寄稿・みんなの作品

霧のなかで硫黄が鼻を突く、 那須三山 = 松村幸信

平成25年10月7日(月)~8日(火) 二日間とも晴れのち曇り

参加メンバー : L石村、武部、野上、市田、中野、松村

ルート:

【一日目】  那須塩原駅 ~ 那須ロープウェイ ~ 茶臼岳 ~ 硫黄鉱山跡 ~ 牛ヶ首(姥ヶ坂) ~ 姥ヶ平・ひょうたん池~姥ヶ平下~沼原分岐~三斗小屋温泉

【二日目】 三斗小屋温泉~大峠~三本槍岳~熊見曽根~朝日岳~峰の茶屋跡~
    那須ロープウェイ山麓駅~鹿の湯~那須塩原駅        



 今秋は、台風が次々と襲来し、雨が多く天候が安定せず、出発の間際までやきもきしていた。

【一日目】

 8:12に到着の東北新幹線で、三々五々と那須塩原駅に集合した。駅前から、8:30発の那須ロープウェイゆきバスに乗車する。車内で購入できるフリーパス券は、2日間は何回でも、乗り降りできて往復料金よりも安く実にお得だった。

 9:45、山麓駅に到着するや否やロープウェイに飛び乗る。
 紅葉時期にはまだ早いと思っていたが、ロープウェイから見える鬼面山は、見事に色づいていて、他の乗客から歓声があがる。

 4分で、頂上駅に到着する。準備をして、茶臼岳を目指し、歩き出す。だが、ガスが掛かり見晴らしはよくない。
 風に乗って、硫黄の臭いが鼻を突く。
 10:45 茶臼岳の山頂に到着した。眺望もなく、集合写真を撮ると、直ぐ先に進む。ガスに巻かれ方向を見失い、お鉢の回りをうろうろ。

 11:35 硫黄鉱山跡分岐に着いた時には、ガスも晴れ、姥ヶ平の鮮やかな紅葉が、目に飛び込んでくる。

 11:41 お腹も空き、山道脇に腰を下ろし、眼下の紅葉を楽しみながらの昼食である。12:36 姥ヶ平、ひょうたん池に写る逆さ茶臼岳と紅葉は見事だった。
 紅葉を思う存分満喫し、今晩の宿である三斗小屋温泉に向かう。

 14:48 煙草屋旅館に到着した。楽しみにしていた露天風呂は基本混浴だが、15時から17時の間は女性専用のため、残念ながら男性陣は内風呂へ。

 16:30 夕食をとり、21:00 消灯。

【二日目】

 4時過ぎに目を覚まし、暗闇の中を露天風呂に向かう。ひとり満天の星を見ながら、静かにゆっくりとお湯を楽しむ。
 夜が白み始めると、次々と人が入ってきて、あっという間に芋洗い状態となる。

 東側に山を背にしているので、日の出が見えないのが残念である。

 6:30朝食をとり、7:05に出発、天気は晴れ。大峠までの間に、三回の渡渉があり台風による増水もなく、全員が無事に渡り9:00に大峠に到着した。

 ここからは尾根道で木立も無くなり、日差しが強く、肌を突き刺す。

 11:14 くたくたになりながらも、三本槍岳に到着し、やっと昼食を摂る。ここまで、予定時間より大幅に遅れる。
 三本槍岳から清水平へ下り、登り返すと、茶臼岳が目の前に現れ、終点がみえたことでほっとする。那須三山の最後の朝日岳に13:19に登頂した。
 バスの時間に間に合うよう、急ぎ下山していく。バス発車時刻の5分前の、14:50に山麓駅バス停に到着する。那須湯本で、途中下車し、硫黄泉質の鹿の湯で汗を流す。
 さっぱりしたところで、再びバスに乗車、17:10に那須塩原駅に到着。今回は天候にも恵まれ紅葉と温泉を存分に堪能した山行でした。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№173から転載

三浦アルプス(二子山)立派な一等三角点、横須賀~横浜まで一望=武部実

 山行日 : 平成28年10月12日(水) 

