣れていない私は、最初不安だったが、同行するパッチワークの仲間たち10人は、外国旅行の経験者ばかりだったので、すぐに心強い気持ちになった。

 とにかく皆に遅れないように行動するのに精一杯で、母を見送った悲しみに浸っている暇もなく、頭はこれからのアメリカ見聞しかなかった。

 着いた翌日に、楽しみにしていたブロードウェイのミュージカル、『ライオンキング』を観に行った。

 ちょうどその日はアメリカ大統領選挙の日で、街はお祭り騒ぎだった。4年に一度の興奮の日に、たまたま居合わせたわけだ。多くの警備員や報道陣などや群衆が詰めかける中、私たちは地図を見ながら、やっと劇場にたどり着いた。

 劇は、当然すべて英語だけの台詞なので、わからない所もずいぶんあったが、音楽や舞台装置も素晴らしく、「これが本場のミュージカルか」と感動した。

 ミュージカルが終わり、感動さめやらぬ中、私たちは夜9時過ぎに劇場の外に出た。ホテルへの帰り道のタイムズスクエアでは、巨大スクリーンに各州の選挙結果が表示され、その度にあちこちから歓声があがっていた。

 私たちは、その様子を横目で見ながら、群衆でごった返す街中を、迷子にならないよう、皆で固まってホテルまで帰った。

 街はあちこちで交通が規制され、ホテルに帰るには、大きなライフル銃を抱えた警官が警備する中、かなり回り道をしなければならなかった。

 ホテルに帰っても、外は明け方まで大騒ぎだった。
 翌日、日中は少し静かになったが、夜になると、トランプ氏当選に対する抗議デモが行われ、再び騒がしくなり、二日連続で安眠を妨げられた。

 4日間のニューヨーク滞在では、メトロポリタン美術館やセントラルパーク、エンパイヤステートビル、ブルックリンブリッジなど、有名な観光地を訪れた。

 私には、すべてが輝いて見えた。高層ビルは東京にもあるが、ニューヨークには、古い石造りの美術館なども点在する。近代的なビルと歴史的な建物が混在しており、できれば何度も来てみたいと思う街だった。

 
 その後、旅の第一の目的である、ネブラスカ州にあるキルトミュージアムへ向かった。ニューヨークから飛行機をシカゴで乗り継いで5時間程で着いたリンカーンという街は、とうもろこし畑が広がる、いなか町だった。

 このミュージアムには、世界各国のキルトが展示されている。古いキルトも温度管理された倉庫に、大切に保管されている。その整った設備はさすがパッチワークの本場だな、という印象を受けた。

1階にあるこじんまりした部屋で、先生の個展が催されていた。私たちは、館内のあちこちをゆっくり見学して回った。

 今度のアメリカ旅行は、憧れの大都会ニューヨークに行き、大好きなキルトの本場を訪ねることもできたし、一生の思い出になるだろう。
 旅をしながらふと気が付くと、私は、特に意識したわけでもないのに、先日もらってきた母の洋服ばかりを持って来ていた。

 同行者たちに母が亡くなったと告げると、母の洋服を着ている私を見て、
「きっとお母さんも一緒に来られたのね」
 と、一人が言った。
 そうかもしれない。あわただしい旅の途中、母を思い出すことはほとんどなかったが、コートのポケットに、母が使っていたハンカチを見つけて驚いた。
 着道楽で、派手な服ばかり着ていた母だったが、見つけたハンカチも、とても派手だったので、つい苦笑してしまった。きっと、母は私のすぐ近くにいて、いっしょにアメリカへ旅をしたのだろう。

【寄稿・コラム】 叡知が、今、求められている = 広島hiro子

 今日は、25万人、100万人という二つの数字が二ユースで流れた。この対照的な数字に今のアメリカの混迷が浮かび上がる。


 ここ最近、「トランプ」氏の名を聞かない日はない。一昨日は、特に『45代新大統領就任』という歴史的な日であった。

 わたしの中では、ちょっとうんざりしつつも、毎週の日曜朝の経済番組をみていた。
(あれ? 昨日の二ユースでは90万人て言ってたのに? 報道機関で差があるにしても、25万人は少なすぎ・・・)

 25万人とは、トランプ新大統領の就任式広場に臨んだ、アメリカ国民の数である。
 TVでみるかぎり、民衆は整然とあつめられ、通り道のような白い空間が目立っていた。それと比べ、オバマ大統領就任では、その数180万人。8年前の映像は、希望にわいた民衆がすき間なく黒々とひしめきあい、新大統領とは対照的にうつしだされた。


 正反対なのは、それどころではなかった。新大統領就任の翌日に、全米で大規模な抗議デモが行われた。その数が、100万人という異例の数なのだ。

 女性蔑視に抗議する女性や格差を受ける側が、「反トランプ」を掲げ、数百万人と今も規模を拡大している。

 わたし自身も1-2年前に、1万人規模の反戦デモに参加した経験がある。しかし、国民性の違いもあるのかもしれないが、そのパワーは比較にもならない。

 昨年の韓国大統領に敵対するデモにしろ、今回のアメリカにしろ、民衆の不満は、過去類を見ないところまで拡がっているのだ。

 破壊を伴うなどのデモの是非はともかく、デモもグローバル化している。これだけの民衆を結束するパワーをみせつけられ、わたしはある意味すごいと感じていた。だからと言って、同じようにトランプばかりを非難しようとは思わない。
 なぜなら、わたし達一人ひとりのすべてに原因があり、負を内在していると感じているからだ。


