【寄稿・写真エッセイ】 アメリカ旅行 ~亡き母とともに~ = 黒木 成子
私が初めてのアメリカ旅行に出発したのは、母が亡くなり、初七日を済ませた2日後だった。
生前の母は、昨年春ごろから体調を崩していた。脳梗塞で、だんだんと身体の自由がきかなくなり、記憶も曖昧になり、ついさっきのことさえも忘れてしまう状態に陥った。
私は、千葉の自宅と熊本の実家を何度も往復した。
帰省する度に弱っていく母の様子を見て、これでは近いうちに母を見送るかもしれないと、ある程度は覚悟していた。
夏になり、母の病状は少しずつ悪くなっていたが、私は、11月に予定している1週間のアメリカ旅行が気になっていた。長年習っているパッチワークの先生が、アメリカのキルトミュージアムで個展を開くので、それを生徒たちで見に行くツアーが企画されていたのだ。
パッチワークの本場であるアメリカで、日本人が個展を開くのは珍しい。先生や同じ教室のメンバーと一緒に海外旅行ができるのも、とても貴重な体験になるだろう。
今度のアメリカ旅行は、どうしても行きたい旅だった。母の病状を考えると、容体が急変する可能性も十分にあるし、こんな時に旅行などしていいものかと、かなり迷った。
直前のキャンセルや、旅行中に知らせを受けて急きょ帰国する可能性も覚悟したうえで、締め切り間近の8月末に、参加を申し込んだ。
10月初めに熊本に帰省した時、兄にはアメリカ旅行のことを話し、旅行中でも何かあればすぐに連絡をもらうことにした。次に帰省するのは、外国旅行が終わったあと、12月の予定だった。いくら弱っていても、年は越せるだろうと漠然と思っていたのだ。
ところが、10月30日の夕方6時近く、義姉から突然電話がかかってきた。
「今日、お母さんの容体が急変して、さきほど亡くなりました」
義姉の声は、涙で震えていた。私は予想外の早さで、言葉を失った。
翌朝、私が熊本に帰った時、母はすでに斎場に運ばれていた。母に会っても、不思議に涙は出なかった。突然の死で実感がなかったのである。次に熊本に帰ったら、また会えると信じていたので「また来るからね」と軽い挨拶で別れたのが悔やまれた。
葬儀会場には、母の描いた水墨画が飾られ、母の友人たちが大勢参列してくれた。
葬儀や納骨、初七日などの他に、様々な手続きや母の荷物の整理などをあわただしく済ませた。1週間後に、私は自宅の千葉に戻った。
その翌々日には、アメリカへの出発が控えていた。母の死後は、できるだけのことをやってきたので、旅行には予定通り参加しようと決めた。
それから大急ぎで準備をして、成田空港から旅立った。
成田空港から12時間ほどかけて着いたのは、ニューヨークである。海外旅行に慣れていない私は、最初不安だったが、同行するパッチワークの仲間たち10人は、外国旅行の経験者ばかりだったので、すぐに心強い気持ちになった。
とにかく皆に遅れないように行動するのに精一杯で、母を見送った悲しみに浸っている暇もなく、頭はこれからのアメリカ見聞しかなかった。
着いた翌日に、楽しみにしていたブロードウェイのミュージカル、『ライオンキング』を観に行った。
ちょうどその日はアメリカ大統領選挙の日で、街はお祭り騒ぎだった。4年に一度の興奮の日に、たまたま居合わせたわけだ。多くの警備員や報道陣などや群衆が詰めかける中、私たちは地図を見ながら、やっと劇場にたどり着いた。
劇は、当然すべて英語だけの台詞なので、わからない所もずいぶんあったが、音楽や舞台装置も素晴らしく、「これが本場のミュージカルか」と感動した。
ミュージカルが終わり、感動さめやらぬ中、私たちは夜9時過ぎに劇場の外に出た。ホテルへの帰り道のタイムズスクエアでは、巨大スクリーンに各州の選挙結果が表示され、その度にあちこちから歓声があがっていた。
私たちは、その様子を横目で見ながら、群衆でごった返す街中を、迷子にならないよう、皆で固まってホテルまで帰った。
街はあちこちで交通が規制され、ホテルに帰るには、大きなライフル銃を抱えた警官が警備する中、かなり回り道をしなければならなかった。
ホテルに帰っても、外は明け方まで大騒ぎだった。
翌日、日中は少し静かになったが、夜になると、トランプ氏当選に対する抗議デモが行われ、再び騒がしくなり、二日連続で安眠を妨げられた。
4日間のニューヨーク滞在では、メトロポリタン美術館やセントラルパーク、エンパイヤステートビル、ブルックリンブリッジなど、有名な観光地を訪れた。
私には、すべてが輝いて見えた。高層ビルは東京にもあるが、ニューヨークには、古い石造りの美術館なども点在する。近代的なビルと歴史的な建物が混在しており、できれば何度も来てみたいと思う街だった。
その後、旅の第一の目的である、ネブラスカ州にあるキルトミュージアムへ向かった。ニューヨークから飛行機をシカゴで乗り継いで5時間程で着いたリンカーンという街は、とうもろこし畑が広がる、いなか町だった。
このミュージアムには、世界各国のキルトが展示されている。古いキルトも温度管理された倉庫に、大切に保管されている。その整った設備はさすがパッチワークの本場だな、という印象を受けた。
1階にあるこじんまりした部屋で、先生の個展が催されていた。私たちは、館内のあちこちをゆっくり見学して回った。
今度のアメリカ旅行は、憧れの大都会ニューヨークに行き、大好きなキルトの本場を訪ねることもできたし、一生の思い出になるだろう。
旅をしながらふと気が付くと、私は、特に意識したわけでもないのに、先日もらってきた母の洋服ばかりを持って来ていた。
同行者たちに母が亡くなったと告げると、母の洋服を着ている私を見て、
「きっとお母さんも一緒に来られたのね」
と、一人が言った。
そうかもしれない。あわただしい旅の途中、母を思い出すことはほとんどなかったが、コートのポケットに、母が使っていたハンカチを見つけて驚いた。
着道楽で、派手な服ばかり着ていた母だったが、見つけたハンカチも、とても派手だったので、つい苦笑してしまった。きっと、母は私のすぐ近くにいて、いっしょにアメリカへ旅をしたのだろう。