 参加メンバー : L武部、中野、開田、武部弟の計4人

 コース : 逗子駅 ~ 長柄交差点 ~ 川久保 ~ ゲート ~ 二子山 ~ 阿部倉山の裾 ~ 川久保


 逗子駅から長柄交差点までは、バスで5~6分である。国道311号を東に向かって15分ほど歩くと川久保交差点。その横断歩道を渡り、5分で「葉山にこにこ保育園」入口の看板が見えてくる。
 道路を少し歩くと、保育園児たちのにぎやかな声が聞こえてきた。

 10:04、ゲートに着く。ここから車や自転車は通行止め。ゲートを潜り抜けると、ようやく山道らしい雰囲気だ。森戸川林道である。左岸には森戸川が流れる。樹木が濃いので、日差しがさえぎられて意外と涼しい。気持のいい林道だ。

 この辺から山頂まで、小鳥のさえずりが盛んだ。大きい鳴き声から、可愛らしい小さな鳴き声まで、何種類もの声を聴いたことだろう。だが、残念ながら、小鳥音痴の私にとっては、名前がわからず無念である。
 山頂の直下には「この森で見られる野鳥」の看板があり、15種類の小鳥が描かれている。今度行ったとき時に、確認してはどうですか。

 三浦半島中央道路の下を通り、15分ほど歩いたところが、林道の終点だった。(10:46着)。ちょっとした空き地になってベンチがあり、小休憩する。ここは分岐になっていて、東方向は中尾根を歩いて乳頭山に、北側は森戸川沿いに二子山に行くことになる。

 二子山コースには「マムシ注意」の看板があってドッキリさせられたが、ここから渡渉が始まる。小さい川なので、水量はもちろん少ないが、滑れば相当なケガはまぬかれないだろう。慎重に歩を進める。5~6ヶ所ほど渡渉し、この間にはトラロープが張ってある登りもあって、なかなかのバリエーションぽいルートだ。

 東逗子駅との合流点を過ぎれば、山頂はすぐそこだ。標高は低いが、立派な一等三角点の楚石を確認し、木材で組み立てられた展望台に登れば、眼下の横須賀はもとより横浜まで一望できる。見通しが良ければ、スカイツリーまで眺められるようだ。

 12:10 阿部倉山(161m)を目指して出発。樹林帯の中を小さなアップダウンがいくつも繰り返して歩く。なぜか一か所だけに、大きな50弁ほどの花をつけたトリカブトが咲いていた。もう、そろそろ阿部倉山に着くはずだが、一向に目的の山に着かず、とうとう川久保の登山口まで着いてしまう。
 どうやら阿部倉山を巻いてしまったようだ。これから登る、という地元の人に話を聞くと、わかりにくい場所らしい。それに阿部倉山は見通しも良くないと言われて、まあしょうがないかと納得した。
 13:10という早い時間に下山したので、帰りは逗子駅までのんびりと歩く。

     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№208から転載

小唄 = 石川 通敬

 人生を豊かにしてくれたものはいろいろある。その中でも、小唄は大きな比重を占めている。最近、最もうれしかったのは、毎年、小唄仲間の唄に合わせて踊ってくれている赤坂の芸妓育子さんが勲章をもらったことだ。
 これまで芸者という職業人が勲章もらったことはなく、彼女が第一号だそうだ。私は彼女の大ファンである。心意気が素晴らしい。
 あるとき赤坂の例会で、育子さんに、
「唄いたい唱があるが、師匠にあなたの身分の人が唄う唄ではない、と教えてもらえない」
 と愚痴をこぼした。すると、私が踊ってあげるから自主トレをしてきなさいと激励された。これを励みに練習し、翌年育子さんに踊ってもらったという思い出がある。
 叙勲の知らせを聞いた時、世間の目は確かだと感激したのだ。

 小唄が楽しい最大のポイントは、苦労して覚えた唱を発表するところにある。赤坂もその一つだが、一番緊張するのが、2年に一度師匠が三越劇場で主催する会で唄うときだ。
 時には半年近く練習を重ね、仕上げる。
 それだけに聞きに来てくれた友人から、よかったよ、と言われた時のうれしさは格別だ。老人ホームにも慰問に行くが、また来てね、と言われると、練習の苦労も吹っ飛ぶ。