『正義の行進』を自負する民衆は、この世の諸悪を誰かのせい、政治のせいにし過ぎてはいないのか。
 トップの差別発言を許すわけにはいかないが、非難の応酬で終始してほしくない。

 自分を正義に置き、他者を非難する行動は、ユーロ圏を含め世界に伝播している。結局、繰り返し起こるデモは、非難と破壊で「ガス抜き」を完結してしまうのかもしれない。

 かたや世の支配者は、群衆を「烏合の衆」と揶揄しつつ、いつものように時間薬を待っているのだろう。しかし、民衆もせっかくこれだけのことをやってのけたのだ。
 次なる物語をどう創るか、弱者が葬られる歴史を覆し、本モノの民主主義を見せてほしいと願う。

 当然のことだが、民主主義は数の力そのものではない。大衆迎合の安易な多数は、人々の成長に逆行することもあるからだ。

 しかし、その99%の民衆の潜在力を、どれほどの人々が気付いているだろうか? アメリカ人はもともと、自由、平等、博愛のために、その裏にある責任とリスクを負ってきた国民だ。もちろん、富や税の再配分が政治的に不平等であることは黙認すべきでない。

 弱者にとっては死に直結しかねない問題だ。しかし、弱者という意識に縛られ、福祉や権利を要求することだけにこだわらない生き方はないものか。
 ひとりでは無理でも、99%という民の力は価値ある目標を持つことによってパイオニアとして復活することもあるはずだ。

 自分の利権だけを優先するのではなく、自立する策を同時に考えるのだ。物事は対立する両極がある。双方が調和することで、相乗的なパワーを得て飛躍することだってあると、わたしは思う。


 日本には素晴らしい人材が、歴史上にも存在した。二宮尊徳のことばを思い出してほしい。
「道徳のない経済は罪悪。しかし、経済のない道徳は戯れ事」だと。
 日本人のDNAは、相反するものを受け入れ、より良きものを創造する血なのだ。歴史の偉人さえも、心とモノを取り入れている。


  国を超え、人種を超えてつながろう。偏ることのない叡知が、今、求められている。


 次回はとっておきの秘宝をお伝えします。真似してください。


写真:google「写真フリーより」

標高2,415mから海岸Om 北アルプス北端・栂海新道縦走=栃金正一

1.期日 : 2016年7月26日(火)~29日(金)3泊4日

2.参加メンバ : L佐治 関本 藪亀 栃金

3.コース : 7/26日 移動日 平岩駅(バス)~白馬岳蓮華温泉ロッジ

7/27日 白馬岳蓮華温泉ロッジ ~ 白高地沢 ~ 花園三角点 ~ 吹上のコル ~ 朝日岳 ~ 朝日小屋

7/28日 朝日小屋 ~ 朝日岳 ~ 吹上のコル ~ 長栂山 ~ 黒岩山 ~ サワガニ山 ~ 犬ケ岳 ~ 栂海山荘

7/29日 栂海山荘 ~ 菊石山 ~ 下駒岳 ~ 白鳥山 ~ 尻高山 ~ 入道山 ~ 親不知海岸

【7/26】 今日は移動日で、平岩駅からバスに乗る。白馬岳の蓮華温泉ロッジに着くころは、雨が降ってきて、明日の山行が気にかかる。


【7/27】 早朝5:00の出発時には、ほぼ雨は上がっていた。

 ロッジ前のキャンプ場への道を進むと、整備された木道に出る。滑り易い木道を慎重に下り、いくつかの湿原を抜けると、大きな白高地沢の河原に出る。
 河原で休憩し、急斜面をグングン高度あげながら登ると、視界が開け、色とりどりのお花畑のなかに花園三角点を確認する。

 ここの水場で早目の昼食をとる。ここからは、五輪尾根を一気に登り、山腹をトラバース気味に行くと、栂海新道の分岐である吹上のコルに到着。休憩の後は、広い歩きやすい斜面をジグザグに登って行く。

 13:30、朝日岳に到着する。山頂は広々していて、展望指示盤がある。記念写真を撮り、朝日小屋に向かう。
 広い平原のなかに建つ赤い三角屋根の、朝日小屋には14:20に到着した。


【7/28】 朝日小屋の豪華な食事をいただき、朝日を浴びながら、5:30に元気に出発する。6:30、朝日岳山頂に到着した。白馬岳、雪倉岳、剣岳・立山連峰が良く見える。

 7:00、吹上のコルに到着。ここからいよいよ長い栂海新道に入る。シラビソの林を抜けると木道になり、照葉の池があり、周りはキスゲ等のお花畑になっており、とにかく美しい。

 道は登りになり、途中ですこし道をそれ、長栂山に立ち寄る。アヤメ平の小さな雪渓を越えると、広々とした黒岩平の平原に出る。
 ここで冷たい水を補給し、急斜面を登ると、黒岩山に到着。ここからは登り、下りの多い稜線を行く。サワガニ山を登り、北俣の水場で水を補給し、さらに犬ケ岳を登り、14:20、栂海山荘に到着する。