 演奏会出演の副産物として得たものが、和服を着る楽しみである。家内の熱心な協力があって実現したのだが、有難いことと感謝している。

 しかし、ここまで来るには、50年の時間がかかった。小唄はマニアックなものと思う。なぜそんなものに関心を持ったのか、というと遠因が二つある。
 一つはビジネスだ。私が就職した50年前には、ビジネスマンの必修科目として囲碁、ゴルフ、小唄の三ゴが上げられていた。
 就職して間もなく私も囲碁とゴルフにはチャレンジしたが、小唄の世界は敷居が高く、長年憧れの対象であった。
 もう一つは、家族の思い出である。母はよく実家の昔語りのなかで、深川生まれの祖母が100年前に、祖父に連れられてサンフランシスコに駐在した。この時に、異文化の地でよく三味線を弾いていたと話していた。
 なぜか、深川、サンフランシスコ、三味線の取り合わせが面白く記憶に残っていたのだ。 

 それでも、40歳前後になると、外国人ビジネスマンを料亭に接待し、芸者の踊りと小唄を楽しむ機会が出てきた。そうした折、チューリッヒに駐在していた時のことである。日本から出張して来られた取引先の役員が、スイスの銀行員との昼食会の席上で、突然、
「小唄をご披露するので、君訳してくれたまえ」
 と私に依頼したのだ。
 その唄には、「こたつ」とか「向島」という言葉が入っており、日本を知らないスイス人が想像することはむりなものだった。だが、何とかその場のピンチは切り抜けた。おかしなもので、この体験が本気で小唄を習いたいと決意させることになった。

 夢が実現したのは、50歳になり、接待で日本のビジネスマン相手に料亭に出入りできるようになった頃だ。ある料亭の女将が、今、稽古をしていただいている春日とよ徳花師匠を紹介してくれたのだ。

 小唄の楽しみは、唄うことだけではない。
 日本の伝統芸能、邦楽、文学に幅広く接することができることだ。唄の題材は、江戸時代の流行り唱から、民謡、清元、長唄、浄瑠璃の世界が中心だが、奈良、平安時代の和歌、芭蕉の俳句まで取り込んでいる。時間的幅の広さは1000年だ。領域の広さは、歌舞伎や新派の芝居の取り込みに象徴される。 
   
 楽しむという観点で特に重要な特徴は、演奏時間が短いことである。短いものは1分。長くても5分だ。そのお陰で2、3時間かかる芝居や、読めば数時間かかる物語のエッセンスが短時間で楽しめるのだ。

 小唄のご縁で、享受しているもう一つの楽しみは、多彩な人との出会いだ。新年会、浴衣会の機会を通し、ビジネス界、官庁のOB・現役から、医者の奥様、女性社長や、師匠の弟子仲間の、神楽坂のベテランから若い美人芸妓まで、これまでに100人を超える人々と出会えたのだ。

 人気の街神楽坂が楽しめることも、気に入っている一つだ。
 師匠のお稽古場が神楽坂にあるので、月に4,5回は神楽坂に行く。そして、稽古の帰りには老人仲間と居酒屋で一杯飲む、それが恒例となっている。
 話題は小唄、三味線談議にはじまり、最近ではトランプ大統領、ときには石油、金融問題などが盛り上がる。

 ある時は、家内の友人とミッシェランの星のあるフランス料理店に行き談笑する。また、お稽古場の向かいにある八百屋での、買い物も得難い恩恵だ。場所柄、その店には料理屋向けの安くて、おいしい旬の野菜がいつもある。

 私は生来、歌が下手だった。習い始めたころ師匠が、「いいお声ね」と言ってくださったのがうれしく先輩に聞いたら、褒めるところがないときに使う常套句だと教えてくれた。
 今でも「いいお声」とよく言われるが、中々うまいとは言っていただけない。だが、たまに褒められるとうれしい。
 小唄にかける思いが、残された人生への活力の源泉となっている。

「了」

消費という奴隷 = 広島hiro子

 一月の早朝はまだほの暗く、静かだ。

 飛丸智子は布団に入ったまま、半覚醒状態でインスピレーションを拾いあつめた。枕もとのメモに、おぼろげな頭のまま、今日のメッセージを殴り書きした。


(富裕層をふくめ、超富裕層と言われる人々にも参加する権利はある。)
つぎつぎに思いもよらない言葉が湧いてくる。
いくら富裕層を顧客にもつ信託銀行勤務の彼女とはいえ、超富裕層との縁など、じっさいには無いに等しかった。にもかかわらず、飛丸智子はある確信をもって、かけ離れた世界に住む裕福な人々に思いをめぐらせていた。