自炊だが寝具もあり、ゆっくりと寝られた。


【7/29】 早朝5:00に出発する。途中、黄蓮の水場で水を補給し、菊石山を過ぎ、急登の下駒岳を登り、小屋の建つ白鳥山に到着する。

 ここからは下りとなり、標高が低く、とにかく暑い。最後の水場となるシキ割の水場で、水を補給し、尻高山を経て、最後のピークである入道山を登る。

栂海新道の入口のある国道8号には、14:20に到着。さらにここから海岸を目指し、階段を下り、目標の日本海海抜0メートルの親不知海岸に、15:00に到着した。


 朝日岳から親不知海岸まで下る、お花畑でいっぱいの長大な尾根歩きを全員が無事に、縦走できた。天気にも恵まれ、思い出に残る山行となりました。


    ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№206から転載

前泊は温泉で心地好く、登る赤城山(1828m)は雨と霧=籔亀徹

日時 : 2016年10月8日(土)

メンバー : 籔亀徹・北山美香子・北山明親

コース : 黒檜山登山口8:43 ~ 黒檜山10:07 ~ 駒ヶ岳10:57 ~ 駒ヶ岳登山口11:52

 10月7日、栃金さんと別れて、創業が明治23年の赤城温泉の花の宿(湯ノ沢旅館)に宿泊した。山の中の温泉で、いろんな手作りの料理に興味を引かれた。
 いまはさびれて? 3件のみの開業になっているらしい。古いけれど、とっても趣きがあった。温泉は鉄分が強そうで、やや白く濁っていた。


 翌朝、本来ならば、8時からの朝食時間だが、山へ行くからというと、7時からにしてくれた。朝食もほんとうに丁寧にいろんな食材で、作られていた。
 ありがたくいただいて、7時半に出発する。1時間ほどで、大沼のそばの黒檜山・登山口の駐車場に到着した。天気予報は曇りのち時々雨・・。

 朝、宿を発った時から、ずーっとすごい濃霧で、車の峠越えは大変だった。雨が降り出したら、やめようかということだったが、なんとか雨は免れた。

 8時43分に出発する。登山道は思っていたより歩きづらく、大きい石が山頂近くまで延々と続いていた。
 10分くらい歩くと、霧のなかに大沼が見えた。これは晴れると思った。しかし、甘かった。途中から、霧と風と雨で、雨具(上着だけ)を着る。

 10時7分に、黒檜山の山頂(1828m)に到着した。

 濃霧で、景色は何にも観えず、残念だった。早そうに下山することにした・・。
 当初の予定を変更して、きっと雨が降るだろうと思ってピストンにするつもりだった。せっかくここまできたのだから、そのうえ雨もたいして降ってないし、ということで、即座にまた変更して最初の計画通り、駒ヶ岳経由で行くことにする。


 こんどは山道がハイキングコース並みの、歩きやすい登山道に変わる。登りの時とはちがい、天気が穏やかになってきた。
 時どき、遠くの空が明るくなったり、大沼の湖面が観えたりしての歩きになってきた。55分で、駒ヶ岳(1685m)に到着した(10:57)。
 すぐに通過して、下山する。やはり天気が悪かったら、景色が観えず、楽しみが半減する。45分(11:52)で、駒ヶ岳登山口に下りたった。

 下の方は天気が良くなっていた。雨具を脱いで、赤城神社に立ち寄る。この神社はかつて地蔵岳の中腹にあったそうだ。

 赤城山は黒檜(くろび)、神庫(ほくら・・地蔵)、荒山、鍋割。鈴が岳の雄峰を中心に、峰峰が幾重にも重なっているそうだ。
 紅葉にはまだ早いけれど、赤く染まった赤城山にも、魅力を感じる。駐車した車には12時40分に戻り、帰路につく。

 妙義山と2日間の連続の登山だった。準備不足もあるが、脚と腰に疲れがたまり、がたがただった。でも、楽しい山行だった。


     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№207から転載

からだが凍っても、美観の魅力、冬の権現山(1312m) = 関本誠一

日時 : 2014年1月27日(月) 晴れ

メンバー : L関本誠一、栃金正一、武部実、佐治ひろみ、籔亀徹  (5名)

コース : JR猿橋駅(バス)⇒ 浅川BS ~ 権現山(1312m・昼食) ~ 高指山 ~ 不老山(570m) ~ 不老下BS(タクシー)⇒ JR四方津駅

 権現山は日本各地にある山名である。その数を数えたらなんと92座もある。中国・九州で半数近くあるが、東京近郊にも丹沢付近に3つあり分布は全国に散らばっている。
 権現とは徳川家康の死後に、東照大権現として祭られている印象か仰々しい名前だが、家康と関係があるのかは全く不明だ。

 きょう行く山は、大月市と上野原市の境にあり、標高は長野県(1749m)と愛媛県(1593m)に次ぐ第三位の立派な山だ。
 例年この時期になると、ほど良い積雪になっているだろう、との予想のもとに計画した。


 集合はJR猿橋駅8:10だった。一番乗りは、自宅から車を運転してきた籔亀さんだ。30分も前に到着していたそうな…。一番遠いところから来ているのに頭が下がる。

 この日はとにかく寒く、大月駅始発のバスを待っているだけでも、身体が凍えてしまうくらいだ。定刻(8:18)のバスに乗り込む。乗客は我われ5人だけである。バスに揺られること30分で、登山口のある浅川に到着した(8:50)。

 早そうに準備をして出発する。最初は林道を行くが、陽が射さないため寒さが身にしみる。50分ほどで浅川峠に到着した。尾根に出ると、風もなく日当たりがよく、温かくなってきた。