(戦争をなくす最短の方法は、欲望の体系を再構築することです。そのためには、同等の機会を世界の隅々にまで与えなければなりません。お金を持つとされるものも、そうでないものも等しくです。)
 とメッセージはつづいた。

全文は、下記をクリックしてください。

消費という奴隷 全文・PDF


          写真 : google写真フリーより

【寄稿・(孔雀船)詩集より】 八月のくぼみーまえばし = 船越素子

  1

その夏、初めてという時間が

朔太郎さんのまえばしで

それは駅前のロータリーから始まる

「熱風の後にー思索は情緒の悲しい追憶にすぎない」

追憶についてはきっと


地方都市だから わたしの街も

台風到来のうわさとともに

フォークナーへとむかってくる

聞こえるのは失われた音の集積

孵化し蠢く蚕や

女たちのざわめき

八月の光がわたしの胸を射る 

真昼のからっぽの大通りを

書きかけのサーガを抱きしめ歩く
 
 2

欅の街路樹にひきよせられたのは

肋骨のあたり 

燻されていたのだ

汗が したたり落ちてくるというのに

くるり くぼみを反転させる

台風と気象予報士の

不穏で孤独な手続きがよぎる

ブログでもツイッターでもない

手帖であるべき理由を胸の内で一〇個考える

歩き続けるしかないから そこへは

「広瀬川白く流れたり」

  3

ゴーストタウンなのか

通行人1と3のあとで

4になれないわたしが狼狽えている

尾行するものらも

気にかかる

獣と草いきれの匂いがしたから

(蚊帳吊り草、雄ひじわ、えのころ草、ねじばなも)

猫町を猫足で歩く気配のひとよ

  4

ついとあたりをみわたすと

まだ新しい無人ビルが

みずうみのような

かなしみでみたされている

くぼみが水でみちると

八月の ひたひた 

水脈はわたしの胸にたどりつく

いつまで この旅は続くのだろう

そこが曠野であれば

あたらしい光が

また差し込んでくるのだろうか 


八月のくぼみーまえばし 船越素子 縦書PDF 

【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

【寄稿・(孔雀船)詩集より】 抱擁の標本 = 望月苑巳

さくらのはなびらにじゃれつく猫

猫の暗闇にぼく


ぼくの骨格に似た無邪鬼がいる

とうの昔に夜店で失ったものがそこにある

柔らかな毛並みを抱くと

温かいいのちがはらりと

夢の外へ逃げてゆく

昨日買った手帳にその夢を貼りつける

抱擁を貼りつける

喜びの源はぼくの内側にあったと

その時、気づく

いのちの回数券が減ってゆくように

はらり

はら

さくらは散る時、宙で背を向けるだけなのに

テロメアは

背を向けないまま

弟の命日にじゃれついたのか

これみよがしに

黙々と目を伏せている散華

一枚落ちるたびに生を願い

死を思う

一枚裏返るたびに

一歳、歳をとり

一歳若返る気がする

その弥生は

人を狂わせるだけに存在するようだ

夢の外の闇だまりにはまりこんで

またさくらと、ダンスに興じている

猫が

腕の中でチコンと標本になっているので

ぼくはつるりと泣きだしてしまう

*テロメア=命の回数券とよばれる。染色体の先端にあり

細胞分裂を繰り返すたびにこの部分は短くなって、死んでゆく。


抱擁の標本 望月苑巳 縦書PDF

【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
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【寄稿・(孔雀船)詩集より】 浅草暮れ六つ考 = 高島清子

暮れ六つ刻には

ゆうらりと風呂にお入りになる

詩人菊田守氏のスナック「暮れ六つ」とは

少し異なる話である



浅草仲見世通り

浅草寺寄りの裏の「暮れ六つ」は

好事家の店主が凝り倒して開いたと思しき

江戸趣味の店であった

そこにフランス帰りの生臭坊主の招きで

面白半分で行ったことがある

草茫々にした小庭の石灯籠

踏み石を四つ五つ渡ると

入口の破れ障子に行灯のあかりが映る

廃屋から収集した調度のオンパレード

蜘蛛の巣 戸棚 板の間の軋む板だが

それにけ躓くような年配は来ない


このたよりない明るさの安堵感

緊張の角が外れて行く仕組みとで

ひととき江戸人となって御酒をいただいた

後の夕べには美男を誘い

お銚子二本とお造りと賀茂茄子の炊き合わせで2万6千円也と

五玉算盤を弾くのである

おしゃれ過ぎるわぁと呆れたが

次に訪ねたら閉店の紙が破れ戸板に一枚

余りの洒落に倒れたのか

きのう20年ぶりで浅草寺の帰りに覗いて見たら

まだ「暮れ六つ」は在ったが障子は閉まっていた

大川向うの方から春風と騒めきが吹いてくるというのに

いまだに知らぬ顔で客を帰し続けている

思わせぶりな店であった


浅草暮れ六つ考 高島清子 縦書PDF


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

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【寄稿・(孔雀船)詩集より】 拳、振りかざす =  齋藤 貢

好きこのんで、誰が

ここに立つというのだろうか。

どこにも、逃げ場のないところ。

危険きわまりないところ。


拳、振りかざし

叩きのめしたいものがありながら

拳は、何度も空を切っている。

そこに、立って。

無力なままに、立たされて。

あの日から

突然に訪れた暴力の洪水に

抗いようもなく、のみこまれた。

たとえ悲鳴が聞こえていても

何ができただろうか。

もろくて小さな塵埃には

差し出す腕もなかったから

あの日。

嗚咽は、やまず

皮膚は瓦礫に擦れ

空には血も滲んでいただろう。

狭いリングの上で

両腕をだらりと垂らしたまま

けだもののように

あの日を、にらみつけるしかない。

手招きで挑発しても

歳月は、ただ黙っているだけ。

敵は、うすら笑っているだけ。

ぶざまだろうが、惨めだろうが

このままでは終われない。

何もかも

あの日のすべてを、ぶち壊してしまいたい。

壊さなければ、終わらないから

くちびるが裂けるまで

まぶたが腫れあがって、たとえ見えなくなっても

拳、振りかざす。


拳、振りかざして

張り倒したい昨日がある。

ぶちのめしたい奴がいる。

もはや

グローブは、必要ないだろうね。

素手で、壊さなければ

叩きのめさなければ

熱い血の滴る日々には戻れない。


それから、だろうか。

生臭い息で、ひとの言葉が語られるのは。


拳、振りかざす  齋藤 貢 縦書PDF


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

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【寄稿・写真エッセイ】 アメリカ旅行 ~亡き母とともに~ = 黒木 成子

 私が初めてのアメリカ旅行に出発したのは、母が亡くなり、初七日を済ませた2日後だった。

 生前の母は、昨年春ごろから体調を崩していた。脳梗塞で、だんだんと身体の自由がきかなくなり、記憶も曖昧になり、ついさっきのことさえも忘れてしまう状態に陥った。


 私は、千葉の自宅と熊本の実家を何度も往復した。
 帰省する度に弱っていく母の様子を見て、これでは近いうちに母を見送るかもしれないと、ある程度は覚悟していた。

 夏になり、母の病状は少しずつ悪くなっていたが、私は、11月に予定している1週間のアメリカ旅行が気になっていた。長年習っているパッチワークの先生が、アメリカのキルトミュージアムで個展を開くので、それを生徒たちで見に行くツアーが企画されていたのだ。

 パッチワークの本場であるアメリカで、日本人が個展を開くのは珍しい。先生や同じ教室のメンバーと一緒に海外旅行ができるのも、とても貴重な体験になるだろう。

 今度のアメリカ旅行は、どうしても行きたい旅だった。母の病状を考えると、容体が急変する可能性も十分にあるし、こんな時に旅行などしていいものかと、かなり迷った。

 直前のキャンセルや、旅行中に知らせを受けて急きょ帰国する可能性も覚悟したうえで、締め切り間近の8月末に、参加を申し込んだ。

 10月初めに熊本に帰省した時、兄にはアメリカ旅行のことを話し、旅行中でも何かあればすぐに連絡をもらうことにした。次に帰省するのは、外国旅行が終わったあと、12月の予定だった。いくら弱っていても、年は越せるだろうと漠然と思っていたのだ。


 ところが、10月30日の夕方6時近く、義姉から突然電話がかかってきた。
「今日、お母さんの容体が急変して、さきほど亡くなりました」
 義姉の声は、涙で震えていた。私は予想外の早さで、言葉を失った。