 木々の間からは、富士山をはじめ、まわりの山もだんだん見えるようになってきて、快適な登りだ。途中は休むことなく、一気の登り、権現山の山頂には10:55に到着する。

              (権現山山頂にて)


 山頂からの眺めは、これまた一段と素晴らしい。富士山はもちろんのこと、北側の奥多摩方面も一望できる。
 ただ、雪はほとんどなく、むしろ雪解けでぬかるんだ状態だ。すこし早い昼食をとる。50分ほどのたっぷりの休憩をとったのち、下山を開始する。
 まず目指すのは高指山。所どころ凍っていて、滑りやすい。これも山頂付近だけで、しばらく下降すると氷結はまったくない。

 途中、舗装された林道を横切る。だが、林業のためとはいえ、山奥までの自然破壊はむなしい。

 高指山に到着して、小休止をとる。次は不老山を目指す。アップダウンをいくつか繰り返したのち、南側が開けた不老山頂に到着する(13:40)。


 正面遠くには丹沢主稜がある。手前には、倉岳山から矢平山、高柄山と連なる尾根が一望できた。眼下には、中央高速の談合坂SA(下り)がある。四方津、上野原市の町なみがはっきりと見える。

 不老山という名前の山も、全国各地に沢山あると思っていた。ところが、九州にある徐副伝説のところを含めても5座しかないのは意外だ。

 小休止の後、不老下に向けて下山していく。バス停に14:50に到着。平日の昼間はバス便がないため、四方津からタクシーを呼び、駅に向かう。
 籔亀さんとは駅で別れた。残り4人は恒例の立川駅で途中下車し、反省会をしてから家路に向かう。お疲れさまでした。


     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№174から転載

【寄稿・コラム】 奇跡ってあるんだ~!ご縁も奇跡?= 広島hiro子

 新聞の正月記事は特に念入りにチェックする。国の行く末、平和につながる良いアイデアはないかーと、もう20数年になるだろうか、お陰で私の部屋は新聞記事、書籍などのスクラップの山なのです。あ~~若いころは音楽と恋とお洋服が私のすべてだったのに。
 ひとは出会う人やきっかけ次第でこうも変わるものなのですね。ひとの縁こそが私にとっての奇跡・・・感謝&畏怖する年初であります。

 今日は、1月3日の中国新聞オピニオン記事のなかの奇跡(?)を他ふたつご紹介します。
 ひとつは、物や仕事の縁のことです。穂高健一氏が掘り起こしたといえる「芸藩誌」がそうだと思います。核兵器で壊滅し、歴史をさぐる資料をほとんど失くした広島に、奇跡的に残った「芸藩誌」、これなくしては『二十歳の炎』という高間省三を描いた歴史小説も、生まれていませんよね!?

 仏教大歴史学部の青山教授も史料から、芸州が明治新政府の中心の可能性もとお考えです。学会はまだ注目されていないようですが、青山教授を中心にこれから研究のご予定らしく、歴史を覆す新しい発見になるのではないかと私もワクワクしています。

 しかし、こんなすごい史料、よくぞ突き止められましたね。穂高さんの行動する執念がこの奇跡を呼んだのでしょうね。 求めれば与えられるという奇跡があるんだということが、またすごいと思います。


 それともうひとつの奇跡があります。それは偶然のようなひらめき、インスピレーションです。例えば小説家ならば、予期せぬ言葉が、話をしているときや、一心不乱に小説を書いているときなどに湧いてきたりします。
 私でもありますよ。お風呂で髪を洗っているとき、あるいは目覚める前とか。これがイノベーションに繋がったりしてきます・・・、皆さまのひらめき経験はどうでしょうか?

 このオピニオン記事にある『富国富民』は、きっとインスピレーションという奇跡が起こした言葉なのでしょう。少なくとも私のなかでは奇跡です。
 歴史にある「富国強兵」とは真逆の言葉なのですから。私の希望する平和は、軍事国家で儲ける富国でなくて、民が強く優しく豊かになる国です。

 歴史はシロウトの私が想像するに、幕末の志士たちが欲したのは、近代技術や金融システム以上に、それまでの身分がすべてであった封建時代とは相反する、理想的な民主主義の考え方だったのだと思います。
 実際には本物の民主主義にはほど遠いものにすり替わったのですが、福沢諭吉や二宮尊徳の名言が、これから未来にこそ生きてくると期待しています。

 穂高さんの持っておられる奇跡は、歴史家に不足しがちな経済的理論です。経済学部首席で卒業された? 異色の歴史作家の強み。それに広島出身という地縁も、奇跡的だと感じられます。

 できれば、これからの先生方の歴史の検証をきっかけとして、今昔、誰も民を中心に考えなかった施策に、歴史の偉人たちの熱き志を呼び戻してもらえますように願っています。

 ちなみに、宗教学者からの重要なメッセージがありました。奇跡は、宗教だけの専売特許ではなく、どこにもあるのだそうです。2017年は良くも悪くも、「変化の年」だと思います。勇気ある行動は、思いがけない奇跡を呼ぶかもしれませんね。
 皆さまに、たくさんの奇跡や幸せがありますように。年の初めにて、お祈り申し上げます。


            写真:広島城(原爆で完全焼失したので、復元です)


                                             【了】

【寄稿・】 創造する平和にむけて = Hiro子

 今日、金融機関は平常勤務なのだが、一日早い休みを取った。
 みんな年末であわただしいというのに、私は原爆ドームを前に新しくできた「折り鶴タワー」で、コーヒーブレイクだ。正直、年末大掃除もまだだけど、ちょっとだけ勘弁して下さい。