 翌朝、私が熊本に帰った時、母はすでに斎場に運ばれていた。母に会っても、不思議に涙は出なかった。突然の死で実感がなかったのである。次に熊本に帰ったら、また会えると信じていたので「また来るからね」と軽い挨拶で別れたのが悔やまれた。


 葬儀会場には、母の描いた水墨画が飾られ、母の友人たちが大勢参列してくれた。

 葬儀や納骨、初七日などの他に、様々な手続きや母の荷物の整理などをあわただしく済ませた。1週間後に、私は自宅の千葉に戻った。

 その翌々日には、アメリカへの出発が控えていた。母の死後は、できるだけのことをやってきたので、旅行には予定通り参加しようと決めた。
 それから大急ぎで準備をして、成田空港から旅立った。


 成田空港から12時間ほどかけて着いたのは、ニューヨークである。海外旅行に慣れていない私は、最初不安だったが、同行するパッチワークの仲間たち10人は、外国旅行の経験者ばかりだったので、すぐに心強い気持ちになった。

 とにかく皆に遅れないように行動するのに精一杯で、母を見送った悲しみに浸っている暇もなく、頭はこれからのアメリカ見聞しかなかった。

 着いた翌日に、楽しみにしていたブロードウェイのミュージカル、『ライオンキング』を観に行った。

 ちょうどその日はアメリカ大統領選挙の日で、街はお祭り騒ぎだった。4年に一度の興奮の日に、たまたま居合わせたわけだ。多くの警備員や報道陣などや群衆が詰めかける中、私たちは地図を見ながら、やっと劇場にたどり着いた。

 劇は、当然すべて英語だけの台詞なので、わからない所もずいぶんあったが、音楽や舞台装置も素晴らしく、「これが本場のミュージカルか」と感動した。

 ミュージカルが終わり、感動さめやらぬ中、私たちは夜9時過ぎに劇場の外に出た。ホテルへの帰り道のタイムズスクエアでは、巨大スクリーンに各州の選挙結果が表示され、その度にあちこちから歓声があがっていた。

 私たちは、その様子を横目で見ながら、群衆でごった返す街中を、迷子にならないよう、皆で固まってホテルまで帰った。

 街はあちこちで交通が規制され、ホテルに帰るには、大きなライフル銃を抱えた警官が警備する中、かなり回り道をしなければならなかった。

 ホテルに帰っても、外は明け方まで大騒ぎだった。
 翌日、日中は少し静かになったが、夜になると、トランプ氏当選に対する抗議デモが行われ、再び騒がしくなり、二日連続で安眠を妨げられた。

 4日間のニューヨーク滞在では、メトロポリタン美術館やセントラルパーク、エンパイヤステートビル、ブルックリンブリッジなど、有名な観光地を訪れた。

 私には、すべてが輝いて見えた。高層ビルは東京にもあるが、ニューヨークには、古い石造りの美術館なども点在する。近代的なビルと歴史的な建物が混在しており、できれば何度も来てみたいと思う街だった。

 
 その後、旅の第一の目的である、ネブラスカ州にあるキルトミュージアムへ向かった。ニューヨークから飛行機をシカゴで乗り継いで5時間程で着いたリンカーンという街は、とうもろこし畑が広がる、いなか町だった。

 このミュージアムには、世界各国のキルトが展示されている。古いキルトも温度管理された倉庫に、大切に保管されている。その整った設備はさすがパッチワークの本場だな、という印象を受けた。

1階にあるこじんまりした部屋で、先生の個展が催されていた。私たちは、館内のあちこちをゆっくり見学して回った。

 今度のアメリカ旅行は、憧れの大都会ニューヨークに行き、大好きなキルトの本場を訪ねることもできたし、一生の思い出になるだろう。
 旅をしながらふと気が付くと、私は、特に意識したわけでもないのに、先日もらってきた母の洋服ばかりを持って来ていた。

 同行者たちに母が亡くなったと告げると、母の洋服を着ている私を見て、
「きっとお母さんも一緒に来られたのね」
 と、一人が言った。
 そうかもしれない。あわただしい旅の途中、母を思い出すことはほとんどなかったが、コートのポケットに、母が使っていたハンカチを見つけて驚いた。
 着道楽で、派手な服ばかり着ていた母だったが、見つけたハンカチも、とても派手だったので、つい苦笑してしまった。きっと、母は私のすぐ近くにいて、いっしょにアメリカへ旅をしたのだろう。