 今、幕末・明治維新の歴史が熱い。
 明治維新の近代化が日本の夜明けとなったとの一言で、かたずけられている空白の10年。その歴史の大転換点に、注目が集まっている。
 メディアでは最近こぞって、徳川の埋蔵金や、坂本龍馬が死の間際に得た8万両もの資金をめぐる番組などを流している。歴史にうとい私の家族も、いつもならすぐにバラエティー番組に変えてしまうところなのに、先日は最後まで釘づけだった。

 もう何年も前から、幕末の志士たちによる美談にぼやかされた近代のイメージに、待ったをかける話題や書籍は多くなっていた。
 しかし、今は歴史オタクでなくとも、頻繁に庶民が目にするようになってきた。事の正否は別にしても、だ。

 数年前より先んじてネットや新聞で、歴史作家兼ジャーナリストの穂高健一氏が、
「明治維新以来、10年ごとに戦争する国に誰がしたのか?」
 と訴えておられた。

 同氏は更に、こう言われていた。
「明治維新は、それまで(江戸幕府時代)の、封建社会から資本主義社会に変わる転換点だったのだと、日本の金融から世界の金融に変わったのだと、はっきり教科書で教えればいいんだ」、と。

 世の流れは、さらに隠された歴史に潜り込む。
 年始の地元紙では、明治維新に関わる、それぞれの話題を特集するようだ。
(何かが変わってくるのかもしれない……)
 また密かではあるが、そう思えてくる。

 師走の原爆ドームは、今日も静かにたたずむ……、何をかいわんや。

 そうだ、帰って掃除しよう!
 まずは家族の平和から創造するのだ!!


                                【了】

【寄稿・写真エッセイ】 2016年の「謡」と「演」 = 原田公平

 ここ2年間の行動を漢字で表してみると、「書」エッセイ、「話」スピーチ、「演」落語、「撮」写真、「歩」お遍路、 「立」警備、今年はそれに、「謡」・民謡が加わっている。

 こんかいは「謡」・「演」の4つを振り返ってみたい。


謡う」 民謡

 ボクと民謡の出会いは、前回のピースボート(2013~14)で民謡を謡う会に参加してから、民謡が好きになった。それまで6年間は、詩吟を習っていたので、これが大いに生かされた。

 2015年11月に、2か所の民謡クラブに入会した。

 1つは、民謡のベテランばかり15人(女性10)、女性の先生が三味線、尺八が男性の先生である。ここは月2回で、1回に2曲、自分の好きな民謡が謡える。

 他は、船橋市の福祉センターで月2回、50人前後が、みんなで7曲くらい合唱する。プロの原田英昌先生と弟子の女性3人が三味線に、尺八や太鼓を組み合わせたそうそうたるスタッフで、先生が選んだ曲を謡う。

 ここの原田先生は元民謡のプロ歌手で、個人教授をしていると知る。
 民謡は「こぶし」が難しい。2つのクラブでは謡うだけで、一切指導してくれない。習うならプロに、と今年1月から月3回、先生の自宅へ通い出した。2人の女性が名取を目指し、他に5名の男女だ。

 最初は全員で声出しに3曲一緒に謡ってから、個人レッスンに入る。指導をいただけるのは2曲、1曲を2回謡う。

 ボクは子供のころから歌謡曲が大好きで、メロディはラジオを数回聞くだけで覚えられた。民謡は難しく「こぶし」が連続し、まったく異なる。先輩に聞くと、プロの唄を耳で聞いて、口に出しての繰り返しだと教わった。
 民謡でどうしても謡いたかったのは「新相馬節」、非常に難しい曲から始めた。出だしの♪ハアーーーーーーアアアアアアアアーーーーが命である。

 まず、レンタルショップで民謡のCDを借り、ダビングしてプロの「新相馬節」を仕事の行き帰りに繰り返して聞き、家ではイヤホーンで聞きながら同時に声を出して一緒に謡う。

 ボクはこの「新相馬節」が好きで、好きで、三味線の前奏、チャチャンチャチャチャチャが始まると、全身が民謡モードになり、♪ハアーーーーーーアアとはいる。歌詞を伸ばしすぎたり、短かったり、音程が狂うと、先生からストップがかかる。そして、一緒に謡ってくれ、とっても親切だ。最初から終わりまで録音して、後で何度も聞く。 

 「新相馬節」を謡い出してから8か月を過ぎ、ボツボツこれの卒業と思っていた時に、他の曜日の方が、ぼくたちの教室に来た。彼は80歳の名取である。そして、「新相馬節」を謡った。美声と声量、朗々と流れる。謡いこんだ味がにじみ出て聞きほれた。これが民謡の真髄なのだと、あらためて歌謡曲との違いを知った。


 そうだ、「新相馬節」をボクの持ち歌にして、もっともっと謡いこんでいこうと思った。


 民謡を始めての大発見がある。この春、仲間が謡った「祖谷(いや)の粉ひき唄」、ボクの郷土・徳島の民謡だ。四国山脈の秘境、平家の落人の唄で哀調漂うメロディはいっぺんに好きになった。

 先生に秋の同窓会で謡いたいと申し出て、熱心に取り組んだ。先生からOKをもらい、別の民謡クラブで謡ったら、初めて拍手喝采。拍手が、この唄はボクの声にも合っていると教えてくれた。

 そして、10月の徳島の同窓会で「祖谷の粉ひき唄」を披露した。(写真)

 今、取り組んでいるのが「小諸馬子唄」だ、これは後1年はかかる。 


「演」 英語落語

 今年一番苦しんだことがある。それは英語落語だ。11月27日の開演日が近づくが、演目「転失気(てんしき)」が覚えられない。英語落語を初めて9年目だが、これは20数分間で、2100語もある。74歳、暗記の難しさを知る。
 練習時間はたっぷりあった。

 友人に苦しんでいることを話したら、「原田さん、いつも歩いて覚えていたじゃない」と教えられた。そうだ、61歳で退職後、英語・日本のスピーチ、日本語と英語の落語他、暗記を得意としていた。
 常に歩きながら覚えていた練習方法をすっかり忘れていた。

 そこで、歩きながらに切り替えた。しかし、20分もやると脳がイヤイヤしてくる。ボクが座長である以上、逃げるわけにはいかない。

 「転失気」の見せ場は5場面あり、どこをとっても笑わせる。落語の大切なのは、「出だし」をスムーズに、そして「最後のオチ」で笑わせたら成功だ。この部分に集中する。しかし、それさえも四苦八苦、やろうとするほど気が乗らない。

 「転失気」は数年前に日本語で演じている。

 内容は小坊主・珍念とプライドの高い和尚のやりとり。住職が具合が悪くなり、医者が来て診断、「転失気はありますか」の問いに、住職は転失気を知らないが、知った振りをする。その後で珍念に転失気を調べさす。
 だが、誰も知らない、最後は医者に聞いたら、「おなら」だと知る。


 珍念は知ったかぶりする和尚に、転失気は酒だと嘘をおしえる。珍念は和尚に物事は、恥をかいて覚えなさいといわれ続け、そこで、ラストに和尚に大恥をかかす。
 
 笑いいっぱいの古典落語だ。

 遂に開き直り、英語での丸暗記をあきらめた。場面を想定しながら、自分の知っている英語でジェスチャーを中心にやったら、笑いと拍手で無事に演じることが出きた。

 主催者の理事長が、外国人も笑ってくれ、今までで一番よかったといわれ、来年もやると約束してしまった。

【寄稿・写真エッセイ】 2016年振り返って「撮る」と「歩く」 = 原田公平

 まえがき

  ここ2年間の行動を漢字で表してみると、

「書」はエッセイ 「話」はスピーチ  「演」は落語  「撮」は写真  「歩」はお遍路  「立」は警備、

 と言いえる。今年はそれに、「謡」・民謡が加わった。


  この7つからまず「撮」を振り返ってみたい。


撮る:あいさつ

 四国八十八か所巡礼、「歩き」遍路で楽しいのはなんといっても旧道で、車も少なく、古い町並みが残り、地元の人とのふれあいがある。

 朝、集団登校の小学生と出会い、「おはようございます」と元気なあいさつを受けた。同じ年齢の孫を思い出し、「写真を一緒に撮りたいのだけど」と声を掛けた。リーダー格の女性が「いいよ」と、みんな喜んで集まり、ポーズをとってくれ、一人がシャッターを押してくれた。

 今や世間には変な大人が多いが、お遍路姿だと子供たちは無条件に信用してくれ、うれしかった。今回、500枚余の写真を撮ったが、この天真爛漫な子供たちの笑顔の写真が、今年一番のお気に入りだ。
  
 また、旧道の遍路道を歩いていると、わき道から一人の女子高生が出てきて、ボクをチラッと見て無言で前方に歩いて行った。ボクは足早に彼女に追いつき、「あなたの人生に役に立つ話をしてあげたいのだけど、いい」と声をかける。彼女はボクの顔を見て、うなずいてくれた。

 ボクは彼女に、「ここはお遍路道です。毎日、あなたの学校の行き帰りに多くの『歩きのお遍路』に会います。そこで、朝なら『おはようございます』、午後なら『こんにちは』と、それに一言付け加えて、『お気をつけて』と声を掛けてみませんか。

 最初はなかなか声がでません。でも、ここが『勇気』の出しどころです。家で何度も声を出して練習してください。すると、お遍路さんを見ると大きな明るい声がでるようになります。

 人生で大事なのは、こちらから先手を取って、あいさつをすることです。あなたにとって幸せなことは、遍路道があなたの通学路です。いくらでもチャンスがあります。

 それに、今、外国人のお遍路さんが増えています。やがて、四国八十八か所は世界遺産になります。そうなると、外国人がさらに増えます。日本人のお遍路さんに挨拶ができるようになると、外国人にも英語で、“Good morning! ”,“Good afternoon!”もできるようになる。さらに一歩踏み込んで“どちらのお国からですか”と、会話の幅が広がり、学んでいる英語の実践の場になります。
 人生で、あいさつという簡単なことが一番むつかしい。是非、『挨拶という魔法の言葉』をどんどん発し、あなたの人生を豊かにしてください」と、ボクは話した。
 彼女は素直にうなずいた。遍路姿が功を奏したようだ。


 【歩く: お遍路
 
 有森裕子がバルセロナのオリンピックでマラソンのゴール後、「自分をほめてやりたい」といった。今年は自分にもそういうことがあった。
 退職して13年目、いつしか74歳になり、この間、自分にとって最高の偉業は、「四国八十八か所巡礼」を『結願(けちがん)』したことである。