【寄稿・コラム】 叡知が、今、求められている = 広島hiro子

 今日は、25万人、100万人という二つの数字が二ユースで流れた。この対照的な数字に今のアメリカの混迷が浮かび上がる。


 ここ最近、「トランプ」氏の名を聞かない日はない。一昨日は、特に『45代新大統領就任』という歴史的な日であった。

 わたしの中では、ちょっとうんざりしつつも、毎週の日曜朝の経済番組をみていた。
(あれ? 昨日の二ユースでは90万人て言ってたのに? 報道機関で差があるにしても、25万人は少なすぎ・・・)

 25万人とは、トランプ新大統領の就任式広場に臨んだ、アメリカ国民の数である。
 TVでみるかぎり、民衆は整然とあつめられ、通り道のような白い空間が目立っていた。それと比べ、オバマ大統領就任では、その数180万人。8年前の映像は、希望にわいた民衆がすき間なく黒々とひしめきあい、新大統領とは対照的にうつしだされた。


 正反対なのは、それどころではなかった。新大統領就任の翌日に、全米で大規模な抗議デモが行われた。その数が、100万人という異例の数なのだ。

 女性蔑視に抗議する女性や格差を受ける側が、「反トランプ」を掲げ、数百万人と今も規模を拡大している。

 わたし自身も1-2年前に、1万人規模の反戦デモに参加した経験がある。しかし、国民性の違いもあるのかもしれないが、そのパワーは比較にもならない。

 昨年の韓国大統領に敵対するデモにしろ、今回のアメリカにしろ、民衆の不満は、過去類を見ないところまで拡がっているのだ。

 破壊を伴うなどのデモの是非はともかく、デモもグローバル化している。これだけの民衆を結束するパワーをみせつけられ、わたしはある意味すごいと感じていた。だからと言って、同じようにトランプばかりを非難しようとは思わない。
 なぜなら、わたし達一人ひとりのすべてに原因があり、負を内在していると感じているからだ。


『正義の行進』を自負する民衆は、この世の諸悪を誰かのせい、政治のせいにし過ぎてはいないのか。
 トップの差別発言を許すわけにはいかないが、非難の応酬で終始してほしくない。

 自分を正義に置き、他者を非難する行動は、ユーロ圏を含め世界に伝播している。結局、繰り返し起こるデモは、非難と破壊で「ガス抜き」を完結してしまうのかもしれない。

 かたや世の支配者は、群衆を「烏合の衆」と揶揄しつつ、いつものように時間薬を待っているのだろう。しかし、民衆もせっかくこれだけのことをやってのけたのだ。
 次なる物語をどう創るか、弱者が葬られる歴史を覆し、本モノの民主主義を見せてほしいと願う。

 当然のことだが、民主主義は数の力そのものではない。大衆迎合の安易な多数は、人々の成長に逆行することもあるからだ。

 しかし、その99%の民衆の潜在力を、どれほどの人々が気付いているだろうか? アメリカ人はもともと、自由、平等、博愛のために、その裏にある責任とリスクを負ってきた国民だ。もちろん、富や税の再配分が政治的に不平等であることは黙認すべきでない。

 弱者にとっては死に直結しかねない問題だ。しかし、弱者という意識に縛られ、福祉や権利を要求することだけにこだわらない生き方はないものか。
 ひとりでは無理でも、99%という民の力は価値ある目標を持つことによってパイオニアとして復活することもあるはずだ。

 自分の利権だけを優先するのではなく、自立する策を同時に考えるのだ。物事は対立する両極がある。双方が調和することで、相乗的なパワーを得て飛躍することだってあると、わたしは思う。


 日本には素晴らしい人材が、歴史上にも存在した。二宮尊徳のことばを思い出してほしい。
「道徳のない経済は罪悪。しかし、経済のない道徳は戯れ事」だと。
 日本人のDNAは、相反するものを受け入れ、より良きものを創造する血なのだ。歴史の偉人さえも、心とモノを取り入れている。


  国を超え、人種を超えてつながろう。偏ることのない叡知が、今、求められている。


 次回はとっておきの秘宝をお伝えします。真似してください。


写真:google「写真フリーより」

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