 他に、「アメリカ一周鉄道の旅」や「地球一周の船旅」などあるが、鉄道や船を使ってだ。一方、「四国巡礼」は、あくまでも自分の足の一歩いっぽの積み重ねが、延べ45日間、1132㌔、東京から博多の距離を歩いた。 


 2016年10月4日、6回目、最後の遍路は、台風18号直撃予想がボクを避けてくれ、天気に恵まれた。松山市の平たん地、53番円明寺からスタートしたが88番の大窪寺まで、9つの山の上の寺が待ち受けていた。

 四国最高峰、石鎚山近くの横峯寺は745㍍、遍路最高峰の雲辺寺は910㍍、結願寺88番の大窪寺445㍍の手前に774㍍の女体山があり、山上の寺の高さを合計すると、4381㍍、富士山よりさらに603㍍も高い。

 71番の弥谷寺は1キロの山道をだらだら登り、次には540の石段である。弘法大師の修行の寺というように厳しかった。
 10㌔の荷物を背負い、312㌔を13日間歩き、毎日、夕方にはヘトヘトに疲れた。が、翌朝には元気が戻り、74歳の歳を感じることなかった。
 自分でも不思議であった。考えてみた。この歩くパワーの源は、毎月、20日間前後の警備の仕事だ。仕事は、1日に7~8時間、唯、「立つ」だ。

 立つことが足の訓練になることを知ったのは、ボクが50代、夫婦で毎年、志賀高原へスキーに行った。夜行バスで着いたその朝から帰るまで、時間いっぱい滑った。ボクは当時、毎年のようにフルマラソンに参加し、常に足は鍛えていた。
 一方、家内はスポーツをしていなかったが、美容師で終日立っての仕事だった。友人たちがよく言っていた。午前中滑るだけで、脚がガタガタになると、ボク等には関係なかった。

 お遍路さんは足が命だ。讃岐の寺で感じたのは、たくさんの寺の山門にあった『わらじ』だ。山門の正面が仁王像で背面にわらじや、山門がわらじだったり、仁王さんの前に置いたり、『わらじ』が目についた。
 参拝客が「足が丈夫になるよう」と、わらじを触る人も多いという。今も昔の足・脚の大切さは変わりないのだろう。

 結願して、あらためて警備での「立つ」が、足・脚を丈夫にすることを知り、自分の足をほめてやった。
 まだやりたいことが多々ある。健康が第一、その原点は、たっしゃな足腰だ。これからも会社が雇ってくれる限り、感謝の気持ちで「立ち」続けたい

【寄稿・写真エッセイ】 夕暮れに犬が走る 阿河 紀子

 秋田犬のミックス犬、『ぷりん』は、あっという間に大きくなった。先代犬のごん太が、晩年、室内で過ごすことが多かったので、ぷりんも同様に、家の中で暮らさせることになってしまった。
近所の人たちからは、「こんな大きな犬を家の中で飼っているの?」と、あきれられた。
 私は、「もう、家が犬小屋よ~」と、笑って受け流す。

 まさか、近所の人も、ぷりんが家の中で運動会を開いているとは想像もしていなかっただろう。ぷりんは、誰からも愛される、美しい犬に成長した。そして、自由に、家中を走り回っていた。

リビングのソファーで飛び回るぷりん

 母犬譲りの賢さを受け継いだのか、ぷりんは、近所の人との付き合い方も実に上手だった。散歩帰りのぷりんは、庭いじりの好きな、おとなりの奥さんを見かけると、まるで自分の家の庭のように勝手に入り込んだ。そして、「お水が飲みたいの」と言うかのように甘えた。

 奥さんがバケツに水をなみなみと汲んでくれると、実にうまそうに飲み、満足げに帰るのが日課だった。
 斜め向かいのご主人は、ぷりんに、走って飛びつかれるのが好きだった。彼は飛びつかれても、嬉しそうに、
「痛いじゃないか、痛いじゃないか」
 と大騒ぎをしては、ぷりんとじゃれあうのが常であった。
                                    
 ある日、向かいの浪人中のお兄ちゃんが、緊張した顔で、
「ぷりんと一緒に散歩してきていいですか?」
 と、唐突な申し出をしてきた。
「ぷりんが、うんこをしたら、その始末もしなきゃならないのよ。」
「大丈夫です」
 と自信ありげに頷く。
「通行人や、他の犬に迷惑をかけないように出来る?」
「大丈夫です」
 と胸を張る。


         「1歳になったころのぷりん」 

 私は、少し不安だったが、散歩用のバッグとぷりんのリード(引き綱)をお兄ちゃんに託した。その不安は的中した。3時間も帰ってこないのだ。

 携帯電話もない。どうしたのだろうかと、心配でたまらず、何度も表通りに見に行った。薄暗くなったころ、やっと無事に帰ってきてくれた。
 かなり遠くまで行ったらしい。ぷりんが疲れて歩けなくなったので、途中で休憩していたと言う。
「ぷりん、ありがとうな!」
 とお兄ちゃんは、嬉しそうに帰っていった。


 翌日、我が家のポストに「ぷりんへ」と書かれた封筒が入っていた。
 それはお兄ちゃんから、ぷりんへのラブレターだった。少し困惑したが、ぷりんに代わって私が読むことにした。「川べりで、ぷりんは、並んで一緒に時を過ごしてくれたね。それがとても嬉しかった。ありがとう」と書かれてあった。

 この手紙の事は、私の胸の中にしまっておくことにした。

 私たち家族は、ぷりんを連れて 色々な所へ旅をした。富士山、那須高原、軽井沢、清里など数えきれない。

    「富士山5合目の駐車場で」                 「清里で友人家族と」

 大阪に住んでいた頃、家族ぐるみの付き合いをしていた友人と、現地で合流したこともあった。
 ぷりんを家に置いて、人間だけで旅行するなど、私たち家族の辞書から消えてしまった。それほど、魅力的でかけがえのないぷりんとの時間だった。ところが、一緒に連れて行けないところがあった。大阪に住む私の両親の家だ。

「家の中に犬を入れる」
 など、両親の辞書には無い。

 仕方がないので、帰省するときは、ぷりんを預けるところを探した。ある年は、警察犬の訓練所だったり、ある年は、オープンしたてのドッグホテルだったりした。
 少しでも居心地の良い設備と環境を、探して預けたが帰るまでは、心配だった。その頃、いつも世話になっている獣医が、「ドッグホテル」も始めた。私は、よく知っている獣医の処なら安心とばかりに、すぐ予約した。ぷりんが3歳の冬だった。

 晦日に預け、三が日は大阪で正月を祝い、4日に帰宅するや否や、ぷりんを迎えに行った。すると、獣医が「大変だったんですよ」と言う。
 何があったのだろうか。

 31日の夕方、散歩帰りのぷりんは、病院の前までは、おとなしく付いて来た。獣医がドアの鍵を開けているすきに、首輪もハーネスもリードもぷりんは、勝手に自分で外し、走り去ってしまった。呼んでも知らん顔で、走る。
 大晦日の夕暮れだ。赤く染まった空が紫色になり始める。正月の買い物の車で渋滞する道を、ぷりんは、車と車の隙間を駆け抜け、とうとう走り去ってしまった。

「いやぁ、かっこ良かったなぁ~」
 などと獣医はトンチンカンなことを言う。

 人間の足では到底追いつけない。ふと気づいて、カルテで住所を確かめると自宅方面に走っていったことが分かった。獣医は、急いで、車で追いかけ、私の家に着くと、庭にぷりんが居た。
「よかったですよ、ホッとしました。」
 無事であったから、「良かった」で済むが、もし、車に轢かれたり、行方が分からなくなってしまったりしたら、どう責任を取るつもりだったのだろうか。

走るのも早かったぷりん

 腹わたが煮えくり返り、悪態のひとつや二つ、ついてやりたいところだったが、獣医の顔など、これ以上は、見たくないので我慢して、早々に帰宅した。

 だが、1つ分からないことがあった。
「ぷりんは、庭にいた。」
 と獣医は言ったが、どうして入れたのだろうか?

 門には鍵がかかっており、勝手には入れないはずだった。見たことのない、古い陶器の鉢が庭に転がっていた。
 正月明けのごみ集積場は、新年の挨拶を交わす絶好の場になる。私は、会う人、会う人にぷりんのことを尋ねた。
 表通りを走るぷりんを見かけた人や、自宅付近をウロウロしている姿を目撃した人はいた。しかし、「何故、ぷりんが庭に入れたのか、知らない人」ばかりだった。

 やがて、お隣りの奥さんや、斜め向かいの奥さんの話から、謎が解け始めた。
 自宅にたどり着いたぷりんは、斜め向かいの家の駐車場に入りこんだ。いつものように、門扉は開いたままだった。帰ってきたご主人を見つけると、大喜びでじゃれついた。
「もう少しで、車で轢いてしまうところだったのよ。」
 と斜め向かいの奥さんは、少し怒ったように言った。

 私は、正月に帰省するのを、お隣りの奥さんだけに伝えてあった。
 ご主人は、インターホンを何回も押したが、誰も出てこない。
「留守中にぷりんが、戸外に出てしまったのだろう」
 と思ったそうだ。
「さて、どうしよう」
 と思案に暮れているところに、お向かいのお兄ちゃんが帰宅した。ぷりんが周辺をウロウロしていると何があるか分からない。
「心配だ。」
 そこで、長身のお兄ちゃんが塀を乗り越え、ぷりんを庭に抱き入れた。古い陶器の鉢に水を入れてもらうと、いかにも「のどが渇いていました」と言う様子でぷりんは、ぐびぐびと飲んだ。
 少し落ち着いたぷりんを見て、ご主人も、お兄ちゃんも、それぞれ家に帰った。その頃、獣医が車で到着したらしい。
 ぷりんが吠えた。
 その声を聞きつけたお隣りの奥さんは、最初は空耳だと思ったらしい。
「ぷりんは獣医さんに預けられているはずだ。」と最初は、無視をした。ところが、あまりにも吠えるので「やっぱり、ぷりんの声だ。」
 と玄関先に出てきた。獣医が、名刺を取り出し、事情を説明した。ぷりんは、庭じゅうを逃げ回り、獣医には捕まえられなかった。そこで、奥さんも、塀を乗り越え、ぷりんの捕獲に協力した。
 やっとのことで、捕まえ、獣医の車に乗せた。
「ぷりんが可哀想だった。」
 と奥さんは、ぷりんに謝っていた。ぷりんは、いつものように尻尾を力いっぱい振っていた。
 もし、近所の人がぷりんに優しく接し、守ってくれなかったらどうなっていたのだろうか。私は、ただ、ただ感謝するだけだった。

                              【了】

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